三月十四日、放課後の昇降口には、微かに甘い匂いが残っていた。
お返し用の包みを持って廊下を歩く生徒たち。彼らの表情はどこか浮き足立っていて、廊下の空気までも軽くなっているようだった。
文蔵想汰は、その中を淡々と歩いていた。
鞄の中には、焼き菓子がいくつか。義理チョコをくれた女子たちへの、最低限の返礼。メモ用紙に名前を書いた小袋は、昼休みにすでに配り終えていた。
なのに、一つだけ、まだ鞄の底に残っている。
「……ああ、渡せてないな、これ」
想汰は小さくつぶやいて、足を止めた。
それは、花森菜月に渡すつもりのものだった。
バレンタインデー、彼女は言ったのだ。
「はいっ、なんとなくチョコ。特に意味はないから!」
軽いノリだった。
でも、想汰の中には、妙に引っかかっていた。
なんとなく、それは本当に、意味のないものなのか。
普段から明るくて、誰にでも優しい菜月。だからこそ、本気かどうかなんて、たぶん彼女自身も曖昧で。
だけどそのときの彼女の笑い方は、ほんの少しだけ、気恥ずかしそうだった。
それを思い出すたびに、想汰はどう返すべきか考えてしまっていた。
義理返しで済ませるのは簡単だ。けれど、それでいいのかという迷いが、彼の中にはあった。
靴箱のそばで、彼女を見つけたのは、偶然だった。
花森菜月は、制服の袖を少しまくって、スマホを見ながら笑っていた。誰かとのメッセージか。陽向あたりかもしれない。
想汰は一瞬、そのまま通り過ぎてしまおうかと考えた。
だが、そのまま右手を伸ばして、鞄の中から、小さな袋を取り出す。
白地に、淡い藤色のリボン。中身はシンプルなフィナンシェ。
そして、それに添えたのは、無地の便箋に一言だけ書いた言葉。
菜月の前で足が止まる。
「……別に。あの、あれだ。まあ、ちゃんと、なんとなく、な」
そういって手渡した。
普通に渡そうと、渡せると思っていたのに、なんだか気恥ずかしくなって、言葉も震えてしまって。
何を狼狽えているんだろうと冷静な自分が話しかけてくる。
菜月はきょとんとした顔で受け取り、次の瞬間、ふっと笑った。
「……え、それって、“なんとなく”って言った意味、ちゃんとわかってくれてたってこと?」
まるで、試されているような声音だった。
だけど想汰は、照れたように目を逸らすと、そっけなく答える。
「さあ。俺はほら、鈍いからな」
彼が去っていく足音を背に、菜月は手にした小袋を見つめる。
リボンをほどくと、中には甘く香ばしい焼き菓子と、手書きの文字。
『ありがとう。嬉しかった』
たった一行のそれを、彼女は何度も読み返した。
その表情には、はっきりとした笑みが浮かんでいた。
───
放課後の図書館には、人の気配がほとんどなかった。
試験も近づき、にわかに校内が慌ただしさを増す中、ここだけはいつも通りの静けさに包まれている。
椿原澪は、その一角で本をめくっていた。
視線は活字を追っているはずなのに、頭の中には別の言葉が浮かんでいた。
小柳雪からもらった、あの日のプレゼント。
革風のブックカバーと、チョコレートがひと粒。
それだけのシンプルな贈り物は、澪にとって“特別”だった。
「澪くんには、こっちのほうがいいかなって思って」
そう言った雪の言葉と、差し出す手のあたたかさ。
本を読む人のために選ばれたそれが、澪には何より嬉しかった。
だから彼も、ちゃんと返したかった。
机の上に置かれた、淡い緑の封筒。
中には、木の葉模様のしおりと、短い手紙。
『この前もらったブックカバー、とても気に入っています。これが、あのカバーの中で揺れたら、きっと綺麗だと思って。これからも一緒に、静かにページをめくっていけたら嬉しいです』
読み返して、少しだけ顔が熱くなる。
「……くさいかな、これ。なんか普通にイタい気がしてきた」
小さく呟いて、彼は封筒を閉じた。
そのとき、図書室のドアが静かに開いた。
黒髪のボブカットが風を受けて揺れる。いつものように静かに、雪が入ってきた。
彼女は澪を見つけると、ふわっと微笑んで、隣の席へ座る。
「……やっぱり、いると思った」
「雪こそ。試験前なのに、よくここに来たね」
「うん。……ちょっとだけ、渡したいものがあって」
そう言って、雪は鞄から小さな包みを取り出した。
中には、淡いピンク色の付箋セット。
「……このあいだ、澪くんが最近付箋切らしてるーって言ってたから。ホワイトデーのお返し……じゃなくて、“お返しのお返し”かな」
「……なんだそれ」
澪は、呆れたように笑った。
「僕がちゃんとお返しするって前提じゃん」
彼は、そっと封筒を差し出した。
雪はそれを受け取ると、丁寧に開き、手紙を読んだ。
しおりを指先でそっとなぞむように触れてから、彼女は目を細める。
「……うん、澪くんの言葉って、静かだけどちゃんと届くね」
「……なら、よかった。さらにお返し、考えなきゃね」
そう答えた澪の声も、やっぱり静かだった。
でも、その目元には、確かな笑みが宿っていた。
───
三月十四日、昼休みの教室。
ざわつく空気の中で、日暮夏彦はひとつずつ手提げ袋を配っていた。
「はい、これ。7組女子一同様〜。マドレーヌとフィナンシェ入りで〜す。ちゃんと数あるんで喧嘩すんなよ〜」
「え、なにこれ可愛い〜!」「え、ラッピング手作り!?」「あんたほんとセンスあるよね……」
「え、いや、ラッピングは姉貴の指導入りっす。俺、途中で飽きたんで」
教室の一角はプチパーティーのような盛り上がりを見せていた。
けれど、主役である夏彦はどこかマイペース。きゃあきゃあ言われても、涼しい顔で頬杖をついている。
「義理チョコでもちゃんと返す男じゃん、めっちゃ評価上がる」
「そーそー。てか、夏彦くんって彼女いるの?ってかいたことあるの?」
「え? 秘密ですぅ〜」
投げられた質問には、あくまで受け流す。
でも、そんなやりとりをしながら、夏彦の視線はふと窓の外へ向かっていた。
思い返すのは、バレンタインの日。
自分の席に無造作に置かれていた、いくつかのチョコ。
その中には、本命なんてものは、含まれていなかった。
別に落ち込むことはなかった。
それが当たり前だとも思っていたし、もともと期待なんてしていなかったつもりだった。
だけど、ちゃんと返したいと思った。
誰に言われたわけでもないけど、受け取ったことに対して、自分なりに向き合ってみたくなった。
一方的に貰うだけなの、悔しいからな。
夏彦は心の中で、そっと笑った。
放課後、カバンの中にはまだ一袋だけ、返していないスイーツが残っていた。
おしゃれな洋菓子店で選んだ、ほんの少しだけ特別なやつ。
名前が書かれていないのは、あげる相手がいないからじゃない。 誰に渡すか、まだ決めてないだけ。
昇降口で立ち止まり、夏彦はその袋を見つめた。
「……ちゃんと返すのって、なんか気持ちいいよな。別に義理でもさ」
そう呟いた声に、答える者はいない。
けれど彼の表情は、どこか晴れやかだった。
そしてその手提げ袋はまだ、渡されることはなかった。
───
三月十四日、昼休みの昇降口前。
女子生徒が何人か集まる中、その中心でひと際目立っていたのが、朝倉彰良だった。
「はいはいはい〜!お待たせしました! こちら、俺特製の『ホワイトデー・ラブ爆弾』で〜す!」
「なにそれネーミング〜!」「やばい笑うんだけど」「手作り……ってわけじゃないよね?」
「いやいや、俺が選んだって時点で、もう手作り以上の価値あるでしょ?」
女子たちの笑い声が弾けるたびに、彰良は軽快な動きで紙袋を配っていく。
中身は、小分けの焼き菓子と、ちょっとしたアクセサリーチャーム。
どこか彼らしい、ふざけた雰囲気でも、ちゃんと気を遣った返礼だった。
でも、その中にひとつだけ、袋に名前を書いていないものがある。
昇降口から離れて、階段の踊り場に腰掛けると、彰良はその包みを取り出した。
ラッピングは、ほかのどれよりも控えめで、質素な白地の袋。
中には、さりげない香りの紅茶と、シンプルなシュガークッキー。
「……結局誰にあげるかな」
呟く声はいつになく低く、そしてどこか照れくさそうだった。
思い返すのは、バレンタインの日。
あの日、渡されなかった何かのこと。
彼は多くを受け取った。
でもたったひとつ、本当に欲しかったものは、まだ届いていない。
「……俺も、“ちゃんとしたい”人、できたってことかなぁ」
ポケットに手を突っ込んで、彰良は空を見上げた。
春がすぐそこまで来ていると感じる、透けるような青。
「ま、焦んなくてもいいか。こっちも、まだ渡してないしな」
それは独り言のようでいて、どこか自分自身への宣言のようでもあった。
渡すときは、ちゃんと。
言葉にするなら、ふざけないで。
……それができるようになるまでは、この小さな袋は、自分のポケットの中に。
──
四人のホワイトデー、それぞれの「返し方」は違っていた。
でもどれも、その人らしくて、ちゃんとあたたかくて。
だからこそ、この日が「特別な一日」として記憶に残る。
3月14日
それはきっと、伝えるための日だった。