目覚ましが鳴る一瞬前に目を覚ます──はずだった。
「……っ、やば」
澪は跳ね起きた。ベッドの横に置いたはずのスマホは、なぜか床に落ちており、表示された時間はいつもより25分遅れていた。急いでカーテンを開けると、曇り空のせいでさらに時間感覚が狂って見える。
洗面所へ駆け込んで顔を洗い、鏡に映った髪を整えようとするが
「……言うこと聞かないな、今日は」
前髪が変な方向に跳ねている。ドライヤーもアイロンも、焦る気持ちには逆効果で、むしろまとまりが悪くなっていくように感じた。なんとか妥協ラインに持ち込んで、制服を着てリビングを飛び出す。
靴を履こうとしゃがみこんだ瞬間、ふと違和感。
「あれ……」
左右で微妙に色味が違う。白の靴下を履いたつもりが、片方はクリーム色だった。見慣れた柄だが、明らかにペアじゃない。引き返してる暇はない、と半ば諦めてドアを開ける。
駅へ向かう途中、いつものコンビニに立ち寄る。時間がない朝の相棒、お気に入りのあんバタークロワッサン。棚を探すも、そこだけがぽっかりと空になっていた。
「……売り切れ、か」
代わりに手に取ったのは、なんとなく見覚えのないチョコチップマフィン。レジを済ませ、歩きながら頬張ると、甘さが妙に喉に残った。
通学路はいつもと変わらないはずなのに、制服の襟がずっと首に当たっているような気がして、リュックの重さもやけに片方に偏っていた。
教室に着くまでの道のりが、やけに遠く感じる朝。
こういう日ってある。
なんでもないはずの朝が、なんとなくツいてないってだけで
一日がうまくいかない気がしてくる。
澪は教室のドアに手をかけながら、小さく吐息をついた。
「……朝から、ツいてないな」
───
「うわっ」
席に座ろうとした瞬間、椅子の脚が机の支柱に引っかかってガタついた。
荷物を抱えていた澪は体勢を崩しかけ、咄嗟に「あっぶッッ」と変な声が出てしまい、誰に見られたわけでもないが、「……あぶなー」とひとりで小さくつぶやく。
制服の袖がほんの少し黒板のチョーク跡に擦れたことにも、気づいた瞬間にげんなりした。
1時間目の現代文は、好きな授業のはずだった。
けれど──
「じゃあ……椿原くん。次、ここ読んでくれる?」
教壇の声が飛んできたとき、プリントを探していた手が止まった。
(……あれ? ない)
確かに朝、カバンに入れたはずだった。ノートの間も、ファイルの下も、どこにも見当たらない。
結局、前の席の子に見せてもらって乗り切ったが、先生の「大丈夫?」のひと声が妙に突き刺さった。
昼休み、気分を切り替えようと図書室へ向かう。
「貸出中……?」
読みたかった次の刊は、小さな「貸出済み」の表示。
しばらく前から読んでいて楽しみにしていたシリーズだっただけに、わかっていても肩が落ちた。
仕方なく別の棚を眺めていると、後ろの机で本を閉じる音がやたらと響いて聞こえる。
遠くの窓の外では、部活の声。春めいた風が吹いているはずなのに、教室の中は妙に乾いた感じがした。
午後の授業の合間、自販機で買おうとしたお気に入りの紅茶も、ボタンに「売切」の文字。
(……今日、最悪の日ってやつかも)
そう思ってしまったら、なんだかすべてがそう見えてくる。
黒板の字はにじんで見えるし、隣の席の笑い声さえ少し遠く感じた。
小さなこと。ほんのささいな、すれ違いやズレ。
でも、それが重なると、
世界がほんの少し、自分を避けているような気がしてくる。
澪は教科書の余白に、何も書く気になれないままシャーペンを置いた。
窓の外、雲がゆっくりと流れていくのだけが、唯一の変化だった。
───
チャイムが鳴った瞬間、教室がざわつき始めた。
椅子を引く音、友達を呼ぶ声、廊下へ走る足音。
澪は教科書をゆっくり閉じて、誰にも声をかけないまま、席に座り続けていた。
(……プリント、どこに落としたんだろ)
カバンを開けて中身を確認する。
昼間、教卓の前で出しそびれた、いつの間にかなくしていたプリントを、もう一度探してみようと思ったのだ。
机の中、教科書の間、ファイルの裏──
見当たらない。
教室にはもう、四限組の誰の姿もなかった。
一応「帰んねーの?」と聞かれたが先に帰っててと言ってしまったのだ。
(変な意地貼らずに頼ればよかったな……)
自分で言った手前あれだが、それでも今日は、ひとりが少し堪える。
机の横にかけていたリュックを持ち上げたとき、カラリ、と軽い音がした。
下敷きの奥に、小さく折りたたまれた紙が挟まっていた。
探していたプリントだった。
「あった……」
思わず声が出る。
それは、本当にどうでもいい紙切れなのに、今の澪には少しだけ意味があった。
(……よかった)
視線を上げると、夕日が窓から差し込んでいて、教室の奥が淡く染まっていた。
いつもは賑やかな空間が、今日はやけに広く感じる。
ポケットに手を入れると、硬い感触が指先に当たった。
飴玉。
以前、雪からもらったものだった。
「風、乾燥してるからね。のど飴、いつでも食べていーよ」
そんなことを、笑いながら言っていたのを思い出す。
澪は銀紙をゆっくり剥がし、飴玉を口に含んだ。
ほんのりハーブの香りがして、甘すぎず、じんわり広がる。
「……噛んじゃおうかな、今くらいは」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いて飴玉を舌先で転がす。
──どうしようもない日だった。
でもいま、ポケットの中に残っていた飴玉ひとつで、
ほんのすこしだけ、救われる気がした。
静かな教室に、机のきしむ音がひとつ。
澪はプリントを鞄にしまい、立ち上がった。
明日は、もう少しうまくいくといい。
───
教室を出たときには、窓の外はすっかり夕方だった。
西日が廊下を照らし、ガラスの縁が金色に縁取られている。
澪はゆっくりと歩きながら、今日一日を振り返っていた。
(寝坊しかけて、髪もうまくいかなくて……)
(プリントなくして、椅子でつまずいて、本も飲み物もダメだった)
思い出すだけでため息が出そうになる。
けれど──
ポケットの中の飴玉の余韻が、まだほんの少し口の中に残っている。
(でも……全部が最悪だったわけじゃ、ない)
そんなふうに思えたのは、本当に久しぶりだった。
「──椿原?」
呼び止められて顔を上げると、廊下の先に日暮夏彦の姿があった。
「……なんか、疲れてんな。顔に“今日はダメでした”って書いてある」
「書いてない」
即座に返すと、夏彦はふっと笑って肩をすくめる。
「まあ、誰にでもあるよ。そういう日。俺なんて週に二回はあるし?」
「多くない?」
「お前は真面目だからな〜。たぶん今日ダメな日だわってわかってて過ごしてんの、えらいよ」
その言葉は、軽口のようでいて、どこかちゃんと伝えようとしてくれる感じがした。
(……夏彦、こういうとこ、あるんだよな)
「……ありがと」
そう返した澪に、夏彦は小さく手を振って去っていった。
昇降口で靴を履こうとしたそのとき、ポケットのスマホが震えた。
開いてみると、朝倉彰良からのメッセージ。
──「今日の椿原、マジで“ついてねぇ〜”って顔してたぞ。くそおもろかった」
思わず笑いが漏れた。
文章はふざけていても、ちゃんと見てくれていたんだと思えた。
校門を出て数歩、前から歩いてきたのは、小柳雪だった。
「雪?」
「よかった、まだ帰ってなかった」
そう言って、彼女が鞄から取り出したのは、見覚えのある包み。
「はい、今日の分」
それは、昼に食べたのと同じ、あの飴玉。
「……え?」
「この前、のど痛かったから助かるって言ってたから。忘れずに渡したかったの」
そう言って、雪はほんの少しだけ笑った。
「……ありがとう。助かる」
澪はその飴玉を受け取り、ポケットにそっとしまった。
──今日一日。
本当に、なにもかもがうまくいかなかった。
でも──
「……今日は、最悪だったけど。……うん、最悪なだけじゃなかった」
ほんの少しだけ、救いがあれば、
人は今日を終える理由にできるのだ。
そうして澪は、夕暮れの坂道を歩き出した。