朝の光が、少しずつ柔らかさを増している。
教室の窓を通って入ってくる陽射しは、もう冬のそれではなかった。白く乾いた冷気の中に、ほんの少しだけ春の匂いが混じっている。
そんな、三学期の終わり。あと数日で、二年七組も解散する。
ざわざわとプリントが配られる音、進路希望調査、春休みの宿題、保護者宛の封筒……。年度末の風物詩たちが、机の上を順番に通り過ぎていく。誰もが「もうすぐ終わる」という空気を感じながら、それでも普段と変わらぬふりをしている。
「では、最後に、ひとつだけ課題を出します」
静かに声が落ちたのは、朝のホームルームの終わり頃だった。二年七組担任、小橋先生。現代文の教員で、普段は授業中も大きな声を出すことはない。けれどその静けさは、生徒たちにとって安らぎとして伝わっているだろう。
今日のその声も、教室の空気をふっと和らげた。
小橋先生はゆっくりと、一枚のプリントを黒板に貼った。
《今のあなたの「好きなもの」について書いてみましょう。形式は自由です。評価はしません。》
その下に、小さく添えられた一文。
《ただ、「いまの自分」が何を大切に思っているか、ちょっとだけ立ち止まって考えてみてください。》
「これは成績には入りませんし、提出しない選択もできます。ただ、何かを言葉にしておくことって、案外あとになって効いてくるものなのです」
ざわつきが、教室のあちこちで起こる。
「え、なにそれ」
「作文?自由って逆に困るやつじゃん」
「好きなものってさ、めっちゃ範囲広くない?」
椿原澪は、その空気の中で目線を落としたまま、小さく息を吐いた。澪の隣、朝倉彰良はすでに「ラーメンって書くか〜」などとふざけていて、前の席の日暮夏彦は腕組みしながら考え込んでいる。斜め後ろの文蔵想汰は、早くもプリントの端を指で折り曲げながら、無言で見つめていた。
好きなもの、か──。
「提出したい人、期限は明後日の授業が終わるまでです。教卓の上にそっと置いておいてくれたら、それで」
小橋先生は、そう言って黒板の文字を一つひとつ指さすようにしてから、最後にやわらかく笑った。
「この課題に、正解はありません。“いま”の自分と向き合ってくれたら、それで十分です」
それは、静かだけれど確かに「見ている」というまなざしだった。
ホームルームが終わり、机を引く音、椅子が軋む音、誰かの軽いため息。日常のなかに、ほんの少しのざらつきが混じって、春の教室はそのまま流れていく。
澪は窓の外を見た。吹き抜ける風が、まだ冷たくて、それでもどこかやさしかった。
それぞれの好きが、まだ形にならないまま、教室の空気のなかに浮かんでいる。
───
放課後の教室は、思ったよりも静かだった。
教科書やノートの類はすでに持ち帰る準備が進んでいて、机の上に残るのは薄い課題プリントだけ。椿原澪は、それを前にして、ずっとペンを動かせずにいた。
──「好きなもの」って、なんだろう。
言葉が浮かばないわけじゃない。紅茶、読書、静かな音楽。ぱっと頭に浮かぶそれらをそのまま書いてしまえば、課題としてはきっと十分だ。でも、そういう誰にも踏み込まれない安全な答えを書くことが、逆にものすごく空々しく感じてしまう。
窓の外では、下校する生徒たちの声が遠くに聞こえていた。教室の中では、四限組の面々がそれぞれの机で筆記用具をいじったり、なんとなくぼんやりしたりしている。
夏彦は、イヤホンを片耳に差したまま、ゆっくりと鉛筆を走らせていた。何かの詞を書いているわけではない。目を閉じ、耳をすましながら、何かを確かめるように。
「“音”って、さ……ことばにできるのかね」
ぽつりと漏れた声に、彰良が振り返る。
「なに、また詩人モード入ってんの?」
「ちげーよ。なんていうか、好きって、音そのものじゃなくて……その時の空気とか、手触りとか、そういうのも含まれてる気がしてさ。俺的にね?」
夏彦の指が、机を軽くトントンと叩く。何気ないその音すら、彼にとっては記録したくなるものなのだろう。
「だったらそのまま書けばいいじゃん。その空気が好きですって」
「……そんな単純に書けるなら、苦労しねーよ」
ふたりのやりとりを聞きながら、彰良は自分のプリントに「ラーメン」とだけ大きく書いていた。
「これでいいんだよな、小橋先生。俺はラーメンが好き!シンプルイズベスト!」
だがその声に、隣の想汰がちらりと目を向けた。彰良はそれに気づき、ちょっとだけ手を止める。
……ほんとうに、これでいいのか?
ふざけて笑い飛ばすのは簡単だった。だが、好きってなんだ?
最近、あいつらとバカみたいにじゃれ合って笑ったとき──そうだ、ああいう時間のことを思い出して、胸の奥がちょっと熱くなった。それが“好き”なのかもしれない。先生が書いてほしいのはそういうものかもしれない。
「……マジレスすると、俺、あんま人と長くつるむの苦手だったんだよな」
誰に言うでもなく、彰良はぽつりとつぶやいた。想汰はそれに答えず、ただ視線を戻す。
彼のプリントの上には、まだなにも書かれていなかった。
文蔵想汰は、「記録すること」を自分の中心に据えて生きてきた。できごと、音、映像、会話、感情。瞳というレンズ越しに眺める世界のなかで、好きという感情はいつもどこか通りすぎるものだった。
けれど、あの冬の日、不意にみんなで笑ったあの瞬間。
それだけは、なぜか何度も思い返す。記録していないのに、はっきりと記憶に焼きついている。
記録していないから、だからこそかもしれない。
その時の匂い、温度、くだらない言い合い、そして笑い声。
想汰の手が、ようやくゆっくりと鉛筆を動かし始めた。
「俺、ちょっと書けるかも」
誰に言うでもなく、誰かに聞かれてもいいように、小さくつぶやく。
ふと、教室に訪れる気配があった。小橋先生だった。
「椿原くん、悩んでる?」
澪ははっとして顔を上げる。先生は、決して覗き込むことはせず、机の横で少しだけ首を傾げて見せた。
「……いえ。でも、なんて書いたらいいか、わからなくて」
「そうよね。“好き”って、なにかを選ぶことだもの。書こうとすると、余計に難しくなる」
それは責めるでも、正解を促すでもない声だった。優しいというより、静かで、曇りのないまなざしだった。
「でも、澪くんの“好き”は、静かだけど、ちゃんと伝わってると思うよ」
その言葉に、澪の胸の奥が、少しだけ揺れた。
誰にもはっきりと言ったことはないけれど、今この時間──四人でくだらないことを話し合って、真面目な顔してプリントと向き合って、それが、案外悪くない。
もしかしたら。
いや、きっと。
それが「好き」なのかもしれない。
───
提出期限の日。昼休みが終わった教室には、少しだけ落ち着かない空気が流れていた。
みんなが口には出さなくても意識している。
あの課題のことだ。
ホームルームの時間が始まる前、提出箱代わりの教卓には、ひらりと折られたプリントやノートの切れ端、便箋など、さまざまな形の“言葉”がそっと置かれていった。
「なんか……ラブレターの箱みたいだな、これ」
彰良がぼそりとつぶやいた。
「お前の作文、もしかして『拝啓、小橋先生』から始まってたりしない?」
「やめろ、ほんとに、それ書いてるやつがいたら気まずいだろ……」
澪は隣で笑いをこらえながら、小さくうなずいた。自分のプリントは、授業前にもう提出していた。最後の一文を書き終えたとき、なぜかちょっと手が震えたのを覚えている。
──「僕は、いまの放課後が好きです」
それ以上の飾り気はなかった。でも、それがいちばん正直な言葉だった。
日暮夏彦は、提出箱の隣に自分の紙をそっと置き、軽く咳払いして席に戻ってきた。
「ふぅ……出したわ。なんか変な緊張するな」
「そりゃ、自分の“好き”を見られるって思うと、な」
彰良も肩をすくめた。
「俺、昨日書き直したんだよ。ほら、“ラーメン”から“みんなとふざけてる時間”に」
「そのラーメンのくだり、ちゃんとオチに使ってそうで怖いんだけど」
「やめてくれ、俺なりに真面目に書いたんだから」
「じゃあ、見せてよ」
「断る。地雷は自分で踏むもんじゃない」
笑い声がふわりと広がった。その中心にあるのは、あくまで“ふざけた”やりとりだった。でもそこには、確かに「書いた」という実感が共有されていた。
想汰は、自分の席で無言のまま頷いた。
彼は一番最後にプリントを置いた。
──書き終わったあと、不思議な静けさが心にあった。
記録でも報告でもなく、“思い出”としての言葉。あれはきっと、初めてだった。
午後の授業が終わると、ぞろぞろと生徒たちは帰り支度を始めた。終業式前ということもあり、宿題の話や春休みの予定、進級クラスの予想で盛り上がっている。だが四限組の四人は、その波にあえて乗らず、教室の後ろの窓際に自然と集まっていた。
「発表とか……ないよね?」
澪がそっと口にする。
「たぶん。小橋先生、そういうことしなさそうだし」
「でもさ、もし突然、感動した作文を読み上げますとか言われたら、俺、即脱走するわ」
「安心しろ、彰良のは多分、感動より爆笑寄りだから」
「え、それって褒めてる?けなしてる?」
そんな取り留めない会話をしながら、それでも、誰も本題には触れようとしなかった。
──「おまえ、何書いた?」
誰もその言葉を出そうとはしない。だけど、ちょっとだけ、気になる。
「……ちょっとだけ、話す?」
夏彦がそう言ったとき、他の三人も自然と頷いていた。
「全部じゃなくていい。どんな気持ちで書いたかだけで」
澪は少し間を置いて、言った。
「んー……なんか、“いま”を残しておきたくて」
「お、詩人の道に進みそうだな」
「そういう曲ありそう」
「そういう彰良くんは?」
「……俺?まあ、ふざけてる時間って、案外好きだなって思っただけ」
「おまえ、それ今さら気づいたのかよ」
「黙れ」
想汰は、黙っていた。けれど、窓の外に目を向けたその横顔は、どこか満ちていた。
「俺も、ちゃんと書けた気がする」
ぽつりと落ちたその言葉が、四人の間の空気を静かに変える。
誰もが、それ以上はなにも言わなかった。
ただ、それで十分だった。
それぞれの好きが、少しずつ、ことばのかたちになって、互いに滲んでいく。
ことばにしなければ届かないものと、ことばにしなくても伝わるものの、ちょうど狭間にいるような、そんな春の午後だった。
好きという言葉は、ただの感情を表す記号かもしれない。
けれど、“いま”を好きだと思えたなら、
それは未来に向けて、小さな旗を立てるようなものなのだ。
四人で過ごした、春の午後の教室。
その静けさのなかには、確かに、「好き」があった。
ことばにして、しまっておく。
ことばにしなくても、残っていく。
そんな今を彼らは、ちゃんと見つけていた。