境界侵食「都市伝説の裏側」   作:はくこ

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「これが、奴らの本体……」
「見るな! 正気を保て!」
「身体が……歪む……」
「俺たちは、ここで終わるわけにはいかない」

終わりと始まりが交錯する場所。
そこで、人類は、己の運命を問われる。


決戦の地

「完全に特異点が開かれる前に、何としても止めなければ。このままでは、私の精神も……」

葵の声は、冷静を装いながらも、微かな焦燥を滲ませていた。彼女の腕に浮かび上がり始めた血管のような模様が、その言葉の切実さを物語っていた。

 

翌日の深夜、佐倉健太は、早瀬美咲、そして来栖葵と共に、怪異の根源である「歪む路地」へと向かっていた。それは、健太が最初に迷い込んだ、あの古びた商店街の裏手にある薄暗い路地だ。しかし、もはやその風景は、健太が知る日常のそれとは異なっていた。

 

「ここ……こんな場所だったかな……」

美咲の声が、不安げに震えた。彼女の顔色は青ざめ、健太の服の裾を強く握りしめている。

路地の入り口に差し掛かると、スマートフォンの電波は完全に途絶え、地図アプリは真っ白になった。周囲の音が、まるで吸い込まれるように消え、代わりに耳の奥を直接揺さぶるようなノイズ音がゴオォォォ……と響き渡る。路地の壁や地面からは、これまでよりも強烈な甘ったるい腐敗臭と、不快な粘液が滲み出し、異形の植物のようなものがニョロニョロと生えている。それらの植物は、まるで人間の血管や内臓を模したかのように脈打ち、ゾワリと健太の肌を粟立たせた。空間そのものが、ねじ曲がっている。遠くに見えるはずのビルの灯りが、不自然に引き伸ばされたり、逆さまになったりしている。

 

「ここが、特異点……」

葵の声が、ノイズの中に響いた。彼女はタブレットを取り出し、表示された複雑なネットワーク図を凝視している。その顔には、極度の緊張が浮かんでいた。

「術式を逆転させるには、この中心部で、美咲さんの特性を最大限に引き出す必要があります。ただし、情報集合体の本体が顕現する可能性が高い。佐倉さん、美咲さんを頼みます」

葵は、健太と美咲に視線を向けた。その瞳には、彼らへの信頼と、そして、差し迫った危険への覚悟が宿っていた。

 

健太は、美咲の手を強く握りしめた。彼女の手は、以前にも増して冷たかったが、健太の心には、それを離してはならないという強い意志が宿っていた。

「大丈夫だ、美咲。俺がいる。葵もいる。絶対に、君を助ける」

美咲は健太の言葉に小さく頷いたが、その瞳は恐怖に大きく見開かれたままだった。彼女の腕の模様が、まるで生き物のように脈打ち、黒いインクが皮膚の下を走っているかのようだ。

 

路地の奥へ進むにつれて、ノイズはさらに増幅され、健太の頭蓋骨を直接揺さぶるような不快な振動へと変わった。視界は激しく歪み、平衡感覚が失われる。壁に描かれた「意味不明な模様」が、まるで意思を持ったかのように蠢き、健太たちを嘲笑っているかのようだ。

 

突如、空間全体がグニャリとねじれた。

キィィィィィィィィィィィ……!!

耳をつんざくようなノイズが、悲鳴のように響き渡る。その音は、健太の精神を直接攻撃し、彼の意識の輪郭を削り取っていく。頭が割れそうだ。身体の内側から、何かが這い上がってくるような吐き気に襲われる。

 

そのノイズの中心から、巨大な「何か」が顕現し始めた。

それは、特定の形を持たない。光と闇が混じり合ったような不定形な塊であり、無数の記号がその表面を駆け巡っている。それは、まるで全てを飲み込む虚無の塊であると同時に、人間の最も忌まわしい記憶や、醜い欲望を抽象化したような冒涜的な形を時折見せる。その姿を見るだけで、健太の脳裏には、過去のトラウマや、人間社会の暗部がフラッシュバックする。身体が、内側から歪み、皮膚がねっとりと溶けていくような幻覚。健太は、口の中に血の味が広がるのを感じた。意識が薄れるのを感じながら、彼は必死に正気を保とうと、唇を噛みしめた。

 

「見るな! 佐倉さん、美咲さん! 直接見ないで!」

葵の声が、ノイズの中に響いた。彼女はタブレットを操作しながら、何やら複雑な記号を打ち込んでいる。その顔にも、極限の集中と、わずかな苦痛が浮かんでいる。彼女の腕の血管が浮き上がり、肌にうっすらと「情報」が刻まれたような模様が浮かび始めている。

 

健太は、美咲の手を強く握りしめた。美咲の身体もまた、その「何か」の顕現によって、激しく震えていた。彼女の腕の模様が、一層鮮明に脈動する。美咲の口から、あの異質な歌声が漏れ出す。その歌声は、ノイズと混じり合い、まるで情報集合体の顕現を助長しているかのようだった。

 

「美咲! 意識を集中するんだ! ノイズを変換するんだ!」

健太は叫んだ。美咲の特性を活性化させるため、健太は彼女の意識と深く同調しようとする。健太は美咲の震える身体を抱きしめた。その肌の熱が、健太の身体にも伝播する。

 

グチャリ……ヌルリ……。

健太の肉体が、まるで粘土のように歪んでいく感覚に襲われる。皮膚が溶け、内臓が不自然に押しつぶされるような幻覚。吐き気が込み上げ、口の端から涎が零れ落ちる。意識が混濁し、ノイズの奔流の中に意識が吸い込まれそうになる。健太は、尿意を感じ、足元に温かい液体が広がるのを感じた。羞恥も恐怖も、もはやどうでもよかった。ただ、美咲を、この恐怖から守りたい。その一心だけが、彼を支えていた。彼の精神は限界を超え、いつ狂気に堕ちてもおかしくない状態だった。彼の身体にも、怪異が深く刻み込まれ始めていた。

 

葵の声が、ノイズの隙間から響く。

「佐倉さん! 見えました! 術式の核となる『隙』が! あそこです!」

葵はタブレットの画面を健太に見せた。そこには、情報集合体の不定形な塊の中に、一瞬だけ、不自然な空白のような点が現れているのが見えた。それが、この異常な存在の「弱点」、あるいは「特異点を閉じるための僅かな隙」なのか。

 

「美咲! 今だ! ノイズを、閉じるんだ!」

健太は美咲の意識に呼びかけた。美咲の歌声が、一瞬だけ、ノイズの奔流に抗うかのように強く響いた。彼女の身体から、微かな光が放たれる。その光は、情報集合体のノイズを吸収し、ねじ曲げていくようだった。

 

ゴオオオオオォォォォォォォォォォォッ……!!

情報集合体から、これまでで最も強烈なノイズの嵐が放たれる。それは、健太たちの精神を直接粉砕しようとするかのような、悪意に満ちた咆哮だった。その圧力に、健太は全身の血が逆流するような感覚に襲われ、意識が遠のきそうになる。葵の身体が、一瞬、激しく痙攣した。彼女の瞳孔が開ききり、口から微かに血の泡が漏れた。

 

健太は、最後の力を振り絞り、美咲を抱きしめる腕に力を込めた。美咲の放つ光が、ノイズの嵐の中で、微かに、しかし確かに輝きを増していく。健太の精神は極限状態を通り越し、狂気の淵を覗き込んでいた。彼の肉体も精神も、怪異に深く侵食され、いつ人としての形を失ってもおかしくなかった。この一瞬の選択と、彼の美咲への想い、そして生き残ろうとする本能だけが、彼を突き動かしていた。




【あとがき】

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
理解を超えた存在との決戦。極限状態での命を賭した戦いの果てに、健太たちは何を得たのか。あるいは、何を失ったのか。

次回、戦いを終えた彼らの「残された日常」を描きます。
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