境界侵食「都市伝説の裏側」   作:はくこ

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「またカップ麺ですか、健太さん。体に悪いですよ」
「うるさいな、田中さん。これがお袋の味なんだよ」
「それ、お袋の味じゃないですよ。化学調味料の味ですってば」
「はは、そうかもな」

変わらない会話、変わらない日々。
けれど、その当たり前が、もうどこか遠い場所にある。


都市の歪み

佐倉健太は、あの路地での出来事から数日が経っても、まだ現実感を取り戻せずにいた。

 

早瀬美咲と別れてからの日々は、以前と変わらぬ通勤と帰宅の繰り返し。しかし、日常の風景はもはや、以前のままではなかった。

 

視界の端に、あの「歪み」がちらつく。壁の模様が息づくように動き、街灯の下を通る人影が、不自然に長く引き伸ばされて見える。そして、耳の奥ではずっと、あの砂嵐のようなノイズが微かに鳴っていた。その音は、まるで脳の奥底に、錆びついた歯車がゴリゴリと音を立てながら回転しているような不快感を伴っていた。

 

「気のせいだ。疲れてるだけ」

 

そう自分に言い聞かせるたびに、むしろ現実感が遠のく。夜は悪夢にうなされた。見知らぬ空間、絡み合う模様、異形の何かに追われる夢。夢の中で、自分の身体の一部が不自然に伸びたり、歪んだり、あるいは異形の肉と交じり合うような悍ましい感覚に襲われることもあった。目覚めれば、汗に濡れた枕。スマートフォンの画面には一瞬、砂嵐のようなノイズが走り、すぐに消える。

 

ある昼休み、会社の食堂で、同期の佐藤宏が隣に座ってきた。彼の顔色は悪く、目の下には濃いクマがあった。その憔悴ぶりは、健太自身の疲労よりも深刻に見えた。

 

「なあ健太、最近さ、変じゃね?」

 

佐藤は声を潜め、周囲を気にするように視線を泳がせた。

 

「……何が?」

 

健太は努めて平静を装い、彼の言葉を促した。

 

「スマホ。夜になるとさ、変な音がするんだ。ザザッて、ノイズみたいな。それに、誰かの声も混じってる気がするんだよ。意味わかんねえ言葉でさ……まるで、誰かが俺に語りかけてるみたいに」

 

健太の背筋が冷えた。それは、まさに自分が経験したもの、しかしもっと深刻に進行している兆候だった。

 

「それ、耳鳴りとかじゃないのか? ちゃんと病院に行った方がいい」

 

「最初はそう思った。でも違う。スピーカー当てて確認したんだ。明らかに“外”から聞こえる。夜中、誰もいないはずなのに、耳元で囁くんだ。でさ、最近、腕が痒くてたまらなくなるんだよ……どうしようもなく掻きむしりたくなるんだ」

 

佐藤は袖をまくった。赤く爛れた肌が現れ、爪で掻きむしった跡が生々しかった。その肌には、微かに青白い斑点が浮かんでいるようにも見えた。それはまるで、血管が皮膚の表面で不気味に蠢いているかのようだ。

 

「病院、行ってみたらどうだ? ちゃんと精神科でも何でも」

 

「病気って感じじゃないんだよ。なんか、深いところから呼ばれてる気がする。声が、俺を引きずり込もうとしてる。俺は……俺はもう、彼らの一部になるべきなのかもしれない」

 

その目はどこか虚ろで、恐怖よりも、抗いがたい執着に近い、異様な光を宿していた。健太は、佐藤が人間ではない何かに変質し始めていることに、強い悪寒を覚えた。

 

その夜、美咲から久しぶりにメッセージが届いた。

 

『佐倉さん、お元気ですか? やっぱり、あの路地のことが気になって……』

 

健太は安堵した。自分だけではないという救いと、同じ闇に彼女も囚われているという現実。彼の指は、素早く返信を打ち込んだ。

 

『俺も、あの後から色々おかしくて。佐藤にも変化が出てる。田中さんも店で“影”を見たって言ってた。君の友達も、美咲……大丈夫なのか?』

 

返信を送ると、すぐに美咲から返事が届いた。その文面は、健太が想像していた以上に、悲痛な内容だった。

 

『やっぱり、佐倉さんだけじゃなかったんですね……。私の友達も、同じような状態です。幻聴、頭痛、それから……壁に変な模様を描いたり、自分の爪を噛んで飲み込もうとしたり、異様に血を欲しがったり……最近では、肉まで食べようと……』

 

健太の心臓が跳ねた。あの模様が、実際に人を侵し、常軌を逸した行動へと駆り立てている。R-15要素の示唆が、彼の背筋を冷やした。美咲の友人が、人としての理性を失いかけている。

 

『その人、大丈夫なのか? もう、会える状態じゃないのか?』

 

『……連絡が取れなくなりました。最後に残していたメモに、奇妙な匂いの液体が染みていて……甘くて、粘りつくような。それは、まるで人間の体液が変質したような、吐き気を催す匂いでした。警察は失踪事件扱い。でも、違う。私、あの子が“持っていかれた”って、直感的に分かるんです。完全に、あっち側に……』

 

美咲の手は震えているだろうか。そのメッセージから、彼女の悲痛な叫びが伝わってくるようだった。健太は、何かが、確実に、そして身近に、人間を侵食していることを痛感した。

 

彼は、自室でネット検索を始めた。あの「模様」、佐藤や美咲の友人の症状、そして「ノイズの夜」。あらゆるキーワードを打ち込み、情報を探る。その中で、“語り部”と名乗る匿名アカウントの存在を見つけた。

 

語り部は、数か月前から異常現象について詳細に記録し続けており、あの模様の画像を何枚もアップしていた。書き込みの内容は、都市伝説の枠を超え、まるで“未来を記録している”ようだった。その恐ろしい予言めいた文章は、健太の心を深く引きずり込む。そこには、「境界の侵食」「器」「同化」といった、不穏な言葉が並んでいた。

 

そして、健太が見ていたスレッドに、新たな書き込みが投稿された。

 

『消える記録、増えるノイズ。お前らの目には、まだ真実が見えてないのか?』

 

その下に、「来栖葵」という人物のブログのURLが貼られていた。

 

健太は一瞬、躊躇した。これ以上、この闇に深く踏み込んでいいのか。自身の精神が、既に蝕まれ始めているのを感じる。だが、背に腹は代えられない。美咲も、佐藤も、そしてあの友人まで巻き込まれている。この異常を、誰かが止めなければならない。自分では手に負えない。だが、この謎めいたブログの主なら、何かわかるかもしれない。

 

リンクを開くと、簡素なブログが表示された。だが中身は濃密で、怪異に関する検証と、模様にまつわる統計的解析まで行われていた。健太が漠然と抱いていた恐怖に、論理的な輪郭が与えられる。ここには、これまで自分が集めてきた情報が、もっと深く、もっと詳細に記されている。

 

健太は画面を見つめながら、美咲に再度連絡を入れた。

 

『今度、時間があれば会えないか? 直接話したい。君の力が必要なんだ。そして、もしかしたら、この異常を止められるかもしれない人物を見つけた』

 

彼女が、あの異常な世界に完全に引きずり込まれる前に。彼女を救うため、そして、この狂気を止めるため。健太の決意は、重く、そして固いものに変わっていた。

 

パソコンのディスプレイには、来栖葵の最新記事が表示されていた。そのタイトルは、こう記されていた。

 

『視えた者は、次の扉を開く』




【あとがき】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
じわじわと、日常の隙間に異常が染み出すような、そんな恐怖を描いてみました。
健太たちの「歪み」はまだ始まったばかり。
次回も、少しだけ背中を冷やしながら、お付き合いいただけたら嬉しいです。
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