境界侵食「都市伝説の裏側」   作:はくこ

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「佐藤さん、あいつ、全然会社に来ないんだ」
「連絡は? 繋がらないのか?」
「見たんだよ、この目で。奴の部屋で……あれは、もう、人じゃなかった」
「信じたくない。でも、俺も見たんだ、あの影を……」

深淵が口を開く。
最も身近な場所から、恐怖は形を得て現れる。


語り部の深淵

佐倉健太の日常は、今や恐怖に塗りつぶされていた。

 

パソコンの画面に映る「語り部」からのメッセージ。あれ以来、健太の心は静かに、だが確実に蝕まれていた。美咲の震える声、異様な言動、そして消えていく人々。全てが現実離れしているのに、否応なく彼の日常を侵していた。それはまるで、彼の肌の裏側に、見えない虫が這い回っているような、絶え間ない不快感を伴っていた。

 

夜になれば夢と現実の境界が曖昧になり、目を閉じれば暗闇の奥から、蠢く模様が浮かび上がる。それは、彼の脳裏に焼き付いたあのグロテスクなパターンだった。耳鳴りのようなノイズが頭蓋を内側からかき乱し、眠ることすら許されなかった。仮に眠れたとしても、悪夢は続き、夢の中で自分の肉体が不自然に伸びたり、異形の肉と交じり合うような悍ましい感覚に襲われることもあった。目覚めれば、寝間着が張り付くほどの汗。スマホの画面には一瞬、砂嵐のようなノイズが走り、すぐに消えるが、それが幻覚ではないことは、もはや健太にも分かっていた。

 

会社では、同期の佐藤宏が二日連続で無断欠勤していた。健太の隣席は空席のまま。佐藤のモニターは点けっぱなしで、文書ファイルが開いたまま停止している。画面の隅では砂嵐のようなノイズがわずかにちらついていた。そのノイズは、健太自身の耳にも微かに届いている。

 

昼休み、健太は食堂の隅で、同期の山崎に声をかけた。彼の顔には、疲労と、どこか戸惑いが混じった表情が浮かんでいた。

「なあ山崎、佐藤さん、やっぱり来てないな。何か聞いてる?」

 

山崎は曇った顔で首を振った。彼の箸を持つ手が、僅かに震えている。

「ああ。人事からも連絡がいってるみたいだけど、家に電話しても出ないし、スマホもずっと圏外でさ。ちょっと不気味だよな……まさか、事故とかじゃねえよな?」

 

健太は小さく頷いた。事故で済まされるような事態ではないことは、彼の心が本能的に理解していた。

「最近、様子変だったしな。お前も感じなかったか? なんか、匂いも、変じゃなかったか?」

 

山崎は顔を顰め、鼻をひくつかせた。

「うん、あれ何だろうな。甘ったるいっていうか、化学薬品みたいな……それでいて、生臭いような。ねっとりしてて、気持ち悪かったよ。俺、正直、佐藤さんの近くにいるの、ちょっと嫌だったんだよ。それに独り言も増えてたし。『声が聞こえる』とか『呼ばれてる』とか、変なことばっか言ってたし……なんだか、目が据わってたっていうか……」

 

山崎の言葉が、健太の中で燻っていた疑念に火をつけた。佐藤の異変が、周囲の人間にも認識されていた事実が、健太の心をより一層不安にさせた。もう隠蔽できるレベルではない。

 

その夜、健太は自宅に戻ると、すぐに来栖葵に電話をかけた。通話ボタンを押す指が、かすかに震える。佐藤の末路が、美咲の友人のように「持っていかれた」ものだとしたら、もう猶予はない。

 

「佐藤が二日連続で欠勤です。連絡もつきません。……葵さん、まずい気がします。彼の異変は、間違いなくあの『ノイズ』の影響です」

 

『住所を教えてください。同行します』

 

葵の返答は相変わらず冷静だった。その声には一切の感情がこもっていなかったが、それが、健太には救いだった。誰かが平静を保っているという事実だけで、なんとか正気を保てる。自分の心が壊れそうになるたび、葵の冷静な声が、彼を現実へと引き戻してくれるかのようだった。

 

佐藤のマンションは、郊外の閑静な住宅街にあった。最寄りの駅を出て、ごく普通のマンションが立ち並ぶ道を歩く。夕暮れ時は、どこからか子供たちの声が聞こえるはずなのに、この場所だけが異様に静まり返っていた。健太が到着した時には、すでに葵が玄関前に立っていた。彼女の黒いジャケットが、夜の闇に溶け込んでいる。

 

「来栖さん……早いですね」

「情報収集は鮮度が命です。……それより、嗅ぎましたか? この匂いを」

葵が鼻をひくつかせる。健太もすぐにその異臭に気づいた。甘さと腐敗臭が入り混じった、胃の底をひっくり返すような匂い。それは、どこか人工的で、だが同時に、佐藤の体から感じたあの粘りつくような汗の匂いにも酷似していた。

 

「腐敗臭に似てるけど……何か違う。人工的というか、もっと……不自然な甘さがあります」

健太は吐き気をこらえながら答えた。

「有機物の異常変質に伴うガスの可能性があります。ノイズも出ていますね」

葵の目が、佐藤の部屋のドアに向けられている。ドアの隙間から、微かに、あの不快なノイズ音が漏れ出している。

 

インターホンを押すが反応はない。試しにドアノブを回すと、ギィィと重い音を立てて鍵は開いた。まるで、誰かが中にいることを拒んでいるかのようだ。

 

扉が軋む音とともに開かれたその瞬間、濃密な異臭がドワッと押し寄せ、健太は思わず嘔吐感を覚える。胃の底から何かがせり上がってくるような不快感。カーテンが閉め切られた部屋は薄暗く、空気が異様に湿っていた。壁に視線をやると、その光景に健太は思わず息を呑んだ。

 

壁一面には、あの「模様」がびっしりと描かれていた。第1話で見たものと酷似しているが、こちらはさらに執拗で、凶暴だった。赤黒い絵の具のようなもので塗りたくられ、引っかき傷が無数に走り、剥がれた壁の内部構造が露出している。それは、まるで肉の塊を引き裂いたような、生々しい赤色だった。

 

「……まるで、内臓だ……」

健太の呟きが、静まり返った部屋に響く。壁の模様は、見る者の精神を直接叩きつけるような冒涜的な力を持っていた。奥の部屋から砂嵐混じりの呻き声がゴオォォと響く。テレビもラジオもついていないはずの部屋に、意味不明な言葉が低く流れている。それは、佐藤の声であると同時に、人間ではない異質な存在の声でもあった。

 

部屋の中央には、落とされたままのタブレットがあった。画面は点灯し、「語り部」の映像がループ再生されている。佐藤に似た声がノイズに混じって繰り返されていた。それは、佐藤が語り部と完全に同調し、媒介者と化していることを示唆していた。

 

「佐倉さん、こちらを……」

葵の声が、健太の耳に届く。彼女の視線の先、クローゼットの隙間から、濁った液体がポタリ、ポタリと染み出している。その液体は、甘い腐臭と共に、不快な粘り気を感じさせた。葵が警告するより早く、健太はクローゼットの隙間から中を見てしまった。

 

視界に飛び込んできたのは、膨れ上がった肉塊だった。形を持たないソレは、かつて佐藤宏だったものの成れの果てかもしれなかった。人間の身体が、ここまで変形しうるのか。そんな疑問すら抱けないほど、彼の理性は恐怖に蝕まれていた。肉塊の表面には例の模様が血管のように浮き出し、時折びくりと痙攣している。その有様に、健太はついに嘔吐した。胃液が喉を逆流し、口からドバッと吐き出される。

 

吐瀉物の酸っぱい臭気が部屋の異臭と混じり合い、視界が歪む。ノイズが耳を刺し、佐藤の末路が脳裏に焼き付く。彼の精神は限界を迎えつつあった。

 

葵は冷静にサンプルを採取していた。小さなボトルに、肉塊から滲み出る液体を無感情に注ぎ込む。

「完全に変質しています。これはもう“個”ではない。情報の集合体……おそらく、“彼ら”の転写体です」

葵の声が、健太の耳に遠く響く。

 

「戻らないのか……佐藤は……。もう、人間には……」

健太は震える声で尋ねた。その声は、彼の精神が砕け散る寸前であることを物語っていた。

 

「物理法則の範疇を逸脱しています。人間としての終焉——死とは異なる変容です。彼は、新たな存在へと至った」

葵は壁の模様に視線を移す。その瞳には、恐怖ではなく、ただ探求心だけが宿っていた。

 

「これらはただの落書きではありません。情報そのものが、肉体を媒体にして拡がっている。肉体が、情報を具現化しているのです。……『語り部』は、その拡張の触媒として機能しているのです」

震える健太の耳に、葵の声は遠く響いていた。彼自身の肉体も、いつかこうなるのかもしれない。

 

「……こんなもの、見たくなかった……逃げたい……どこか、安全な場所に……」

健太は、自身が吐いた汚物の中で、震えることしかできなかった。しかし、逃げ場などないと、健太は知っていた。目の前の光景が、未来の自分かもしれないという恐怖が、何よりも確かな現実だった。彼の右手の甲の模様が、ズキンと脈打つ。それは、彼自身の体に刻まれつつある、怪異の証。

 

健太は、美咲を思い出した。あの震える声、迫る怪異。彼女もまた、この道を辿るのか。いや、違う。彼女を、そして自分自身を、この見えない「何か」から守らなければならない。その決意だけが、健太をかろうじて狂気の淵から引き留めていた。




【あとがき】

ご覧いただきありがとうございました。

情報が肉体を侵すという“あり得ない現実”が、ついに目に見える形で現れました。
誰もが目を逸らしたくなる深淵――そこに、健太は一歩踏み込んでしまったのです。

次回も、どうか日常の隙間にご注意を。
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