「恵さんまで巻き込むなんて……」
「どこまで逃げても、無駄だよ。もう、あいつらは、すぐそこにいる」
「それでも、俺は……!」
日常が、足元から崩れていく。
そして、境界線は、もはや見えない。
佐藤宏の部屋で目にした異形の肉塊は、佐倉健太の脳裏にこびりついて離れなかった。人の形を保っていながらも、もはや人間とは呼べない存在。それはまるで、情報という名の毒に身体を侵食された末のなれの果てだった。赤黒く蠢くその塊が、夢の中でもなお健太を追い詰める。眠れば夢に現れ、目覚めればその残滓が視界の端にこびりついて離れない。彼は、現実と夢の区別すら曖昧になっていく自分を自覚していた。
日常生活は音もなく崩れていった。会社のデスクで画面を見つめていても、ふと画面が砂嵐のように揺らぐ瞬間がある。ノイズ。耳の奥に、絶えず響く微かなジジジという音。まるで、彼の脳の奥底で何かが軋みながら回転しているかのようだった。冷房の風が頬をかすめても、それが本物かどうか判断できない。視界の隅には、黒い影がゆらりと揺れていることすらあった。その影は、健太がまばたきをするたびに、人型からぐにゃぐにゃとした不定形に変化するようにも見え、彼の心をゾワゾワと掻き乱した。
葵と佐藤の部屋を出て以降、健太はまともに言葉を交わせなかった。言葉にしてしまえば、その光景が現実として確定してしまう気がして、何も言えなかった。葵は変わらず冷静で、現場で採取した液体や肉片を器用に密閉容器に収めていった。その手際の良さが、健太にはひどく冷たく、そして恐ろしく思えた。まるで人間的な感情を切り捨てた機械のようだった。そして、「情報の解析を進めます」とだけ告げて立ち去った。あまりに無感情で事務的なその態度が、健太の心に影のような冷たさを残した。
数日後、美咲から届いたメッセージが健太を撃ち抜いた。その受信音は、健太にとって、まるで深淵からの呼び声のように響いた。
「佐倉さん、私の身体が変なんです……」
添付された写真には、腕に浮かび上がる赤黒い斑点。第1話で見た異様な模様の一部が、彼女の皮膚に染み込んでいるようだった。それは、まるで美咲の身体が、佐藤と同じように、内側から変質を始めているかのように見えた。その模様は、健太自身の腕に微かに浮かび上がった痣と同じ形をしている。
「最近、幻覚がひどくて……気づいたら知らない場所を歩いてて、目が覚めると全身泥だらけなんです……。どうしてだか分からないんだけど、服を着るのが、すごく嫌に感じるの。肌がムズムズして、脱ぎたくなるの……」
その言葉の端々から、美咲の理性が削られていく音が聞こえるようだった。健太の脳裏に、彼女が服を乱し、あるいはほとんど身につけていない状態でベッドに横たわっている姿が、幻視のように過った。その幻視は、健太の倫理観を微かに刺激し、同時に背筋をゾッと凍らせた。美咲が感じているという「ムズムズ」とした皮膚感覚が、健太自身の肌にもチリチリと伝播してくるかのようだった。
その晩、健太はいてもたってもいられず、田中恵の勤務するコンビニエンスストアへ足を運んだ。美咲のこと、佐藤のこと。彼女も、何かを感じているはずだ。あるいは、すでに巻き込まれているのか。不安と、微かな希望を胸に、自動ドアを開けた。
ドアを開けると、冷気のなかに異様な空気が混ざっていた。それは、あの路地や、佐藤の部屋で感じた、甘い腐敗臭と、金属のような匂いだった。その匂いは、健太の胃をギュッと掴み、吐き気を催させた。
「田中さん、大丈夫か?」
健太が声をかけると、レジに立つ恵はハッと顔を上げた。その顔は蒼白で、目の下には深い隈が刻まれていた。瞳は焦点を失い、まるで、目の前に幽霊でもいるかのように、恐怖に歪んでいた。
「……健太さん、あれ……見てください」
恵は震える指で、ガラスの外を指差す。その指先も、微かに、青白い斑点が浮かんでいるように見えた。その斑点は、脈打つ血管のようにドクドクと揺れている。
健太が視線を向けた先には、何もいない。だが、恵は確かに「何か」を見ている。その「何か」の視線が、健太自身の皮膚にもチリチリと伝わってくるようだ。
耳の奥で、粘つくようなノイズが**ジジジ……**と鳴り始める。それは、佐藤の部屋で聞いたあの不快な音と酷似している。ガラス越しの街灯が、歪みながら滲み、ぼんやりとした“影”が浮かび上がる。
それは、形を持たない。しかし見る者の心を写し取り、歪ませるような存在だった。その影は、ゆっくりと形を変え、人間の最も醜い欲望を抽象化したような、あるいは、健太自身の性的倒錯を暗示するような忌まわしい形へと変容しようとしているようにも見えた。健太は背筋に冷たいものがゾロリと這い上がるのを感じた。胃の奥がキュッと縮む。
「もう無理……私、もう限界……!」
恵は突然、健太の腕を振りほどいて走り出す。その声は、悲鳴と狂気の境にあった。瞳は大きく見開かれ、焦点が合わない。
「どこか遠くへ、どこか、誰もいない場所へ……!」
彼女の言葉は、まるで壊れた人形のようだった。健太は手を伸ばしたが、恵の身体は彼から遠ざかる。その顔には、恐怖と狂気が入り混じった、歪んだ笑顔が浮かんでいた。それは、美咲の友人が失踪前に見せた表情と酷似していた。その笑顔は、健太の心を深く抉り取った。彼は、恵が、もう「人間」ではない、あるいは「人間ではいられなくなる」領域に足を踏み入れてしまったことを悟った。彼の無力感が、鉛のように重く、彼の心を圧し潰した。
恵は、もつれる足でレジ裏へと消えていった。健太が追いかけようとしたが、彼は一歩も動けなかった。彼の脳裏には、佐藤宏の部屋で見た肉塊が蘇り、目の前の影が、まるで恵の精神を喰らっているかのように見えた。その場で健太は立ち尽くすしかなかった。彼の脳髄は、重い疲労と、迫りくる狂気の中で、ギリギリと軋む音を立てていた。頭痛がガンガンと響き、目の前がチカチカと明滅する。
翌日、田中恵はコンビニエンスストアを辞め、大学も休学し、故郷へ帰ったという連絡が入った。「実家に帰ったらしい」とだけ、風の噂で聞いた。健太からのメッセージにも一切返信がなく、電話も繋がらなかった。怪異から逃れるための、彼女なりの決断だったのだろう。しかし健太は、彼女の最後の顔が、完全に「無事」ではなかったことを知っていた。彼女の瞳の奥に残された狂気の色、あの歪んだ笑顔が、健太の心に深い無力感と後悔を刻み込んだ。恐怖は、遠い都市伝説の話などではなかった。それは、身近な人間を、そしてその人間性を、確実に蝕んでいく現実だった。恵が逃げられたことを、健太は羨ましいとさえ思うようになっていた。
健太は、美咲のことが気がかりで仕方なかった。美咲が、恵と同じように、怪異に飲み込まれていくのではないかという不安が、彼の心を支配する。彼女からのメッセージは、日に日に不安定さを増していた。
「佐倉さん、私の腕の模様、どんどん濃くなってるんです……なんだか、気持ちいいって感じちゃうの。おかしいですよね……? 体が、熱くて、トロトロになりそうなの……」
美咲からのメッセージには、さらに鮮明になった痣の画像が添付されていた。それは、まるで皮膚の下で血管が不自然に隆起し、黒いインクで模様が刻まれているように見えた。健太は、美咲の肉体が変質を始めているのを目の当たりにし、心臓が冷えるような感覚を覚えた。その変質が、彼女に「気持ちよさ」を感じさせているという事実が、健太の理性を揺さぶった。このままでは、美咲も、人としての形を保てなくなるだろう。その絶望的な予感が、健太の心をギチギチと締め付けた。
健太は即座に美咲に電話をかけた。呼び出し音が鳴る間、健太は祈るような気持ちで受話器を耳に押し当てた。
「美咲、今すぐ行く! 一人でいちゃダメだ!」
数回の呼び出し音の後、美咲の声が電話の向こうから聞こえてきた。しかし、その声はひどく震えていた。
「大丈夫、佐倉さん。私、最近ね、すごく……気持ちいいの。頭の中で、変な歌が聞こえてくるの。すごく懐かしいような、すごく気持ちいい……体中が、蕩けるみたいなの……」
美咲の声が、電話の向こうで、奇妙な節回しを始めた。それは、人間には理解できない、異質な響きを持つ歌だった。まるで、彼女を通して、異常な情報集合体の「意識」が漏れ出しているかのようだった。健太の脳裏に、佐藤の部屋で聞こえた、あの粘液質な声が蘇る。
「歌? どんな歌だ? 美咲、大丈夫なのか? 無理をしていないか?」
健太は焦って尋ねた。喉が張り付く。
「分からない……でも、身体が、すごく熱いの……佐倉さん……会いたいな……。早く、佐倉さんも、私と同じになってほしいな……」
美咲の声には、以前のような不安とは異なる、どこか倒錯したような甘えが混じっていた。その声は健太の理性を揺さぶり、ぞっとするような感覚に襲われた。電話越しにも伝わってくる美咲の身体の変質を、健太は感じ取った。美咲の身体の一部(例えば、首筋や腕)には、徐々に「模様」のような痣が浮かび上がり、それは脈打つように、微かに変形しているようにも見えた。彼女の精神が、既に「あちら側」に深く引きずり込まれつつある証拠だった。
「美咲! 今すぐ、俺がそっちに行く! 絶対に一人でいるな!」
健太は電話口で叫んだ。耳の奥でノイズがザワザワと大きくなる。
「うふふ……でも、もう、佐倉さんも、私と同じになっちゃうのかな……?」
美咲の声が、どこか楽しげに響いた。その言葉は、健太の心臓を鷲掴みにした。自分自身も、すでに境界線の上に立っている。このままでは、美咲も佐藤と同じ末路を辿るのではないかと、底知れない絶望に襲われた。怪異の浸食は、もはや待ったなしの状況だった。彼は、美咲を、そして残された自分自身を救うために、何としてでもこの怪異の根源を突き止めなければならないと、強く心に誓った。しかし、その道のりがどれほど過酷なものになるのか、健太にはまだ想像もつかなかった。ただ、彼の体に広がる微かな変容の兆候が、彼自身もまた、境界に立たされていることを告げていた。
【あとがき】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
静かに蝕まれていく日常、誰かが変わっていく恐怖。それが「他人事」でいられなくなった時、人は何を選ぶのか。
健太の葛藤は、まだ始まりにすぎません。次回、より深い「侵食」の核心へと近づいていきます。