境界侵食「都市伝説の裏側」   作:はくこ

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「美咲、君を助ける。絶対に」
「俺たちを、奴らは排除しようとしている」
「彼女の体には、もう、あの模様が……」
「引き返せない。もう、この道しかないんだ」

逃げ場はない。
愛しい者を守るため、男は深淵へ踏み込む。


真実への突入と覚悟
消滅する証言者


佐倉健太の耳には、美咲からの最後の電話がこびりついていた。「私も、同じになっちゃうのかな……」と呟く、どこか倒錯した甘えの混じる声。その声は、佐藤宏の変わり果てた肉塊を連想させ、健太の内臓を冷たく締め上げた。美咲が完全に「あちら側」に引きずり込まれることを想像するだけで、胃の底から吐き気が込み上げた。彼の視界の端ではノイズがチカチカと明滅し、頭の奥ではギチギチと軋むような音が鳴り止まない。不快な違和感が、皮膚の下をゾワゾワと這い回っていた。まるで、彼の肉体そのものが、すでに怪異の一部になりつつあるかのようだ。

 

焦燥に突き動かされ、健太は葵に電話をかけた。通話の向こうから返ってくる彼女の声は冷静そのものだったが、健太はその裏に微かなノイズを聞き取った。そのノイズは、まるで葵の平穏を削り取っているかのようだった。

「来栖さん、美咲が……彼女の腕にあの模様が出て、精神的にも危ない。幻覚もひどくて、まともに話せないんです!」

健太の声は、焦りで掠れていた。彼の脳裏には、美咲が服を乱し、奇妙な歌を口ずさむ幻影が何度もフラッシュバックする。その幻影は、まるで彼自身の欲望を映し出しているかのように、健太の倫理観を微かに軋ませた。

 

『進行しています。彼女の高い感受性が情報集合体と同調を始めた結果です。予期していた事態です』

葵は淡々とした声で答えた。その言葉には一切の感情がこもっていなかった。しかし、その声の奥には、どこか運命を受け入れたような響きも感じられた。健太は、葵自身もまた、この異常に深く関わっていることを理解し始めていた。彼女の冷静さは、もはや人間離れしている。

 

「このままだと……美咲が佐藤みたいに……あの肉塊になってしまうのでは……!?」

健太の焦燥と恐怖は限界に達し、声は怒りとも悲鳴ともつかないものに変わっていた。彼の胸は鉛のように重く、息苦しさに窒息しそうだった。全身の血が逆流するような感覚が彼を襲い、目の前がチカチカと明滅し、意識が遠のきそうになる。彼自身も、怪異に引きずり込まれつつあることを自覚していた。

 

『落ち着いてください。感情で動いても、状況は改善しません。彼女にはまだ望みがあります』

冷ややかな言葉だったが、そこに含まれた一縷の希望が、健太の意識を辛うじて繋ぎとめた。葵の言葉が、健太の心をピシャリと叩いた。その瞬間、健太は自分自身が、どれほど冷静さを失っているかを自覚した。彼の精神が、どれほど脆いものであるかを、葵の言葉が突きつける。それは、自分自身への嫌悪感とも似ていた。

 

葵は続けた。『彼女はノイズを“変換”できるかもしれません。過去にも同様の特異体質者が確認されており、情報集合体に対して抗体のような役割を果たした記録があります。非常に稀なケースですが、その可能性に賭ける価値はある。』

その言葉は、絶望の淵に立たされた健太にとって、まさに一条の光だった。美咲にそんな力が。その希望が、健太の心を微かに奮い立たせる。しかし、それは、彼自身の命を賭けることを意味した。

 

「変換って……どうやって引き出すんですか? 俺に、何ができるんだ!?」

健太は縋るように尋ねた。喉がカラカラに乾いていた。彼の頭の中には、助けを求める美咲の顔と、佐藤の異形が交互に現れ、思考をかき乱す。どちらを選べばいいのか。いや、選ぶのは、助けることだけだ。それ以外の選択肢は、もう、健太の脳には存在しなかった。

 

『あなたが、彼女の深層意識に“潜る”必要があります。肉体ではなく、精神的に。美咲さんの意識と深く同調し、情報集合体の根源から、彼女の意識を引き戻す。ただし危険です。あなた自身も取り込まれるかもしれません。正気を保てなくなったり、あなた自身が変質したりするリスクも伴います。それでも、やりますか?』

葵の言葉は、まるで氷の刃のように、健太の覚悟を問うてきた。その問いは、健太の人間としての尊厳を、試しているかのようだった。彼の心臓がドクンと重く鳴る。

 

迷いはなかった。健太の心は、美咲を救うという一念に凝り固まっていた。他の選択肢は、彼の思考の中には存在しなかった。彼は美咲を見捨てることなど、できるはずがない。

「やります。方法を教えてください。他に道がないなら、俺がやる。俺が、美咲を助ける!」

 

葵の返答は短く『了解』だった。その言葉の奥に、健太の決意に対する微かな評価が感じられた。彼女から送られてきた資料は、古老が残した異界との接続方法を記したものだった。奇怪な言語と、血で描いたような図形、狂気の走る儀式的な記述。ページをめくるたび、健太の頭痛は増し、吐き気がこみ上げる。その記述を読むうちに、彼はまるで皮膚の内側で模様が動き出すような錯覚に囚われていた。資料から漂う甘く腐敗した匂いが、彼の嗅覚を麻痺させるようだった。

 

さらに、かつての都市伝説研究会の古老が失踪したというニュースも飛び込んできた。彼の家からは関連資料が一切消えていた。何かが意図的に「記録」を消し去っている。まるで“語り部”が警告と粛清を始めたかのように。

葵からのメッセージがスマホの画面に表示された。

『我々も排除されようとしています。』

背筋が冷える。その一文は、ただの情報ではなく「宣告」のように重くのしかかった。

 

そして、美咲から届いたメッセージ。「最近、服が邪魔で……気持ちよくて……」

その文面と共に添付された写真には、浮かび上がる黒い模様と不気味な肌の変容が映っていた。美咲の変質が、明らかな形で現れていた。健太はタクシーを拾い、彼女の元へ急いだ。車窓から見える名古屋の夜景が、今はただの無機質な光の群れにしか見えなかった。

 

マンションの扉は開いていた。部屋からはノイズと、異様な旋律が流れてくる。甘ったるい腐敗臭が鼻腔を突き、閉ざされたカーテンの隙間から漏れる僅かな光は、部屋の異様な雰囲気をさらに際立たせていた。足を踏み入れると、床が粘液のようにヌルつく感触が伝わってきた。ベッドの上には、美咲がほとんど裸で横たわっていた。皮膚は赤黒い模様に覆われ、虚ろな瞳で意味不明な歌を口ずさむ。

 

「美咲!」

その声に、彼女がわずかに反応する。「来てくれたんだ……」

健太は震える手で彼女の手に触れた。その瞬間、彼の精神に「何か」が流れ込んできた。それは冷たく、粘りつくような、不快な感触だった。スマートフォンに、葵からの指示が届く。『今です。深く同調して“潜って”ください』

 

健太は目を閉じ、意識を集中させる。高音のノイズが頭を裂き、彼の精神は漆黒の深淵へと引きずり込まれていった。

そこは混沌だった。意味不明な記号が飛び交い、耳障りなノイズが渦巻く。美咲の意識は、その中心で弱々しい光として漂っている。だが、それに絡みつく不定形の巨大な影が、今にも彼女を飲み込もうとしていた。

健太はその光に向かって手を伸ばした。混乱する五感、歪む肉体、粘る内臓の幻覚。理性の崩壊が目前に迫る中、ただひとつの想い――美咲を助ける。それだけが、彼の精神を辛うじて保たせていた。彼は、自分の意識が、まるで熱い鉄で焼かれるように、ジリジリと痛むのを感じていた。

そして、光と共鳴するように、美咲の身体が一瞬強く輝いた。模様は薄れ、美咲の意識も一時的に戻ったようだった。彼女の瞳に、一瞬、見慣れた光が宿る。しかし、それはすぐに消え、再び虚ろな光に戻ってしまう。

 

しかし、健太の右手にも、脈打つ奇妙な印が刻まれていた。それは、彼が人間ではない領域に触れた証。そして、もはや完全な“こちら側”ではないという烙印でもあった。彼の精神の奥底で、何かがゆっくりと、しかし確実に、変質を始めている。

 

それでも、彼は美咲を抱きしめたまま、その場に座り込む。まだ、人間の形を保っている――その事実だけが、彼を辛うじて繋ぎとめていた。夜はまだ深く、闇の中で何かが蠢いていた。そして、健太自身の内側でも、静かに、しかし確実に、何かが変容を始めていた。




【あとがき】

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、健太が初めて“怪異の内側”へ踏み込む話でした。誰かを救うには、自分の境界を越える覚悟が必要になる。そんな危うい選択が、彼を変えていきます。
次回、第8話では、その“代償”と“手掛かり”が明らかになります。どうぞお楽しみに。
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