私室の窓辺に、いつも同じ花を置いている。いつからその花が窓辺に置かれたかは、もう覚えていない。気がつけば私と共にあり、見頃から外れてもわざわざ開花をずらしたものを取り寄せ、そして寝る前にベッドからその花を眺めていた。さすがに服役している間は置かれていなかったようだが、こうしてレザレノの会長として戻ってきた際に、再び置かれるようになったのだ。
いつから、は覚えていないが、誰が、は今でもはっきり覚えている。あの頃は彼女が私の心地良い眠りを願いながら花を置き、今は私が彼女の眠りに想いを寄せながら花を置く。私の中で、まだ彼女は想い出の存在にはなっていないのだ。
ある日、その花と同じものを会長室の机に置いた。鮮やかな青の花は、青いガラスの花瓶の中で根を伸ばし、美しく咲き誇っている。
(いつ見ても、どこに置いても、やはり美しいものだな)
溜まった書類を片付けひと息つくと、青い花弁にそっと手を伸ばす。触れた花弁は柔らかく、瑞々しく、それでいてどこか芯があるような感触がする。この花弁に触れることが、彼女がこの花弁を慈しむように撫でる姿が好きだった。
さて昼食までにもう一仕事しようと机に向き直ったそのとき、会長室に一人の女性が入ってきた。
「すみません、後でまた来た方がいいですか」
「いや、書類はある程度片付けたから問題はない。何の用だろうか」
「依頼を受けて先週から開発していた開運グッズについて、相談しておきたいことがあって来ました」
「承知した。とりあえずそちらに」
訪問者……プレセアに応接用の席に座るよう促し、必要な書類だけ持って対面に座る。依頼をしていた商品について話を進めているうちに、プレセアが時折あらぬ方向へ視線を動かしていることに気がついた。
「む、どうした、プレセア」
「あ、いいえ、なんでもないです」
言葉では何ともないように言っているが、どこか集中を欠いているのは明らかだ。話自体はまとまっているから問題はないが、一体何に気を取られているかは気になる。彼女が視線を動かした先を追うと、そこにあったのは私の机だった。
「机に何か?それなりに片付けているつもりだが、散らかっているだろうか?」
「散らかってはないです。ただ、お花が置いてあるのは珍しいなと思って」
プレセアの言葉で、ようやく彼女が惹かれていたものに気がついた。私にとってはいつもの延長にあるものだが、彼女にとっては突然現れた変化なのだろう。私は書類を置き、彼女と同じものを眺めながら独り言のように言葉を繋いだ。
「いつも私室の窓辺に置いている花だ。たまには気分転換にと、ここにも置いてみた」
「あのお花、好きなんですか」
「気に入っている。私はそこまで花に詳しいわけではないが、美しく香りもいい花だ」
「バラが好きなんだと思ってました。社交界では部屋いっぱいのバラを贈っていたと、ジーニアスから聞いていたので」
「バラも嫌いではないが、あれは人付き合いのため、相手を喜ばせるためのものだったからな」
もうそんな機会が来ることもないだろうが、とは言わなかった。言わずともわかる言葉、言えば互いの柔らかな部分に触れる言葉は、頭に浮かんだ瞬間に弾けて静寂を生んだ。
我が片翼は、アリシアは私達を繋ぐ強固な糸であり、それでいて心の柔らかな部分に容易に刺さる宝石の欠片だ。わだかまりが解けたとはいえ、私はまだアリシアの話を積極的に出す気にはならない。否、恐れていると言っていい。私の語るアリシアとの記憶が、感情が、彼女の心の柔らかな部分に触れ、刺し、傷つけるかもしれないと思っているのだ。
それゆえ、彼女から求められない限り、あるいはそこに触れないと確信しない限り、アリシアに繋がる言葉は出すまいとしている私がいる。薄々、プレセアも私が出さない言葉の意味に気づいているのではと思っていても。
(何と言葉を繋げるべきか、何か尋ねてはくれないか。それかこの話を切りあげるべきか)
続く静寂の中、次に出す言葉を思案する。この静寂のまま話題を変えてしまおうかと思ったそのとき、花をぼうっと眺めていたプレセアがゆっくりと立ちあがった。
「リーガルさん」
「なんだろうか」
「あのお花、すこし触ってみてもいいですか」
「ああ、構わぬ」
プレセアは惹きつけられたような足取りで机に向かい、青い花弁に手を伸ばす。触れたいと言いながらもどこか躊躇うような手つきで花弁に触れ、壊れ物を扱うように撫でる。その様子に、その姿に、私は彼女が在りし日の面影を持ちながら、それでいて全く違う存在なのだと改めて感じた。もとより同一視するつもりもないが、やはり彼女は彼女なのだ。
花弁の一枚一枚に触れ、香りを確認するように顔を近づけた後、プレセアは元の席に座った。既に話のまとまった資料を整理し、目の前のスペースを二人で開け、再び花の方へと視線を向ける。
「わがままだとは思いますが、もしリーガルさんさえよければ」
気を抜けば取りこぼしてしまいそうな声に、そっと耳を傾ける。プレセアは声の調子を上げることなく、ただ静かに言葉を繋いだ。
「あのお花を、私に贈ってくれませんか」
彼女の言葉は、私達に再び静寂をもたらした。たしかにあの花の美しさをプレセアが気に入ってもおかしくはないし、花自体はいつでも持ってこられるようにしている。彼女の望みを叶えるのは、行為だけで言えば容易だろう。
しかし、あの花は私にとってたった一人を想うための花なのだ。プレセアは知っているかわからぬが、私はあの花の言葉も知ったうえで置いている。あの花の言葉は、プレセアに捧げることはできない。
贈るだけなら容易で、しかし贈ることに重さと困難を抱える花。それでいて、その背景は悟られたくないというエゴが混ざって二つの選択に葛藤する。どちらを取るか、何を取るか、その選択すら悟られることを恐れた私は、彼女に花を贈るという選択を導き出した。
「わかった。明日には用意しておこう」
「ありがとうございます」
彼女はそう言って頭を下げると、自らが持ってきた資料をまとめて立ちあがる。そしてドアの前でもう一度頭を下げると、開いたドアの隙間を抜けるように会長室から去っていった。
一人残った会長室で、私は書類と共に元の机に戻る。そして視線の先にある青の花を眺めながら、彼女の望みについて考えを巡らせた。
(何故、プレセアはこの花を贈ってくれと言ったのだろうか)
そう、彼女はこの花がほしいと言ったのではない。私にこの花を贈ってほしいと言ったのだ。彼女は花だけではなく、私の行動をも望んでいるのだ。単純に、この花が気に入っただけではないのは明らかだ。
(……他意はない、ないはずだ。プレセアに限って、そんなはずはない)
一瞬頭によぎった可能性を振り払い、再び机に向かう。視界の端に映る青い花は、変わらず鮮やかで美しかった。