朝、静かな光が部屋に差し込んでいた。カーテン越しの陽光はやわらかく、どこか夢の続きのように感じられる。
目を覚ましたアイリは、ぼんやりと天井を見上げたまま、枕元でそっと手を握りしめた。指の間に残っている気がした、ほんのりとしたぬくもり。それは現実のものではなく、きっと夢の残り香だった。
それでも、手の中に確かに何かを抱えていた感覚が拭えない。
「……また、あの夢」
小さく息を吐きながら身体を起こす。肩にかかった髪がさらりと流れ落ちて、肌に触れた。日常のはずなのに、どこか現実味が薄い。顔を洗いながら鏡をのぞき込んでも、そこに映るのはいつもの自分。けれど、額に指を添えた瞬間、微かに疼くような違和感が走った。
(……触れた、はずなんだけど)
そう思ってしまうほど、夢は鮮明だった。ユウの角。淡く光るそれに手を伸ばし、触れたときの感触。あたたかく、でもどこか切ない、胸の奥を優しく締めつけるような余韻が残っている。
気のせいだと思うには、あまりに輪郭がはっきりしすぎていた。
◇◇◇
通勤の途中、ふと立ち止まって、アイリは空を見上げた。晴れているのに、雲の形がいつもより遅く流れている気がする。音も色も、すこしだけ濃く感じるのは、彼女の心がまだ夢の中にいるからだろうか。
魔管ではいつも通りの日常が続いた。誰にとっても何気ない日常。けれど、その中でアイリの心だけが、どこか遠くにあるようだった。
ふと気づくと、手元のメモの余白に細い線で何かを描いていた。無意識に。スケッチのようなその線は、一本の角を形づくっていた。
(また……)
自分の手が、勝手に思考をなぞるように描いた線。それを消すことはせず、そっとページを閉じる。
◇◇◇
退勤後、アイリはふたたび街の図書館を訪れた。昨日とは違う棚に目を向ける。宗教、儀式、古代の神話。ページを繰るたび、角にまつわる意味が幾重にも重なって浮かび上がってくる。
角は、“力”の象徴であり、“魂”の延長でもあり、時には“加護”や“誓い”の印とされる。
「角を折ることは、儀式。あるいは、転生の始まり」
そんな一文に、目が止まる。
儀式。転生。折ることで終わるものと、生まれるもの。そこには明確な線引きがあるようでいて、実際には曖昧なままだ。その曖昧さこそが、アイリの胸をひそかに締めつける。
(本当に、私が……ユウの角を?)
ページをめくる指が止まり、心臓の鼓動が少し速くなる。イメージの中で、あの白く長い角が折れる瞬間を思い浮かべた。その音は聞こえないはずなのに、耳の奥で軋むような響きが鳴った気がした。
慌てて本を閉じる。背筋をすうっと冷たい空気が這い上がる。理屈ではない、ただ本能的な怖さ。それでも、目を背けることはできなかった。
◇◇◇
図書館を出ると、夕暮れの空が街を金色に染めていた。空気が少し肌寒くなってきたのを感じながら、帰り道の途中で足を止める。見慣れたベンチに、また彼がいた。
人の姿をしたユニコーン――ユウ。
「……また、ここで?」
声をかけると、ユウはゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「きみが来ると思ってた」
その言葉に、胸の奥が揺れる。言葉にできない想いが、波のように寄せては返す。
「ユウ、あなたの角……。あれは、やっぱり特別なものなんだよね?」
問いかけながら、自分の声がわずかに震えているのを自覚する。気づかないふりをすることもできたのに、それができなかった。
ユウはしばらく黙ったまま、ゆっくりと目を細めた。
「きみがそう思うなら、そうなんだと思うよ」
曖昧で、けれど否定はしない答え。まるで、アイリに委ねられているかのような響きだった。
「もし……私が、角を折るってことを、選んだら……」
その続きを言う前に、ユウはふっと笑って立ち上がった。夕日が彼の髪に反射して、まるで角の先から光がこぼれるように見えた。
「選ぶって、簡単なようで難しいよね」
その一言だけを残し、ユウはふらりと夕焼けの中へ歩き出した。アイリは呼び止めることもできず、ただその背中を見送るしかなかった。
◇◇◇
その夜。 また夢の中で、彼と出会った。
静まり返った空間。何もない、色も音も匂いもない世界。そこにぽつりと立っているユウ。その額の角が、ゆっくりと淡く輝いていた。
「……これは、ぼくのものじゃない」
ユウは、静かにそう言った。
「きみが触れたいと思うなら、それは……きみのものになる」
その言葉に導かれるように、アイリは手を伸ばした。触れた瞬間、角の輝きが優しく波打ち、まるで自分を抱きしめるようなぬくもりに変わっていく。
そのぬくもりの中で、ひとつだけ確かに思った。
――これは、終わりじゃない。何かの、始まりだ。