雪の匂いが、少しずつ濃くなってきた。
雲取山の冬は容赦がない。本格的に積もる前に、間引きした木材を下ろしてしまわなければならない。
俺は、樹齢数十年はあろうかという杉の幹に足をかけ、慣れた手つきで枝を打っていく。地上十数メートル。失敗すればただでは済まない高さだが、俺にとってはここが一番落ち着く仕事場だ。
ふと下を見れば、赤みの差した髪を揺らして、幼馴染の炭治郎がこちらを見上げていた。あいつは炭焼きの仕事の合間に、よく俺の仕事を手伝おうとしてくれる。お節介なほど優しい、自慢の親友だ。
「……炭治郎! そこ、危ねえぞ!」
「大丈夫だよ、これくらい! それより、その枝――」
炭治郎が言いかけた、その時だった。
あいつが踏んだ枝が、乾いた音を立てて折れた。
「あ」
間抜けな声が響き、炭治郎の体がふわりと宙に浮く。
俺は反射的に幹を蹴って、飛び降りるようにしてあいつの襟首を掴もうとした。普通の人間なら足の骨を折る高さだが、俺は幹の凹凸を足場に、重力をいなすように滑り降りる。――が、一瞬遅かった。
炭治郎の体はごろんごろんと急斜面を転がり落ち、その先にある太い木の幹に、鈍い音を立てて激突した。
ゴツッ!
普通の人間なら頭蓋が砕けていてもおかしくない音。だが、俺は知っている。あいつの頭が、並の岩よりずっと硬いことを。
「炭治郎! 生きてるか!」
俺は斜面を滑り降り、横たわる親友に駆け寄った。
幸い、出血はない。たんこぶで済みそうだ。だが、あいつは目を回すどころか、カッと見開いた瞳で、震える手で、自分の顔や腕を何度も確かめていた。
「……ここは……え、千尋? なんで……義勇さんは……無惨は……?」
その声は、ひどく掠れていた。
まるで、今この瞬間に天国から引きずり戻されたかのような、絶望と希望が混ざり合った、酷く切ない声だった。
「おい、しっかりしろ。頭打ってボケたか?」
冗談めかして肩を叩こうとした俺の手を、炭治郎が掴んだ。
その握力は、さっきまでの炭治郎のそれじゃない。地獄を這いずり回った者だけが持つ、執念のような力。
「これは夢だ。無限列車のときと同じ……千尋、俺は戻らなきゃ」
「はあ? ……いやいや、夢じゃねえから。――っておい!!何やってんだおめーは!!やめろ馬鹿!!」
炭治郎から鉈を奪い取ろうとするが、「俺は死んで戻らなきゃいけないんだ!!皆が戦ってる!!」と叫ぶ始末。
よくわからないが、炭治郎に死なれるのはごめんだ。
「ああもう落ち着けっての!!!」
バシィッと平手打ち。
炭治郎が一瞬固まった隙に鉈を奪い、遠くに放り投げた。これでよし!
叩かれた頬に手を当てて、目をパチパチさせて、周囲を見回したり匂いを嗅いだり。
落ち着きがない男である。どうしたというんだ。
「炭治郎、お前どうした? なんか困ってるなら力になるぞ?」
「……匂いがしない」
「ん? 何の?」
「鬼の匂いがしないんだ。これが血鬼術のせいなら鬼の匂いがするはずなんだ。……無限列車とは違うのか?」
――"鬼"?
それはたまに囁かれる、夜に出るやつを言ってるのだろうか。
おとぎ話のように思っているのだが、炭治郎の様子を見るに、おとぎ話だなんだと茶化していいものではない。
「……なんかわかんねえけど、お前これが夢だと思ってんのか」
「……………夢でなきゃありえないと思ってる。俺はさっきまで鬼と戦ってた。猗窩座を倒して……そこから記憶がない」
「…??? あかざ? 鬼と戦ってた?」
顔には出さなかったが「なにいってんだこいつ」と思ってしまった。
炭治郎は噓を言ってない。見ればわかる。
「……とりあえず、これは夢じゃない。そこは理解しろ」
「………」
「今のお前を放っておけないし、最初から話せ炭治郎」
「……………わかった」
炭治郎が語る話は、あまりに荒唐無稽だった。
人を喰う鬼、その頂点に立つ男、家族の死。そして、鬼になってしまった禰豆子のこと。
俺は炭治郎を凝視したまま、ひとつも言葉を返せなかった。
「……本当なんだ。信じてくれとは言えないけれど、でも、俺は……!」
必死に訴える炭治郎の顔は、ひどく歪んでいる。
こいつは嘘をつくとき、必ず目が泳ぎ、顔の筋肉がひきつる。だというのに、今の炭治郎の瞳は、燃えるような決意と、底知れない悲しみで澄み渡っていた。
「……わかった。わかったから、泣き止んで鼻を拭け」
「……え?」
「お前が嘘をつけないことくらい、俺は知ってる。信じるよ。お前がそう言うなら、それは全部これから起こる『現実』なんだろう」
俺がそう告げると、炭治郎は呆然と口を開けた。
それから、堰を切ったように、今度こそ子供のようにボロボロと涙をこぼした。
「……ありがとう。信じてくれて、本当に……ありがとう……!」
炭治郎の震える肩を抱きながら、俺の頭はフル回転していた。
仕事の効率を考えるときよりも速く、鋭く。
炭治郎の話が真実なら、猶予はあまりない。
「炭治郎、お前はこれから体を鍛え直すつもりなんだな? その……『全集中の呼吸』とか『ヒノカミ神楽』だったか。それを取り戻すために」
「ああ。これが夢じゃないなら、俺は今度こそ家族を、皆を守り抜く。でも、今のままの体じゃ、誰も守れない。無惨が来る可能性が高い以上、家族を置いて鱗滝さんのところへ行くのはできないし……ここで自分に叩き込むしかないんだ」
「なら、俺もやる」
「――それはだめだ!!」
予想通り、炭治郎は食い気味に否定した。さっきまで泣いていたのが嘘のような、いつもの、いや、いつにも増して頑固な「石頭」の顔だ。
「これは鬼との戦いなんだ! 千尋には関係ない。俺はこれ以上、大切な人を巻き込みたくないんだ!!」
「……お前なぁ」
俺は深く溜息をつき、一歩詰め寄った。
逃がさないように、炭治郎の両肩をガシッと掴む。
「いいか、よく聞けお馬鹿。一人より二人の方が効率がいい。お前が一人でボロボロになって、その結果、守りたかった家族を守りきれなかったらどうする? 俺が隣にいれば、防げたかもしれない攻撃があったら、お前は一生後悔するだろ」
「それは……でも、お前を死なせたくないんだ……!」
「俺を誰だと思ってる。お前より山を駆け回って、お前より高いところで仕事してるんだぞ。死なねえよ。ちったぁ甘えろや、この唐変木!!」
至近距離で怒鳴りつけると、炭治郎は気圧されたように目を白黒させた。
「大体、お前は嘘がつけないだろ。おばさんや弟妹に修行してくることを、その顔で誤魔化せると思ってんのか? 三秒で『何か隠してるわね』ってバレるぞ。俺がいれば適当な口実を作ってやれる。お前の代わりに『真っ赤な嘘』を並べ立ててやるよ」
「…………うっ」
炭治郎が言葉に詰まる。図星なのだ。
未来を救うという壮大な目的の前に、こいつには「家族に嘘をつく」という高すぎる障害がある。
「――恩返しさせろ。……炭十郎おじさんには、親父たちが死んだ後、山での生き方を教わったんだ。それに、お前の家にはうちの木を安く卸してるし、飯だって何度も食わせてもらった。お前は俺にとって、ただの幼馴染じゃねえ」
ぐい、と顔を近づけて睨むと、炭治郎の鼻がひくひくと動いた。
俺の覚悟に嘘がないか、匂いで確かめているんだろう。よし、ここでダメ押しだな。
「俺は、お前が一人で抱え込んで壊れるのを見てる方が、よっぽど寝つきが悪くなる。これは俺が決めたことだ。お前に拒否権はねえからな」
やがて、あいつの目からふっと力が抜け、眉を八の字に下げて情けない顔で笑った。
「……かなわないな。……ありがとう、千尋」
「……ふん。わかればよろしい」
俺は立ち上がり、パンパンと服についた雪を払った。
剣術なんて知らない。刀の握り方もわからない。
だが、俺にはこの山で培った足腰と、空師として磨いた技術がある。そして何より――。
(……あの『舞』が、呼吸の理屈だって言うなら)
正月、炭十郎おじさんが一晩中舞い続ける姿を、俺は特等席で見ていた。
呼吸の音、足の運び、無駄のない筋肉の弛緩。
「効率的だな」と感心して、自分なりに山仕事へ取り入れたら、いつの間にか完璧に動けるようになっていた。それがまさか、鬼を斬るための技だったなんて。
(おかげで炭治郎の役に立てるわけだ。炭十郎おじさんに感謝しないとな)
俺は不敵に笑い、炭治郎の背中をバシッと叩いた。
「さて、まずはおばさんに、『俺の仕事が立て込んでるから、しばらく炭治郎を助手として雇いたい』って伝えるか。それならお前が山籠りしてても不自然じゃないだろ? 一応仕事は手伝ってもらうし、その分の金も払うから炭治郎が炭を売りに行かなくてもいいし」
「えっ!いやお金は」
「うっせえ受け取れ。稼がなきゃ家族が飢えるだろ」
「……すまない。……でも、家族を騙すなんて……俺にできるかな」
「できるかできないかじゃねえ、やるんだよ。お前は俺の横で、いかにも『仕事が大変で疲れてます』ってツラして黙ってりゃいい。どーせ修行でクタクタになるんだから、その疲れをそのまま顔に出しとけ。いいか、喋るなよ。お前が口を開くと、正直すぎて全部台無しになるからな」
「……う、うん。肝に銘じておくよ」
冷たい山の空気に、二人の静かな熱が混ざる。
これから起こることが「悲劇」だっていうなら、そんなもんは俺がまとめて叩き潰してやる。
「行くぞ、炭治郎。ぐずぐずしてると雪が積もる」
「……ああ!」
理屈じゃねえ、俺が決めたんだからやるったらやるんだ。
運命が変わる保証なんてどこにもない。それでも、手をこまねいて悲劇を待つ気は毛頭なかった。
リハビリがてら書いてみました。
そんなに続きません。