「いいか、炭治郎。何度も言うが、お前は余計なことを喋るな」
雪を噛む足音が、静かな山道に二つ響く。雲間から差し込む月光が、俺の歩みを白く照らしていた。隣を歩く炭治郎は、さっきから心臓の鼓動が外まで漏れ出しているんじゃないかと思うほど、激しく肩を揺らしている。
「
俺は懐に入れた革袋の重みを確かめた。空師として命懸けで稼ぎ、貯めてきた全財産だ。これを「前払いの給金」として葵枝さんに渡し、あの優しい家族を安心させる。そして俺たちは牙を研ぐ。これ以上ない、完璧な効率に基づいた作戦のはずだった。
「……聞いてるか、炭治郎。お前は嘘を吐くと必ずバレる。だからお前は『仕事、頑張るよ』の一言だけ言ってりゃいい。あとは全部、口八丁の俺が――」
言いかけた俺の言葉は、そこで途切れた。
木々の隙間から、見慣れた竈門家の小さな明かりが見えたからだ。夕飯の、香ばしい麦飯と温かい汁物の匂いが微かに漂ってくる。
その瞬間、隣にいた少年の糸が、音を立てて切れた。
「――あっ、おい、炭治郎!」
止める間もなかった。炭治郎は地を蹴り、全力で駆け出した。
雪を跳ね上げ、転びそうになりながら、狂ったように家の扉へ飛び込んでいく。
「母さん!! 禰豆子!! みんなぁぁぁ!!」
「え!? 何、炭治郎!?」
静かな夜の空気を切り裂く、悲鳴にも似た炭治郎の叫び。
遅れて俺が玄関に辿り着いたとき、そこには文字通りの
炭治郎は土足同然で上がり込み、母・葵枝さん、長女の禰豆子、そして竹雄、花子、茂、六太の全員を、折れんばかりの力で抱きしめていた。
「死なないでくれ……っ、生きててよかった、本当によかった……っ!!」
鼻水も涙もぐちゃぐちゃにして、炭治郎が
「兄ちゃん痛いよ!」と笑う下の子たちの体温を確かめるように、炭治郎は必死に縋り付いていた。
俺は玄関の
「……こうなると思ったよ。馬鹿たれが」
俺の頭の中で、精密に組み上げられた『完璧な嘘』が、粉々に砕け散った音がした。
「……で。何がどうしたっていうの、千尋くん」
炭治郎がひとしきり泣き崩れた後。
竈門家の囲炉裏を囲んで、全員が正座していた。炭治郎はまだしゃくり上げながら、六太の手を握って離さない。その様子は、仕事へ行く決意を固めた男のそれではなく、今にも消えてしまいそうな幽霊を必死に繋ぎ止めようとする子供のようだった。
俺は溜息をつき、懐の革袋を囲炉裏のそばに置いた。
(……やめだ。嘘をつくのは中止。こいつが正直すぎて、嘘を混ぜるのは非効率すぎる。なら、全部ぶちまけるしかねえ)
俺は真っ直ぐに、葵枝さんの目を見た。
「おばさん。こいつが今から言うことは、到底信じられないような話だ。だけど、炭治郎は今、自分の命よりも重い真実をおばさんたちに伝えようとしてる。……炭治郎、お前の口から話せ。全部だ」
炭治郎が顔を上げ、震える声で話し始めた。
自分が一度、この家族を失ったこと。
雪の日に鬼が来て、山を下りていた自分以外が襲われたこと。
禰豆子が鬼にされ、自分たちが何年も戦い続けたこと。
そして、気がついたら今日この日に戻っていたこと。
「……夢じゃないんだ、母さん。俺は、覚えているんだ。みんなの温かさも、あの日の冷たさも。だから、もう一度失うなんて、俺にはできない……!」
炭治郎の告白は、あまりに突飛で、正気を疑われるようなものだった。
竹雄が「兄ちゃん、疲れてるんだよ……」と困惑した声を出す。
だが、俺がそこで割って入った。
「俺はこいつの言ってることを信じる。……根拠なんてねえよ。ただ、空師としてずっとこいつを見てきた俺の勘だ。こいつは嘘を吐かない。そして、こいつの目は、本気でお前らが殺されると信じて怯えてる。……なら、俺はこいつを一人にはさせない。俺の全財産をここに置く。これで町へ避難してくれ」
空師として死線を越えてきた俺の言葉と、炭治郎の魂を削るような訴え。
室内がしんと静まり返った。パチッ、と囲炉裏の炭が弾けた。
葵枝さんは、震える炭治郎の手と、隣で不器用に顔を逸らす俺を交互に見つめ、それから静かに微笑んだ。
「……炭治郎。お前が嘘を吐いていないことは、母さんが一番よく知っているよ。お前のその悲しそうな顔は、とても嘘で出せるものじゃない」
葵枝さんは立ち上がり、俺たちの頭をそっと撫でた。
「分かりました。理由は私にはすべて理解できないかもしれない。けれど、貴方たちがそこまで命がけで私たちを守ろうとしてくれているなら、私はそれを信じます。家族ですもの」
母親の、すべてを包み込むような決断。
炭治郎はまた泣き出した。今度は、絶望ではなく救いの涙だった。
話が決まってからの俺は、自分でも驚くほど速かった。
「決まれば即行動だ。準備しろ!」と号令をかけ、避難の支度を指示する。
明日には町へ降り、知り合いの宿に家族を預ける手はずを整えた。
夜も更けた頃。
家族が寝静まった家の裏庭で、俺と炭治郎は二人きりで雪の上に立っていた。
「……ごめんな、千尋。結局、全部正直に話してしまった」
「今更謝るな。作戦は崩壊したが、お前の母親がああいう人だったのは知ってたし。……正直に話したおかげで、腹は決まっただろ」
俺は木刀の代わりに、使い慣れた愛用の
「さあ、始めようぜ、師匠。その『全集中の呼吸』ってやつ、俺に叩き込んでくれ」
「うん! ええと、まずは肺をグワーッと広げて、血をドクドクさせて……指の先まで空気がパンパンに詰まるような感じで……!」
「……やっぱりそうなるか」
俺は頭を抱えた。炭治郎の教え方は、案の定、天才特有の
だが、俺には空師としての「観察眼」がある。炭治郎が呼吸を繰り返すたび、その筋肉がどう動き、心臓の鼓動がどう変化しているか。それをじっと見つめ、自分の「重心」と照らし合わせていく。
「……肺の膨張による横隔膜の引き上げか。それを維持したまま、血液に酸素を叩き込んで脳と四肢に強制的に回す。なるほど、山仕事の『踏ん張り』を極限まで増長させるって理屈か」
「あ、そう! そんな感じだ千尋! やっぱりすごいよ、一回言っただけで分かるなんて!」
「一回じゃねえよ、お前の擬音を脳内で十回は翻訳した。……それから、お前がさっき言ってた『柱稽古』の基礎も混ぜろ。まずは肺を大きくするのと同時に、身体を極限まで柔らかくしなきゃ、その呼吸の圧力に身が持たねえだろ?」
「あ……! そうか、確かに恋柱の甘露寺さんも言ってた。柔軟性は反射速度に直結するんだ」
「やりながら覚えりゃいいな。……よし、見てろ」
深く、冷たい空気を肺の奥底まで吸い込む。
ぐ、と身体の芯が熱くなる。心臓の音が耳元で跳ね、血管が拡張する感覚。
俺はそのまま、目の前にある立ち枯れた大木に向かって跳んだ。
型などまだ知らない。だが、炭治郎から聞いた「重心の移動」と「呼吸による筋力増幅」だけを意識して、鉈を振り下ろす。
ドォォォンッ! と、雪を巻き上げながら、ただの鉈とは思えない重厚な音が響いた。
大木の幹には深く鋭い斬撃が刻まれ、積もっていた雪が四方に散る。
「うわあぁ……! すごいよ千尋、もう全集中ができてる!」
「……いや、今のはまだ呼吸が浅い。斬った瞬間に酸素を吐き出しちまった。もう一度だ」
俺は唇を噛み締め、再び構える。
今の俺は、ただの空師だ。剣術のいろはも知らない。
だが、この呼吸を自分のものにすれば、まだ会ったことがない『鬼』という理不尽を伐り伏せる「刃」になれる。
その様子を、寝静まったはずの家から、禰豆子と葵枝さんが窓越しに見つめていることに気づきもしなかった。
月明かりの下。
一人は、失ったはずの過去を取り戻すために。
一人は、まだ見ぬ未来を「効率よく」掴み取るために。
俺たちは、凍てつく雪を蹴り続け、肺が焼けるまで空気を吸い込み続けた。
主人公はヒノカミ神楽を舞えるおかげで全集中の呼吸は早い段階で習得できます。
常中や剣術はまた別ということで。