宇宙暦七九六年、帝国暦四八七年、アスターテ会戦における帝国軍上級大将、ローエングラム伯ラインハルト率いる帝国軍の勝利が、戦争の帰趨を決定づけたと信じ込んだ者たちにとって、フェザーン回廊宙域に突如現れた未知の艦隊は噂に聞く魔術の如き存在であった。
あるいは銀河の天秤が、自重に耐えかね異物を吐き出したのか――
当時を記録した戦史家の言葉を借りるなら、そう表現するのが最も適切であろう。
それは常識外の規模と構造を持つ艦隊だった。
既知の銀河艦艇設計とは一線を画した鋭利な艦首、鋼鉄より硬質な装甲板、そして通信傍受により判明したガルマン・ガミラス帝国という聞き慣れぬ国名。
発見の報は、まずフェザーンの交通監視局を通じて行政府へと伝わり、その数分後には銀河帝国の中央通信網にも流出した。
時のフェザーン
帝国と同盟、二つの巨像が睨み合う最前線で、唯一無二の利権の操縦者として君臨してきたフェザーンが、突如として第三の猛獣に喉笛を狙われたのである。
報告書を放り出しルビンスキーは苦笑したという。
恐らく帝国か同盟のどちらかが仕組んだ新手の恫喝だと――最初はそう考えたのだ。
しかし次に届いたのは、隠す気のない高圧的な通告であった。
「……私はデスラー、ガルマン・ガミラス帝国総統である。フェザーン
簡潔で、かつ侮蔑を含んだ一文だった。
ルビンスキーが駆使してきた言葉の刃は、これほどの軍事的現実を前にしては、滑稽な竹光に過ぎなかった。
後世、デスラー総統の狙いは明白だったとされる。
この銀河において、物流と情報の結節点たるフェザーンを戦わずして支配下に置く――
それが異邦の軍事国家が持つべき、最も無駄のない初手であったのだ。
その日、フェザーン宇宙港上空を埋め尽くした無数の戦艦は、一発の砲火すら放たぬまま全てを屈服させた。
フェザーンの保有する少数の警備艦隊の司令官は戦う前に降伏を決め、商人たちは亡命を試みて捕縛された。
結局、この銀河で最も狡猾と称された男ルビンスキーは、会談という名の尋問に引き出されることになる。
フェザーンの陥落は、同盟と帝国の両政府にアスターテの余韻を吹き飛ばす衝撃を与えた。
そして後に銀河戦史家が書き残すことになる。
――「その時、銀河は一つの均衡を失い、代わりに狂気を得た」と。
フェザーン宇宙港の制圧から一昼夜を経ずしてドメル親衛艦隊司令は、ルビンスキーを行政府執務室へ呼びつけた。
会談とは名ばかりの形を整えた尋問であったと、後世の戦史家は指摘している。
執務室の空気は、これまでルビンスキーが慣れ親しんだあの艶やかな外交の舞台とは似ても似つかぬものだった。
部屋の隅に控えるガミラス軍士官たちの冷徹な視線と空気を裂くような軍律が、フェザーンの粘液のような利権政治の残滓を片端から切り刻んでいく。
卓上にはフェザーンの経済構造図と星図が広げられていた。
それを覗き込むドメルの目は、既にこの利権都市の全てを見抜いているようであった。
「――アドリアン・ルビンスキー
ドメルは言葉を切り静かに視線を上げた。
将軍の声に感情の起伏はなく、だが一言一句が重く骨の髄を叩いた。
「貴公が抵抗を放棄し、無条件降伏を選んだこと自体は理に適っている。我が総統もその決断を良しとされた」
ルビンスキーの喉がごくりと鳴る音だけが、室内に小さく響いた。
「……恐れ入ります、閣下。我々フェザーンは平和と交易を是とする都市国家――無益な流血は望みませぬ」
言葉だけは滑らかだった。
だが商人特有の甘ったるい笑顔は、ドメルの前ではまるで無力であった。
「平和。――面白い。」
ドメルは皮肉を滲ませて笑い、手袋を外した手で星図を示した。
「貴公らの平和とは、帝国と同盟が血を流すほど、その血の中で咲く金の花のことを言うのだろう。我々は違う。我々は秩序のための力を尊ぶ。」
ルビンスキーの額から汗が一筋落ちた。
それを拭う素振りを見せずに、ドメルは無造作に告げた。
「貴公の役割はもはや自明だ。フェザーンの裏と表の情報網を余すところなく我々に差し出し、帝国と同盟双方の内部に深く我が手を伸ばすための踏み台となれ」
ルビンスキーはあらゆる弁明を呑み込んだ。
この場で下手に言葉を弄しても、相手の優位は揺るがない。
彼の豪腕は既にフェザーンという果実を摘み取っていた。
「承知いたしました……閣下。何なりと。」
声は震えていたが、形だけは平伏の体を成した。
ドメルは応えるように手袋を再び嵌め直し、冷徹に言い放つ。
「よろしい。報酬は行動で示す。裏切りは一度限りだ。総統閣下の忍耐は、敵の軍艦を消し飛ばす砲火ほどに迅速であると覚えておけ」
ルビンスキーが再び頭を垂れたとき、戦史は静かに一行を付け加えた。
――この瞬間、フェザーンは自由を失い、デスラーの軍靴に従う新たな軍政都市へと変貌した、と。
フェザーンを奪取してから三日後。
ガルマン・ガミラス帝国の臨時司令部は、フェザーン総督府地下に築かれた新たな作戦統制室にあった。
そこでは科学局長官ゲーレンを筆頭とする技術適応部隊が、不眠不休で銀河帝国と自由惑星同盟の政治構造、軍事技術、経済インフラの解析にあたっていた。
帝国歴四八八年当時の両陣営の脆弱性は、彼らから見れば驚くほど露骨であった。
技術体系は高水準であっても、運用は旧弊に塗れ、情報伝達は門閥貴族の縄張り争いに腐食されていた。
――そしてその膿の中心にこそ、ゴールデンバウム王朝の歪んだ血脈支配が根を張っている。
総統デスラーは、統制室の奥に設けられた小会議室で一人、モニターに映し出される長大な報告書に目を通していた。
膨大な数値と軍艦設計図、辺境星域の反乱頻度、貴族派艦隊の内訳、同盟内の政争の空白――
すべては彼にとって既視感のある地獄絵図に過ぎなかった。
「……銀河帝国。腐肉の王座を守るだけの屍共め」
吐き捨てるように呟いた声は、フェザーンの冷たい地下壁に吸い込まれた。
かつて彼が戦っていたボラー連邦、そして白色彗星帝国や暗黒星団帝国。
力なき者を虐げ、秩序の名の下に怯えさせた古い巨獣の姿がゴールデンバウム王朝に重なる。
ドメルとゲーレンが静かに進み出た。
二人は既にこの指揮官が次に何を言うかを察していた。
「総統閣下。技術適応部隊より最終報告を。帝国の艦隊構造はおおむね把握済み。同盟軍も、人的損耗と補給線崩壊で、もはや組織的抵抗は数年と保たぬでしょう」
デスラーは短く頷いた。
椅子の肘掛に肘を置き、蒼く冷たい眼差しを前方へ据える。
「よろしい。帝国は打倒する。貴族制は廃し、腐敗は根絶やしにする。同盟には……」
一瞬、思考を巡らせ薄く笑った。
「同盟には理想を語らせておけ。腐っても理念だけは残っている。奴らを完全に叩き潰すのは後でいい。帝国を粉砕するまでは、牙を隠させておく」
作戦統制室に立ち並ぶ幕僚たちは、主君の言葉に一斉に背を伸ばした。
ガルマン・ガミラス帝国は、この銀河において、いよいよ第二の故郷ではなく――
唯一の支配者として歩を進める。
デスラーは立ち上がり、作戦卓の中央、帝国領の星図を指先でなぞった。
ゴールデンバウム王朝の首都星――オーディンに爪先を止め、低く命じた。
「目障りな金色の王冠を、瓦礫と血の泥に沈めろ。新しい秩序は、我が手で造る」
アスターテ会戦から銀河の均衡は、もはや予言書の余白の如く薄っぺらなものに成り果てていた。
アスターテ――。
あの星域において、銀河帝国と自由惑星同盟、二つの巨大艦隊が繰り広げた一度きりの遭遇戦は、勝敗の趨勢以上に、一行の戦史的註釈を残している。
未確認艦隊、九隻。
この無味乾燥な記述が、何人の将兵を惑わせ、後の策謀を育んだことか。
歴史において、真に恐ろしいのは大戦艦の咆哮ではない。理解不能な例外である。
当時、アスターテを生き延びた若き戦術家――ヤン・ウェンリーは、例外の残響を誰よりも深く心に刻んでいた。
あの時、帝国の獅子――ラインハルト・フォン・ローエングラムは確かに情報の優位を掴んだ。だがそれは彼の智謀だけではない。戦場の一隅で、誰かが誤認を撒き散らしたからだ。
それが冥王星の亡霊――ヤマトであったのか。
それとも、ただの錯視だったのか。
真相は国家機密の深層に沈められ、ヤンにすら開示されることはなかった。
そしてフェザーンは陥落した。
ガルマン・ガミラス帝国――。
この銀河のあらゆる利権と情報を喰い尽くす、氷のような狼が姿を現したのだ。
同盟首脳部は狼狽した。
帝国の門閥貴族は顔面を蒼白にした。
だがフェザーンの暗い路地裏に生きる者だけは笑った――
「秩序なんぞ、所詮は紙切れだ」と。
そして四月二十七日。
イゼルローン要塞。星々に覇を唱える者が必ず奪取せねばならぬ、銀河の喉笛。
そこに半個艦隊という名の孤独な刃が向かおうとしていた。
星々の吐息すら凍てつく暗黒宙域に、わずか半個艦隊の艦影が溶けていた。
同盟軍第十三艦隊――ヤン・ウェンリー少将の指揮下、六千四百隻、七十万余の将兵。
正面突破のための火力ではない。
だがこの艦隊には、戦術史において類を見ない柔軟性と、予測不能の“運”が備わっていた。
会議室の空調は静かに作動音を鳴らし、壁面スクリーンには要塞の投影図が淡く滲んでいた。
副司令官フィッシャー准将、首席幕僚ムライ准将、次席幕僚パトリチェフ大佐。
背筋を伸ばす幕僚たちの眼差しが、ただ一人の男の指先を追っている。
「つまり、こういうことだ」
ヤンは人差し指で赤い線を引いた。要塞の喉元を裂くように。
「正面から突撃しても無意味。我々は大艦隊ではない。火力も質量も足りない。一方、敵は内部情報と通信が命。逆に言えば――」
指が止まる。
ヤンは笑った。
「敵に、味方がどこにいるか分からなくしてしまえばいい」
士官学校次席卒業で優秀な副官、フレデリカ・グリーンヒル中尉のヘイゼルの瞳がわずかに見開かれた。
首席幕僚ムライ准将は眉をひそめた。
誰もがアスターテでの例外を思い出す。
「ヤマト」――。
不可解な亡霊が帝国艦隊の眼を惑わせたように。
ならば同じ手を今度は意図的に使えばいい。
統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の思惑に乗せられたのは本意ではない。
しかしやるからには全力を尽く。手を抜く代償は自分の命だからだ。
「要塞は要塞であり、同時に情報の塊だ。敵にとっての想定外、内側にノイズを紛れ込ませるのは難しくない。幸い、我々には……」
ヤンは言葉を切り、の外の無限の宙を見た。
「……亡霊の影響を知る者がいる。彼の存在が、何かの糸口になるかもしれない」
誰もが黙った。
古代進。病室のベッドに眠る、ヤマトの最後の乗員。
彼が要塞を落とす鍵になるか――
それとも、また一つの雑音となるのか。
誰も答えを持たなかった。
ただ一つ確かなのは、ヤン・ウェンリーという男だけが戦場の混沌を好機に変える知恵を備えているということだ。
その時、艦隊司令室に通信士の声が響いた。
「帝国哨戒艦隊、要塞前方宙域を哨戒中。ガルマン・ガミラスの艦影はなし。作戦遂行可能域に入ります」
ヤンは僅かに笑い、幕僚たちを見渡した。
「さあ、始めようか。この銀河のノイズは、もう少しだけ役に立ってもらうよ」
惑星オーディン――全人類の支配者にして全宇宙の統治者、天界を統べる秩序と法則の守護者、神聖にして不可侵なる銀河帝国皇帝の居城、
金碧の玉座を戴く覇者、フリードリヒ四世。
門閥貴族すら己の退廃と享楽の影に溶かすことができる男が、今や己の手で最も恐るべき獅子をも牙抜こうとしていた。
フリードリヒ四世は、宮廷の奥、絹張りの私室にてワインを傾けていた。
膝元には二人の女が侍している。
一人は、深紅のドレスに身を包んだ気品を隠せぬシュザンナ・フォン・ベーネミュンデ侯爵夫人。
一人は、まだ若いアンネローゼ・フォン・グリューネワルト
大帝は六三歳にしては精力、士気旺盛。彼女らの柔らかな髪を愛玩するように指先で弄びながら独りごちた。
「……皆、我を老いた無能と笑う。よい、笑うがよい。貴族どもは醜く咲く腐花、門閥は乳臭い狐。そしてあの金髪の若造――」
言葉を切り、アンネローゼの肩越しに遠い視線を落とした。
「ローエングラム伯……か。美しい牙を持つが、その牙を磨きすぎた。犬の牙は時に主人を噛む……ならば抜いてしまえば良い」
アンネローゼは震えそうになる睫毛を伏せ、ただ沈黙で答えた。
彼女は知っている。
この老獣の瞳には知性の色が浮かんでおり、愚か者を演じれば演じるほど、その裏では鋭利な罠を張り巡らせていることを。
シュザンナは無垢な瞳を皇帝に向け、微かに首をかしげた。
「陛下……お怖いのですか? ローエングラム元帥が……?」
フリードリヒ四世は呵々と笑い、その笑い声を甘い吐息のように女たちの髪へ吐きかけた。
「怖い? いいや、退屈が怖いのだ、可愛いシュザンナよ。若獅子が吠え、狼が吠え、やがて互いに血の湖を造る――その血でしか、この老いた心は鼓動を打たぬ」
アンネローゼの白い指が、震える声で囁く。
「お願いです、陛下……弟、ラインハルトだけは……」
皇帝はその頬を撫で、息を吹きかけた。
彼女の願いをひとときの夢として甘く噛み潰すように。
「案ずるな。お前の弟には、最後に美しい死に花を与えてやろう。誰よりも鮮烈で、誰よりも虚ろな――覇者の死を、な」
金碧の獣は笑った。
誰が味方で、誰が敵か――その線引きを最も自由に弄べるのは、退屈を纏った皇帝ただ一人であった。
ラインハルト・フォン・ローエングラムという若き太陽を喰らうために、老いた月は今宵も韜晦の仮面を被り、愛と血を与える。
ラインハルト・フォン・ローエングラムは、剣呑なほどに美しい光を纏いながら、元帥府の執務室に立っていた。
執務机の上には、フェザーン陥落を伝える報告書。
そこには彼自身が与り知らぬガルマン・ガミラス帝国の名が幾度も刻まれている。
ラインハルトは薄く笑みを刻むと金の髪を指で払い、窓の外へと目を投げた。
「皇帝陛下は……これをどう思われている?」
参謀長メックリンガーは沈黙した。
言葉を選び、やがて重い声を吐き出す。
「陛下は……閣下に全幅の信頼を寄せておられると……表向きには」
ラインハルトは微かに笑う。
その笑みには若き覇者の自負と、まだ人生を味わい尽くさぬ少年の脆さが同居していた。
「信頼……ならばいい。ガルマン・ガミラスも、叛徒……我が眼前に並ばせてみせる。皇帝陛下が望むのは、それだけだ。」
キルヒアイスが隣に立ち、胸中に冷たい不安を覚えていた。
だが忠臣は決してそれを口には出さない。
若き獅子はまだ知らない。
――玉座に座す老獣の瞳には、もはやラインハルトすら輝きとしては映っていないことを。
皇帝は退屈を殺すために、若獅子を育てた。
今、ガルマン・ガミラスという牙を与え、叛徒と共に過ぎたる獅子を処分する構図を組み上げていた。
ラインハルトの頬には、かすかな紅潮があった。
自らの力を疑わず、自らの行く末を疑わぬ者だけが持つ――若さの熱だ。
「自由惑星同盟のような叛徒も、ガルマン・ガミラスどもも、そして門閥貴族も……この手で全て一掃する」
その言葉の先に己自身が含まれているとは思いもしなかった。
金狼はまだ牙を研ぐだけで満足していた。
彼の前にある血の海が、自分自身の棺であることを知らずに。