まだ少し寒さの残る3月の終盤の日のことだった。
周りは下ろし立てのスーツを身にまとい、これからの仕事に対しての希望と不安が綯い交ぜになった若者達が、中央トレセン学園の門をくぐっている。
そんな中、俺はジャンパーを着て、彼らに紛れ込むように共に門をくぐった。
もともと地方トレセンでトレーナーとしてやってきた俺は、今年、府中にある中央トレセン学園に転籍した。
新人たちの研修に序盤だけ混ぜてもらい、最低限の説明だけ受けて抜けた。
俺は転籍者であり地方時代はそれなりの成績だったものだから、別に学園側も手厚いサポートが必要だとは思っていないようで、『変わらずやってくれ』というのが基本スタンスのようだ。
まぁ簡単に言えばトレセン学園にトレーナーとして放り出された感じだ。個人的には気楽で助かった。
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季節は少し進み、梅雨が明け夏本番といった感じだ。宝塚が終わって2週間が経っていた。
新人でもぽつぽつと契約していたり、チームのサブトレーナーをしている人間が多く、中央レースでもかなり前からメイクデビューが始まり、どんどんウマ娘たちがデビューをしていた。
暑い日差しが強まっていく中、デビューを目指す者たちや、クラシックで一線級になれずとも夏で上積みを重ねようとする者たちなど、練習コースには未来をつかもうとするウマ娘たちの汗が流れていた。そして、支えんとするトレーナーたちの汗も。
そんな中、俺は全くと言っていいほどウマ娘と契約をする気配が生まれなかった。
実は、スカウトの仕方がイマイチ分からないのだ。
地方の頃は年老いた師匠のもとに転がり込んで、そのまま数年してチームを引き継いでいた。そのころには門戸さえ開けておけば勝手にウマ娘たちが入ってきていた。つまり、今まで一度もウマ娘を自発的にスカウトしたことがない。なんとも地方でブイブイ言わせていたトレーナーとは思えない状態だった。
そのまま地方にいれば、チームの知名度から何とかなっただろうが……まぁ中央に来るようなうら若きウマ娘たちに、日本で一番端にある、中央でもないレース場で鳴らしたような男を知っているわけもないので、この方法は使えない。
最近はほぼ教官に近い仕事をしている。ダートコースを整える際のアドバイスをしたり、教官の人手が足りない際に、代わりに未契約ウマ娘たちの練習のサポートをしたり。
トレセン学園で一番仲が良くなったのは教官たちだった。地方時代に下働きをした経験は、現場上がりの彼らとの話に一役買った。時折少し踏み込んだ調整方法とかを聞かれたりする。
「教官の仕事は癖をつけずに育成することだからねぇ、秋さんがいて助かっているよ」
夕方の食堂で、少し年上の女教官はそんなことを言った。教官とはなんとも大変な仕事らしく、頭を抱えていることが多い。この女教官は特にソレが多い印象を受ける。
「私は気性に難がある娘を担当することが多いからねぇ。話を聞かない程度だったらいいけど、娘によっては初対面で水ぶっかけられることも多いし」
今日も昼過ぎの食堂でコーヒーを飲みながら、あっけらかんというには話の内容がビターだ。そう思いながら俺はコーヒーにミルクとガムシロップを追加した。
「秋さんはどう?そろそろ見つけないとジュニア期のデビューは難しいよ?」
「いやいや、無名なもんでフラれまくってますよ」
女教官はケラケラと笑って「スカウトしてるところなんて見たことないけどね」と言いながらコーヒーを啜った。
「まぁ、無理強いはしないよ。秋さんが担当していない分、私たちは楽だからね。どう?教官にならない?」
別に教官たちの仕事の手伝いをしているのは手持ち無沙汰だからだけではなく、担当を探しているのもある。よさげな娘に唾をつけようって魂胆だ。まぁ、今のところ成功の兆しもないが。
今後の練習について話をしていると、どうやら俺に合いそうなウマ娘を数人出してくれた。「君は地方出身らしく、ダートの娘と相性がよさそうだね」なんて言いながら。
俺は断っておいた。なんとなく、大人たちで勝手に決めて推薦したりするのは、ウマ娘に悪い気がした。
「誠実だねぇ」
「選抜レースも近いもんですから、それ見て決めますよ」
「スカウトに向いてなさそうだけどねぇ」
……そんなにひどく見えるだろうか。
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選抜レースではウマ娘たちがさまざまなコースで走り、終わるたびに優秀そうな娘にトレーナーが群がっていた。
大量のトレーナーたちに恐怖と喜びが綯い交ぜになっている娘、トレーナーたちを見透かそうとする娘、誰にも声をかけられずにうつむく娘。
まぁウマ娘たちの反応は千差万別だが、トレーナーに関しては大体一緒だった。
レース後にウマ娘のところに駆け寄って、名刺を渡して、派手なアピールに甘い言葉、刺激的な将来のビジョンを少女に流し込む。
それを見て、なんだかやる気がどんどんなくなってきた。俺の昔からの天邪鬼な性分が働いた。
ああやって言葉巧みにうら若きウマ娘をたぶらかすようなやり口は、性分の問題でできなかった。いや、悪いことではないとは思う。名刺も渡して、大人の世界で考えればなかなかに誠実だとは思うが、相手は子供だった。それもレース後という、気持ちが昂り、少なくとも冷静とは言い難い状況でああいうことをするのは、なんだか公平ではなく、同じ土俵に立っているとは思えなかった。
今までの地方時代の経験から、ウマ娘側に下駄を履かせてやっとトレーナーと対等な立場だと思っていて、そういう状態でスカウトしなければただの漁に近い行為ではと感じていた。
要するに、ほかのトレーナーを汚い奴らと少しなじっていたのだ。
見ていられないと、ふとスカウト合戦から身を背けてバ場を見ると、一つだけなんだか違和感のある足跡がコーナー上にあった。
寄りかかっていたゲートを乗り越えて、ダートに入りその足跡に近づいていく。
ほかの足跡はコーナーの内ラチから5バ身以内に存在するが、この足跡は内ラチと外ラチのちょうど中央にあった。とんでもなくコーナーが下手なのだろうかと思いながら足跡を見ると、砂が深くえぐれていた。重心が沈むように入って、ぐっと踏みしめて抜けていった跡。ダートでこれはかなりのものだと、地方時代の経験から知っていた。
だが、そんなことが些細なことに思えるほど強烈な違和感があった。
右足の先が内側を向いているような足跡。癖だとしてもここまでは内に向かない。骨と軸が内側に湾曲している証拠だった。ウマ娘として、骨格がここまで変形しているのは致命的だ。
「危ないですよ~!」
左手からした声の主を探そうと目をやると整備車が走ってきた。少し急いでコースから出ると、轟音と共にローラーが通り、無情にもあの跡を押しつぶしていく。残ったのは、均された砂と、記憶の中の輪郭だけ。まるで最初から存在しなかったかのように、足跡は消えた。
惜しいなぁなんてつぶやいた言葉は、砂塵とともに風に乗って、どこかへ消えてしまった。
その日の夜、トレセン学園の近くで契約したマンションの狭い自室で、トレーナーに公開されている種目別競技会のレース映像から、あの足跡の主を探した。簡単に見つかった。
画面の中、砂を蹴り上げて走る黒い影。陽光を吸い込むような毛色。その一歩一歩が、妙に目に残る。
彼女の足は砂に食い込む。右足だけ、わずかに内側に。踏み込みは不器用だ。けれど、地面を信じている走りだった。走法、フォーム、バランス、どれも未完成。だが、それでも目が離せなかった。
レース表から名前を探すと、外国出身者を示すように英語で書かれていた。
Sunday Silence
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次の日、女教官にサンデーサイレンスについて聞いてみた。
女教官はすごく苦い顔をした。どうやら、とんでもない問題児だそうだ。
「アメリカ出身の娘で、まぁ、私が今まで見た中で一等の気性難よ」
授業放棄は何時ものこと、未契約ウマ娘向けの教官による指導も出てこない。このままでは退学らしい。
「一度練習にきて、指導をしたことがあるんだけどね。『死にたくなるほどくだらねぇ時間だった』って吐き捨てられたのよ。そこから来ることがなくなってねぇ」
「どこにいるか知っていますか?」
「……本気?」
そう言いながら女教官は学園の支給スマホを触り始める。学年とクラスと担任教師の名前を教えてくれた。
正直恐ろしさがあるが、探すことにした。彼女の右足が気になってしょうがなかった。ただそれだけが俺を突き動かした。
だが、探してもどこにもいない。教室にも、コースにも、学園中を歩き回ったがサンデーサイレンスは姿を現さない。
記録上はまだ在籍しているし、退学はしていない。だがまるで、学園の影にでも消えたかのようだった。
サンデーサイレンスの担任教師は俺がずっと探し求めているのを見かねたのか、廃スタンドだよといって手書きの地図をくれた。
裏山に、昔使われていたコースの観覧席がまだ残っているらしい。問題児が隠れるのにはいい場所だと担任教師は笑った。感謝を伝えて真っ先に向かった。
教官が書いてくれた簡素な地図にある、紙の端にボールペンで描かれた、木立と古い階段。そこを歩いていく。
夕暮れの中、風に草が鳴き、古びた木の板が、きしむ音を立てる。そこに、黒い影があった。
朽ちた観覧席の最上段、背中を柵に預けて座り込む黒い影。脚を伸ばして、肩を落とし、何かを噛んでいる。薄暗がりのなかでも、それがガムであることが分かる。スカートの制服を着ているが、その下にはジャージのズボンを履いていた。
その目線は、誰にも向けられていない。ただ、夕日とは違う方向の、暗い空。遥か向こうの空を睨んでいた。
風が吹く。その瞬間、彼女がゆっくりこちらを見た。目が合う。鋭い目だ。人を刺すような視線。
「……はぁ?誰だてめぇ」
ガムを噛みながら、明らかに低く警戒した声音だった。
「教官かぁ?だったら帰れ。行かねぇっつってんだろ。死ぬほどつまらねぇからな」
彼女の黒とひと房の白線が無造作に垂れた前髪の、その隙間から見える琥珀色の瞳は、明らかにこの世の中に対して良い印象を持っておらず、そして尖っていた。
「お前がサンデーサイレンスか?」
「んだよ、だからどうだってんだ」
ゆっくりと観覧席に上がっていく。サンデーサイレンスは立ち上がらず、ずっと俺を睨んでいた。まるで、『ほかの奴が来たから動くってのはダセェ』と思っているような感じがした。
「なぁ、右足。見せてくれないか」
サンデーサイレンスの眉がピクリと動き、ポケットに手を突っ込んだまま立ち上がって俺を睨む。
「なに言ってんだお前……キメェぞ。足見せろ?なに、お前、変なフェチでもあんのか?通報すんぞ?性癖おかしい奴がいるって、晒してやろうか?」
言葉は刺々しく、彼女の琥珀色の双眸は細く、脅すように形を変えた。
いつでもお前を殺せるぞと、意識づけるような脅し方だった。たとえ相手が脅しに屈しずに逃げなくても、明らかにこの場の主導権を握ろうとしている。
「お前、右足が内側に向いているだろ。なぁ、見せてくれないか?」
風が吹いた。カサカサと乾いた木の葉が舞い上がる。どこかでカラスが鳴いた。
サンデーサイレンスは、口の端でガムをくちゃりと潰すように噛みながら、じっと俺を見据える。眉は吊り上がり、唇は呆れ気味に歪む。
「……マジで行ってんのかおっさん。キモいしヤバいで通報モンだぞ。わかってんのか?」
そういいながらも、サンデーサイレンスは通報するそぶりを見せず、立ち去りもしなかった。言葉では拒絶と脅しを繰り返すも、目だけはまだ、遠い空ではなく俺を見ていた。
明らかに彼女は俺を値踏みしていた。それに対して俺ができることといえば、腹の内を全部見せることだけだ。それが彼女にとって、フェアなことだと思った。
沈黙が場を支配して、何秒が経過しただろうか。やがて、彼女は舌打ちをひとつして、片足を無造作に伸ばしてズボンをめくる。右足だ。
膝より下から少しねじれ、足首とつま先が内へと寄っている。予想通り、彼女の右足は明らかに平均的な真っすぐさを持っていなかった。
「……見りゃわかんだろ。変なんだよ。バランス悪いし、走ってるとなんかズレてくるし。コーナーは曲がれねぇし。で?お前には何が見えてんだよ。足が見たいなんてマジキメェ理由で来てよ」
サンデーサイレンスは苛立ちを隠さずに言葉を吐いた。
俺は自分の右手首をひねり、サンデーサイレンスの右足をわかりやすく表現した。
「次の競技レース、左回りで走ってみろ。コーナーでこうやって動かすんだ」
右手首を観覧席のコンクリの地面に押し当てて、普通の走り方とは違う。グッと差し込むようにあてて、砂を握るように掻くしぐさをする。
「左回りのコーナーで、右足にも意識を割いてみろ。左6右4くらいのイメージだ。それだけでスピードを出しても、膨れずに回れるはずだ。左回りならな」
彼女の顔から、表情が消えた。言葉も、息も、止まったようだった。しばらくその場に立ち尽くしていた。が、やがて小さく舌打ちして、目を逸らす。
「……やっぱキメェぜ、お前」
そう一言だけ吐き捨てて、彼女は踵を返した。足音も立てず、すっと廃スタンドの影に消えていく。
■
あれから少し経った日、選抜レースを見ていた。サンデーサイレンスを。
……見惚れた。声が出なかった。
サンデーサイレンスは、大量のウマ娘の足によってできる爆音の中で、音を置き去りにするように走っていた。他のウマ娘たちが慎重に減速し、内に寄りながら回る左回りのコーナー。彼女だけが、逆に加速していた。明らかに異質。だが、浮かない。膨らまない。
あの右足だった。
風を裂くように、彼女の脚が伸びる。コーナーで右足を地面に着けるたびに、ほんの一瞬、重心が沈む。右足が、しっかりと砂をつかむ。内を向いたその接地が、まるで弓の弦を引き絞るように体幹を支え、スピードを殺さず、体の角度を内へ向け、次の一歩へとバネのように送り出していた。
まるで、最初から、このコーナーが自分のために作られたように。
ゴールを駆け抜けた後、サンデーサイレンスはすぐには振り返らなかった。周囲の歓声も、他の出走者の視線も、気にしない。でも。
走ったぞ。
と、その目が、そう言っていた。
■
廃スタンドに、夕方の風が心地よく通り抜ける。
背中を柵に預けて座っていると、砂利を踏む音がひとつ、遠くから近づいてくる。
無造作に口を動かしながら、サンデーサイレンスがこちらへと歩いてきた。
「……チッ。待ってんじゃねぇよ、気色わりぃな」
くちゃくちゃと音を立てるガムと、吐き捨てるような声。だが、その歩幅には迷いはなかった。彼女は目の前で立ち止まり、無言で左手を突き出してくる。手のひらを、空に向けて。
「んだよ、ボケっとして。契約書だよ。早くよこせ、気が変わらねぇうちにな」
まったく、口の悪さは変わらない。
「オレは走った。お前の言った通りに走ったぞ。そして結果を出した。次はお前だ」
意地と覚悟が、彼女の眼に宿っていた。
「今、契約書をもってないんだ。校舎まで取り行くか」
サンデーの眉がぴくりと動いた。
「は?……オイ、オレがここまで来てやったのに、書類持ってねぇのか?」
サンデーは「……マジでキメェな」とつぶやき、その口調は苛立ちと呆れに満ちている。だが、一歩も引かない。突き出した左手も、そのままだ。
俺は立ち上がって、彼女のほうに左手を差し出した。
「よろしくな、サンデー」
一瞬だけ、サンデーの目が泳ぐ。そして唇が少しだけ緩んだ。でもすぐに、乱暴に顔をそらし、ふんと鼻を鳴らす。
ガムを吐き捨て、右ポケットから新しいガムを取り出そうとして、大きな舌打ちをした。
「チッ、ガムもうねぇじゃねぇか。……あーもう、しょうがねぇな!」
足を乱暴に踏み鳴らして、俺の差し出した左手には目もくれず彼女はくるりと背を向ける。だが、数歩進んだあと、ふと立ち止まり、振り返る。
「……少しでも遅れたら、オレ、帰るからな」
それだけ言って、スタンドを降りていく。
でもその背中は、最初にここで見たときよりずっと、軽やかだった。