曇り空、夏真っ盛りのなか、ふいに訪れた過ごしやすい日だった。
風もほとんどなく、前日の雨の影響でバ場は湿っていて少し重め。
「は?目標だぁ?」
コースの端でストレッチをしながらガムを噛んでいるサンデーに、目標を聞いてみた。
ガムを嚙む口がとまり、目を細めて眉がひそまる。最近知ったのだが、こういう時はあまり口を出さずに待つのがいいようだ。矢継ぎ早に言葉を重ねられるのは不快だと、ちょっと関わりながらなんとなく感じていた。
少しの間を置いて、サンデーは肩をすくめた。そして、ガムを舌の奥に押しやったまま、ぼそりと呟く。
「別に、勝てりゃそれでいい。でかいレースでも小せぇのでも、どっちでも。……けどよ」
そういって彼女は顔を少しそむける。普段の毒舌よりも、ほんの少し小さく、静かだった。
「サンデーサイレンスってやつ、なんかヤバかったよな。そう言われりゃ、まぁ……それでいいかもな」
サンデーは、ダートの上を走り始めた。逃げるように、ごまかすように。
誰かの心に、自分という存在を残しておきたいのだろうか。賞賛も敬意もいらない。どこにも馴染めなかった者が、名を刻まれることを望んでいる。
彼女にとって、レースは手段なのだろうか。己の、実在の証明のための。
コース上に少し風が吹いた。それに乗るように、遠くからウマ娘たちの掛け声と教官の笛の音が聞こえる。
コーナーを走るサンデーの右足が、砂をゆっくりと踏む。いつものように、内へとわずかに沈むように。
彼女は一周して俺のもとに戻ってきた。少し汗をかいているようだ。負荷をかけたらしい。
「で、今日はどうすんだ?」
一度見れば、誰でもわかる。サンデーサイレンスは、ダートしか走れない。
軽い芝の上では、その接地の重さが仇となる。スピードは出るが、どこかバランスを崩す。だが、ダート……特にバ場が重ければ重いほど、彼女の走りは冴える。
「ここからゆっくり走って、最後の3ハロンだけ追ってくれ」
サンデーはうなずいて無言で走り始める。
彼女はダートの砂を、掴むように走る。踏みつけるのでも、蹴り上げるのでもない。まるで一歩ごとに、地面と噛み合っているようだった。
内向いた右足が、スライドを防ぎ、地面にねじ込むような力を伝える。コーナーでは、右足が刺さるたびに遠心力が完全に地面に逃げる。
直線でも爆発的な末脚があるわけではないが、コーナーで加速した体をそのまま直線に持ってこれる。沈み込みながらグングンと伸びてくる粘着質な脚があった。
短距離では出力不足で、中距離ではスタミナが持たない。
サンデーは、わかりやすいダート向きで、最も輝くのはマイルだった。
■
夜、自宅で今後のことを考える。一つ、練習をする上で大きな問題があった。
練習相手がいない。
避けられている。完全に。
練習メニューを組んでも併走の相手が見つからない。
自主トレエリアで居合わせたウマ娘たちは、サンデーの姿を見た瞬間、距離を取っていた。
原因は明らかに日頃の行いだった。
授業無視、教官への暴言、同じ学生への舌打ちと冷笑……。聞いたところ模擬レースで職員に「遅せぇんだよゴミ」と発言したらしい。さすがにここまで酷いとは思っていなかった。嫌われる努力をしたとしか思えないレベルだ。
サンデーもサンデーで、何とかしようとする気概は一切ない。
『は?いらねぇだろ。どうせ誰かと並んで走ったって、オレが踏んだ砂が汚ねぇとか言うんだろ。もう飽きたわ』
人間不信になるにしても、今までどういう人生を送ってきたんだと思わざるを得ない言葉だった。
今日の昼間、彼女の担任の女性にもらった資料を見る。
授業の欠席、指導無視、教員との口論、他生徒との摩擦……ただの気難しい生徒では済まされない。俺が退学寸前という言葉を軽く見ていたことは否定できなかった。
全員に対して、サンデーが本物であるということを知らしめなければならない。レースで結果を出せば、実力が先に口を封じてくれる。口も態度も性格も悪いが、レースだけは強かったと。
そうやって、噂が悪評を食い破らせる。
サンデーサイレンスという名が、走りで語られるようにする。
種目別競技大会が確かそろそろあったはずだ。そこにエントリーさせよう。
きっとサンデーに伝えれば文句は言うだろう。
でも靴を磨き、レース中用にガムを新しく買って、しれっとゲート前に立つ……そういう娘だ。俺の初めてのアドバイスをしっかり実践したことからも、それは確かだった。
明日伝えよう。このレースが彼女の贖罪になることを信じて。
■
種目別競技大会当日、サンデーにたいして、一つ絶対条件を付けた。
「何があっても他のウマ娘を邪魔してはダメだ。接触も、威圧も、挑発も絶対にダメだ。いいなサンデー」
サンデーはガムを噛んでいた口を止め、ほんのわずかに眉をひそめた。
「オレがそんなにマナーの悪い走りしてたかよ」
「今回は、走りだけで圧倒的に勝てばいい。それが今後につながる」
サンデーはそっぽを向き、机に頬杖をつきながら不機嫌そうになる。
「……わかったよ、走りだけでぶっちぎってくる。誰も文句をいえねぇくらい、完璧にルールの中でな」
彼女は、無闇に誰かを蹴落としたいわけじゃない。ただ、誰かの隣を走る方法を、知らなかっただけだと、俺は信じていた。
サンデーはガムを銀紙に吐き捨てて俺に投げつけ、新しくガムを噛み始めた。
「ちゃんと見とけよ。文句のつけられねぇヤバさ、見せてやっから」
■
レースが始まると、サンデーサイレンスは迷いなくバ群の外へと進んだ。誰とも接触しないように、誰にも寄らせないように。バ群の流れに乗るでもなく、逆らうでもなく、ただ、誰のものでもないライン選び取るように。
コーナーに入る。通常、減速し、バランスを取り、身体を押し込むポイントだ。
だが、サンデーは加速した。身体を深く沈め、右足でしっかりと地面をつかむ。砂を穿ち、ねじれた関節が衝撃を受け止めて、反発へと変える。
通常なら、外へと逃げていくはずの上半身が、逆にコーナーの内側へと弾き返されていた。まるで彼女の周囲だけ、重力のベクトルがねじ曲がっているかのように。
身体を内へ、さらに内へと、吸い込まれるように押し込んでいく。
外から差す。
内を回ったウマ娘たちを、撫でるように追い抜いていく。だが、膨らまない。コーナーのほかのウマ娘を嗤うように、スピードを上げていく。
そして、直線。前はもう開いていた。後ろからは誰も来ない。来られない。
サンデーサイレンスは、その名の通り、音を黙らせて走り抜けた。
風も、声も、誰も彼女を捕まえられなかった。
周囲のウマ娘たちは、口を開けて彼女の背を見ていた。誰も邪魔されなかった。
誰も理不尽に怒っていない。ただ、負けたのだ。実力で。文句のつけようなどあるはずがない。
……完璧だった。バ群に絡まず、誰にも接触せず。けれど走りは、誰よりも獰猛で、美しかった。
■
風が冷たくなり始め、紅葉が美しく映え始めた秋。
廃スタンドは少し肌寒い場所になってきた。
例の模擬レース後、レースだけには真摯というイメージが何とかついてきたのか、併せ練習だけであれば何とか相手を確保できるようになり、それなりに練習ができていた。
そろそろ次のステップへと向かう時期だろう。
「……メイクデビューだぁ?」
「10月末の土曜日、新潟ダート1200m。一度短めのコースで試す」
サンデーの走りは、スタミナを問われる長丁場よりも、瞬発力と異質な加速で他者を圧倒するマイルでこそ異様さが際立つ、が、今のサンデーにはまだレースという場そのものに対する順応が必要だった。
バ群、歓声、スタートゲート……そのすべてが彼女にとっては敵対的な外界であり、少しでも長い距離を走らせれば、雑音の中で強みがぶれるかもしれないと、そう感じた。
ガムをくちゃくちゃと強めに噛んだ後、彼女は軽く肩を回した。
「……やっとか。このクソつまんねぇ学園生活の中で、初めて面白そうな予定が来たな」
フードをかぶり直して、彼女は背中を向け、スタンドを降りていく。
「場所はどこでもいい。勝てばそれがオレの場所になる。お前の名前で申し込んでんなら、ちゃんと責任とれよ、トレーナー」
■
「んだよクソコースじゃねぇか!」
新潟ダート1200mの開幕は芝スタートだ。
芝でほかのウマ娘が急いで前目を取り合う中、サンデーは足が滑るのか最後方からの立ち上がりとなった。
『全体は縦長、先行争いは3人横並び……その後ろに中団、さらにやや離れて後方集団。最後方にポツンと1人、サンデーサイレンス。まだ決定的な動きはありません』
前はもう、あっという間に遠ざかっていた。芝の短直線での押し合いは終わり、ダートに入った瞬間にはもう、彼女の視界には背中しかない。
小さくなっていく先頭の背、密集した中団、流れる後方。そのすべてのうしろ、いちばん底で、サンデーはひとり、走っていた。
向正面では何もしない。まるで定位置のように最後方を走っていく。だが焦りはない。目も口も、いつもと同じ。まるでまだ何も始まっていないという顔。
『メイクデビューらしく、各バとも様子を見ながらのレース運び。無理には行かず、折り合いをつけながら、コーナーへと向かっていきます』
ダートに変わった砂が、少しずつ脚を溜め始める。その重みが、彼女の脚から解放され、ほんのわずかにサンデーの姿勢が変わる。
身体を少し外に出し、重心が、内側へと傾き始める。
コーナーに入る。彼女が世界の法則を一つだけ捻じ曲げる場所だ。
膨らまないどころか、バ群の傍へと吸い付くようなコーナリングで、加速していく。コーナーすべてを使って、縦長になったバ群を追い抜いていく。
『おっと、サンデーサイレンス、少しずつポジションを上げてきました。第3コーナーから第4コーナー、バ群に沿うようにスピードを上げていきます。……これは、ずいぶん綺麗に回っています』
……第4コーナーと直線の間での出来事だった。
先頭でラチ沿いを走っていたウマ娘の進路へ、サンデーが被せるように進入した。
直線へ身体を向ける際に、あまりにも澱みのない方向転換は、コーナーで培ったスピードを一切殺さずに最短距離を走った。それがアダになった。
接触こそなかった。だが、進路を被されたウマ娘は明らかに驚き、本能から身体を無理矢理退いてバランスを崩した。隊列は乱れ、その一瞬の動揺が、レースの流れを変えた。
サンデーは、何も気にする様子もなく、そのまま直線を走り6バ身差でゴールを駆け抜けた。進路を被されたウマ娘は2着だった。
掲示板の上に、青いランプが点灯した。審議だ。
『……審議です。直線入り口での進路の動きについて、現在確認が入っております。裁定が下るまで、みなさま落ち着いて、お待ちください』
コースの出入り口付近にいると、観客席のざわめきが耳に届く。
「今の……斜行じゃないか?直線向いたところ」
「2着の娘、急にグッと身体を退いてたけど……」
「いや、ぶつかってないだろ。でも動きすぎた……よな?」
意図的ではない確信はあった。彼女はただ、いつも通りに最速のラインを選んだ。だが、そこにはもう、誰かがいたのだ。
サンデーはゴール後も息一つ乱さず、振り返って俺を遠くから見た。勝者の顔だ。だがその背後に、裁定の影が落ち始めていた。
■
ランプが、青から、赤に変わった。確定の赤い文字。
サンデーサイレンスの番号は、2着の場所に表示された。
斜行、進路妨害による降着処分。
勝っていたはずのレースは、公式記録としては敗北に終わった。
俺はそれを見届けて、呆けるサンデーの肩をたたいて控室へと向かう。
サンデーは無言でついてきた。表情は見えない。
控室に入って、追加のドリンクを飲ませながら、足のマッサージと軽い検診をする。
サンデーは、走った直後の熱をそのままに、張り詰めた顔で、ただ黙っていた。
「……いいか、お前は悪くない。このコーナリングができる時点で、しないほうが間違いなんだ」
サンデーはやや乱れた呼吸を整えながら俺を見ていた。
「は?オレが、間違ってない?2着のアイツ、ビビってたぞ?降着だって……」
「萎縮して引いた時点で、あいつに勝負の目はもうなかった。強いウマ娘なら、張り合って、自分からぶつかってでも進路を守るぞ。お前は、そういう奴にも譲るのか?」
沈黙。
そして、サンデーは、唇を噛みしめたまま、短く答えた。
「……譲るわけ、ねぇだろ」
その言葉には、怒りも後悔もなく、本能を感じさせた。
サンデーは勝負には勝っていたと俺は思う。あのレースで一番正しかったのはサンデーだと。あの場で、一番レースを知っていたのはサンデーだ。
彼女は、初めて、ほんの少しだけ、笑った。
「……オレ、もっとヤバい走りしてぇな。次は、ビビらねぇ奴とやりてぇ。ぶつかってきたら、正面から沈めてやるよ」
鼻で笑うような、意地の悪い笑いじゃない。フードの奥に浮かんだ、照れと誇りが入り混じった、ちっぽけな笑顔だった。
■
サンデーを1人控室において、職員の元へ向かう。職員は文句を言われるのかと少し身構えたが、決済レポートが出てるなら教えてほしいと柔らかく伝えると、少し安心したようにタブレットを見せてくれた。
『第1位に入線した5番サンデーサイレンスは、最後の直線コースで内側に斜行し、3番エーケレンハ(2位入線)の走行を妨害しました。このことについて、その走行妨害がなければ、5番サンデーサイレンスより先に入線したと認めたため、5番サンデーサイレンスを第2着に降着としました。』
6バ身差だぞとか、逃げた娘が身体を退いただけだろとか、思うところはあるが、ここで抗議したところで何かが変わるわけがないと知っていたので、職員に感謝を伝えて控室に歩いていく。
……見る目ないよな。誰も。