メイクデビューから半月後の未勝利戦。東京ダート1200m。
天気は晴れで良バ場。
スタートから一気に先団へ。誰とも接触しないラインを選びながら、ごちゃつく中団には目もくれず、滑らかにラインを変えながら前方を窺う。
他のウマ娘たちが減速し、重心を内に押し込む中、サンデーは外へと膨らむそぶりを一瞬見せたが、ぐい、と身体を内側に沈める。右足が深く砂に噛みつく。そのまま、ねじ込むように地面を押し返す。通常なら遠心力で外へ弾かれるその軌道を、彼女は、曲がりながら加速する。
ただ、自分の立ち位置から一番速い場所を、最も速いフォームで喰い破っていく。
コーナーから直線への切り替えもなかなかに澱みない。
サンデーは一度、肩を大きく揺らす。そこからはもう、踏み出すごとに砂を抱え、鞭のような脚が地を引き裂いていく。
一歩ごとに、追撃が消えていく。二歩、三歩、四歩。後ろの脚音はすでに遠く、直線はまるで独走のために用意された道だ。
差は、広がる一方だった。誰も彼女に近づけない。誰も、手が届かない。
最後は、8バ身差。サンデーサイレンスの圧勝だった。
やはり左回りでは話にならない。
もはや未勝利どころか上でも対抗できるウマ娘はいるのか。そういうレベルのパフォーマンスだった。
サンデーは汗ひとつかかずに出入り口まで戻ってきた。タオルを渡して控室に戻りながらレースのフィードバックを行う。
「次、早く用意しろ。……オレ、もっと上で走る準備できてっから」
サンデーの目に虚勢はなかった。ただ、正当に認められることへの欲求と、次の戦いへの、飢えがあった。
■
未勝利を勝った夜、自宅でPCに向かいながらコーヒーをすすった。
サンデーの今後の練習について思案する。
左回りのコーナーに関しては、もう口を出さないと決めた。俺の凝り固まった常識で口出しするよりも、彼女自身に試させ、考えさせ、掴ませる方がきっと速い。自分の無力を痛感しているし情けないが……今のサンデーには、それだけの余白がある。むしろ、俺が整備した道を走るより、まだ舗装されていない道を走る方が、彼女には向いているのかもしれない。
直線の走りは、まだまだ課題が多い。サンデーの加速はコーナーで生まれる。だがその勢いを、直線でどう持続し、どう押し切るかは、まだまだ荒削りなままだ。ジュニア期のうちは、まずはそこを重点的に強化していく。体幹とバランス、フォームと意識。鍛えれば、必ず伸びる。今はそのための下地を作っていく。
展開の読み合いについては……今のところ、まだ必要ないと思っている。
そんなものがなくても勝ててしまうのだ。破壊的なコーナリング、脚力、重バ場適性……どれを取っても突出している。実力差がありすぎて、読み合いが成立しない。
ただ、少し危うくもある。彼女がポテンシャルだけで勝てることに慣れすぎれば、いずれそれが彼女の限界になる。自分の勝ちパターンに固執すれば、他の戦い方を覚えようとしなくなる。
一度、右回りを走らせてみようか。サンデーは聡い。目の前の現実が、力だけではねじ伏せられないと知れば、必ず何かを掴もうとするはずだ。
■
ジュニア期最後のレースは、園田ダート1400m。兵庫ジュニアグランプリだ。
未勝利1勝程度では抽選になってしまうが、何とか突破できた。
園田は小さい。左回りなら気にしなくてよかったが、右の小回りとサンデーの足の相性は最悪と言っていい。さて、どこまで行けるか。
「チッ……わざわざオレの苦手そうなやつ選びやがって。お前、マジで性格悪いだろ」
そういってサンデーは控室をでてバ場へと向かう。今までの中央レース場と雰囲気は全く違うが、そこは気にならないようだ。今回はスクーリングも行っていないが、今回のような別に大事ではないレースであれば問題ないな。
「右だろうが左だろうが、結局オレが速けりゃ勝ちなんだろ?やってやるよ」
そんなにうまくいくだろうか……。
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結果は2着だった。
やはり右回りのコーナリングは絶望的で、直線で伸びのある末脚が炸裂しても、届かなかった。コーナーが大きくて直線の長い京都なら可能性はあったかな。少なくとも地方やローカルでは話にならなそうだ。
コーナーに差しかかる前までは順調。位置取りも悪くない。スピードも出ていた。だが、右足の内向き癖が逆に働くその瞬間、彼女の身体が、ほんのわずかに軸を崩した。
左回りではバネだったはずのそれが、右回りでは内側へのつっかえ棒となり、膨らむどころか減速すら引き起こしていた。観客なんて一瞬故障と勘違いしたほどだ。
最終直線はいい末脚だった。だが最後は届かず3バ身差で2着。
思ったより結果は良かった。直線に関しての練習は正解だったらしい。
「……オレ、右回り、ほんっとダメだな。脚は動いてんのに、地面が拒否ってくる……気持ち悪ぃ」
サンデーは控室でそういいながらドリンクを一気飲みした。
「サンデーの右回りははっきり言ってゴミだ。分かりやすくていいな」
「……おい。お前、いまゴミって言ったよな。トレーナーがウマ娘に向かって。訴えるぞ。全校放送で人格疑惑流してやっからな」
彼女はこちらを思いっきり睨む。琥珀色の双眸が威圧感を出すが、昔に比べてあまり恐怖は感じない。
「神様は世界最高の左回りをくれたんだ。それで十分だろう。左回りだけ全部勝てばいい。そうじゃないか?」
「んだよフォローのつもりか?煽ってんのか?……チッ。いいよ、左回りで全部勝ってやる。お前に乗せられてやるよ」
ガムを吐き捨て、サンデーサイレンスは、いつものようにフードを被り直して背を向けた。
「……次、早くつれてけよ。オレは強ぇ。だがそれだけじゃ勝てねぇって分かったからよ。満足か?」
やはりこの娘は聡く、そして意外と恥ずかしがり屋だった。
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年が明け、かなりの月日が流れ……2月も終わり頃になった。
サンデーは1月までは真面目に練習をしていたが、2月に入ったあたりから早くレースに出せと突っかかってくることが増えた。定期的にレースに出さないとカッカするタイプだ。日本のダートレースはかなり少ない。芝であればこの時期でもガンガン走ることはできるが、ただでさえ少ないダートレースの、もっと少なくなりやすいクラシック期限定競争となると本当にない。それに左回りしか走らない条件付きだ。正直言って、ほぼない。
次のレースは2月末のヒヤシンスステークスだと言ってなだめていたが、やはり我慢をさせるのは非常に大変で……正直、一番苦労したかもしれない。
控室ではサンデーは待ちきれないようでウキウキが身体中から漏れ出ていた。全員ぶっ殺すなんて物騒なことまでつぶやいている。
ヒヤシンスステークスは東京ダート1600mのリステッド競走だ。前走は2着だったが重賞扱いだったので収得賞金が加算され余裕で登録できた。
クラシック期最初のダートオープン競走なので、今後のダート本命を占うレースになる。つまりここに出る奴らは、有力な奴らということだ。
時間になったのでサンデーを地下バ道からコースへと連れていく。
……今日はかなりの雨だ。昨日は土砂降りだったので比較すればマシだが、ダートは不良。砂の上には水が浮いている。
周りでも複数のウマ娘たちが地下バ道を歩いている。無敗のジュニア女王、中央期待の重戦車型スプリンター、地方無双の怪物……兵庫ジュニアグランプリでサンデーに勝利した娘もいた。サンデーの戦績だけ見れば格上挑戦になる。
「ふーん、やっとオレを見てくれる奴らってことか。で、天気がこのザマ。足元ぐっちゃぐちゃ。……最高だな」
サンデーは控室より静かだった。ガムを噛みながら、身体を揺らすでもなく、淡々と靴紐を締め直す。
彼女の上げた顔をみて、俺は息が少し止まった。
「クラシック?格?知らねぇな。今オレの前にいる奴、全部踏み台にしてやる」
目が笑っている。興奮している。獲物を前にした獣の目だった。
「……サンデーサイレンスって名前、叩き込んでくるわ」
■
雨の中始まったレースは、あまりにも過酷なものだった。
ぬかるんだ地面が、各バの脚をじわじわと奪っていく。
前日の豪雨で水を吸ったダートは重く、浅い泥が表面に浮いていた。ウマ娘たちの足音も、いつもより鈍く、深く響く。雨や跳ね上がる泥が顔や視界を濁し、呼吸を塞ぐ。
期待の新星たちも、出力の調整に苦戦していた。
スタート直後から加速しきれず、足を地面から抜くだけで一苦労。ブレーキのかかったような走りになり、各バはいつものようには前に出られず、もどかしげに脚を動かしていた。
位置取りも、脚色も、展開も狂い始める。誰もが手探りで、重さに喘いでいた。
だが、その中でひとりだけ、沈まなかった。
ぬかるみに捕まるどころか、それを足場に変えるように、脚を押し込み、次の一歩へと繋げていくウマ娘がいた。
サンデーサイレンス。
芝スタートの出だしでは、明らかに足を取られた。滑るように最後方へと沈んでいき、観客たちはこのバ場で追い上げは無理だと視界から外した。
だが、ダートに入って間もない第3コーナー手前で、様子が変わった。
コーナーへと向かうその背に、重さの影響は見えなかった。
いや、むしろ使っているとさえ思えた。泥に足を取られるのではなく、泥を握りつぶすように、脚を押し込んでいく。
右足で地面を蹴るたびに、沈むはずの身体が逆に浮き上がるように加速する。内側へと強く傾いた姿勢が、遠心力を相殺し、重力のベクトルを曲げていく。
誰もが減速するはずのその場所で、彼女は加速していた。不良バ場とは思えない速度で。
第3コーナーから第4コーナーへ、脚をためる気配もなく、ただ喰らいつくように、牙を剥いて突き進む。
直線に向いた瞬間、その異質さは決定的になった。
他のウマ娘たちが息を乱し、泥に脚を取られながらもがいている中、サンデーだけが、ひと踏みごとに前へ出る。
泥を蹴るのではない。まるで泥を“抱き込む”ように、脚の裏で掴んで進んでいく。
一歩、一歩、その推進力が膨れ上がっていく。
誰もついてこられない。
実況席も、途中からその異常性に気づいていた。
だが、それを言葉にするよりも先に、差が開いた。
9バ身。
その数字が表示されたとき、実況はほんの一瞬言葉を失った。
レースが終わっても、誰も声を出さなかった。
砂と泥に塗れた彼女の背を、呆然と見送るしかなかった。
やがて、ぽつりとマイクが再び入る。
「……格が違います。あれが……サンデーサイレンスです」
戻ってきたサンデーは、泥まみれの髪を乱したまま、俺の前に立った。
袖や脛には、飛び散った泥がまだ湿ったままこびりついている。肩で息をするでもなく、目に汗を浮かべるでもなく、呼吸は静かで、体温さえいつも通りのように見えた。
だがその目は、確かに勝者の目だった。
「……なぁ、オレさ。いま、格付け終わったってことでいいか?」
静かな口調だった。けれど、確信に満ちていた。誰に遠慮するでもない、ただ事実を述べるような声音。
そして、唇の端がゆっくりと持ち上がる。
「次はもっと格上連れてきてくれよ。じゃねぇと、走ってても暇すぎて死にそうだわ」
勝ち誇るでもなく、威張るでもない。
ただ、純粋な飢えだった。
■
トレーナー室に、一足早い春の陽気が差し込む。3月になったばかりだが、今日だけは暖かいらしい。
ドアが開き、ほのかに土の匂いが混じる。サンデーサイレンスだ。
最近はもう珍しくもない。サンデーは練習が終われば、トレーナー室か、あの廃スタンドにいるようだ。
今日はトレーナー室の気分のようだ。俺が事務作業をしている横で、ガムをくちゃくちゃ噛みながら、椅子をくるくる回していた。
そういえばサンデーはアメリカ出身だったはずだ。
「ん?ああ、
「さすが、母国語なだけあって流暢だな」
「当たり前だろ。
後半は聞かなかったことにした。
彼女は向こうでも走っていたのだろう。中央トレセン学園に編入するほどだ。
「アメリカでもよく走ってたのか?」
「走ってたっつーか、逃げてた?まあ似たようなもんだろ。……教室で黙ってるとすーぐ標的にされるんだよな。そんで走って逃げると、すげぇな、とか言われんの。クソしょうもないだろ?」
サンデーは天井を見ながら笑った。その笑いは明るくもなく、沈んでもない。ただ、彼女にも過去があったことを強く印象付けた。
「ま、走るのは向こうで覚えた。でも本気で走るのは、こっちに来てからだな。……お前がいたから、ってのもあるし」
ガムの味が切れたらしく、彼女はそれを紙にくるんでゴミ箱に投げ入れた。
「なーんて、言っとけばさ、なんかいい話っぽいだろ。……オレ、そういうの嫌いだけどな。正直」
なんとなく、彼女は俺に大切な部分の一部を見せてくれた気がする。理由とか確証とかはないが、そんな気がした。
……よし、決めた。
「サンデー、最高の舞台を見つけたぞ」
サンデーは一瞬、俺の言葉の意味を測るようにまばたきした。そして、ガムを噛むのをやめて、口の端をちょっとだけ上げた。
「……オイオイ、なんだよそれ。まさか、いきなりG1とか言わねぇよな?いや言えよ。言ってくれ、むしろ」
呆れたような、でも明らかに期待の混じった目で、彼女は俺の顔をまっすぐ見ていた。
「アメリカのレース場は何回りか知ってるよな」
彼女は、トレーナー室の椅子に座ったまま、問いに眉をひそめ、くちゃりとガムを噛んだ。
「は?アメリカのレース場?そりゃ……全部、左回り……オイオイオイオイ!」
その瞬間、ガムの音が止まる。軽口を叩いていた唇が凍りつくように止まり、呼吸が一瞬だけ止まった。
次に動いた時には、サンデーは椅子を乱暴に蹴るようにして立ち上がっていた。
そして、声が漏れる。今までの人生で何度も傷つけられてきた故郷の名が、皮肉と驚愕と、少しの興奮を混ぜて、口をついて出る。
「お前、マジで言ってんのか?アメリカって……!距離は長ぇし、ペースはゴリ押し、バ場も環境も全部別モンだぞ?しかも、海外遠征?それもオレで?」
指先が小さく震えていた。恐れではない。これは、感情の加速だった。
歯の裏でガムを噛む力が強まる。サンデーは、笑った。
「……ハハッ、最高だろクソが」
彼女はきっと、自分の背を押されたのだ。誰よりも欲しかった、本気で期待された証によって。
日本での勝利。それはただの通過点にすぎない。格付けなど、とっくに済んでいる。
ならば次は、アメリカのクラシック三冠。世界最高峰のダート。
そこで、本物の意味を、誰の目にも焼きつける。
格付けの済んだ日本より、世界一でかい場所で。
「世界最高のダート三冠を獲りに行く。アメリカを、世界を、俺たちが格付けしに行くんだ」
拳を軽く握る。抑えきれない熱が、手のひらに宿る。
「いいぜ、乗ってやる。お前の言う先に、最高の舞台があるってんなら、全部ぶっ潰して……」
ガムを噛みなおしながら、サンデーサイレンスは、その名前が歴史になる未来を、まっすぐに睨みつけて、言った。
「オレの名前を刻んでやる」