サンフェリペハンデキャップ当日の、パドック裏の地下バ道。
コンクリートの壁に鈍い照明が反射し、ところどころ蛍光灯がチカチカと瞬く。冷たい空気が静かに流れ、靴音が鈍く響いた。
俺と、サンデーサイレンス。ウマ娘とトレーナー、たった二人だけの行進。
だが、その足取りには、異様なほどの重さがあった。
歩を進めるたびに、視線が突き刺さる。
係員の無言の横目。控室から漏れるスタッフの小声。
すれ違う他陣営のトレーナーたちの、あからさまな値踏み。
この空間において、俺たちはよそ者だった。
異国から来たというだけでも物珍しいのに、レース前会見には出ず、調整も一切非公開。
記者からは『逃げた』と書かれ、同業者からは『傲慢』と笑われ、ただ一つの情報さえも出さずに当日を迎えた異端の存在。
そんな空気の中、サンデーサイレンスは隣を無言で歩く。
いつものようにガムを噛んでいる音だけが、規則的に響いていた。
だが、その横顔は、いつもと違った。
視線は鋭く、どこかずっと先を見ていた。
肩の力は抜けているのに、身体の中心だけがしなやかに緊張している。口元は無表情のようでいて、わずかに上がっていた。
それは、不機嫌でも、虚勢でもない。狩りの前に息を潜める、猛獣の顔だ。
スタンドからの視線もまた、じわじわと降りかかってくる。記者たちが投げた見出しのせいで、彼女はすでに見世物になっていた。
「
「
スタンドの陰からひそやかに漏れる声。
どこを見渡しても、自分たちを真正面から見ようとする者はいない。みな、笑っていた。値踏みしていた。なめていた。
構わない。あとは、走るだけだ。
この地の土に、風に、騒めきに、走りを刻みつける。
すべてを、言葉じゃなくて走りでひっくり返す。
それが、サンデーのやり方だ。
■
乾いた西海岸の陽光が、赤土のダートを眩しく照らしていた。
スタンドからは熱気混じりの声援が降り注ぎ、ゲート裏では各陣営の関係者たちが緊張を押し殺すように見守っている。
ゲート前、9人のウマ娘たちがそれぞれに集中を高めていた。
呼吸を整え、軽く身を弾ませ、前を睨むその姿には、勝利に賭ける鋭い意志があった。
だが、サンデーサイレンスだけは違っていた。
ひとりだけ、無表情だった。
軽く首を回し、背筋をゆっくりと伸ばす。その動作には、研ぎ澄まされた緊張感というより、むしろ慣れすら感じさせる余裕があった。
ガムを噛む音だけが、乾いた風の中でかすかに響く。
そして、ゲートイン。
静寂が訪れる。
乾いた風が吹き抜ける一瞬の隙間、その数秒後、スタートのベルが鳴り響いた。
出遅れた。
明らかに、反応が一拍遅れた。
身体が前に出たときには、すでに他のウマ娘たちは一斉に飛び出していた。
サンデーは置かれた。半バ身、いや、1バ身。隊列がすぐに前方に伸びていく。
観客席がざわつく。実況席が慌ただしくなる。
『
『
アメリカでは致命的だ。
この地では、スタートで遅れた者に追いつくチャンスは限りなく少ない。
コーナーで脚を溜める猶予などない。すでにレースは、全力で始まっている。
だが、サンデーは動じなかった。
ただ静かに、滑り込むように加速を始める。
その背には焦りも、苛立ちもなかった。
まるで、今この瞬間をすべて想定内であるかのように。
内に潜り込むわけでも、無理に前を取るわけでもない。
彼女の身体は、ダートの土を吸い、蹴り返し、すでに重力の法則すら計算に入れているようだった。
土煙の向こう、わずかに低く身をかがめたその姿は獣だ。
本能と計算、静寂と爆発が、いま、同じ身体の中に共存している。
そして、舞台はコーナーを抜けて向正面へと入る。
……まるで、ほかのウマ娘がサンデーから逃げているように見えた。
サンデーが動いたのは、第3コーナーの始まりだった。
前の集団が、わずかに縦に間延びした一瞬のタイミング、その隙を、サンデーサイレンスは見逃さなかった。
乾いた赤土のダート。
砂ではなく、粒の荒い土をしっかり噛みしめるように、脚が、爆ぜた。
まだ直線ではない。
まして、誰もスパートの合図など出していない。
だが、サンデーの脚は、明らかに次の段階に入っていた。
第3コーナー。
多くのウマ娘が外へと膨らみ、必死にバランスを保つことに専念する場所で、彼女だけが、まるで違った。
重心を低く、わずかに体を傾けながら、内ラチすれすれを滑るように走る。
まるで、風が内側へ吸い込んでいくかのような、異様なコーナリング。
観客席がざわめき、実況席の声が急激に上ずった。
『
一歩ごとに、土が跳ね、後ろのウマ娘たちの視界が塞がれる。追い越されていく者たちは、目を疑った。
彼女が走っているラインは、通常のレースなら誰も選ばない危険な最短距離。だが、サンデーはそこを、まるで自分の庭のように迷いなく走る。
先行バたちは膨らんでいく。その外側を誰かが回ってくると予測していたはずだった。
なのに、彼女は内を裂いてきた。
残り300m、気づけば、すでに先頭に立っていた。
スタンドの歓声が、一瞬だけ、凍りついたように静まる。
観客の常識が、いま、崩れ落ちた。
『
誰かが、理解できないというように頭を抱える。
誰かが、興奮して拳を握る。
誰かが、ただ呆然と、彼女の背中を見ている。
差しでもない。先行でもない。
サンデーサイレンスはただ一人、別のレースをしていた。
力だけではない。
戦術でもない。
理不尽なまでのコーナー制御と、噛み合った脚力。
それだけで、レースを、サンタニアパークを、捻じ伏せていた。
最後の100mは振り返るまでもない。誰も、ついてこられない。
4バ身差の圧勝だった。
■
スタンドがざわめく中、勝者サンデーサイレンスが表彰台へと誘導される。
しかし、息を整えながら現れた彼女は、関係者の拍手にも、カメラのフラッシュにも一瞥もくれず、ステージ中央でガムをくちゃくちゃと噛みながら、吐き捨てるように言った。
「
場が凍りついた。
司会者の苦笑、スタッフの焦り、インタビュアーがマイクを出すよりも早く、サンデーはくるりと踵を返し、ウィナーズサークルを無言で立ち去った。
俺はその背中を一瞬だけ見送り、深く、ため息をついた。
もうちょっと愛想よくできれば、俺も楽なんだけどな。
軽く頭をかきながら、代わりに司会の前へとでる。
集まるメディア。急遽差し出されるインタビューマイク。
ちょっとは申し訳ない感じでやるか。
■
──
「起きたことは、ただひとつです。彼女が彼女らしく走っただけです。それが、たまたま誰にも止められない速さだった。それだけです」
──
「……彼女の言葉が不快に感じられたなら、トレーナーとして謝罪します。ただ、彼女は、今日この場所で結果を出しました。……走りだけは、どうか見てやってください。あれが、サンデーサイレンスです」
■
カリフォルニアの空が赤く染まり始めた頃、クレモントの会議室にサンデーサイレンスのチームが集まっていた。
サンデーはいない。いるのは大人たちだけ。誰もが無言のまま資料に目を落とし、時折、湯気の立つコーヒーに手を伸ばす。
部屋には、戦場前夜のような緊張感があった。
その空気を断ち切るように、俺はホワイトボードの前へと歩き出す。
壁際に無造作に貼られたレースカレンダーの下に、黒いマジックでひとつのレース名を大きく書いた。
『Santa Anita Derby(G1)Dirt 1800m』
一瞬、空気がぴんと張り詰めた。
西海岸最大の登竜門にして、ケンタッキーダービーの最重要前哨戦。
三冠前の最後のレースだ。このレースの後、ケンタッキーダービーへと進む。
「まるでアファームドですね……」
ぽつりと呟いたのは栄養士。年季の入った手帳を捲りながら、過去の名バの戦歴を思い出していた。
「ハッ!じゃあ三冠ウマ娘アファームドにあやかって8バ身差だな!」
医療スタッフが吹き出すように言い、場にわずかな笑いが生まれる。
サンデーが見たら、「足りねぇ」とでも言いそうだと、誰かが言った。
だが笑いはすぐに収まり、再び視線がホワイトボードに集まる。
そこに書かれた文字の重みは、それほどに大きかった。
勝ちさえすれば、道は開く。
だが、それは勝てればの話だ。
相手も、コースも、天候も。何一つ、味方するとは限らない。
ミリア主任が腕を組みながら、黒人分析官に低い声で問うた。
「作戦は?」
「……ない。相手を調査したが、この程度で作戦なんて時間の無駄だ。環境への最適化を続けるべきだと思うね」
俺はそれを聞きながら、ふと窓の外を見た。
赤く沈む空の向こう、サンタアニタパークの方角がわずかに見える。
誰もが見くびっていたウマ娘が、本気で世界に噛みつく。
その時が、もうすぐそこに来ている。
■
【
【──
誰の署名もない。日付すらない。
だが、それだけで全てを伝えるには十分だった。
ざわ……と、部屋の空気が揺れる。
「またかよ。あの『Silence』って名前は伊達じゃないな……」
「出遅れて勝って、暴言吐いて帰って……。それで今度も前日会見もなし?」
記者の一人がぼやくと、別の者がコーヒー片手に返す。
「まあ、黙って走る方が記事になるってわけだ。『
「
壁際の記者が、ふと視線を遠くに向けて呟く。
「でも……明日負けたら、全部終わりだ。三冠挑戦も、サンデーサイレンスって名も、話題だけの徒花になる」
静かにコーヒーを置いたベテラン記者が、短く返す。
「……なら、ちゃんと見届けて書けばいい。アファームド以来だな、この雰囲気は」
誰も笑わない。誰も言い返さない。
その場にいた全員が、それを否定できなかった。
ホワイトボードの横には、サンデーサイレンスの前走の勝ち時計が、小さな字で……誰かがマジックで書いたまま、消されずに残っていた。
【1:42.60】
出遅れて、あの時計。
記者たちの中で、何かが確かに動き始めていた。
アメリカの時は登場人物はもれなく英語で喋ってるので、わざわざ英文書かなくてもいいかなって思い始めてます。でも雰囲気出るんですよね。なんとなく。