黒き福音   作:カサンドラ伊佐美

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Santa Anita Derby(G1)

 レース前のパドックにて、場内がざわついた。

 

…Wait, is that her?(あれ、あの子……)

Is she really wearing a tracksuit over her silks...?(え、勝負服の上にジャージ……?)

 

 ざわめきの中心に現れたのは、サンデーサイレンスだった。

 漆黒の勝負服の上から、臙脂色のジャージを羽織ったまま。フードは被らず、長い黒髪を風に泳がせ、ガムを噛みながら無言で歩く。

 

 その歩き方は、あまりにも自然で、あまりにも不遜だった。

 まるで、ここが自分のテリトリーであるかのように。

 まるで、他の誰一人、自分の相手にならないと言わんばかりに。

 

 他のウマ娘たちが思わず立ち止まり、目を奪われた。関係者が何かを言いかけ、手を伸ばしかけるが……彼女は一切気にしない。

 堂々と、一周。バ体チェックなど最低限で、歩幅は乱れず、視線は決して下を向かない。

 

 そして、ひとつ息を吐くと、サンデーはくるりと踵を返した。

 

Hey, wait a sec─!(……ちょ、ちょっと!)

 

 止めようとした係員の声がかすれる。

 その目を、サンデーが見返す。

 

 係員の体が凍った。

 

 彼女の眼は、血の色を思わせるほどに鋭く、冷たい。ただの不機嫌ではない。怒りでもない。

 それは獣の目だった。

 今にも、誰かに喉笛を喰いちぎらんとする、飢えた猛獣の目。

 その場にいた係員は、まるで本当に牙を突き立てられるような錯覚に襲われ、言葉を失った。

 

You got eyes, right?(目ぇついてんだろ?) You saw it.(見たよな。) Now back the hell off(じゃあ、とっとと引っ込んでろ)

 

 唇だけで笑ったような彼女の声に、誰も何も返せなかった。

 強がりでも、反抗でもない。あれは、本物の狂気だった。

 

 乾いた笑みと共に、サンデーは背を向ける。

 その背は軽やかで、だが見る者すべてに言い知れぬ圧を残した。

 

 ガムを噛む音だけが、乾いた風の中に消えていく。場内には、置いていかれたような視線と、妙な静けさが残った。

 

 まるで嵐の前の、沈黙だった。

 

 ■

 

 ミリア主任は、控室のソファに深く腰を沈め、こめかみを押さえた。

 頭が痛い。文字通り、痛い。

 

 最初にサンデーサイレンスを見たとき、まぁ、よくいるティーンの少し反抗的な娘だと思っていた。

 不器用で、繊細で、ちょっと口が悪いだけ。時間をかけて慣れていけば、どうにかなるだろうと。

 

 だが今は確信している。

 これは気性難だ。しかも、歴代最悪級のやつだ。

 

 会見拒否、ウィナーズサークルでのアレとしか言いようのない発言、そして今日のパドック。

 ガムを噛みながらジャージ姿で現れ、最低限だけ流して帰っていくとか、前代未聞にも程がある。

 

 記者たちの視線が刺さる。審判団からの問い合わせも来ている。

 

「問題行動ではないのか」

「ペナルティ対象にはならないのか」

 

 なぜ私が、こんな地雷処理みたいな真似を……。

 

 そして、問題児はひとりではなかった。

 

(……あの日本のトレーナーも、よ!)

 

 秋トレーナー。名前は「アキ」と発音するらしいが、ミリアにとっては混乱の源でしかない。

 

 本人が嫌がるから、と言って前日記者会見を2度連続で紙一枚の声明で済ませた。

 今回に至ってはG1だ。サンタニア屈指の由緒ある大レースだぞ!?

 

 しかもその声明文には「レースがすべてです」などと書かれていた。説明責任という言葉を知らないのか。そんな姿勢がサンデーにも伝染してるんじゃないのか。

 

 ミリアはため息をつきながら、天井を仰いだ。

 

(ああもう、あのクソ理事長……!なんでこんな狂った2人を寄越してきたのよ!?)

 

 クレモントは、かつて冷静な理論と調和の拠点だった。

 それが今や、暴走機関車と野性動物の居場所になっている。

 火薬庫の上で綱渡りをしているような毎日。

 そしてその『安全管理責任者』は、ほかならぬミリア自身だった。

 

 冗談じゃないわよ、と彼女は心の中で何度も繰り返した。

 

 ■

 

 場内は快晴。雲ひとつない青空が、広大なサンタニアのレース場を覆っていた。

 乾いた風が吹き抜け、灼けるような赤土のダートを撫でる。陽射しに照らされたその表面は、遠目に見ればまるで炎をまとったような眩しさだった。

 

 各ウマ娘たちが、ゲート前で静かに蹄鉄を鳴らす。集中と緊張が混じりあい、空気がピンと張り詰める。

 

 漆黒の勝負服を着て、黒い耳飾りを揺らしながら、サンデーはゆっくりとゲートへ歩み寄る。その姿に、観客席からざわめきが漏れた。

 

 ゲートイン完了の合図が場内に響く。

 

 スタンドの騒音が一瞬引いたように感じた。その静寂のなか、ひとつ、控え室のモニターの前。

 

 俺は拳を握るでも、息を詰めるでもなく、ただ静かに、まぶたを閉じていた。

 

 あれこれ考える時は、もう終わった。

 信じている。全てを預けられる存在が、いまゲートの中にいる。

 

「……行け、サンデー」

 

 ■

 

 ゲートが開いた瞬間、赤土が小さく跳ねた。6人のウマ娘が一斉に飛び出す。サンデーサイレンスは、ほぼ完璧なスタートで3番手に位置を取った。

 鋭く前を睨みながら、まるで余裕すら感じさせるフォームで第1コーナーへと入っていく。

 

 隊列はそのまま向正面へと流れ込む。先頭2頭の競り合いにも、後続の様子見にも目もくれず、サンデーはピタリと3番手をキープした。風の音だけが耳を過ぎる。

 何の変化もないまま、第2コーナー、そして第3コーナーへと進入。

 だが、その瞬間だった。

 

 彼女がふいに、進路をわずかに外へとずらす。ほんの一瞬の隙に、ためらいもなく加速した。

 

Wait—Sunday Silence moves!(おっと、サンデーサイレンスが動いた!) She’s swinging wide(わずかに外へ!), going around the leaders!(先頭を包むように仕掛けていく!)

 

 観客席がざわめく。実況の声が高く跳ねた。

 

 サンデーはまるで砂を滑る刃のように、外側から2頭をあっさりと抜き去っていく。無理をしている様子は一切ない。ただ、静かに、速い。

 

 第4コーナーに入る前にはすでに先頭。そのまま、まるで逃げるように、いや、引き離すように、直線へと飛び出した。

 

 背後にいたはずのウマ娘たちが、みるみるうちに小さくなっていく。

 

She's taken the lead(先頭に立ちました!)—by two lengths—three(2バ身、3バ身、)—it's growing!(差が開いていく!)

 

 後続の脚が止まっているのではない。単純に、サンデーが速すぎた。

 

 5バ身、7バ身。

 差は開く一方で、観客席からは悲鳴のような歓声が上がる。

 

 そして、ゴール板を駆け抜けた。

 

ELEVEN LENGTHS! ELEVEN!(11だ!11バ身差!) Sunday Silence(サンデーサイレンス) DOMINATES the Santa Anita Derby!(、サンタアニタダービーを圧勝!)

 

 レコードでもなければ、展開利でもない。ただ、能力で粉砕した。

 ゴール前でガムを噛んだまま、首すら振らずに駆け抜けたその姿は、ただひとつの印象を残した。

 

 異物。

 

 見ていたものの常識そのものを、今まさに塗り替えた。

 

 ■

 

 レースから数分後。

 

 場内はまだ熱に浮かされていた。観客のざわめき、途切れない拍手、ざらついた砂煙が舞い上がる午後の空気。

 すべてが、さっきまでの出来事を否応なく物語っていた。

 

 ウィナーズサークルでは進行スタッフが慌ただしく動き、トロフィーや花飾り、スポンサーのプレートがずらりと並べられていた。報道陣も最前列に陣取り、満を持してその瞬間を待ち構えていた。

 

 だが。

 

Ain’t even a fair fight.(勝負にならねぇ)

 

 それは、マイクに拾われなかった。が、ただその場にいた者の鼓膜に、静かに、だが強烈に焼きついた。

 

 黒い勝負服のウマ娘が、肩をすくめるようにひとこと吐いて、踵を返した。無表情。振り返りもせず。ガムをくちゃくちゃ噛みながら、誰の視線も気にせず、その場を立ち去る。

 

 まるで勝つことすら、予定調和だったかのように。

 

 現地のカメラマンが慌ててフォーカスを合わせ、関係者たちが凍りついたように立ち尽くす。目の前で起きている異常を理解しようとするには、あまりにも、彼女の背中が堂々としすぎていた。

 

 俺は一歩前に出て、進行スタッフやメディア関係者に向けて申し訳なさそうに頭を下げる。

 カメラマンが、戸惑いを隠せない表情で確認する。

 

She's... not joining the photo?(彼女……記念写真には?)

Yeah, that’s not gonna work. That’s just how she is.(無理ですね。ああいうやつなんで)

 

No manners at all(礼儀知らず)...」と呟く記者がいた。

Thinks she’s some kind of star, huh?(スター気取りか)」と小さく舌打ちする関係者もいた。

 

 だが、その誰もが、次の言葉を飲み込んだ。

 

Well(まぁ)... she did win by eleven lengths(11バ身差だしな)

Yeah... that wasn’t a race(……勝負にならなかったな)

 

 溜息は、やがて小さな納得に変わる。怒りでも呆れでもない。ただ、敗北を受け入れる者の静かな吐息だった。

 ウィナーズサークルに取り残された俺は、もう一度深く頭を下げる。

 

 彼女の言葉が粗くとも、今日の走りがすべてだと。あれが、サンデーサイレンスの流儀だと伝えた。

 

 記者たちは黙って頷いてくれた。

 

 彼女は舞台に立ち、言葉ではなく脚で語った。

 それ以上の説得力は、どこにもない。

 

Ain’t even a fair fight.(勝負にならねぇ)

 

 あれは、暴言でも誇張でもなかった。ただの事実。残酷なまでに圧倒的な、黒い真実だった。

 

 ■

 

 白い蛍光灯が照らす会議室。

 サンタアニタダービーから2日後、遠征チームは再び全員を集めていた。

 テーブルの上には最初の一冠、ケンタッキーダービーに向けた資料と、全米の有力ウマ娘の戦績が並ぶ。

 

 椅子をきしませながら、黒人分析官が口を開いた。

 

「サンタニアで三冠ウマ娘アファームド超えのレース。俺は敵なしだと思ったんだが……」

 

 彼はぼやきながら、1人のウマ娘のレース映像をモニターに映し出した。

 赤銅色の光を放つ栗毛のウマ娘。完璧な均整の取れた体幹。ひとつも乱れぬストライド。

 

 イージーゴア。

 

「昨年の全米最優秀ジュニア。セクレタリアトの再来とまで言われている少女だ。サンタアニタダービーと同日、ニューヨークのゴーサムSで、直線だけで13バ身。ラスト400mは……サンデーの比じゃない」

 

 誰かがごくりと息を呑んだ。

 

 最終コーナーを7番手で回ってきたイージーゴアが、まるで時空を切り裂くように突き抜けていく。

 脚色が違う。躍動感が違う。美しさと破壊力が両立していた。

 

「いわゆる、王道の走りだ。東海岸は湧いてるよ。『this is the one(これが本物か)』──とさ」

 

 黒人分析官が資料を手渡すと、手元のプリントにはイージーゴアの詳細が書かれている。

 サンデーとは正反対。秩序と品格の象徴。

 ミリア主任は息を吐く。無言のまま、眉間にしわを寄せた。

 

「……まるで『The chosen one(選ばれし者)』みたい」

 

 栄養士がそうつぶやいた。

 

 イージーゴア。確かに選ばれし者という言葉が似合う存在だった。

 

 ……だからなんだ。砂でも泥でも、喰らい付いて噛みちぎる。それがサンデーサイレンスだ。

 相手がどれだけ王道を征こうとも、それを破壊するだけの力がサンデーにはある。

 

 やっと、勝負になる相手が出てきた。

 

 その場にいた全員が、次の三冠戦線が、歴史に残る激突になることを、肌で感じていた。

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