黒き福音   作:カサンドラ伊佐美

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Kentucky Derby(G1)

 最初はロイの気まぐれだった。

 

「おいミリア、来週から一人受け入れるぞ」

「はぁ?急すぎるわ。なによ」

 

 ロイが相も変わらず、皺だらけのにやけた面でこちらにクリップ止めされた書類の束を寄越す。

 『Sunday Silence』と書かれた表紙。過去のレース成績と、測定データ、そして彼女の体操服姿で多角的に撮られた写真が複数。

 

「……これ、受け入れるの?」

「ああ、昔の知り合いの娘の頼みでね。三冠のサポートだ」

「はぁ?三冠!?」

 

 私はもう一度写真を見直す。貧相な上半身、ボロボロで細い足。

 そして何より、異様に婉曲した右足の軸。

 

 正直言って、見るだけで不快だ。

 

「時間の無駄ね。ロイ、あなたの仕事は道楽じゃないのよ」

「ミリア。効率的に物事を決めようとするのは君の長所だが、早々に結論を出すのは短所にもなりうる。君がティーンの時から言っているだろう?」

「口うるさい爺さんね」

 

 翌朝、仕事場に来るとロイは勝手にすべての予定を決めていた。

 私だけでなく、医師のライアン、栄養士のジェシカのスケジュールまでもがびっしり埋められている。

 

「ロイ!時間の無駄って言ったでしょう!」

「じゃあ仮でいいさ。サンタアニタダービーを勝ったら確定ってことでな」

「勝つわけないでしょう!こんなハンガーみたいな足でコースは走れない!」

「そう、だからレースは面白いんだ」

 

 ロイは皺だらけの顔をより皺くちゃにしながら笑った。昔と変わらない、飄々とした笑顔。

 この黒人は私が子供のころから、いつだって突発的に何か変なことをする。

 今回も満足するまで付き合うほかないようだ。

 

 一週間後。

 ロイとともに空港に身の程知らず二人を空港に迎えに行った。

 足の曲がったケンタッキーの田舎娘と、赤土未経験で今週末のGⅡに出すという狂った計画を立てた無知なトレーナー。

 ため息を押し殺しながら彼女らを後部座席に乗せる。

 困ったものだが、少なくとも彼らが現実を知るまではサポートしよう。ロイもそれで満足するはずだ。

 

「……ロイ、楽しそうね」

「ああ、スウィングしてるよ。久々にね」

 

 ロイはいつも通りジャズのCDを車内で流す。

 相も変わらず同じ曲。退屈ね。

 

 ■

 

 サンデーサイレンスは化け物だった。

 文字通りの、常識外れ。

 

 特に目を引いたのは高速のコーナリング。加速しながらも、内ラチにピッタリ沿って走れている。

 しかも走っているのはクレモントで一番小さいコーナーだ。あれはアメリカのどのコースよりも半径が小さい。それを易々と、駆け抜けている。

 

「なぁ?面白いだろう?」

 

 双眼鏡を構えながらロイはそうつぶやく。声には喜びが隠しきれていない。

 

 なぜ、走れる?なぜ、あんなに歪んだ右足でスピードが出る?なぜ、あれほどの安定感でカーブを抜けられる?

 おかしい。私がこれまでに培ってきた知識が当てはまらない。

 

「ウマ娘にとって足が曲がることは呪いだ。だが、あのDrowned Rat(濡れネズミ)には祝福のようだな」

 

 ロイはここ最近で一番の上機嫌でサンデーサイレンスを見ている。

 

 私は間違っているのだろうか。

 彼女の速さを見れば見るほど、何かが壊れてしまうような感覚があった。

 

 ■

 

 ケンタッキーダービー。その名の通り、舞台はケンタッキー州だ。

 そして、サンデーの生まれ故郷。

 

「懐かしくもねぇな。オレの生まれはレキシントンより向こうだ。ルイビルなんざ知らねぇよ」

 

 吐き捨てるように言いながらサンデーは空港の外を歩いていく。今日は土砂降りだ。アスファルトを叩く雨粒の音が、なんとも言えない疎外感を感じさせる。

 

「ケンタッキーって言えば、ウマ娘が多いイメージだな。あとウィスキー」

「そーだな、オレの周りにも大量にいたぜ。クソッタレなウマ耳どもがよ」

 

 彼女は笑っていたが、目は笑ってなく、諦観を感じさせた。

 

 今週末には三冠最初の戦いというのに、サンデーは静かだ。

 この大雨のおかげか、それともサンデー自身がケンタッキー州に何か思うことがあるのかもしれない。

 少なくとも、いつものサンデーではない。いつもならもっと威勢がいい。

 

「なぁ、秋」

「なんだ」

「お前……あ〜、やっぱやめだ。忘れろ」

「なんだ、気になるな」

「いい、ここで聞くことじゃねぇ」

 

 それっきりサンデーは黙ってしまった。やはり今のサンデーは少し何か違和感がある。まぁ何かあれば自分から言うだろう。

 今は雨粒の音を聞きながら、ただ歩くだけだった。

 

 

 ケンタッキーダービー前日というのに、雨はやまなかった。

 サンデーは今頃、自室で寝ているだろう。調子は良さそうだ。少し、物思いにふけることが多くなったが。

 

「秋トレーナー、サンデーサイレンスは?」

「会見には来ません。そういうヤツですから」

 

 レース前日の公式会見。ドアの向こうでは、別のウマ娘とトレーナーが記者たちに囲まれている。フラッシュの光がガラス越しにちらつく。

 もうすぐ、次の順番だ。

 

 ドアが開く。

 イージーゴアと、そのトレーナーが出てきた。

 

 ……これがセクレタリアトの再来。

 実際に目にするのは初めてだが、高いレベルで完成している。そんな印象を受ける。

 整った顔立ち、美しい姿勢、平均より少し大きい体格、無駄のないバ体。

 これが、東海岸の寵児。

 

 イージーゴアは俺を見て、少しだけ頭を下げて、まっすぐ廊下を歩いていく。

 ジロジロ見るのも良くないだろう。一度目を伏せ、顔を上げると、彼女のトレーナーと目が合った。

 おそらく40歳くらいの茶髪の白人女性。目つきは鋭く、身なりは気品と気高さを醸し出している。

 

 緊張感が走る。挨拶はしない。目礼すら。お互い視線を切ったのはほぼ同時だった。

 

 どうせ、嫌になるほど顔を合わせることになる。勝っても負けても、この先しばらくは。

 

 ■

 

『「勝ちに来ました。」秋トレーナー、たった1人の記者会見』月刊トゥインクル

Confidence in Stillness(静けさの中に確信あり。)Easy’s Team Unmoved by the Storm.(イージーゴア陣営、揺るがぬ構え。)』The New York Standard

 

One Race, Two Americas(1つのレース、2つのアメリカ)』The American Sentinel

 

 ■

 

 ケンタッキーダービー当日。チャーチルダウンズレース場は異質な空気が支配していた。

 曇天、雨は上がったが底冷えは残り、気温は5℃ほど。ミリアの話では例年は15℃程はあるというから、これは異常だった。

 足元は連日の雨の影響で完全に泥になり、赤土はねばりついている。ここ数年でも群を抜いて最悪のコンディションだ。

 だが、それらをかき消すほど、観客の熱気がレース場を満たしていた。パドック周回が終わっても歓声は衰えることを知らず、スタンドからは途切れのない熱気が放たれている。

 

「EASY GO! EASY RUN!」

「SUNDAY! YOU CRAZY GIRL!」

 

 人気は完全に二分していた。

 前年の最優秀ジュニアであり、前走のゴーサムステークスでは直線だけで13バ身を叩き出した一番人気のイージーゴア。

 西海岸で連戦連勝、圧倒的なパフォーマンスを見せる二番人気のサンデーサイレンス。

 

 だが、チャーチルダウンズレース場はあまりにも、ただのファン同士の対立にしては、あまりにも。

 

「THIS IS EAST! WE DON’T BREAK!」

「WEST DOESN’T BOW!」

 

 あまりにも、熱気がこもっていた。

 

「うざってぇ……」

 

 サンデーはベンチコードに体を沈め、フードから出たウマ耳をぺたりと伏せた。冷たい空気に鼻を鳴らしながら、ガムを噛んで目をつぶる。

 

「オレを東西対立の記号みてぇに扱いやがって。ゴミどもが」

 

 イージーゴアは東海岸の英雄だ。名家に生まれ、幼い頃から英才教育を受けてきた、超一流になるべくしてコースに立つ、選ばれし者の体現者。

 対してサンデーは西海岸で名を挙げた。ケンタッキーダービーの田舎から、実力だけでのし上がったアメリカンドリームの体現者。

 どこまでも、この二人は対照的だった。

 

 サンデーはゆっくりと立ち上がり、コースの外ラチまで歩いていってから、投げるようにこちらにベンチコートを放った。

 

「おい、秋。オレはちゃんと格付けしてくっからよ」

 

 フードを被ったままだが、琥珀色の相貌は美しく、そして獰猛に細められた。唇の端がにやりと上がる。

 

「全員、ぶっ殺していいんだよな?」

 

 ■

 

 サンデーは、ゆっくりとゲートに入った。その横で、イージーゴアも静かにゲートへと進む。動きに迷いはない。

 

 静寂。観客の咆哮が遠のき、チャーチルダウンズ全体が息を止めた。曇天の下、泥の匂いと冷気だけが漂う。

 サンデーはフードを脱ぐ。黒い髪が揺れ、口角が吊り上がり、嗤った。

 

 ゲートが開く。

 スタートは平均的。

 

 全員が最短距離を求めて内へ流れ込む。サンデーも好位を取ろうと切り込むが、隣のウマ娘と進路が被った。

 

「邪魔すんじゃねぇ!」

 

 サンデーサイレンスは譲らない。肩を入れ、肘を押し込み、泥を蹴り上げて、相手の進路を強引にこじ開ける。

 

Sunday Silence (サンデーサイレンス)and() Triple Buck (トリプルバック)make contact!(が接触!)Triple Buck drops back!(トリプルバックが後退する!)

 

 実況が叫ぶ。スタンドの歓声が再び爆発した。

 

Easy Goer sits three lengths(イージーゴアは先頭の) behind the front-runner, Irish Actor!(アイリッシュアクターから3バ身後方!)Sunday Silence another length behind(サンデーサイレンスはそのさらに後ろ!) as they head for the first turn!(そのまま最初のコーナーへ!)

 

(イージーゴアは目の前、まだ最初のコーナー。今日は地面は泥だらけだ。第3コーナーまでこのまま走る)

 

 サンデーは事前に取り決めておいたレースプランにしたがって走っていく。

 最初にちょっとしたハプニングはあったが、気にすることはない。

 

 イージーゴアは広いストライドで悠々と3番手として追走している。

 そして向正面の中ほどで、イージーゴアが一度後方に目線をやった。

 サンデーと目が合う。

 

Irish Actor takes (アイリッシュアクターは)them into the third corner!(そのまま第3コーナーへと入っていく!)Easy Goer right behind,(その後ろにイージーゴア、) and Sunday Silence in close pursuit!(そしてサンデーサイレンスが追走!)

 

 イージーゴアは少しスピードを出して先頭のアイリッシュアクターの横につける。

 サンデーは仕方なく二人分も身体を外に出そうとして、後ろの足音に気付いた。あまりにも近い。泥を踏み越える音が、首筋をかすめた。

 

Easy Goer draws up to Irish Actor— (イージーゴアがアイリッシュアクター)they’re head to head!(とハナを争う!)From behind, Northern Wolf is coming on strong!(後ろからノーザンウルフが上がってきた!) She’s moving up on the outside of Sunday Silence!(サンデーサイレンスに外から並びかける!)

 

(あのクソアマ!他の奴を使いやがった!)

 

 このまま外に出せば接触は間違いない。だがこのコース取りでは横並びになっている前二人が邪魔で、出れない。前も横も塞がれてしまった。

 

(上等だ!)

 

 サンデーはそのままイージーゴアの後ろを走ることを選択した。

 ノーザンウルフがサンデーを抜き、イージーゴアの横に並んだ瞬間、サンデーはコーナー外へと跳ね出した。

 イージーゴアは足音をそれで察知し、少しスピードを抜いて後退する。

 サンデーサイレンスにしかできない、超高速のコーナリングが始まる。

 

Around the final turn — Irish Actor and Northern(第4コーナーでアイリッシュアクターと) Wolf battling for the lead!(ノーザンウルフが争う!) Sunday Silence coming up fast!(サンデーサイレンスが上がってきた!)Easy Goer saving her stride on the inside!(イージーゴアは内側で脚を溜めている!)

 

 直線に向いた瞬間、サンデーはコーナで培った速度を損なうことなく前を向き、最短距離を走る。が、内側からノーザンウルフが膨らんで来る。

 外から内を走るサンデーと、内からスピードが出すぎて外に膨らむノーザンウルフ。

 サンデーが外に出すか、ノーザンウルフが少し減速すれば接触はしない場面。

 だが、お互いの頭に譲るという文字は存在しなかった。

 

 サンデーは速度を一切落とさずにノーザンウルフとぶつかり合う。

 いや、サンデーは自ら勢いをつけて当たりに行った。

 

 ノーザンウルフが当たり負けて内側にヨレる。そしてそのまま横を走っていたアイリッシュアクターに少しぶつかる。

 サンデーもぶつかった影響で体幹が安定しない。右に左にとフラフラと蛇行しながらも直線を走る。

 

Sunday Silence breaks through! (サンデーサイレンスが抜け出す!)She’s weaving— right, left— but still driving forward!(右に左に!揺れながらも前に進む!)

 

 当たり負けて失速してまったノーザンウルフの横を、イージーゴアが駆け抜けた。

 彼女の美しく大きなストライドは、この泥だらけのバ場に脚を取られながらもサンデーを追う。

 

It’s Sunday Silence out front! (サンデーサイレンスが抜けきった!) Easy Goer chasing but not gaining!(イージーゴアが追うが伸びない!)Three lengths between them!(まだ3バ身の差がある!)

 

 イージーゴアは必死に泥を踏みぬいて走る。泥に足を取られながらも、沈まずに前へ前へと。

 だが、サンデーの柔らかく、泥を押し固めるような走りは、たとえどれだけヨレながら走ろうとも、この泥だらけのバ場では最適解だった。

 

Sunday Silence by two and a half! She’s done it!(サンデーサイレンスだ!その差2バ身半!) Sunday Silence wins the Kentucky Derby!(サンデーサイレンスが勝ち切った!)

 

 ■

 

「…………」

 

 サンデーが無言でこちらまで歩いてくる。

 観客の歓声も、スタンドの喧噪も、一切気にせず。

 

 用意したタオルとベンチコート、スポドリを持ち直し、俺は彼女を迎える。

 近づいてくるサンデーは、全身泥まみれだった。勝負服が黒を基調にしているせいで、汚れは沈んで見えるが、顔は完全に泥と汗に覆われている。

 

 サンデーと目が合う。

 その瞬間、思わず背筋がゾクリと震える。

 

 彼女は嗤っていた。

 

「秋。……最高の気分だな」

 

 低く、掠れた声。

 琥珀色の目は、何かが決定的におかしかった。今までの勝利では現れなかった不安定さがあった。

 タオルとスポドリを渡す。彼女がスポドリを一気に飲み干している間に、ベンチコートを掛けようとして、やめた。

 

「あん……?んだよ」

「……もう少し、身体を冷やしたほうがいい」

 

 そういいながらサンデーの額に手を置く。指が焼けたように感じる。

 途轍もなく熱い。ウマ娘の基礎体温だとか、レース後だとか、そういう理由では説明がつかないほど、熱かった。

 

 何かを、燃やしていると感じるほどに。

 

 ■

 

 控室でおよそ10分、マッサージをしたあとにベンチコートを着せて外に出る。

 サンデーの体温は戻り、琥珀色の目もいつも通りに戻った。さっきのが勘違いと思えるくらいに。

 いったい、あれは何だったのだろうか。

 

 二人でウィナーズサークルに出ると、観客の喧騒が波のように押し寄せてきた。

 

 サンデーは観客席を一瞥して、インタビュアーからマイクを乱暴に奪い取った。

 そして一言。

 

Keep flappin’ them mouths(好きに口パクパクしとけ、), it’s free air.(空気はタダだしな)

 

 歓声が爆発する。

 

「BOOOOOOOOO!!」

「THAT’S WEST COAST TALK! BABY!」

「YOU CRAZY BITCH!」

「HELL YEAH! SHE SAID IT!」

「NO RESPECT! NO DAMN RESPECT!」

 

 怒号、歓声、賞賛、罵倒。

 すべてが綯い交ぜになって渦巻いている。

 

 サンデーはインタビュアーにマイクを投げ返す。

 そして一切振り返ることなく、一人で控室まで戻っていった。

 

 その背に投げかけられる数々の賞賛と罵倒は、彼女にとって、祝福のようなものなのかもしれない。

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