「はあっ、ああっ、クソッ」
焦りの滲む弱々しい声。発した青年の左腕には大狼の牙が深々と突き刺さっており、口元は苦悶に歪んでいる。これに少女は慌てて駆け寄り、大狼の上顎に両手を差し込んでは、青年を解放する為に万力を込める。
「馬鹿、危ねえから離れてろッ──」
青年の警告は、驚愕により途切れた。
目前の大狼の眼球はぐるりと回転し、そのままどろりと黒灰に染まる。風船のように全身が膨らみ、脈動に近いリズムでみるみる体積を増していく。青年に突き刺さっていた牙はぽろりと抜け落ち、やがて森は戦慄き、旋風が周囲を巻き込み、全てが何かを急かし始める。
「
青年は呟いて間もなく少女を抱え上げ、脇目も降らず土を蹴る。苦労して登ってきた山道を躊躇いもなく駆け下りるその様は、まさに生死の境界に立つ者のそれ。
一方、激しく揺れる青年の肩の上で、少女は見る。猛スピードで進む両者に迫る黒い泥が、無慈悲にも視界の占有領域をまさに飲み込まんとするその光景を。
少女は、青年の言葉を待たずして悟る。
──終わった──
「で、どうなったの!?」
「気になるかあ〜? じゃ、10ヴェイルね」
俺は目の前にいる数人のガキ共一人一人に、指で輪を作ってニッコリ笑ってみせる。隣に座る相方は白けた目でこちらを見ているが、なんだその顔はと足を踏んづけてやった。
「ええ、最初にお金払ったじゃん」
「ばっかお前、今時完全版商法なんてどこもやってんの。別にいいんだぜ、このまま帰っちまってもさ」
へん。ここまで見といて帰れねえだろ。これが商売ってもんだ。俺は勝ち誇った顔でにたりと笑う。直後に襲う激痛に吊り上がった口角が歪み、目線を下げると鳩尾に相方のゲンコツが突き刺さっていた。
「ケチくさい紙芝居屋ね」
俺は痛みに耐えつつ立ち上がり、生意気なガキに指をさす。
「んだとガキ、紙芝居ったってコストがかかってんだぞ。これは極めて適正な値段設計に基づいた商売なの」
「チッ。村長にチクろうぜ」
「そうねー」
「あーあーあー冗談だって坊ちゃんお嬢ちゃん〜そーんな君たち子供からなんヴェイルもお金とるわけないじゃんねえ」
クソ。マセガキ共が。
笑顔をひくつかせると、脇腹をちょんちょんと小突かれ、そこには『ダサ』と書かれた紙切れ。
「おまえなあ……! 路銀がキツイのは八割がたおめーのせいなんだって分かってんのかよ……ッ」
『成長期ゆえ』
「こいっつ……!」
俺ははあ、と溜息をつき、ガキ共に再度向き直る。
「よし。じゃあこうしよう。後で頭から最後まで読み直す。お前らは途中退屈かもしれんが、その代わり、他の客を連れて来てくれたら儲けの2割をやる。ウィンウィンの契約だ」
「3割。じゃなきゃ帰る」
「クッソガキがあ……!」
「そんちょ〜」
「3割ね♡」
……つーわけで。
俺の名はエドルーク。灰色の髪を後ろで結んでいて、ヴォイドの影響で肌は若干浅黒いけど、三百六十度ハンサムな大剣使いだ。
俺はあの日、
マジに辺境にある村なもんで、ヴォイドのことを知ってるやつは、都との商取引を一任されていたひとりだけ。
そんな感じだったから、俺が来た時点で汚染レベルは既に危険な水準に達していた。
「メーターが赤と黄色の境目。爺さん、ちょっと気付くのが遅すぎたな。やるだけやってみるけど、村はなくなると思っといてくれよ」
俺は懐中時計に似た小型計測器をパタンと閉じ、麓にて老いた長にそう言い聞かせる。
「村のことはいい。それより、まだ逃げていない者がひとりおってな……なんとか、見つけてやれんかの。女の子なんじゃが」
「はあ!? あーあ。死んだなそいつ。南無〜」
冗談じゃねえ。
俺はそう思ってスチャラカに振舞った。
ただでさえ除泥屋ってのは命懸けのシゴト。ましてや危険水準にある地域で更に逃げ遅れを見つけるなんて割に合わねー。
と思ってたんだけど。
爺さんの背後から、仁王みてえなもんが見えたもんで。
「ん……んなおっかねえ顔すんなよ」
「ホントか! ありがとうなあ」
「いやまだなんも言ってねえけど!」
まあ、見かけたらどうにかするくらいの腹積もりで、俺は爺さんに約束して山に入った。
この山の名は黒狼山。ブラックフェンリルっつー、結構おっかねえモンスターの群れが生息する。中腹あたりまでかけ登った俺は、ようやくその一匹を目にした。
そんで、村の連中が侵食に気付かなかった理由が分かった。やつらは人里に近づく類いのモンスターじゃない。加えて黒灰の毛色のせいで、ヴォイドに侵食された
「……うーん。面倒だな」
ヴォイドの影響か、村人が去ったせいか、分体は山道からかなり近い場所に点在している。このまま進めば接敵は免れない。
一匹ならともかく、フェンリルは群れをなすモンスター。見つかったら囲まれること必至。しかし、正直言ってたらたら迂回している猶予も無い。
「いよーし」
俺は木のそばに寄り、地を蹴って枝を掴む。そのまま宙返りで高度を稼ぎ、数匹のフェンリルを見下ろしてはニヤリと笑う。
上からなら突っ切れる。そのまま木から木へと飛び移り、俺は山をぐいぐいと進んでいく。
このペースならあっという間だ。今回もらくしょ──
「あら?」
右足裏の感覚がガクンと突き抜ける。
やべえ、腐ってた枝踏んじまった。
「……うへへ……ピーンチ」
唸り声を上げ、尻餅をついたままの俺を取り囲むフェンリル達。こうなったらやるしかないと、俺は鞘のバックルに手を伸ばす。
直後、紅の閃光と共に、左前方のフェンリルが弾き飛ばされる。
「……ッ!」
俺はそれを切り目に、勢いよく立ち上がって大剣を取り出し、すれ違いざまに一匹のフェンリルの喉笛に斬撃を浴びせ、全速力で走り抜ける。
フェンリルは二手に分かれ、半分は俺を追い始めた。
「
赤熱魔法、炎弾。
調教済みの護身用モンスターでも飼ってたのか。いずれにせよ、こうなった以上は親玉まで突き進むだけだ。
「おっと。わざわざ出向いてきたか大将ォ……!」
大剣を構え直す。追ってきていたフェンリル達がじりじりと後退し始めた。
木々の影から姿を覗かせるは、ここ黒狼山の主にして信仰の対象でもあった一種の土地神。しかし今やヴォイドに呑まれたヴォイド・コア──いわば一寸先の爆心地。
アーク・ブラックフェンリル。他のフェンリルよりも一回り大きいこいつこそが、俺の討伐対象だ。
「手下を下がらせるってのは、俺を舐めてんのかな? それとも、主としての誇りってやつか? どっちでもいいけど、そんな御大層な騎士道精神、俺にはねェからなァッ!!!」
意気込み、突貫。ヤツは身を翻し、そのまま大木の枝を尻尾で跳ね飛ばす。それを空中から牙でキャッチし、噛み折り、また咥えてこちらを見据える。
「そいつがお前の武器ってわけか。ヴォイドに呑まれてる割には中々芸達者だな」
吐き捨て、再度衝突。大剣と大木剣が重なる度に、山の中に鈍い音が衝撃と共に響く。まだまだ。俺は呼吸を切らさぬよう、得物を何度も叩き付ける。いかんせんどちらも武器が大きい分、攻め入る空間に乏しい。となれば、この戦いは究極、パワー、あるいはスタミナ勝負に収束するほかない。
「ッ!」
しくった。左足の石に重心移動を阻害されたらしい。僅かに損なったバランス。それを見逃されるわけもなく、大木が勢いよく迫ってくる。
「グオァッ!」
「!?」
大狼の右頬を赤い砲弾が突っぱね、俺は思わず風圧に瞼を細める。大木は俺のすぐ頭上を飛んでいき、恨みがましくやつは距離を取った。
「アオオオオオ────ン」
耳を劈く遠吠えと共に、下がっていた手下達が炎の発射地点目掛けて駆けていく。
慌てて目線を向けたそちらには、フードを被った小さな人影。
「なっ……待てッ、オオカミどもっ」
俺は大剣を握り直し奴らを追わんとするが、すぐさま直線上に大狼が立ち塞がる。
「ちぃッ……! おい! 俺のことはいい! さっさと山を降りろ!」
叫びつつ、大狼の突進を走り高跳びの要領で避ける。そのまま最速のターンで距離を詰め、振り向きざまに刃を突き立てる。
「キャウッ!」
真っ黒い血飛沫が全身に飛び散り、再び大狼は俺から距離を取る。
「キャウじゃねえよ。しつっこいんだよお前ェ……」
とはいえ、刻んだのは奴の左眼。隻眼となった以上、もうこれまでのように戦うことは難しいはず。
このまま一気に勝負をかける。
そう意気込み、迷わず距離を詰めていく。
「グルウウウゥウウ……」
「あぁ!?」
大狼の口元で、何か空気の塊のようなものが渦を巻いている。それは瞬く間に轟音を孕み、俺の目前へと解き放たれる。
「なんのっ」
俺は慌てて大剣の腹を突き出し、風弾を抑えつける。
「
こんな隠し球があったとは。伊達に一山を治める器じゃない。
「!?」
感心も束の間、側方に身を潜めていた手下の口元から響く、耳鳴りのような風切り音が鼓膜を揺さぶっている。
不味い。これ、詰んだ──
「──ッ!」
直後、俺の真横に現れた少女。フードが風で吹き上がり、草原のような深緑の髪が顕わになる。
「あかねさすイグニスのゆびさき、バーンレッド!!!」
詠唱と共に、少女の傍の石が灼熱に染まり、大火となってフェンリルの風弾を迎え撃つ。
よーし、ツキが回ってきやがった。
「うおらああああああ!!!」
俺は気合いと共に風弾を跳ね飛ばし、手負いの大狼を睨みつける。
だが、文字通りやつの頭上には風弾をチャージするもう一匹。
「やべぇッ!」
俺は傍らの少女を抱え込み、思いっきり背を向ける。吹き飛ばされる全身は大木に叩き付けられ、痛みと共に見開いた視界には黒き鮮血に染まった大狼の牙──
「──はあっ、ああっ、クソッ」
ああ、なんてザマだ。まさかこんな辺境の山で、ここまで俺がやられちまうなんて。ちくしょう、痛みで視界がぐにゃぐにゃしてきやがった。
「馬鹿、危ねえから離れてろッ──」
大狼の口に手を突っ込む少女に吐き捨ててすぐ、俺は気づいた。
タイムオーバーだ。
「
肉からこぼれ落ちた牙を蹴り飛ばし、俺は少女を肩に乗せて走り抜ける。もう、これまでの人生で間違いなくランキング一位の必死さで、それでも、これで終わりなんだと、どこかで悟っていた。
この距離で、あの規模のヴォイド・コアの急膨張。歴戦の除泥屋である俺だからこそ、助かる見込みがないと分かっていたんだ。
「終わった──」
その時だった。
視界の縁に純白の閃光が差し込んだ。
有り得ないことだった。ヴォイドは白く発光なんてするはずない。じゃあ、これはなんなのか……?
……俺の意識はそこで一旦途切れ。
再び目を開いた時には、気絶した緑色の髪のガキと、急膨張で抉れた地面、吹き飛ばされた木々。その真ん中で大の字になって土まみれになっている俺自身に気付いて、呟いた。
「間に合わなかったかぁ〜」
飛爆散粘体ヴォイド 第一話 時間切れ