ろくでなしミュージシャンが国民的アイドルと天才バンドマンに愛されるヤンデレもの 作:三角関係大好き!!!
感想や評価、ありがとうございます。
めちゃくちゃ励みになってます。
歌を歌うのが好きだった。
曲のジャンルは問わない。
琴線に触れた曲を、ひたすらに歌う。
そうなったキッカケは覚えていない。
ただ、今よりずっと小さい頃から、馬鹿みたいに歌ってばかりいた。
理由は単純で、歌うのが楽しいから。
メロディーや歌詞から、歌に込められたメッセージを受け取って、自分の歌声に投影する。
歌に込められた感情を自分なりに表現し、現実を忘れて歌の世界に没入する。
その時間が、何よりも面白い。
だから、私はずっと歌っていた。
仲の良い友達を作る事もなく、勉強や運動に目を向ける事もなく。
退屈で仕方がない学校を終えた瞬間に帰宅し、家に引き篭もって歌ってばかりいた。
「朝音ちゃん、アイドルに興味ない?」
そう言い出したのは、私の母親。
「有名なアイドルになれれば、お前が大好きな歌を仕事にできるぞ」
そして、母に同調するのは父親。
この時の二人は、不自然なほどニコニコしながら、私を見ていた。
普段、そんなに笑わないのに。
父親が失業してからずっと、家族の関係はギクシャクしていたのに。
私の家は、貧乏だった。
父親も母親も、あまり賢くない人間。
避妊をせずに性交渉を行った果てに私が生まれて、流されるままに結婚する。
母親は怠惰で、仕事も家事もしない。
父親は堪え性がなく、適当な仕事について、すぐ退職するのを繰り返していた。
父親も母親も、親になるべき人間では無い。
それゆえに、子供を利用して金を稼ごう……なんて発想を、実行に移してしまった。
だが、私はアイドルに興味がない。
彼女らは、愛嬌を振りまいて、ファンに夢と希望を与える事を生業としている。
生まれつき内向的な性格で、他人と関わる事を避けていた私とは対極的な存在。
まさに、水と油の関係。
なれるとも、なりたいとも、思わなかった。
「一回だけ、挑戦してみましょうよ」
「もし、ダメでも責めたりしない」
けれど、断る選択肢は無かった。
親からは勘当され、友人はいない。
そんな両親が頼れるのは私だけ。
どうしても働きたくない彼らは、親としての威厳を捨ててまで、私に縋っている。
それだけ、終わっている人間だったのだ。
家賃は滞納しているし、中学校の給食費も払おうとしない。
極め付けに、残り少ない貯金はパチンコ台に飲み込まれていく。
まさに、絵に描いたような毒親。
「……分かった。やってみる」
本当に嫌だった。
これから自分がやらなければならない事を考えると、吐きそうになる。
どうせ、人前に立つならば歌手として立ちたい。
でも、絶対に認めてくれないだろうから……やるしか無かった。
どんなに嫌だとしても、やらなければ。
この地獄から抜け出せないと分かっていたから。
「まずは、名前を教えてもらってもいいかな?」
「希咲朝音、14歳ですっ」
「朝音さんは、元気だね。物怖じしないのはいい事だ……それじゃ、オーディションを始めようか」
「はいっ! よろしくお願いします!」
オーディションを受ける際には、装いを小綺麗にして、アイドルに相応しい自分を演じた。
幸か不幸か、私は容姿に恵まれている。
不足しているのは、内面だけ。
本当の私は、アイドルとは程遠い。
内気で人見知りで……性格も歪んでいる。
ありのままの姿で望んでも、絶対に受からないと分かっていたから。
有名なアイドルを参考に。
元気はつらつで、可愛げがあって、純粋無垢な、アイドルを志す少女。
そんな偶像を作り出し、自我を殺して演じる。
すると、一発でオーディションに合格した。
オーディションに合格したら、研修生になる。
研修生になったら、レッスンを積み重ねる。
最終的に私は、同じ新人の子達とユニットを組んで、デビューする運びになって。
……あっという間に、国民的アイドルグループと呼ばれるに至った。
デビューしてから、数ヶ月。
今までに類を見ない速度で、私達はスターダムを駆け上がった。
5大ドームや武道館でのライブから、世界各国を巡るコンサートツアーまで。
日本国内どころか、国外の人にも認知されている私達の人気は止まる事を知らない。
まさに、アイドル史にも乗る偉業。
それを成し遂げた立役者は、私だった。
自惚れでも、慢心でもなく。
私のアイドルとしての能力は、他のメンバーの追随を許さなかった。
歌やダンス、トークスキルやビジュアル。
観客の心を掴んで離さないファンサや、会場のテンションを最高潮まで引き上げるコーレス。
それらのスキルも優れていたものの、私の人気を揺るがぬものにした要因とは程遠い。
私を頂点に導いた……他のアイドルにはなくて、私だけに存在する唯一無二の個性。
それは、アイドルとしての心構え。
自我を出さずに、ファンが理想とする偶像として振る舞い続ける覚悟だった。
オーディションの時からずっと、私はアイドルとして相応しい自分を演じ続けている。
デビューしてからもボロを出さずに『みんなのアイドル 希咲朝音』として生きてきた。
ファンはもちろん、ユニットのメンバー、マネージャー、学校の同級生、両親の前でも。
本当の自分を覆い隠して、仮面を被り続けたのだ。
「朝音ちゃん。トップアイドルとして活躍する娘を持てて、私は誇らしいわっ!」
「凄いぞ、朝音! 流石は俺の娘!」
その結果。
私の変化を気にも留めない両親は、アイドルの私に媚び諂った。
「朝音ちゃんさえ良ければ、友達にならない?」
「俳優の神江くんと共演してたよね。サイン、貰ったりとかできないかなっ!」
私を空気として扱っていたクラスメイトは、アイドルの私に話しかけてきた。
「朝音ちゃん。俺、一生推します!」
「貴女は私の生きる希望。どうか、できる限りアイドルを続けてください……!」
ファンの皆さんは揃いも揃って、アイドルの私を礼賛した。
「朝音はストイックだよね。私も見習わなきゃ」
「いつか追いついてみせるから、待っててね!」
同じグループのメンバーは、アイドルの私に尊敬の目を向けた。
「高校生とは思えないパフォーマンスだね。同じアイドルとして負けてられないな」
「朝音くん。君なら、アイドルを辞めても女優として食っていけるだろうね」
テレビに出るような著名人の方々は、アイドルの私を褒め称えた。
私を見てくれる人は、沢山いる。
良い人も悪い人も、純粋な好意を向けてくれる人も、打算的な目的で擦り寄ってくる人も。
でも、私にとっては全員同じ。
どんな考えがあろうとも、彼らは偶像をありがたがっているだけ。
アイドルの私が、ニセモノの私であることに気づく人は、一人もいない。
本当の私を見てくれる人は、この世界に一人も存在しなかった。
仕方ない事だと、自分でも分かってる。
アイドルとしての偶像を作り出し、完璧に演じてきたのは他でもない自分。
本当の自分を微塵も見せていないのだから、気づけるはずもない。
その事を、理解はしている。
だけど、理屈と感情は別のもの。
どんなに褒められても、ただただ虚しかった。
大衆が求めているのは、アイドルである私で。
本当の私は、誰一人として必要としていない。
そう、思い知らされているようで。
アイドルの仮面を被って生きる毎に、自尊心がズタズタに引き裂かれていく。
かといって、本当の自分を出す勇気もない。
もしも、本当の自分を否定されたら……可能性が現実になったら、生きていける自信が無かった。
「みんな〜! 今日は来てくれて、ありがとうっ。今日も一緒に、最高のライブにしようね〜!」
でも、思いっきり歌を歌っている時だけは楽しかった。
楽しみながら、全力で歌って踊る。
自分にできる最高のパフォーマンスで、会場を熱狂の渦に巻き込んでいく。
私の歌声で、幼い頃から続けてきた自己表現で、多くの人々を感動させる。
……歌の世界に引き込んでいく。
この感覚は、一人で歌っていては絶対に得られない特別なもの。
アイドルとして生きた事によって手に入れた、唯一無二の報酬だった。
「ベッド……ふかふか……」
それに、アイドルとして活動して大金を手に入れた事で、両親から離れられた。
仕送りを送らなければならないものの、一人で暮らす事が出来たのだ。
これで掃除や料理などの家事をやらされる事なく、自由な時間を満喫できる。
「私だけのピアノちゃん……とても愛おしい」
早速、私はピアノを購入した。
子供の頃からずっと欲しかったグランドピアノ。
今の住居には防音機能が備わっているため、周囲を気にせずに練習に励む。
好きな曲を演奏しながら、歌を歌う。
独自のアレンジを加えてみたりして、娯楽としての音楽を心置きなく楽しむ。
自分の原点である、歌の世界に浸る。
そうするだけで、日々の疲れが取れていく。
……だから、私は大丈夫。
歌を歌えれば、それでいい。
これからもアイドルとして、生きていける。
「次の現場はバラエティ番組。その後は、ラジオの収録だけど……朝音ちゃん、行ける?」
「はいっ、大丈夫です!」
やりたくもないドラマや映画、番組出演などの仕事に追われて、碌に家に帰れなくても。
全然、大丈夫。
『朝音ちゃん、今月ピンチなの。仕送りの量を増やしてもらえないかしら』
増長しきった金食い虫から、毎日のように仕送りの催促をされようとも。
まだ、大丈夫。
「あー、嫌だな。八方美人の媚売り女との共演」
「そのくせ、アプローチされたら断ってくるんでしょ? 神江さんが、付き合い悪いって嘆いてたよ」
「売れっ子だからって、お高く止まっちゃってさ。絶対に性格悪いでしょ、あいつ」
好きでもない俳優にアプローチされても、かつて参考にしたアイドルに陰口を言われようとも。
平気でいられる。
だから、ひたすらに粛々と。
アイドルとしての自分を演じ続ける。
薄っぺらい笑顔を振りまいて、媚を売る。
ファンのためでもなんでもなく、自分のために。
クソみたいな両親と縁を切れるくらいの大金を手に入れて、自由の身になるために。
いつの日か、アイドルの仮面を捨てて。
本当の自分の自己表現として、歌を歌える日々を手に入れるために……。
「……………」
ある日。
ユニットメンバーと共に、ライブの練習をしていた時。
「どうしたの、朝音ちゃん」
「………………あ、あれ……?」
「朝音……? 朝音、大丈夫!?」
歌が歌えなくなった。
言葉は普通に喋れる。
でも、歌を歌おうとすると、声が出ない。
まるで、体が拒否しているかのように喉が閉まってしまう。
人が居ようが、一人だろうが関係無い。
場所を変えようが、リラックスしようが、何も変わらない。
私は、歌が歌えなくなった。
自己表現が出来なくなった。
『国民的アイドルユニット【DREAMS TRUE】のセンターを務める『希咲朝音』が無期限の活動休止を発表』
真っ暗な部屋の中、スマホの画面を眺める。
すっかり過去のものとなった話題を、ぼーっと流し見していく。
アイドル活動を休止してから、半年。
未だに、ファン達は悲壮感に塗れていた。
多種多様な意見を、SNS上に吐き出している。
だけど、感情は全く動かされない。
頭にあるのは、歌が歌えなくなった事実だけ。
心の中には、生き甲斐としていたものが消え失せてしまった絶望しか存在しなかった。
因みに、私が歌えなくなったのは、精神の不調。
ストレスによる失言症に類する物。
『返信しなさい、朝音! アイドル活動を休止って、どういう事なの!? 5ヶ月も……』
文面を見る事なく、スマホを地面に叩きつける。
液晶が割れる音が周囲に響くと共に、精密機械は二度と動かなくなった。
それでも、鬱憤は晴れない。
死ね、死んじまえ、クズ野郎ども。
全部、何もかも、お前らのせいだ。
私は、歌えるだけで満足だった。
他には、何も要らなかったのに。
歌えないのなら、生きる意味なんてないのに。
お前らが追い詰めるせいで……私の生きる意味が無くなった。
全てが奪われてしまった。
「う……うぐ、うぅ……」
ベットの上で、泣きじゃくる。
……もうどうすればいいか分からなかった。
私は、努力してきた。
地獄から抜け出すために、自由を手にするために、やれる事は全部やった。
ライブ以外苦痛でしか無かったアイドル活動も、全力で取り組んだ。
少しでも多くの金を手に入れるために、身を粉にして好きでもない芸能活動に臨んだ。
その末路が、この様だなんて。
あまりにも、酷すぎる。
本当は、今すぐにでも死にたい。
こんな世界には、もういたくない。
私から歌を奪った両親をぶっ殺してから、私も命を絶ちたい。
けれど、もう一度、歌えるようになる可能性があるかもしれない。
歌えなくなったのが、ストレスによるもの。
たっぷり休んで回復して、心が元気になれば。
また、歌を歌えるかもしれない。
その可能性を捨ててしまう事を考えると、どうしても自殺に踏み切れなかった。
本当に、何処までいっても私という人間は、変わっていない。
外面を取り繕って完璧なアイドルを演じようとも、精神的に幼く、弱いままだった。
「…………はぁ」
深夜の公園。
私以外、誰もいない空間で、ブランコに乗る。
揺れる事もせず、地面を見つめる。
気分転換に外出したはいいものの、全くもって気分が晴れない。
ここ最近は、ずっとそうだ。
何をしようとも、元気になれない。
底なし沼に浸かったまま、必死にもがいても、這い上がれないように。
やることなす事、全てが無駄に終わる。
歌が歌えるようになる予兆は、感じない。
故に、常日頃から鬱屈とした感情を抱えていた。
「へい、彼女。オレと一緒にお歌歌わない?」
「……?」
突然、見知らぬ人物に声をかけられる。
驚きながらも顔を上げると、そこに立っていたのは、灰色に染められた長い髪の青年。
ギターケースを背にしており、黒のアウターを身につけている。
一際高い背丈と、切れ長の目。
耳につけた大量のピアスが印象に残る、端正な顔立ちの青年が屈託の無い笑顔を浮かべていた。
一見すると、スラリとした体型も相まって、男性アイドルのような優男に見えなくもない。
けれど、彼の頬は赤らんでおり、右手でお酒の空き缶を握っている。
これらの状況から察するに。
私は今、ギタリストの酔っ払いからナンパを受けている……ということになる。
……どう考えても、面倒臭い事この上ない。
だる絡みされる前に逃げよう。
そう心に決めて、立ちあがろうとすると。
「曲は、ブルーハーツのリンダリンダでいい? いや。いいに決まってるよな。へこんでる時は、ブルハ熱唱って相場が決まってるもんな」
「あ、あの……」
時すでに遅し。
お酒の空き缶をゴミ箱に投げ入れた青年は、ギターケースからギターを取り出す。
そのまま、戸惑う私を意に介さずに、高そうな新品のエレキギターのチューニングを行っていく。
「あれ、ブルーハーツ知らない? これが、ジェネギャって奴か。でも、もったいないなー。ブルハを知らないなんて、人生の半分は損してるよ」
「えっ、えっと、知ってます。ブルーハーツは、知っていますが……」
今すぐ、逃げたい。
けれど、青年の押しが強すぎて、逃げるに逃げられない。
結局、私は流されるまま。
彼の演奏を耳にすることになった。
「なら、いいじゃん。早速、いくぜ〜!」
閑静な空間に、ギターの音が響き渡る。
軽妙な口調に、軽薄な態度。
酔っ払いのナンパ師が出した音とは思えないほど……その音は洗練されていた。
淀みもなく、迷いもなく。
思わず聞き惚れてしまう音色。
真摯に音楽と向き合って、ギターの練習を積み重ねた者にしか出せない音。
驚きを隠せない私の姿を見て、青年はにこりと微笑んでみせる。
これから面白くなるぞ、と言いたげに。
そんな彼の姿を見た途端に、目覚めた気がした。
……不思議と、歌える気がした。
「ドブネズミみたいに」
「えっ、え……?」
「美しくなりたい」
「う、うつ……なり、たい」
青年の後に続くように声を出す。
拙いながらも、歌を歌う。
自分の本気とは程遠い。
聞くに耐えない歌だけど。
確かに、歌うことが出来たのだ。
原理は分からない、理由も分からない。
ただ、私は……感動で体が打ち震えていた。
次いで、それ以上に、もっと歌いたいという気持ちが押し寄せてくる。
「写真には映らない」
「写真には……映らない」
「「美しさがあるから」」
音の調和。
バラバラだった私と青年の声が一つになり、美しいハーモニーが奏でられる。
まるで、心が一つになったみたいで、その感覚がとても心地よい。
今も尚、頭の中では歌えた事実に対する疑問符が浮かんでいるのは確か。
でも、そんなのはどうでも良かった。
今はただ、この心地よさに。
胸の奥から湧いてくる激情に身を任せたい。
「それじゃ、いくぞっ!」
「……はいっ!」
「「リンダリンダ! リンダリンダリンダ!」」
お腹から声を出して、精一杯歌う。
聞くに耐えないくらい、ぐちゃぐちゃな歌。
けれども、自己表現できていた。
歌えた感動ともっと歌いたい熱を、歌詞でも何でもないフレーズに乗せて。
己の全てを、吐き出せていた。
「「リンダリンダ!!!! リンダリンダリンダーぁ!!!!!」
青年は……お兄さんと私は、もはや、叫んでいた。
現実なんて気にせずに、己の気持ちが赴くままに熱唱する。
お兄さんのギターは、完璧だった。
お手本通りの演奏をしている訳じゃなく、自分なりのアレンジを加える。
燃え盛る炎に燃料を追加していくように、私の熱を増幅させてくれる。
今この瞬間、確かに私達は通じ合っていた。
面識はないし、言葉も交わしていない。
けれども、歌を通して、想いを伝えていたのだ。
少しでも長く、二人で歌いたいという気持ちを。
……私は、断言できる。
今の私は、アイドルの私ではなく。
歌を歌うのが誰よりも大好きな私であると。
そして、私が歌えるようになったのは。
演奏するお兄さんの姿が、自分と一緒だったから。
狂おしいくらいに音楽を愛する想いが、宿っていたからだと。
そう、確信した。
「うるせぇぞ、和島ァ! 深夜にギター鳴らすなって言っとるやろがァ!」
だけど、終わる。
自分を曝け出せる時間が終わってしまう。
「お疲れさん。キミ、中々に足が早いな。何かスポーツでもやってるの?」
「あっ、い、いえ……スポーツはしていません。多少、体を動かす機会があるだけで……」
「ふーん、そっか」
その後のことは、よく覚えていない。
私達の間に割って入ってきた男性から逃げて、路地裏にたどり着いて。
お兄さんから色々と話をした気がするけど、内容は覚えていない。
なんというか、夢心地だった。
先程の出来事が、現実とは思えない。
地に足がついてないというか、意識がぷかぷか浮いているというか。
そんな中で、ただ一つだけ分かることは。
私は、歌えなくなってしまった。
お兄さんと歌う時間が終わるのと同時に、元に戻ったという事だけだった。
今、ここに立つのはアイドルの私。
ニセモノで、中身のない空っぽな私。
「家、ここから近い? 良ければ、送ろうか?」
「すごく近いです。なので、大丈夫です」
薄っぺらい返事。
人と距離を取り、深入りさせない言葉。
長年の生活で染みついた仮面が、他人を信用しきれない醜い心が、本心を告げるのを阻害する。
「了解。今日は一緒に歌ってくれてサンキューな。最高に楽しい時間だった。それじゃ、バイバーイ」
「さ、さようなら……」
心理的に距離をとったのを感じたのか、お兄さんは迷う事なく歩き始める。
私は……何をやっているのだろうか。
素直に助けを求めればいいのに。
傷つくのを恐れて、動けないでいる。
私は、アイドルだ。
でも、多分、お兄さんはその事を知らない。
知らないからこそ、普通の女の子を相手にするように接してくれる。
それでも、その先は?
ふとしたキッカケで、私が有名人である事を知ったらどうなるだろうか。
本当に、今のように接してくれるだろうか。
……他の人々のように、アイドルの希咲朝音として、私を見るのではないだろうか。
一度でも、そう考えてしまうと、怖くなって動けなくなる。
本当に、馬鹿みたいだ。
疑心暗鬼に陥って、無闇に人を疑って、全部台無しにしようとする。
それで、終わる。
何もかもが、元に戻る。
底無し沼でもがく日々が、また始まる……。
「あ、あのっ!」
無意識に、声を出していた。
すると、お兄さんはくるりと振り返る。
息を深く吸い込んで、呼吸を整える。
そうして、覚悟を決めた。
私は生まれて初めて、他人に踏み込む。
「あの、名前を教えて頂けませんか」
「オレの?」
「はい、貴方の事が知りたいですっ!」
後悔するかもしれない。
私がアイドルである事を知った時、お兄さんも他の人みたいになるかもしれない。
……本当の私を見てくれないかもしれない。
でも、それでも。
今この瞬間、お兄さんと関わる機会を逃して……後悔だけはしたくなかった。
だから、先の事をごちゃごちゃ考えるのをやめて、自分の心に従うことにした。
そうすると。
「オレの名前は、
「は、はい……?」
お兄さんは、ギターを弾くポーズをしながら、私に向かってウインクをした。
どうにも締まらない、自己紹介を添えて。
想定外の行動を前に、私は硬直してしまう。
「それじゃあ……今度こそ、さらば!」
「あっ」
気まずくなったのか、お兄さんは走り出す。
頬を真っ赤に染めながら、全力で。
走り去る彼の後ろ姿を見ていると、酔っているからか、途中で石に躓いて転びそうになっていた。
「ふ、ふふっ、ふふふっ」
思わず、笑みが溢れる。
笑ってはいけないと分かってはいるけれど、どうしても堪えきれなかった。
心から笑ったのは、いつ以来だろうか。
今となっては、もう思い出せない。
だが、本当にお兄さんは、愉快な人だ。
それでいて、誰よりも純粋な人。
故に、きっと、あの人となら……良い関係を築ける気がすると。
なんとなく、そう思えた。
アイドルちゃん視点はもうちょっとだけ続きます。
一つにしたかったのですが、長いので分けました。