明け方、俺は目を覚ました。
軽くストレッチをしてから、自分で準備した服に着替え、寝泊りさせてもらっている部屋から出て階段を下りる。
フィルターを通さない清涼な空気に触れるのも、こうして炊事の音を聞きながら居間に向かうのも、いつまでたっても慣れないものだ。
「ウォルターさん、ごはんですよ……」
踊り場越しに俺と目が合ったマグノリア博士は微笑んだ。
「いつも早起きでよいことですね。ソニアにも真似させたいほどです」
「問題ない。むしろ、いつも起こしに来てくれてすまんな」
ひとつふたつ、他愛のない話をしながら居間に下りると、すでに食事の準備がされている。
食事内容はハムを添えたポーチドエッグにトースト。サラダとスープ。
「「「いただきます」」」
手を合わせ、声を一つにして食事に取り掛かるのはいつ以来だろう。親が正常だったころも、こうして大人数で食事を摂った経験はあまりなかった。621以前のハウンズたちが生きていた頃は、たまに食卓を囲っていたことがあったが。
──あれから俺は、博士とソニアの家に下宿させてもらっている。
ここ、ブラッシータウンは牧場地が密集しているために空いているアパートやマンションが少なく、それならちゃんとした家が見つかるまでの間、うちで暮らすのはどうか……と、二人から声をかけられたのだ。
生活している間も、情報は集めた。
この世界にはポケットモンスター……縮めてポケモンという生き物と共に暮らしているらしい。そして二人はそれを研究するポケモン博士(ソニアは見習いだ)であり、研究費や生活費は国からの支援を受けているので問題ないのだそうだ。
都合がよすぎるのではないか?と一瞬思ったが、この世界はポケモンのおかげでエネルギー不足をほぼ解消できているという。なるほど、それだけの余裕があれば、おおらかな人柄が育つわけだ。
笑ってしまう。笑うしかなかった。俺たちが振り回され、人生を滅茶苦茶にされた永遠の命題『エネルギー不足』が、この世界では解消されているのだから。
いち大人として恥ずかしい限りなものの、俺はその厚意に甘えることにした。押し問答の末、下宿代は払うことにして。
……正直、心配になるほどの善性だ。ルビコンにこんな素晴らしい好人物がいたら真っ先に食い物にされていたに違いない。やはりここは価値観からして元居た場所とは違うのだ、と思うと、少しだけ寂しく感じた。
食事が終わった後は、食後の紅茶を楽しみながらテレビを眺める。穏やかな時間だ。
『ワーオ! ぼくの計算が狂っちゃった! さすがはガラル地方のチャンピオンだねー!』
『リザードンが出てきたときは焦ったぜ、なにせかみくだくを使えるんだしな』
『ぼくも君がソーナンスをレンタルしたときに計画を読めていればよかったなー。でもすごいね、顔を合わせたばっかりのソーナンスのポテンシャルをそこまで信じられるなんて』
『そんなの簡単だぜ! ポケモンを信じるのは誰にだってできるだろ? オレがたまたま、あなたを上回っただけだ』
それにリザードンの扱いは誰よりも得意だからな! …と見せる笑顔には曇りなど少しもない。メディアというものは残酷なものではあるが、願わくばあの真っ直ぐさのままでどこまでも突っ走ってもらいたいものだ。
「さすがダンデ! バトルファクトリーを連戦連勝するなんてすごっ! ほら見てよウォルターさんっ。うちのダンデ、かっこいいでしょ?」
「ああ、そうだな」
「昨日の録画ですけれどね。さあソニア、そろそろ仕事の時間ですよ。ウォルターさんが困ってるではありませんか」
「はーい、わかってますっ。少しはノッてくれてもいいじゃないー…」
ソニアは頬を膨らませながらテレビを消して、コートを羽織り鞄を手にした。散歩の予感にワンパチが嬉しそうについていく。
「……ダンデの出る番組はみんな録画しているんですよ、あの子。いつも付き合わせてしまって、ごめんなさいね」
「若人の楽しそうな姿は国の宝だ」
「ふふ、優しいのですね。わたしもそう思います」
「どうだかな。俺も散歩に行くとする」
「茂みや森に近づいては駄目ですよ、野生のポケモンが出ますからね」
「ああ」
子どもに説教するような口ぶりがおかしくて、口角をわずかに上がるのを感じながら俺は家を出た。
◆
「ウォルターさん、おはよーっ!」
天真爛漫を形にしたような明るい声に振り向いて、俺は思わず微笑んだ。
髪型を除けばチャンピオンのダンデにそっくりな少年が、片手を振りながらこちらに駆けてくるのが見えた。
そのあとに、ピンクのワンピースを着た少女が続いている。
「おはよう、ホップ。どうした」
「はあはあ…… 聞いてくれよウォルターさん! あのな、アニキが明日オレたちにポケモンを渡してくれるんだぞ!」
「ほう。つまりはあす、チャンピオンが
「そうだよ。それでね、どんなポケモンが来るのかホップと予想してたんだ。ウォルターさんはどう思う?」
二人は、ブラッシータウンの仲良しコンビことホップとユウリだ。おっとりしたユウリを活発なホップが引っ張るというなかなかいいコンビで、ホップはチャンピオンの弟と言うのもあり町では知らない人はいない程度には知られている。
ソニア達とも面識があり、彼女に面会させてもらった時から妙に懐かれている。どうしてだかは知らない。俺のようなつまらない男よりはもっといい友達がいるだろうとは思うが、大人の友達を作って背伸びしたい年頃なのかもしれない。
俺は熟考して、答えた。
「恐らく、まったく新種のポケモンがやってくるかもしれないな」
「へえー! それはどうして?」
「チャンピオンは顔が広いものでなくては務まらないからだ。出先で新種のポケモンを渡されることも、それをお前たちに渡そうと考えるのも自然なことだ」
「ふむふむ……ほんとにあるかもねっ。ね、ホップ」
「そうだな! さすがだぞ! ウォルターさんはオレたちの知らない広い世界を知ってるんだな!」
「まあ……な」
妙に的を射た発言ができるのは察しがいいからだろうな。付き合いはまだまだ短いが、ホップらしいと言える。
俺は柄にもなく照れ臭くなってまぜっかえした。
「単に年寄りの考えすぎかもしれないぞ」
「そうか? オレは結構信頼してるけどなー。疑うより信じる方がいいってアニキも言ってたし!」
…
ううむ……
信頼が厚い……
二人してそんな綺麗な目をされると、なんだか居心地が悪くなるな。
それからはしばらく雑談をして、俺は二人と別れていつもの場所へ向かった。
少し坂道を上った先にある草丘の一角に腰を下ろし、のどかな街並みを見下ろす。
ここにいると時間の流れがゆっくりに感じて、うっかり自分がどこにでもいる老人なのだと勘違いしそうになる。
「621……」
一人になると考えるのは、向こうに置き去りにしてしまった
ちゃんとしたものを三食食べているだろうか。服は毎日洗濯に出しているか。風呂に入って、自分の体をいたわっているか。
そこまで考えて、自嘲が口の端に出た。何を偉そうに。俺自身があいつからそれをするための思考能力を奪ったくせに。
我儘を聞いてやることが償い、とは考えこそしたものの。
その我儘を言ってくれる相手がいなければ、自分はどうしたらいいのだろう。
621がいてくれれば、と考えそうになる。今さらあいつと再会したところでなんになる? また傷つけあうだけだ。
ポケットに手を入れて、カードを取り出す。煤けた白いカラスが刻印されたクレジットカード。
金自体はいくらでもここから出てくる。これが621のせいいっぱいの配慮なら、無理をしてまでそんなことをしなくてもいいと真に思う。
こんな、人生十回分もあろうかという額の金を使って俺は何を為すべきなのか。
自分で判断する力がここまで弱っているとは思わなかった。俺はリードを引いてくれる飼い主がいなければ道も選べない意気地なしだったのか? 自分で選んだのだからこそ、俺は多くのハウンズを使い潰して、あのような凶行に及んできたのに。
「クゥン……」
「ん?」
そのとき、足元にまとわりつく何かを感じた。
そこには、黄色の体毛に虎のような縞のある犬がいた。しきりに俺の体に頭をこすりつけて甘えている。
「わんお……」
「なんだ、お前は。俺は何も持ってないぞ。食べ物が欲しいならよそを……」
そこまで言いかけて気づいた。このポケモン、体の傷が不自然なほどに多くはないか?
手を伸ばそうとすると、怯え切った目で身を縮め、震え始めた。まるで何をされるのか予想しているように。必死に震えをこらえようとしているが、それは強くなるばかりだ。
こいつはガーディだ。仲間意識が強く、敵だと認識した相手はどんなに大きくても飛び掛かる勇敢さを持つと言う。
だがこの犬にはそんな覇気は見受けられない。どころか、心身ともに弱り果ててるように思える。
そして、この体毛の色。歯形やひっかき傷は足や頬、胴体と、小さなものから大きなものまでいたるところに。
「色違い…か」
色違いで、ここまで生傷の多いガーディ。
嫌な妄想をしてしまう。仲間内での差別の理由に、異なる色はしばしば挙げられるからだ。
勇敢で、忠実。図鑑で読んだとおりの性格が多いのだとしても、その高潔さは誰にでも向けられるとは限らない。
ああ、そうか。
誰でもいいから縋りたいほどには、けれど縋るには何もかもが恐ろしいほどには、こいつは孤独なんだ。
狂ってしまった父から逃げた時の──俺のように。
身を起こしてベルトポーチを探り、包帯と消毒薬、人間用の傷薬を取り出す。
にじり寄る俺を震えながら見るガーディに、俺は警戒心を抱かせないよう簡潔に言った。
「シー… 怖がるな、危害は加えない。じっとしていろ」
言葉が通じたのか、それとも俺の予想は当たっていたのか。手当ての最中も痛みから発作的に身を震わせることはあっても、そのガーディはされるがままだった。
手当てがあらかた済んだ時──ガーディは両目から大粒の涙をこぼしていた。
「来い。──お前に生まれた意味を与えてやる」
ガーディはもう、震えてはいなかった。