2034年10月22日 京都レース場 菊花賞当日
もう残暑とか言わないであろう時期だが、まだまだ暑い10月。
この日本はどうしちまったんだろうと思いながら、自販機で飲み物を買う仁。
だが、ペットボトルを持つ手はどこか震えている。
そして同時に、その震える手を押さえつけるように力強く歩いているようにも見える。
それも、仁にとっては当然だろう。
彼は圧倒的な不安に悩まされているのだから。
今回走る菊花賞は未知数の3000m戦。
一体、俺はどうするべきだったんだろうと今でも感じる。
相変わらず俺が選ばせる空気を作ってしまったんじゃないか。
そんなことを思いながら、控室の前に行きドアを開ける。
「おう!トレーナーさん!」
変わらず元気な様子の勝負服姿のエース。
その奥ではとてつもなく大きい不安に押されているであろうにも関わらずだ。
「お〜い、トレーナーさん?」
それに比べて、俺は臆病者だ。
不安を隠しきれず、手さえ震えてしまっている。
「トレーナーさん?どうしたんだ?」
「ああ、すまん」
何回か呼びかけられてようやく気づくほどに、俺は不安に思ってしまっている。
本当に俺は未熟者だな…
「緊張し過ぎだ、もう少しリラックスしろよ」
エースの不安を感じさせない柔らかい声に諭され、深呼吸をする。
「ありがとうエース。お陰で少しだけ楽になった」
「気にすんなって。アタシのトレーナーさんなんだし、お互い様だ」
その言葉にハッと思い、エースの手を見ると微かに震えていた。
「エースも、怖いのか」
「……ああ」
静かな控室に、どこか弱い声が響く。
「…………」
俺と同じなんだな、エースも。
いっそ逃げてしまおうかとも思えてしまうこの状況を同じように感じてるんだな。
「…なぁ、トレーナーさん」
「どうしたんだ、エース」
「ギュって、してくれないか」
その言葉に、俺は身を震わせる。
以前もしたとはいえ、また言ってくるとは思ってもなかったからだ。
「いいのか?」
「アンタと一緒にいると不安が和らぐんだ。だから、頼む」
正直に言うと、俺も人と一緒にいると不安が和らぐ。
若干利用してしまう形になるが、しっかりその思いに応えることにした。
エースの背中に手を回し、優しく抱きしめる。
そのちょっと後に、エースも俺の背中に手を回す。
あったかい。
それが、抱きしめて初めて感じたことだった。
ウマ娘の体温はヒトより若干高いため、それの影響もあるのだろう。
だが、それ以上になにか違う温かさを感じた。
小さいときに母親とハグしたときの、包まれるような温かさ。
それに似ていると思う。
「なあ、エース」
「なんだ?トレーナーさん」
「正直、俺もこうやってると安心する」
「そ、そうか?」
少しだけ照れるような声で話す。
「ごめんな、こんな変なこと言っちゃって」
今の発言は少しだけ後悔している。
担当とはいえ、さすがに変に思われることを言ってしまったな。
「いや、大丈夫だ」
「ありがとう」
そろそろ放そうかと思ったが、なぜか離れない。
背中を見ると手でがっちりホールドされていたのだ。
まあ、こうもなるか。
実際に走るエースは俺と比べ物にならないほどの恐怖に苛まれてるんだろうな。
だったら、俺にできることは一つ。
エースが満足するまで彼女を抱きしめることだ。
その後、この抱擁は呼びかけが来る直前まで続いたそうだ。
同日 同時刻 山本家
三浦にある何の変哲もない一軒家。
その一軒家の中ではひとりのVtuberが配信をしていた。
・みこち今回もエース予想?
「当たり前にぇ。推しで知り合いが担当してる子を推さないわけないにぇ」
・まさかの新情報w
・え、みこちってエースのトレーナーとも知り合いなの?
「うん、知り合いだよ」
・レース関係者と知り合い多いな
・少し裏山
「まあ、偶然の産物にぇ」
改めて思うとみこってすごい人脈持ってるにぇ。
トップアスリートが知り合いとか、ふつうあり得ないにぇ。
・エース長距離走ったことないから不安要素ない?
「だとしてもにぇ。ここで推しを推さないなんてみこの名が廃るにぇ」
・どんな状況でも推しを推し続けるオタクの鑑
・自分はシービー推しなのでシービー推します
「シービー推しの35Pも応援頑張ってにぇ!」
・ありがとうございます!
その間にも、戴冠への時間は近づく。
果たして最後の一冠を手にするのは誰なのか。
その少し後 山本家 リビング
みこちが配信しているころ、リビングではすいちゃんと山本夫婦がテレビを見ていた。
「流石に京都までは行けなかったな…」
「仕方ないですよ。新幹線代は高いですし」
「まあ、今日はここから応援しましょ」
テレビの中ではすでに発バ機がコースに置かれており、後は選手が入るだけとなっていた。
「それにしても遅いな」
「あなた、それ2分前にも言ってましたよ」
「楽しみすぎて、ソワソワしてるだけじゃないんですか?」
痛いところを突かれる宗光さん。
「だ、だって息子の担当の今年最後の晴れ舞台だぞ」
「気持ちはわかりますけど、さすがに急ぎすぎですよ」
「そうよ。ここはおとなしく待ちましょ」
そんなこんなで時間は過ぎる。
王冠は次の覇者を待っている。
同時刻 京都レース場 地下バ道
「いつも付いてきてくれてありがとうな、トレーナーさん」
「これくらいお安い御用さ」
トレーナーさんがいてくれると自信を持てるから、こうしていつも付いてきてもらっている。
本当は好きなトレーナーさんと一緒にいたいという目的もあるが、言えるわけない。
「……なあ、エース」
「おう!どうしたんだ?」
少し間をおいて話し始める
「まだ、怖いか」
「ッ!………あぁ、少しな」
ハグしてもらったが、やはり不安は完全には拭えない。
情けないな、アタシは。
「…なんにせよこれで三冠レースは終わりだ」
勇気づけるように、力強く話し始める。
「今までの全力をぶつけてこい。後悔しないように」
その瞬間、何かがプツンと切れた気がした。
「おう!やってくるぜ!」
そしてアタシは地下バ道の出口に走っていく。
さぁ!やってやろうじゃねぇか!
地下バ道から走り抜けていくエースを見送る俺。
ちょっと弱気な励まし方になってしまったな。
だけど、俺ができることはこれくらいになってしまうのだろうな。
エースを見送った後、関係者席に移動する俺。
もうこうなったら、応援を頑張るしかないか。
見せつけてこいエース、観客にその脚を。
・お、入ってきた
「そうみたいにぇ」
・いよいよだねぇ~みこち
・自分、現地組です
「現地組35P、どんな感じにぇ?」
・丁度ファンファーレが始まって拍手で会場が埋め尽くされてます
・前皐月賞行ったけど、そんな感じだった
「やっぱりG1って凄いにぇ」
・そういうみこちはG1見に行ったことあるの?
・そういえば聞いたことなかった
「一回だけあるにぇ」
そんなことを話しながら、各選手がゲートへ入っていく。
戴冠への時間はもうすぐ。
「いよいよですね」
「あぁ、楽しみだな」
「今回もエースちゃんが勝ってくれればいいけど…」
テレビの中では、丁度最後の子がゲートに入っていた。
「でも確か長距離を走ったことないのよね、エースちゃんは」
「今まで走ってきたの皐月・ダービーは全部中距離だったからな」
「今は応援することに集中しましょう」
恋敵でも、レースでは話が別だからしっかりと応援する。
むしろ、恋敵だからこそしっかり応援するのだろう。
私もVtuber頑張るからそっちもレース頑張ってね、という感じで。
「さあ、いよいよ始まる菊花賞!」
テレビから解説役が勢いよく話す。
「スタートしました!」
冠への3分間がついに始まった。
残り3,000m
一先ず出遅れはなく、順調にスタートできた。
今回の作戦は大逃げではなく通常の逃げ。
これの理由は主にスタミナだ。
幾ら強化したといえど、元々中距離しか走ったことがないので余裕を持った走り方はしにくい。
今回はそれ以外に大きな作戦はなしだ。
「1000m通過!タイムは1分1秒!」
エースは先頭を取り、ペースを落とせた。
何とか有利な条件に持ち込むことが出来た。
後は終盤までこの状況を維持するだけ。
頑張れよ、エース!
残り2000m
今まではある程度ハイペースでも行けたが、今回の菊花賞ではそうはいかない。
長距離ゆえにスタミナを節約しなければいない。
そのためにいつも通り先頭に立ち、ペースメーカーとなってスローペースに落とした。
だけどそれでもスタミナが足りなくなる可能性を考えて更なる手を打つ。
速度を一瞬落とし、少しだけ後続との距離を詰める。
「カツラギエース、少しスピードを落としましたがこれは?」
「おそらくスタミナの節約の為でしょう。ですが多少リスクのある戦術です」
そう、これには他の奴に追い付かれる可能性が上がってしまう。
だけど、この後からちょっとずつスピードを上げることで間隔を維持する!
これが今回のあたしの戦術だ!
さあ!どう出てくる!
ミスターシービー!
残り1800m
アタシは今までエースに勝ったことがない。
でもレースが楽しかったからそれでいい。
今までそう押さえつけてきた。
だけど、その中で何かそれに反比例する気持ちが出てきた。
今までこれが何だろうと思って走ってきた。
そして、今走っていてそれに気づいた。
あぁ、この気持ちって負けたくないって気持ちだったんだな。
爆発しそうなこの気持ち、今解放すべきだと思った。
じゃあ、受け止めてエース。
この気持ちを!
残り1600m
「おっと、ミスターシービー!一気に距離を詰める!」
仕掛けてきたか!ミスターシービー!
シービーはエースに比べて長距離適性がある。
そのことを考えるとこの早仕掛けは理にかなっている。
普段のレースならエースは躱せるだろうが、長距離という条件が足手まといになっている。
しかもエースが減速したタイミングで!
見事と思ってしまうが、エースのことが心配になる。
今のところは距離のリードがあるが、終盤までこれが続いたらどうなるか分からない。
頼む、エース!逃げ切れ!
残り1400m
丁度アタシが減速してきたところで増速してきた!
マズイな、このままだと!
だけど焦ってもどうにもならない。
今は後ろに警戒しつつ距離を保つことに集中する!
安定した戦法を取りながら、現状維持に奔走するエース。
残り1200m
「エースちゃん大丈夫かしら」
「いきなりシービーが詰めてきたから若干不安だな」
前に誰にも話さないという条件で仁君が私に話してくれたことがある。
『俺たちの世界ではエースは菊花賞で大敗した』
『えっ』
『だからこそ、俺はもっと頑張らないといけない。前世界のことを繰り返さないために』
そう語っていた。
だけど、想像以上にシービーちゃんが強い。
一体どうなってしまうんだろうか。
残り800m
よし、エースとの距離をかなり詰めることが出来た。
後はこのまま距離を維持して最終直線で追い抜く!
だけど、このまま負けるわけでもないだろうエースは。
だからこそ、燃える!楽しい!
あぁ、アタシが求めていたレースってこれなんだな。
その思いとともに演出家は走る。
残り400m
くそっ、シービーの圧がやべぇ!
今にも食い尽くされそうな圧だ!
後ろを見ると、シービー以外の奴らは大きく突き放されていた。
アタシとシービーの一騎打ち。
「行け‼シービー!」
「走れエース!」
それぞれのファンの応援が会場全体に響き渡る。
そして、聞きなれたあの声が耳に入る。
「「行け‼エース/シービー!」」
それぞれのトレーナーの応援が一番ウマ娘に響く。
「「ウオォォォォォォォ!!!!」」
それぞれの鬨の声が響く。
「エース!シービー!激しい競り合い!一体勝つのはどっちだ!」
「「勝て!シービー/エース!!!!!!!」」
「シービー!エース!激しい競り合いのままゴールイン!!!!!」!
一体どっちだ!
「果たして一体どっちが勝ったのでしょうか!判定をお待ちください!」
栄光まであと1分
どっちが勝った⁉
これがレース場にいる人全員の疑問だろう。
恐らくあの接戦を見るにハナ差決着。
かなり近くにいた俺達でも全く分からない。
もどかしい。
その感情が俺の心の中を支配する。
永遠とも思える一秒一秒を過ごした後、ついにアナウンスが出た。
「お知らせします。京都第11レースの結果についてお知らせします」
橋塚とともに息をのんで結果を待つ。
「只今の京都第11レースの結果をお伝えします。厳正なる審査の結果……
ミスターシービー1着、カツラギエース2着となりました」
その放送はは会場中に歓声と共に響き渡った。
あぁ、駄目だったか。
呼吸を整える間に無慈悲なほど、その結果は会場中に響く。
可能な限り知略を尽くし、全力も出した。
それでも、それでも……
「エース!」
声の方向を見ると、トレーナーさんが駆け寄ってきた。
そしてそのままアタシの肩を支え、こう言った。
「すまなかった……」
涙ぐんだ声で話すトレーナーさん。
「俺が、駄目な戦術を、言ったばかりに……」
「いや、アタシが、未熟だったから……」
涙がぽろぽろと目から幾人の涙を見てきたターフに吸い込まれていく。
「うぅ…」
「「うあぁぁぁぁぁ!!!」」
その後互いに5分くらい泣いた。
「落ち着いたか、ヒックエースヒック」
「そっちこそヒック、大丈夫ヒックかよヒック」
多少は落ち着いたところで、やって来た橋塚とシービーと話す。
「大丈夫かい、仁」
「何とかなヒック」
「何か拭くもの貸そうか?」
「頼む」
その後それぞれからハンカチを貸してもらったところで本題に移る。
「まずは菊花賞優勝おめでとう」
「あぁ、ありがとう」
「…次は勝つからな」
「…こちらこそ」
互いの鋭い視線がぶつかる。
「それで、次は何に出るんだ?」
「まだ決めてないな。とりあえず王道のシニア路線で行くつもりだ」
「そうか、ならまたぶつかることになるな」
「そうだな、その時はまた頼む」
トレーナー二人が話している中、シービーとエースも話していた。
「三冠勝負はエースの勝ちだけど、菊花賞はアタシの勝ちだね」
「…それは認める。けど、次は勝つからな」
シービーに向かって拳を突き出す。
「そうだね、楽しみにしているよ」
その拳に拳をぶつけ、誓いを立てる。
「青春だなあ」
「アオハルだな」
そんな、以前も話していたことを話す。
「そろそろ取材行った方がいいんじゃないのか?」
ウイナーズサークルを見ると、すでに報道陣が集まっていた。
「いっけね。それじゃあな」
そしてシービーとともに取材陣のもとへ向かっていった。
「それじゃ、俺たちも行くか」
彼らの先は何なのか、誰もわからない。
「負けちゃったね、あの子」
「そうですね、対象から外しますか?」
「いや、観察を続けてみよう。まだ可能性はある」
「主任がそう言うのならそうしましょう」
海底からレース場に向けて、その視線は注がれていた。
「イレギュラーはこれくらいで可能性が潰えるようなものじゃないと信じている」
彼らの検証は続く。