トン、トン、トン_。
トテ、トテ、トテ、トテ_。
無機質な白一色の廊下に、リズムの異なる二つの足音が響く。
一つは、弱冠二十二歳にして目の下に濃い隈を抱える若い男のもの。
そしてもう一つは、背に赤い翼を持つ、先月ようやく六歳になったばかりの小さな少年のものだ。
「ねぇ、おじさん、俺たち今どこに向かってるんですか?」
「おじさんじゃありません。お兄さんです、ホークス。それと改めて言っておきますが、僕の名前は
どうやら『おじさん』と呼ばれたのが相当気に障ったらしい。
それまで必要最低限しか口を開かなかった男が、妙に張り切った調子で『お兄さん』を強調し始める。
その様子に、ホークスと呼ばれた少年は小さく「ごめんなさい」と呟いた。
とはいえこの目良という男、年齢のわりにどこかくたびれていて、ある意味『おじさん』と呼ばれてしまうのも無理はなかった。
彼の目元には明らかな疲労の色が滲んでおり、ベージュの髪は手入れもされずボサボサのまま無造作に顔まわりを跳ねている。
身に着けているのは一応スーツではあるものの、シャツの第一ボタンは外れ、ネクタイは緩んだまま。端的に言って、だらしない。
もっと言えば、絵に描いたような社畜そのものだった。
「それで目良さん、どこに向かってるんですか?」
「会長のお部屋です。今日、君に紹介したい人物がいましてね」
「会長なら、先週にもう会いましたよ?」
少年の素朴な疑問に、目良はやんわりと首を振った。
「これから会ってもらうのは会長ではありません。君の先輩です。公安ヒーローとしてこの先を歩む君にとって、目標とすべき存在になる人物です」
「……もくひょう?」
ホークスは、腕に抱えていたエンデヴァーグッズのぬいぐるみを、きゅっと無意識に抱きしめた。
ヒーローと目標。その言葉を聞いて彼が最初に思い浮かべたのは、No.2の肩書きを持つフレイムヒーロー、エンデヴァーの姿だった。
ホークスは、ほんの一か月前にヒーロー公安委員会___通称「公安」に保護されたばかりの被虐待児だ。
そして、暗闇の底にいた彼を救い上げてくれたヒーローこそがエンデヴァーだった。
ヒーローとは、おとぎ話の中の空想上の人物ではない___そう教えてくれたエンデヴァーは、ホークスにとっての原点であり、憧れでもある。
自分もエンデヴァーのように人々を明るく照らせるような存在になりたいと、ホークスは公安からの保護を受け入れ、この場所でプロヒーローを目指す道を選んだのだ。
「エンデヴァーのようなヒーローを目指すのは素晴らしいことだと思います。目標は高く待てと言いますし、最終目標として彼を掲げるのは大いに結構。ですが、目標と言うものは段階的に設定すべきだと、僕はそう考えています。より身近で、刺激を与え合えるような存在__君にはきっと、そういう相手が必要になる」
年端もいかないホークスには少し難しい話かもしれない。
遠すぎる理想は、ともすればその道筋すら見えなくなり、途中で迷子になってしまう。
目良が言いたいのは、つまりはそういうことだった。
「彼女は現在、九歳。君より三歳年上のお姉さんです。個性が君の剛翼とよく似ていて、知能・戦闘技術のどちらも非常に優秀。ホークス、君には確かに天賦の才能があります。けれど、まだ個性を自在に扱える域には達していない。だからこそ、先輩である彼女の存在は、君の力になるはずです」
「その人が、俺に個性の使い方を教えてくれるんですか?」
自分と似た個性と聞いて、ホークスの翼がパタパタと揺れる。
背中の赤い翼は、ホークスの気持ちをしばしば勝手に代弁してしまう。
翼がはためくのは、ソワソワと気持ちが浮ついているときや嬉しいとき、気持ちが昂っているときだと決まっていた。
そんな期待の眼差しを受けて、目良は少しだけ気まずそうな表情を浮かべる。
「それが……あいにく、彼女はあまり面倒見のいいタイプではないんです。決して冷たい子ではないんですけどね」
斜め上へと視線をやり、まだ見ぬ少女を思い起こしているのか、目良は申し訳無さそうに眉根を寄せた。
「恐らく、彼女が君に親切丁寧に指導してくれる、なんてことは起こらないと考えています。だから、ホークス。君には見て学ぶことをお願いしたい。厳しいかもしれませんが、彼女の背中を追いながら、そばで吸収していってほしいんです」
公安の全面的な支援を受け、ヒーロー養成プログラムを受けるということ___それはつまり、並大抵ではない厳しさと向き合うということだと、ホークスは理解してここに居る。
覚悟ならもう出来ているのだ。
「大丈夫。……俺、頑張ります」
そう答えた少年の翼がいささか萎んでいたことに、彼自身は気が付いていなかった。
__________
「初めまして、鷹見啓悟くん。私の名前は瑠璃川
だだっ広いわりに物が少なく、簡素な作りの部屋の中で___ドアを開けて入室したその直後、ホークスの前に立つ少女は、台本でも覚えてきたかのように淀みなく自己紹介を始めた。
あまりの唐突さに、ホークスは一瞬、胸の内にあった漠然とした不安さえ忘れてしまい、思わずその場で固まった。
いきなりの自己紹介に驚いたのか__否。
彼女の背に生える鮮やかな青色の翼に驚いたのか__否。
彼女の顔にはめられた、異様な雰囲気の不気味な仮面に驚いたのか__否。
その全てに呆気に取られていたのだ。
「……アズール、せめてその仮面を外してから自己紹介しなさいな。ホークスは今日から公安の一員よ。せめて一度くらい、素顔を見せてあげるべきじゃないかしら?」
奥から女性の声が響いた。
その言葉に、ようやくホークスはこの部屋にいるのが自分と目良、そして目の前の少女だけではないことに気がついた。
視線を巡らせると、部屋の奥___ドアと向き合うように置かれた横長のデスクの向こう側に、見覚えのある人物が座っていた。
先週、初めて顔を合わせた公安委員会の会長。
センター分けの白髪に、穏やかな目元。
年齢は五十代とおぼしき、眼鏡をかけた男性だ。
そしてその隣に、秘書のように立っているのが、今まさにアズールに言葉をかけた副会長。
金髪をきっちりとオールバックにまとめ、つり上がった瞳には鋭い意志の強さが宿る。
年齢は四十代半ばほどだろうか。
冷静で毅然とした雰囲気を前にすると、思わず背筋が伸びてしまう。
「申し訳ありません。つい、習慣で」
少女が仮面に手をかける。
猫なのか狐なのか狗なのか、はっきりしないその仮面は、可愛らしい立ち耳と頬に走る赤い切れ込み模様が印象的だった。
どこか不気味で、どこかユーモラスな雰囲気を併せ持っている。
ホークスがその仮面に視線を奪われていると、するりとそれが外された。
仮面の下から現れたのは、まるで硝子細工のように精巧に整った少女の顔。
最初に目を奪われたのは、空の色をそのまま閉じ込めたような淡い水色の瞳だった。
その色とよく似た、絹のように滑らかな髪が肩のあたりで揺れている。
唇には笑みのひとつも浮かんでいないのに、息を呑むほどの可憐な雰囲気を纏っている。
「改めまして、瑠璃川蒼良です。よろしく、鷹見啓悟くん」
蒼良と名乗った少女が、右手を差し出してくる。
その瞳は宝石のように澄んでいるのに、まるで感情というものが抜け落ちてしまったかのような、底の見えない静けさがあった。
人間というよりは、よくできた人形のよう。
そんな印象を抱きながら、ホークスは抱えていたぬいぐるみを小脇に抱え直し、差し出された手に応えようとした。
「アズール」
静まり返っていた部屋に、突然響く低く硬い声。
「ホークスに関する資料は事前に渡しておいたはずよ。あなたほど優秀な子なら、私が何を言いたいか分かるでしょう、アズール」
ぴんと張り詰めた声色で、少女の名をさらに強調して重ねる副会長の言葉は、叱責に近かった。
その視線も声も自分に向けられたものではないと分かっていても、雰囲気に呑まれたホークスの翼は萎んでしまう。
しかし目の前の少女はまるで何事もなかったかのように、
「失礼しました。よろしく、『ホークス』」
そう言い直すと、中途半端に伸ばしかけていたホークスの手を取った。
ホークスの父は、金のために強盗殺人を繰り返し、指名手配されていたヴィランだ。
逃亡中に出会った女と共依存に陥り、そんな二人の間に生まれた子供、それこそがホークス___鷹見啓悟だった。
思い返しても、あれは地獄のような日々だった。
指名手配中の父は極端に人目を恐れ、街外れにあるボロ家で隠れ潜むように生きていた。
ホークスが街に出ようものなら、「俺を売りに行ったのか」と妄想に取り憑かれて暴力をふるい、外出も、人と関わる事も禁じるような人だった。
母の方も、心が半ば壊れかかった状態で父に依存し、息子に目を向ける心の余裕などない人だった。
父はヴィランで母親は精神異常。当人は被虐待児。そんなホークスの後ろ暗い経歴を、公安は揉み消すことに決めた。
「鷹見」という姓を捨て、ヒーロー「ホークス」としての人生を歩む。
それが不幸な少年に与えられた、第二の人生。
だからこそ、公安の職員たちは彼を必ず「ホークス」と呼ぶ。
先ほど「鷹見啓悟」と名前を呼ばれたのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
だが、その名前はもう口にしてはならないのだろう。
目の前の少女も、副会長からの指摘でそのことを思い出したらしい。
この世界にはもう、鷹見啓悟は存在しない。
直前の彼らのやりとりが、改めてホークスに現実を突き付けてくる。
胸の辺りが、何故だかズシリと質量を増していく。
名前など、己という個を構成する数多ある要素の内のたった一つでしかないというのに、何故こうも気が重たくなるのか、理由は自分でもよく分からない。
幼い子供が自分の感情を説明出来ないのはままある事だ。
何故ならそれを把握出来るだけの知識も経験も足りていない。
正体の見えない不快感を追い払おうと、ホークスは翼に力を込め、バサバサと音を立てた。
「綺麗な翼だね。君によく似合ってる」
不意にかけられた少女の声。
淡々としたその口調には似合わない、けれど確かにあたたかな賛辞。
ホークスは思わず動きを止め、少し高い位置にある蒼良の顔を見上げた。
「えっと、その……ありがとうございます。アズールさんも___」
「アズールでいい。私には敬語も必要ない。そういうの、あまり気にしないから」
「じゃあ……ありがとう。アズールの羽も綺麗ったい。お世辞なんかじゃなかよ」
慣れない誉め言葉に戸惑い気味のホークスには、産まれてこの方こんな風に自分の容姿を褒められた経験など一度もなかった。
そもそも自分の姿形など、自分自身ですらあまり気にかけたことはない。
誕生から六年もの間、他者との関わりが極端に乏しい環境に置かれてきた彼は、本来、社会との関係性の中で相対的かつ絶対的に育まれるべきアイデンティティが、未成熟なまま形成されることもなく眠っていた。
自分とは何か。鷹見啓悟とは何者なのか。
そんな問いすら、これまでは意識の外にあった。
曖昧な世界をぼんやりと生きてきた彼の人格形成に、最も大きな影響を与えたのは、間違いなくあのNo.2ヒーローだ。
彼のヒーローとしての在り方がホークスに善性を与え、唯一無二の「正義感」として心に根を下ろした。
そして今日、その未熟ながらもまっすぐな少年は、衝撃的なまでの美しさを湛えた少女と出会い、生まれて初めて自分の翼を褒められた。
自分とよく似た美しい羽を持つ彼女がそう言ったのだ。
その言葉には、疑いようのない説得力があった。
彼女が綺麗と言うのなら、それは確かに美しいのだろう。
ならば自分の背にあるそれも、きっと。
再び、名前のつけられない感情が胸の奥に広がっていく。
けれど先程とは違い、その感覚がどこか心地いい。
賛辞の意味が少しずつ腑に落ちていくにつれ、ホークスの背で小さく翼がパタパタと揺れ始める。
翼は感情に敏感だ。口以上に雄弁に語ってしまう。
そんな少年の様子をじっと観察するように見下ろしていた蒼良が不意に顔を上げ、ホークスの後ろに控えていた目良に視線を投げた。
何か自分に言いたい事でもあるのだろうかと目良が聞き出すよりも早く、蒼良が目良の名前を呼ぶ。
「目良さん。これからホークスを連れて、公安内の施設を案内して回ろうと思うのですが、許可を頂けますか? ホークスはまだ公安に来て日が浅いと聞いていますし、私が適任かと」
「ああ、確かにそうですね。構いませんよ、もちろんご自由に………」
いつものように気の抜けた調子で返事をしていた目良は、言葉の意味を一拍遅れて理解し、口をつぐんだ。
「えっと、その……そういうのって絶対に僕の仕事になると思ってたんですけど、どうしちゃったんですかアズール」
思わず本音をこぼした直後、ハッと我に返って咳払いをひとつ。
「いや、まあ……こちらとしては願ったり叶ったりです。もちろん構いませんよ。僕としても、親睦を深める意味で、ぜひそうしていただきたいくらいです」
「では、次からは最初に遠慮なく命じてください。ご命令とあらば、私は何でも引き受けますので」
不思議そうに小首を傾げながら蒼良が答える。
「……仲良くなることを『命じる』のは違うでしょう。こういうのは、本人たちの自主性が大切なんですよ」
できる限り平静を装いながら言葉を返すも、目良の胸中には小さな動揺が波紋のように広がっていた。
目良善見という男は、瑠璃川蒼良にとって最も近しい立場の大人である。
それは目良自身がそう思っているからではなく、彼女が公安に引き取られて間もない頃から約四年間、まるで世話係のように日々の生活を支えてきたという、紛れもない事実に裏付けられたものだった。
そんな目良から見た蒼良という少女は、目上に対して従順で忠実。
組織の駒としては極めて優秀かつ扱いやすい一方で、自主性はほとんど見られない___言葉を選ばずに言うのなら、「命令がなければ動けないお人形」。
それは目良だけでなく、公安内部における暗黙の共通認識でもあった。
まだ五歳だった頃、彼女は天使のような羽と整った顔立ちを携えて公安にやって来た。
その姿はあまりにも愛らしく、普段は厳格な職員たちでさえ思わず頬を緩めてしまうほどだった。
目良ですら、徹夜明けで頭が朦朧とするような日には、スマホの画像フォルダから蒼良の写真を取り出して、しばし癒やしを得ようとしてしまうくらいには彼女の見目は愛くるしい。
幸運の青い鳥ならぬ、公安の青い鳥。
そんな風にもてはやされていた少女はしかし、どれだけ子ども扱いされようと、どれだけ可愛がられようと、一度としてその愛好を崩したことはない。
今ではその涼やかな色彩と相まって、「氷の人形のような少女」だとか、「ヒーロー養成プログラムの完成形」といった噂があちこちで囁かれているほどだ。
目良は過去に一度だけ、蒼良に「試しに笑顔を見せてくれ」と頼んだことがあった。
存外あっさりと承諾した彼女は、目を細め、口角を引き上げ、確かに笑顔の形を作った。
それは、心の宿らぬ人形のような微笑だった。
目良は詳しい事情を知らないが、公安に保護される以前、蒼良はネグレクトを受けていたと報告されている。
その精神状態は、育った家庭環境に大きく影響を受けているのだろう。
一度精密検査も行われたが、身体的な異常は確認されず、蒼良の性質は病気や障害といったものではないことが証明されている。
表情は硬く、感情は鈍く、何にも執着を示さない。
意志は弱く、思考は浅く、まるで川の流れに任せて漂う木の葉のように希薄な存在。
それがこれまでの、瑠璃川蒼良という少女に対する共通認識だった。
___それなのに。
ほんの数分前、蒼良は誰に指示されるでもなく、自らの意志でホークスに歩み寄った。
傍から見れば、ただの提案。
特筆すべきことなどない、ごく自然な会話に過ぎなかったかもしれない。
だが彼女をよく知る者であればこそ、その行動の意味は決して軽くはなかった。
何しろ彼女はこの四年間、他者に関心を示したことなど、ただの一度もなかったのだから。
「アズール、退室を許可する前に、一つ聞いても?」
目良ほどあからさまではないが、向こう側で同じように困惑していたらしい会長が、思い切ったように蒼良に声をかけた。
「私にお答えできることであれば、何なりと」
「君は……もしかして、小さな子どもが好きなのかい? たとえばそう、弟や妹が欲しかったとか……」
「弟や妹、ですか。特にそういう願望を持ったことはありません。子どもが好きかと問われれば……申し訳ありません、その類の感情は、よく分かりません」
無表情のまま、しかし何かを探るように、蒼良はゆっくりと言葉を紡いだ。
喜怒哀楽が曖昧で、己の好き嫌いさえはっきりと把握できない。
行動指針は他者から与えられる命令であって、それがなければ食べて、呼吸して、眠る、そんな最低限の生活しか送れないであろう少女の、最大限の解答である。
彼女は常にどこか危うさを孕んでいる。
だからこそ、この少女を本当にヒーローに育て上げられるのかという不安の声は、公安内でも後を絶たない。
けれど、目良は知っている。
四年前のある日、ひとりで家を抜け出していた彼女が、近隣住宅のベランダから転落した子どもをその美しい羽で救ったことを。
その現場をたまたま目撃していた目良が、そこで彼女に声をかけた時___あの瞬間から、すべてが始まったのだ。
だからこそ目良は、ホークスといいアズールといい、この小さな雛鳥たちにはヒーローの素質があるのだと、心から信じている。
部屋を出ていく直前、不意に思い出したように、蒼良がくるりとこちらを振り返った。
「私、多分……鳥は好きです。ずっと前から」