隣で膝を抱える少女が青い羽を器用に操って、元気を取り戻した子猫と戯れているのをぼんやりと眺めながら呟いた。
囁きのような独り言は、雨音と乾燥機の音に紛れて誰の耳にも届かない。
自分の力を信じ、自分の可能性に期待して、自分の未来に夢を見る。
そんな事が出来たなら、どんなに呼吸がしやすいだろうか。
ここ最近、消太は自分の進路についてずっと悩み続けていた。
まだ中学二年生。
されど三年生への進級はもう目前に控えていて、来年の今頃にはきっと進路を確定していなくてはならない。
ヒーローになりたい。
幼い頃から、多くの子供たちと同じように自分もそんな夢を抱いていた。
けれど、それを口にした事は一度もなかった。
自分の両親にさえ伝えたことはない。
否定されることが怖かったからだ。
だって自分がヒーローに向いていない事など、自分が一番分かっていた。
人知れず身体づくりをしていた。
自分の個性には攻撃力がほとんど無いことを理解していたから、その欠点を努力で埋める必要があった。
同時に、積み上げた努力が自信に変わる事も期待していた。
けれど中学に上がっても、相変わらず自分の本質は変わらない。
考え過ぎて行動に移るのが遅くなる。
言い換えれば判断力がないとも言える。
消極的で口数も少なく、目立つことは苦手だった。
それなのにどうしてこんな自分が、ヒーローに憧れているなどと口に出来るだろうか。
ヒーローに、なりたかった。
そんな風に思うようになったのは、割と最近の事だったように思う。
自分自身を俯瞰的に見ているもう一人の自分に、「お前はヒーローにはなれないよ」と囁かれて愕然とした。
知っていた。
そんなこと、とうの昔に気づいていた。
けれど今なお、半ば諦めかけてしまった夢をどうしても忘れることが出来ないでいる。
中学を卒業するまでまだ猶予はあるからと、消太は今もまだ、みっともなく夢と現実の狭間で揺れ続けている。
「あ、うんちしそう」
「トイレはリビング出て突き当りを右だ」
「私じゃなくて猫がだよ」
「早く言え、何が要る」
「お兄さんが大量に買って来た猫グッズの中に猫砂がないのは確認済みだから、紙皿と新聞紙で代用しよう」
「無駄な買い物して悪かったな、持ってくる」
ネガティブな思考を強制的に断ち切られ、頼まれた物を手にして急いで戻る。
しかし手渡した新聞紙を、少女の羽が空中で手際よく細切れにしていくのを目の当たりにして、「羨ましい」という感情に歯止めが効かなくなりそうになった。
彼女を抱き上げたとき、その翼は柔くしなやかな感触をしていたことを覚えている。
それなのに、刃物のように鋭利な力も秘めているのかと、その万能さに嫉妬じみた感想を抱いてしまう自分が情けない。
「大丈夫だよ、お兄さん」
「……何が?」
「全部私がするから、お兄さんは見てるだけでいい。だから、悲しそうな顔しないで」
「排泄物の処理が嫌でぶーたれてると思われんのはだいぶ癪だな」
「違ったんだ。だったらどうしてそんな顔をしてるの?何が悲しくて、何をしたら笑顔になる?」
ド直球な質問に、消太の視線が揺れる。
子供に分かりやすく気遣いを向けられ、何だか居心地が悪かった。
「気にしないでいいよ。子供に話すようなことじゃない」
優しさの前に壁を一枚作ってみれば、それ以上は踏み込んで来ることなく「そう」と少女は背中を向けた。
深く考えている訳ではないだろうが、引き際を弁えている彼女の判断力に感謝した。
そんな彼女に指示を仰いで猫の世話を手伝い、二人で手を洗ってリビングへ戻れば、子猫は既に青い羽のベッドの上ですやすやと心地よさげに眠っていた。
食べて動いて出して眠る。そのサイクルのあまりの速さにいっそ感心してしまう。
「そういえば、お兄さんもヒーローが好きなんだね」
穏やかな気持ちで猫の寝顔を観察していた消太に、脈絡なく掘り返されたヒーローの話題。
目を見張り、動けなくなる消太の横で、少女が何かに手を伸ばしたのが視界の端に映った。
「これ、くじ引きの景品でしょ?」
目の前に差し出されたのは、今日消太が引き当てたばかりのステッカー。
帰宅後、机の上に放置していたのを忘れていた。
「ヒーローなんて、だいたい皆好きなもんだよ。そういうの持ってれば学校で友達との話題作りにもなるしな」
「そういうもの?」
「そういうものだ」
「そうなんだ。お兄さんもヒーロー、目指してるのかと思った」
「……そんなにヒーロー好きに見えたか?」
「抱きあげられた時、お兄さんの身体が見た目以上に鍛えられてるのが分かった。歩き方一つとっても、バランスのいい筋肉が付いてるのが分かる。意図的に鍛えてないと、そうはならない」
「お前、すごいな……そんな事分かるもんなのか?というか、本当に色んな知識が詰まってるんだな、その小さい頭に」
少女の慧眼に狼狽える消太に、「知識は武器の一つだから」と謎に含蓄ある言葉が返ってくる。
その発言に、彼女の努力が垣間見えた気がした。
優れた個性に恵まれたからと言って、それにかまけるでもなく、こんなにも小さなうちから目標に向かってひたむきな努力をしてきたのかもしれない。
あの繊細な個性コントロールだって、一朝一夕で身に付くものであったはずがない。
それに気が付いた時、彼女の能力ばかりを羨んでしまっていた自分の浅はかさを恥じた。
自分はこんなに努力しているのに__などと卑屈になってしまった愚かしさを痛感した。
自分が努力しているのなら、同じようにヒーローを志す他の人間も努力している。
そんな当たり前に考えが及ばなかった事を反省した。
「……俺ももっと、頑張らなきゃな」
不思議そうに首を傾げる少女に、一方的な告解の意味を兼ねて、消太は正直な自分の胸中を語る。
「お前の言った通りだよ。俺はヒーローに憧れてる。ヒーローになりたいとも思ってる。でも俺の個性はヒーロー向きじゃないから、その欠点を補うために努力してる最中なんだ」
「お兄さんの個性は、どんな個性なの?」
「”抹消”。視認した相手の個性を消せる。ただそれだけの力だよ」
ゼロから何かを生みだすことは出来ない。
戦闘特化型でもなければ、救助活動で役立つ訳でもない。
そこにあるものをゼロにするだけの力。
そう自己分析している消太が、どうしても自虐交じりの言い方になってしまうのは仕方のない事だった。
しかし、対する少女の見解は違ったらしい。
「どうしてそんなに悲観的な言い方をするの?多方面から重宝されそうな個性なのに」
お世辞など絶対に言えない少女だと察していたから、それが本音なのだと分かってしまう。
だからこそ、消太は戸惑った。
「本当にそう思うか?決定力もなけりゃ応用だって効かない力だ。俺の個性はただ人の足を引っ張るだけで、自分から何か出来る類のものじゃない。誰かを喜ばせるような事も出来ない」
だから、自分の個性を活かして何が出来るとか、どんなヒーローになりたいとか、具体的な未来を想像できないままでいるのだ。
しかし少女は消太の言葉を受けてまた、不思議そうに首を傾げた。
「お兄さんが引っ張るのは、ヴィランの足でしょう?」
思いがけない問いに、消太はただただ唖然とした。
「だったらそれは、仲間を支えるって事と同義なんじゃないの?」
意表を突かれるとはこういう事かと、消太は思った。
物は言いようと言うが、自分の個性をそんなにも肯定的な表現で捉えたことがなかった消太は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「お兄さんの個性は戦闘において抜群に有利だと思う。例えば、手を触れるだけで対象を分解できる個性を持ったヴィランが居たとする。そういう多勢を相手取るのが得意な個性持ちの場合、被害想定は各段に大きくなる。でももしお兄さんがヒーローとしてそこに立っていたなら、形勢を一瞬で逆転できると思わない?」
励ます意図など微塵もなく、飾らない真実を述べているだけの少女の言葉は、消太の心に強く響いた。
「…………すごいな」
「そうでしょ?」
「いや、俺じゃなくてお前が」
「私は今、お兄さんの話をしてたはずなんだけど」
ちゃんと話を聞いていたのかと、どこか不服そうな物言いをする少女に「ありがとな」と感謝を述べれば、何故か伸びて来た小さな掌に頭を撫でられた。
「……何で?」
「私の弟はこうすると泣き止む」
「俺は別に泣きそうになんかなってないよ。ただちょっと……いや、すごく嬉しかっただけだ」
それなら良かったと言いながらも一向に撫でる手を止めようとしない少女を、本当に優しい子供だと思う。
「なんだか俺も将来、お前とチームアップしてみたくなってきたよ。……そのためにも、早いとここのネガティブをどうにかしなくちゃな」
そう言って微笑めば、「そうだね」と手厳しい相槌が返ってきて笑ってしまう。
けれど少女は、「でも」と直後に一言前置きして、
「不安要素が沢山浮かんでくるのは、それだけ人よりも思考能力が高いってことでもある。頭が良い人は強いよ。だからお兄さんもきっといつか、良いヒーローになるんだろうね」
「……お前もしかして、さっきから俺のこと泣かせようとしてる?」
「悲しいの?どうして」
「嬉しいの。ホントありがとうな、未来のヒーロー」
自分の頭に乗っていた少女の手を外し、お返しとばかりに髪の毛をかき混ぜてやれば、「違う」とお叱りの言葉を頂いてしまった。
少女曰く、もっと指先の力を抜くのがポイントだそうだ。
どこを目指しているのかよく分からない指導を受けつつ、少女の頭を撫で回していると、不意に終了を告げる乾燥機の甲高い音が聞こえてきた。
「良かったな。これでお前もようやく家に帰れるぞ、まだ服を脱ぐな」
反射で消太のお下がり服に手をかけて、本日二度目の上裸を晒す少女に流れるように釘を刺す。
そのまま彼女を引き連れて乾いた服を取りに行き、着替え終わってから出てくるようにと指示して、ひと足先にリビングに戻った。
すやすやと眠り続ける猫の側で少女を家に送り届ける準備をしていると、元の格好に戻った少女が部屋に入ってくる。
「とりあえず命は繋いだけど、この後どうするかはちゃんと考えてる?」
子猫を指差しながら言う少女に、すぐには答えを返せなかった。
無計画に連れてきてしまった子猫の今後を、何も考えていなかった訳ではない。
出来る事なら、家族の一員として迎え入れてやりたいと思っている。
けれど、生真面目な消太は猫を飼うという事がどういう事なのか、真剣に考えて理解もしている。
餌やりも排泄物の始末も大変だ。
しつけはきちんと出来るのかと問われれば、経験のない消太に自信はない。
ワクチンと避妊手術だって必要で、病気をすれば人間よりも金がかかる。
猫は長ければ二十年以上生きると聞くし、最期まで責任を持てると言い張れるほど消太はまだ自立出来ていない。
何より父親が猫アレルギーという弱点まで抱えているため、それはほとんど不可能に近かった。
「それじゃあ、私が病院に連れて__」
「いいや、俺がやるよ」
「動物病院に連れて行くのも、飼い主がいないか確認するのも、里親を探すのも全部?お兄さん、やり方分かる?」
「お前ほど詳しくはないけど、調べながらやり切るよ。だから全部、俺にやらせてくれ。最初にその子猫を救いたいって言ったのは俺だ。その責任はちゃんと取る」
オールマイトでもあるまいし、一人の人間が救える命の数にはきっと限りがある。
責任が持てないならそもそも関わるべきではないし、情なんて移すべきじゃない。
ましてや自分はまだ半人前にすら届いていない___それら全てを理解していながら、それでも子猫を救いたいと動き出したのは消太なのだ。
力不足を言い訳になどしたくない。
自分はここまでだと決めつけたくない。
この少女を見ていると、なおのことそう思う。
「頑張り屋さんだね、お兄さんは」
自分の腰ほどしか背丈のない子供にそんな言葉をかけられるのは変な気分だが、嫌ではなかった。
教えられた通りに少女の頭を優しく撫でる。
それからビニール袋と大量のヒーローグッズを手にすると、「行くぞ」と声をかけてリビングを出た。
「__雨、いつの間にか止んでたんだな」
少女の泥まみれの靴をビニール袋の中に入れ、消太のお下がりの長靴を履かせ、青い傘を手に持たせ、いざ出発とドアを開ければ、昼間の大雨が嘘のように、外には陽が降り注いでいた。
「風も止んでる。これなら私、飛んで帰ってもいい?」
「そんなに飛んで帰りたいのか?」
「飛んだ方が早いから。長く家をあけちゃったから、皆が心配してる気がする」
本当は一緒に電車に乗って家のすぐそばまで付き添おうと思っていたのだが、そんな風に言われれば、少女の意見を尊重しない訳にはいかなくなる。
弟へのお土産であるヒーローグッズを少女に手渡し、「仕方がないか」と消太は呟く。
「そりゃ引き留めて悪かった。道中、迷子にならないようにな」
「お兄さんはくれぐれも猫に噛みつかれないようにね。野良猫の場合どんな細菌やウイルスに感染するか分からないから、放置は厳禁だよ。最悪の場合は重症化して死に至ることも__」
「ちょっとした別れの挨拶のつもりが大分重ためのカウンター来たな」
最後まで思いやりたっぷりな少女の忠告は、心に留めておくことにする。
「それじゃあ、そろそろ行くね」
「ああ。またどこかで会ったら、あの猫がどうなったか教えてやるよ」
羽ばたきと共に、ふわりふわりと上昇していく少女に手を振りながら空を見上げれば日差しが眩しく、片手で両目の上に影を作った。
少女とはこれでお別れだ。
次に会ったら__などと言いながら、離れた町で暮らす名前も知らないこの少女と、再び会う機会などもうやって来ないような予感もした。
「__なぁ、」
そう思ったら、消太は知らずの内に少女を呼び止めていた。
自分の向かうべき方向を見据え、まさに飛び立とうとしていた少女が、再び地上に目を向ける。
「俺もいつか、ヒーローになるよ」
初めて、それを口にした。
深い意味など何一つない彼女の言葉が今日、消太の心をいったいどれだけ震わせたのか__それをこの少女が知る日はきっと来ない。
わざわざ口に出して教えるつもりも毛頭ない。
その代わりに、消太は少女を真っ直ぐに見つめ返して笑った。
「___うん、知ってる」
少女は小さく手を振って、そう言ってくれた。
蒼穹に溶け込むように、追い越すように小さくなっていく彼女の翼は鮮やかだった。
雨と少女の通り過ぎた庭にしばらく立ち尽くしていると、そよ風が草木を揺らす音、虫や小鳥のさえずる声が聞こえて来た。
それらに安らぎを感じられたのは、随分と久しぶりの事だった。
「……良かった。ちゃんとまだ、頑張れそうだ」
相澤消太、十四歳。
彼は翌年の春、第一回目の進路希望調査シートの第一志望欄に「雄英高校・ヒーロー科」と記入した。