服を脱ぎ、一糸纏わぬ姿の少女が、全身鏡と向き合うように立っている。
室内の締め切られたカーテンの隙間からは僅かに朝日が漏れ出していて、少女の薄水色の髪の毛を彩るように照らしている。
少女は壁沿いの棚の上、そこに並べて置いてある小瓶の一つに手を伸ばした。
蓋を外し、取り出したのは一粒の黒い錠剤。
それを口に放り投げると、水も飲まずに嚥下する。
すると即効性の錠剤は、飲めば三十秒と経たない内からその効果を発揮し始める。
淡く白むように輝いていた少女の髪の毛はみるみるその輝きを失っていき、日光を吸収する漆黒へ。
髪と同じく氷のような水色だった彼女の瞳も、光を反射しない深い黒へと変色した。
次に少女は、隣の小瓶に手を伸ばす。
取り出した白い錠剤を同じように飲み下すと、身体の内側に熱が生まれる。
内臓に、血液に、筋肉に灯った熱が高まるに連れ、少女の身体が変化していく。
見下ろす床との距離が遠ざかり、室内の見慣れたはずの家具たちが小さく見えるような錯覚__否、今の彼女にとっては、相対的にそうなっていた。
正面の鏡に映るのは華奢な少女の姿ではない。
背丈が伸び、手足が伸び、胸が膨らみ、女性特有の丸みを帯びた、十代後半から二十代前半そこらの女である。
頭髪と虹彩の色を変える薬と、身体年齢を操作する薬。
元に戻るには専用の解毒剤を飲むか、二十四時間が経過するのを待つかの二択だ。
個性と科学の発展した超人社会と言えど、こんな薬が一般に流通している訳もなく、そう簡単に入手できる代物ではない。
では彼女がどのようにしてそれを手に入れたのかと言えば、十歳の誕生日を迎えた日、会長から直々に手渡されたのだ。
社会を支える組織トップの権力を持って、個性由来の薬の開発を特別に進めていたのだと彼は言った。
「___私はレディ・ナガンの後任を、君に頼みたいと考えている」
揺るがぬ視線。
その考えは二年前のあの日からずっと変わらないのだと、男は語った。
「ナガンの喪失は公安にとって大きな痛手だった。彼女の代わりが務まるようなヒーローは、残念ながら今の公安には居ない。日が経つに連れ、彼女の不在による障害が増えて積み重なっているのが我々の現状だ」
薄々察してはいた事だった。
公安には火伊那以外にもプロヒーローが複数名在籍していれど、彼女の抜けた穴を埋められるほど人材に富んでいる訳では無い。
そもそも、『レディ・ナガン』が桁外れに優秀過ぎたのだ。
「だが、私は知っている。私だけが知っている。……あの夜、わずか八歳にして、眉一つ動かさずに彼女を撃ち抜いた君の存在を」
殺してはいない。
出し抜かれた男は二年経過した今もなお、あの日の出来事を誤解したままでいる。
この男は知らないのだ。
少女があんな風に独断で行動を起こしたのは初めての事で、本当に殺さないで良かったのかとあの後何日も考え続けていた事を。
今からでも後を追って殺すべきかと考え、消息を絶った火伊那が見つかる可能性は低いだろうからと、結局行動には移さなかった事を。
「君の能力を疑う者はこの組織にはいない。君の精神力と組織への献身を、私は知っている。期待しているよ、アズール。君が積み上げて来た鍛錬の成果を、君が今ここに居る意味を、必ず証明してみせなさい」
公安ヒーローの裏の仕事を詳細に把握しているのは上層の社員に限られている。
そのため、火伊那が抜ける前後で公安全体の雰囲気はさほど変化がない。
しかし、上層部は確実に焦りを感じていることだろうと思っていた。
彼らはこの危機をどう乗り越えるのだろうと半ば他人事のように考えていた少女は、まさか自分に白羽の矢が立つ可能性など思いつきもしていなかった。けれど___
「アズール、これは命令だ。君は必ず、ナガンの後を引き継ぐヒーローになりなさい」
この国において、幼い子供は守られる側であるべきだという考えが広く浸透している。
ヒーローに年齢制限は設けられていないとは言え、十歳の女の子に命を賭して戦うような無茶を許すほど日本は過激な国ではない。
当然、少女がヒーローデビューした暁には、世間はヒーロー免許を発行した公安を非難するだろう。
それを想定した彼らは、薬を用いて見た目年齢を詐称させ、素顔非公開・年齢非公開・本名非公開のヒーローとしてデビューさせる方法を検討しているのだと教えられた。
『根』構成員には名前がない。
感情がない。
過去がない。
未来がない。
あるのはただ任務。ただそれだけだ。
それだけのために作られた道具に、承諾以外の選択肢などあるはずもなかった。
今回与えられた名前は『アズール』。
演じるべきシナリオは、『たとえどんな手を使ってでも、この場所でヒーローになる事』だと、少女は自分の頭に刻んだ。
______
意味もなく自分の頬に触れ、髪に指を通しながら、蒼良は鏡の中の自分を見た。
手足の短い子供の身体より、遥かに操りやすいと感じる四肢。
色素の薄い水色よりも、よほど目に馴染む黒髪と黒瞳。
前世の自分と酷似した姿に懐かしさを覚えながら、ベッド脇に置いていたヒーローコスチュームを手に取る。
空中戦を想定し、空気抵抗を限りなく軽減した黒のタンクトップとレギンス。
多くの女性ヒーローがそうであるように、身体のラインをしっかりと拾うデザインには無駄がなく、可動域を広げる意味でも優れている。
仕上げに黒い手袋を嵌め、例の仮面を手に取ったところで、ドアをノックする音が聞こえた。
扉の前に立つ気配から訪問者の正体を察した蒼良が「開いてるよ」と声をかければ、ほぼ同時に部屋の扉が開く。
「おい、蒼良。そろそろ時間だ。早く降りてこいって目良さんが急かしてる」
「やっほー蒼良ちゃん、迎えに来たよ!早く行こー!」
同時に現れた大と小、二人の少年の声が重なった。
小さな方が赤い翼をご機嫌に広げながら蒼良の元へ駆け寄って行き、慣れた動作で広げられた両腕の中に飛び込む直前、いつもとは様子の違う彼女の姿に気がつき反射的に立ち止まった。
蒼良の周りをグルグルと回りながら観察する啓悟に、「まだ慣れない?」と蒼良が疑問を口にする。
二人の前ではもう何度かこの姿を見せているのだが、啓悟の中では目の前の成人女性を蒼良と結びつけるのに、毎回時間がかかるようだ。
一方廻の方はと言うと、勝手知ったる様子で蒼良の部屋のクローゼットを開け、何やらゴソゴソと物色していたかと思えば、その手に目的の衣服を持って振り返った。
「ほら、着ろ。今度からは着替えの途中で人を入れるなよ」
「着替えはもう終わってるけど」
「お前のその真顔でとぼけるのどうにかしろ。下着同然の格好で外に出るのは許さないって前にも言ったよな?」
「他のヒーローも似たような格好で活動してるって私も前に言い返した」
「覚えてないし他の奴らなんか知るか。お前以外の有象無象が下着で往来闊歩してようが俺には微塵も関係ねぇよ」
「私だけが駄目なの?」
「そうだよ、お前だけが駄目だ」
「どうして」
「俺が嫌だから」
「……それなら仕方ない」
雑に放り投げられたそれを蒼良が仕方なく受け取ると、廻が顎をしゃくりながら「早く着ろ」と無言で催促してくる。
不快気に眉を寄せるのはもはや彼のデフォルトではあるが、それが蒼良に向けられることは非常に稀だ。
そんな少年の不機嫌顔を見せつけられてしまっては、与えられた服に袖を通さない訳にはいかなくなる。
渋々白いショートパンツを履き、同じく白の、背中に翼用の穴が空いたオーバーサイズジャケットを羽織れば、啓悟が嬉しそうに「うんうん、そっちん方がかっこよかよ。黒一色はちょっと地味過ぎるけんね」と親指を立てて笑顔になった。
この度本格的にヒーローコスチュームを考案するにあたって、機能性ばかりを重視し、絶望的にセンスのない少女をサポートしたのは啓悟と廻と目良の三人であり、その中でも啓悟はデザインへのこだわりがひと際強かった。
例えば、ジャケットの首元にはフワフワの白いファーを付けるべきだとか、蒼翼と同系色のラインを入れるべきだとか。
そんな彼の主張が詰まったコスチュームを纏う蒼良を前に、大変満足そうである。
「軽量かつ通気性の良い特注素材だ。暑いだとか邪魔だとかは、脱いで良い理由にはならないからな」
先を見据えた廻の忠告に、先手を打たれてしまったなと思いながらも、蒼良は観念して頷いた。
ちなみに、ヒロコス考案の際、最も横から口出しをしてきたのは意外にもこの廻である。
自分と同じく、あまり衣服に関心を持つタイプだとは認識していなかったので、蒼良は少なからず驚いた。
どうやら廻は、身体のラインが強調される服装をとても嫌っているらしいと、その時蒼良は学んだのだ。
「ところで啓悟、その手に持ってるパンパンのバッグの中には何が入ってるの?」
肩に斜め掛けされた啓悟のバッグがふと目に入り、尋ねてみる。
蒼良の記憶では、本日は蒼良のヒーロー免許取得試験日だ。
会場までの案内担当が目良で、蒼良の活躍をぜひ見守りたいと授業参観気分で同行を志願したのが廻と啓悟の二人だった。
手ぶらの廻とは対照的に、見学担当の啓悟がいったい何をそんなに用意するものがあったのかと不思議がる蒼良の前で、得意げにバッグのジッパーが開かれた。
「なるほど。双眼鏡にカメラにお菓子、水筒、お菓子、お菓子、お菓子__」
「遠足気分か。浮かれてんじゃねぇぞ」
見えた中身を一つ一つ蒼良が読み上げていると、横から廻の鋭い突っ込みが飛んでくる。それを軽く聞き流しながら、
「ウェットティッシュとゴミ袋は?」
「もちろんちゃんと入っとる!」
「偉いね、完璧だ」
蒼良に褒められえへへと啓悟が破顔すると、「助長させるな」とまたしても横槍が飛んできた。
「飴だけを与えられて育ったガキなんて、将来碌な大人になりゃしねぇぞ。お前が本当にそいつの為を思うなら、他にもっとやるべき事があるだろうが」
蒼良と啓悟の間に割り込むように立ちはだかり、廻が真剣な眼差しを向けてくる。
諭すような真摯な物言いに応えるように、蒼良も背筋を伸ばして話の続きを促した。
「やるべき事……具体的には?」
「叩くんだよ、鞭で」
「なるほど、これが飴と鞭……みたいなひらめき顔やめようね蒼良ちゃん。これをヒーロー候補生にスカウトした人の目は節穴やけんね」
とても現代日本で育まれたとは思えない教育理論を展開する廻に、「廻くんっていつからこんなに邪悪なん?」などと啓悟が疑問を呈しているが、その答えは蒼良にも分からない。
出会った時には既にこの性格だったような気もするし、生来のもの、というのが正解のような気もするけれど。
こんな調子で蒼良に誤った知識を詰め込もうとする事が稀にある廻の事を啓悟は警戒しているようだが、その心配は杞憂である。
耐え難い苦痛の先でしか得られない力がある事を蒼良は知っているけれど、この世界でそのやり方を取り入れるつもりは毛頭ないのだ。
この世界での蒼良はヒーローであり、二人の少年は同僚である前に、蒼良が庇護すべき対象である。
泣かせてはいけない。
傷つけてはいけない。
苦しませてはいけないのだと、火伊那から学んだそんなヒーローの在り方を、蒼良は全うするつもりでいる。
「__悪かったですね。僕の目が節穴だったばっかりに」
不意に後方から聞こえてきた声に、啓悟が「ぎゃっ!」と短い悲鳴を上げてその場で小さく飛び跳ねた。
振り返れば、いつの間にやら扉のすぐそばに立っていた目良が、壁に寄りかかりながらジト目で三人を眺めている。
「わはは、やだなぁ目良さん。さっきのは言葉の綾やって。……どの辺りから聞いとったん?」
内心の動揺を隠しきれない啓悟の作り笑いを前に、目良は一度視線を逸らした後、静かに嘆息した。
「そんなに怯えなくとも、咎めるつもりなんてこれっぽっちもありませんよ。君たちが互いに名前で呼び合っている事なんて、とっくの昔に気が付いてます」
想定外の返答を受け、空白の時間が数秒流れる。
それから徐々に目を大きく見開いた啓悟は、ワンテンポ遅れて「えええ!?」と驚きの声を上げた。
「これでも君たちと過ごす時間は比較的長い方ですから。無意識でしょうが、何度か僕の前でも口を滑らせていましたよ」
「ほ、ホントに……?廻くん、大戦犯ばい謝って」
「お前今ノータイムで俺を犯人扱いしたな?蒼良、鞭だ。持ってこい。なければお前の羽で作った刀でもいい」
「良くないし、渡さないし、今はそれどころじゃない気がする」
先程よりさらにエスカレートした教育的指導を施そうとする廻の要求をかわしながら、蒼良は窺うように目良の顔を見上げた。
真意を探ろうとする少女の視線を受け、目良は両掌を見せながら手を挙げて肩を竦めて見せる。
「咎める気がないと言ったのは嘘じゃありません。そうする気ならとっくに上司に告げ口をしてるはずですよ」
「では、黙認すると?誰よりも仕事人間な貴方が?」
「それを君が言っちゃうんですか……?君がそうであったように、僕にだって多少の柔軟性というものがあったんですよ」
社会人たるもの、定められた規則は守るべきだと考えていた。
仕事において信用というのは非常に大切で、それを得るために日々真面目に業務に取り組むべきだと考えていた。
けれど、三人の子供たちが互いを気やすく名前で呼び合う姿を見てしまった時、目良はごく自然に自身の考えを改めたのだ。
友のように、兄弟のように接する彼らの姿は、ビジネスライクなヒーローネームで呼応し合うよりよほど健全なものに思えた。
家族を持たず、この場所で孤独にヒーローを目指す子供たちが寄り添い合おうとする姿は、ひどく優しい光景に見えた。
今は亡きかつての同僚が、規則を無視して少女を名前で呼ぶたびに、それを非難していた自分のなんと短慮な事だったか。
「……それに、いい傾向だと思ったんです。君が変わっていく事が、僕は嬉しい。変わろうとしている君の邪魔はしたくありません」
「お言葉ですが、私は変わった覚えもなければ、変わろうとした事もありません」
「ええ、僕の目にはそう映ったというだけの話です。社会の荒波に揉まれて疲弊した大人の戯言だと聞き流してもらって構いません」
納得いかなさそうに首を傾げる蒼良に、今はそれ以上の説明をする気はなく、目良は「さて」と視線を切り、廻と啓悟を順繰りに見つめた。
「それではお話もほどほどにして、出かけましょうか。今日は蒼良の晴れ舞台です。啓悟も廻くんも、大人しく、いい子に、くれぐれも問題は起こさないようにしてくださいね」
全員の名前を口にして、言外に自分が味方である事を示しながら、目良は口元を緩めた。
廻にだけ敬称を付けたのは、決してビビったからとかではない。決して。
優しい微笑を浮かべたまま回れ右して歩き出した目良の背に、「目良さん……」と思わずこぼれ落ちたような啓悟の呟きが届く。
「あんまりこんな事言いたくないんやけど、気安く蒼良ちゃんを名前呼びせんで欲しか……」
「まったくだ。俺たちの許可も得ずに図々しいにも程がある。あんたはいつからそんなに偉くなったんだよ」
「嘘でしょう君たち。今の流れでこんなに責められることってあります?」
「廻くん、目良さんは出会った時から私たちの上司だったよ」
予想外のアタッカー出現に戸惑う目良を置き去りにして、子供達がああだこうだと言い合いながら部屋を出て行く。
途中、振り返って「行きましょう」と声をかけてくれた少女の気遣いを、他二人にも見習って欲しいと目良は思った。