暗部の忍が転生して公安ヒーローになる話   作:ぴのっきお

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怖くないよ

ヒーローたるもの市民第一。

プロヒーローというものは、勤務時間外に管轄区域外からの増援要請を受けたとしても、快諾一択しか許されていない生き物だ。

もちろん蒼良の場合は命令とあらば何の不満もなく動くのだが、周囲のお子様たちはそうもいかない。

 

夕食中、急遽席を外さねばならなくなった蒼良に対し、表情で行かないでと伝えてくるのが啓悟、「適当な理由を付けて断れ」とヒーロー見習いにあるまじき発言をするのが廻。

そして、そんな二人を何とか宥めて送り出してくれたのが目良だった。

 

緊急要請の内容は、数日前に東京都内のとある一家が一夜にして突如全員行方不明となった事件に関するものだった。

一家が住んでいた住宅は跡形もなく崩壊しており、警察とヒーローは犯人を捜索中。

現場には複数の血痕や肉片が残っていたものの、どれも一見しただけでは元の姿が判別できないほどの酷い状態だったと聞く。

 

その家の住人は祖父、祖母、父、母、娘、息子、そしてペットの犬が一匹。

そしてその中で、唯一息子だけが行方不明中。

この度の任務内容は、ようやく目撃情報が上がったというその少年の捜索だった。

索敵を得意とし、住所を都内に登録している蒼良に声がかかるのも頷ける内容である。

 

とは言えど、都内は広くて複雑だ。

既に多くのヒーローが投入されて捜索に当たっているのに見つかっていないという現状からも、長期戦は覚悟の上で任務に臨む___はずだった。

 

夜の街に解き放たれた青い羽の一枚が、その日のうちに細い路地裏で一つの生体反応を発見したのは奇跡に近い偶然だ。

それは通常、こんな時間にこんな場所で一人うずくまっているはずのない、小さな人間の男の子だった。

 

 

 

 

 

夜の街にひっそりと延びる細い路地裏には、街灯の頼りない明かりがぼんやりと注ぎ込み、冷たいコンクリートの壁に濃い影をいくつも落としていた。

周囲に人影はなく、どこか遠くを通る車のエンジン音だけが、かすかな振動を伴って地面に響いている。

 

その薄闇の中で、少年が地べたにしゃがみ込み、頭を垂れ、ガリガリと自分の顔を掻きむしっていた。無造作な灰色の髪に、細身な身体。ぼそぼそと呟きを漏らす唇は乾燥して裂け、爪先で引っ掻いた頬からは細かな血が滲み、ぽたりと滴り落ちていく。まるで世界に取り残されたかのような静寂と孤独を纏うその姿は、見る者の胸を痛めるほどに弱々しく痛々しいものだった。

 

 

「___血が出てるよ。それ以上は掻かない方がいい」

 

 

蒼良がそっと声をかけると、少年はいっそ哀れなほどにその場でビクリと飛び跳ねた。

なるべく驚かさないように気をつけたつもりだったが、任務中の癖で足音を消して歩いていたのが良くなかったらしい。

 

こちらを見上げた少年は、皺だらけの瞼と異様な眼光を携えており、その精神状態が普通ではない事を感じさせた。

右目と唇には裂けたような傷跡がある。

治療しようと蒼良が一歩近づいた瞬間、少年は逃げるように後ろに下がって、真後ろにあった壁に勢いよく頭をぶつけた。

 

 

「……ごめんね」

 

 

少年は何も答えない。

代わりに、ヒューヒューと荒い呼吸音が静かな路地に反響している。

そんなつもりは全くもって無かったのだが、まるで小動物をいたぶっているような構図だ。

少年が心底怯えているのがヒシヒシと伝わってきて、何だかとても酷い事をしている気になってしまう。

 

 

「大丈夫、怖くない。私は危害を加えないよ」

 

 

両手を顔の横で開いて見せて、敵意はないのだとアピールしてみる。

しかし少年は依然として鋭い眼光でこちらを睨みつけており、これではまるで警戒心むき出しの野良猫だ。

 

どうしたものかと頭を悩ませていた蒼良は、しばらくして不意にひらめいた。

そうだ。この仮面が怖いのだと。

思えば啓悟もこの仮面を不気味だと評していたような気がするし、子供受けが悪いのだとここで初めて蒼良は気がついた。

一度その場から撤退し、変装解除用の薬を飲むと、今度は素のままの姿になって少年の前に歩み出た。

 

 

「どうだろう。この姿は怖くない?」

 

 

首を傾げて尋ねてみると、少年は目をパチクリと丸くして蒼良を見た。

ギュウギュウと後ろの壁に押し付けていた身体からは力が抜け、その場にヘタリと座り込む。

 

 

「こんな所で何をしてたの?自分の家の場所は分かる?」

 

「……分かんない」

 

 

か細い答えが返って来た。

興奮状態だった少年の心にいくらか余裕が出て来たらしい事を察して、蒼良は立て続けに質問を投げかける。

 

 

「それなら、名前と年齢を教えてくれる?」

 

「……志村、転弧。五歳」

 

 

捜索中の少年の名前と彼の名前が一致した。

 

 

「ありがとう。それじゃあ転弧。貴方はいつから一人で外を歩いてるの?」

 

「……覚えてない」

 

 

転弧が身にまとっている衣服は泥にまみれてボロボロだった。

彼はそう短くない日数を一人彷徨って過ごしていたはずだ。

このやたらと人口の多い街で、今日まで彼が誰の目にも留まらなかったはずがない。

沢山の人間に見て見ぬ振りをされ続けたのだろう。

 

プロヒーローが当たり前のように周辺をパトロールするこの世界では、多くの一般市民は街中のトラブルの解決を「ヒーローの仕事」と捉えており、仮に目の前でトラブルが起きていてもヒーローの邪魔をしないため、あるいは単に面倒事を避けるために、自分からは手を出さないという土壌が出来上がっている。 

蒼良は今まさに、そんなヒーロー社会の弊害を目の当たりにしていた。 

 

 

「私と一緒に行こう。ご飯を食べて、お風呂に入って、温かい場所で休もう」

 

 

彼の今後の引き取り先云々よりも、まずはそれが優先だろうと考えた。

この少年に今一番必要なのはきっと、心と身体の休息だと思うから。

差し出した手に、転弧はフラフラと近づいてきた。

しかしその手を取ろうとしたところで、突然ブルっと身体が震え、怯えたように蒼良を見上げる。

 

 

「僕が触ると、壊れちゃう……」

 

 

転弧の呟きに、蒼良は首を傾げた。

 

 

「あのね……、自分でもよく分かんない。抑えられなくて、壊したくなくても、勝手に壊れていっちゃうの。だから……だからね、僕が触ると……お姉ちゃんも壊れちゃう」

 

 

ノロノロと後ずさりながら転弧は言う。

頭を垂れ、猫背になって、蒼良から目を背けるようにして怖がっている。

話の内容から推察するに、個性の暴走のことを指しているのだろう。

丁度身内に触れたものを分解出来る個性持ちがいたおかげで、蒼良はすぐに察することが出来た。

 

 

「転弧の個性はどんな個性?」

 

 

蒼良がしゃがみこんで転弧の顔をのぞき込むと、小さな頭が不安げに左右に揺れた。

 

 

「よく、分かんない……ただ、全部壊れてく」

 

「そうなんだ。それじゃあ、私の羽で実験しようか」

 

「じっけん……?」

 

「そう。この羽には痛覚がないから、いくら壊しても大丈夫。転弧の個性を私に見せて」

 

 

蒼良は落ち着いた口調で告げ、指先で青い羽を一枚摘まんで差し出した。

だが転弧の表情は、ますます怯えを帯びていく。

どうやら彼は、自分自身の個性をひどく恐れているらしい。

 

蒼良が根気よく言葉を重ねることで、どうにか転弧は羽を受け取ることを了承した。

 

二本の指でつまむ――何も起きない。

両手で軽く掴む――何も起きない。

手に持って振ってみる――何も起きない。

五本指を羽に当てる――その瞬間、羽の表面がゆっくりとひび割れ始め、最後には細かな塵となって崩れてしまった。

 

 

「う、ぁ……っ!違うよ!僕、わざとやった訳じゃ……!壊したくないのに勝手に壊れたんだ!ほんとだよ!」

 

それまでの頼りなげな声が嘘のように、転弧は必死に言い訳を始めた。

まるで自らの無実を必死に訴える罪人のような悲壮な姿だ。

 

動揺している転弧を落ち着かせるため、蒼良は彼の頭を撫でながら情報を整理した。

 

個性はおそらく『崩壊』。

発動条件は五本の指すべてで対象物に触れること。

また転弧の言葉から察するに、条件を満たすと本人の意思とは無関係に、強制的に個性が発動するようだ。

廻の個性に似ているが、制御が難しく扱いにくそうな個性だった。

 

東京都内のある一家が、一晩で突如として壊滅した事件。

生き残ったのは息子ただ一人。 現場には、もはや人の形を留めていない肉片が散乱していたという。

――蒼良は、事件の真相が今まさに判明した気がした。

 

 

「帰ろう。夜は冷えるから」

 

 

ポケットからヒーローコスチュームの黒い手袋を取り出し、親指と人差し指の部分だけ切り取った。

その時使用した忍術については、「手品だよ」と適当に誤魔化しておく。

 

 

「はい、転弧。これをつけてみて。大人用だから少し大きいけど、とりあえずの応急処置だよ」

 

 

蒼良は何の躊躇もなく転弧の手を取り、手袋をはめようとした。

そのあまりの無防備さに、転弧のほうが驚いて悲鳴をあげそうになる。

少しでも指が触れ合えば命を落とすかもしれないというのに、この少女には恐怖という感情が欠如しているのだろうか。

親指と人差し指を覗いた三本指だけが覆われた手袋を装着した転弧を見て、蒼良が軽やかに告げる。

 

 

「これでもう怖くないね。それじゃあ、行こうか」

 

 

突然握られた右手に、今度こそ転弧は驚いて思わず手を引き抜いてしまった。

 

 

「お、お姉ちゃん……!僕が怖くないの?壊れちゃうかもって思わないの?」

 

 

蒼白な顔で転弧が問いかけると、蒼良は平然とした面持ちで答えた。

 

 

「怖くないし、思わない。そのための手袋だよ」

 

 

一切の動揺が感じ取れない表情だった。 そんなことは転弧にだって分かっている。

けれど普通、人は死への恐怖をこんな薄い布一枚で乗り越えられるはずがないのだ。

もし何かの間違いでこの少女を殺してしまったらと、転弧は先程から気が気ではないと言うのに。

 

 

「……僕、人を殺したんだよ」

 

 

転弧はぽつりと呟いた。

その言葉は忠告のつもりだったのか、それとも懺悔のつもりだったのか、自分でもよく分からなかった。

口にした直後、もしも蒼良がこの告白に怯えて離れてしまったらどうしようと、激しい後悔が胸に湧き起こる。

 

今日まで、いくら人混みの中を歩いても、転弧に声をかける者など誰一人としていなかった。

そんな孤独の中、蒼良は初めて手を差し伸べてくれた人だった。

この人を失えば、もう誰も自分の側には来てくれないかもしれないと、焦りと不安が胸を締め付ける。

 

だがそんな転弧の懸念をよそに、蒼良は動じる様子もなく、「個性が暴走したんだね」とただ一言返した。

転弧は信じられないものを見るような眼差しで蒼良を見つめる。

 

 

「最初は……最初は、ぼ、暴走だったんだ。急に、個性が出ちゃって……。でも、お父さんの時は違う。僕、お父さんのこと……殺したかった。だから殺したんだよ……」

 

 

転弧の告白を蒼良は黙って聞いていた。

怯えるでも責めるでもないその無表情に、転弧は彼女が何を考えているのか全く掴めない。

それがますます得体の知れぬ不安を増長させていく。

 

 

「僕はね、ずっとお父さんのことが、き、嫌いだった。お父さんの建てた家も……お父さんに逆らえないお母さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも。……嘘つきで、守ってくれない華ちゃんも。全部……全部嫌いだった」

 

 

震える声と滲んだ視界。

言葉を吐き出すたび、転弧は自分自身が恐ろしくなっていく。

 

 

「消えちゃえばいいって思った。お父さんを壊した時……た、楽しかった。ずっと痒かったのが、あの時だけは消えて……」

 

 

だけどあの時から、ずっと自分が気持ち悪い。

人を壊して快感を得るなんて、人間のすることではない。自分が化け物だったと気付いた瞬間から、怖くてたまらなくなった。

 

 

どうすればいいのか分からなかった。

助けてくれと、手当たり次第に叫びたかった。

けれど転弧を蝕む罪の意識が、その喉に蓋をした。

人殺しの自分は、助けを呼ぶことすら許されないと思っていた。

だって転弧はあの瞬間、心からヴィランになっていた。

 

ずっとヒーローに憧れてきた。

「君はヒーローになれる」と、その一言を家族に言って欲しかった。

けれど今、転弧にはそんな願いを抱くことすら許されない。

 

転弧の話に静かに耳を傾けていた蒼良は、「そう」と小さく口にした。

他にどう返せば良いのか思いつかなかった。

こういう時、どんな顔をして何を言うのが正解なのか分からなかった。

 

そんな蒼良の返答が、転弧にはよほど軽薄に聞こえたのだろう。

ぽつりと「何で……」とこぼした後、カッとなったように声を荒げる。

 

 

「怖くないの……!?分かってるの!?僕は人殺しなんだよ!それも、自分の家族を殺したんだ!」

 

 

それまでの弱々しい態度が打って変わって、声を張り上げて泣き叫ぶ転弧に蒼良は戸惑う。

しかし先程の自分の何かが彼を良くない形で刺激したのだという事だけは、鈍い蒼良でもハッキリと理解できていた。

 

 

「転弧、さっきも言ったように私は貴方を怖いとは___」

 

「僕がその気になれば、お姉ちゃんだって今すぐここで壊せるんだ!!」

 

 

たとえその能力があったとしても、あれほど自身の個性に恐れを抱いていた少年がそんな事をするはずがない。

それなのに、どうして転弧はわざわざその可能性を示唆するような発言をするのか。

まるで、蒼良を脅すような視線の意味は何なのだろうか。

こちらを威嚇するように睨みつけている転弧___その瞳から目を逸らすことなく見つめ返していると、不意に彼が自分に求めているものが何なのか、蒼良には分かったような気がした。

 

 

「……転弧は、私に怒って欲しいんだね」

 

 

転弧の動きがピタリと止まった。

呼吸すら押し殺すかのように、口を閉じ、俯いて何も言葉を返さない。

蒼良の指摘通りだったのだ。

楽になりたかった。楽になりたいから、誰かに責めて欲しかった。

けれどそれは、誓って意図していた訳ではない。

 

人を殺めた罪悪感に押し潰されそうだった。

一人では抱えきれなくなった。

誰かに懺悔して、石を投げてもらう方がよっぽど楽になれるのではないかと、転弧本人ですら知り得ない場所で、心の防衛機能が働いた結果だったのだ。

 

 

「私には転弧の望むものはあげられない。だって、私も人殺しだから」

 

 

唐突な自白に、転弧の身体が強張った。

 

 

「私も昔、自分の家族をこの手で殺した。血は繋がってなかったけど、小さな頃から一緒に育った兄弟たちを何人も。個性の暴走じゃなくて、自分の意志で」

 

 

沈黙を選び、ただ目を見開くだけの転弧を見下ろし、蒼良は「安心して。転弧を傷つける事はないから」と付け添えた。

違う。転弧は蒼良に怯えたわけではない。

ただ理解ができなかった。

自分と同じ罪を犯し、それなのに今、転弧の眼の前で飄々と生きていられる少女の事が分からなかった。 

 

 

「それと、人が個性の使用に快感を覚えるのはよくある話だよ。私も空を飛ぶのを気に入ってる。転弧の感情は至って正常だと思う」

 

「何……言ってるの?正常な訳ない……気持ち悪いよ……」

 

「気持ち悪くない」

 

「お姉ちゃんはおかしいよ……。自分の家族を殺しておいて、本当に何も感じなかったの?今も何も感じてないの ……?僕は……っ、僕はあの日から、ずっと後悔してるのに……ッ!」

 

「……後悔?」

 

「こんな風になるなら、個性なんて一生使えなくても良かったんだ……!ずっと痒くて辛くたって良かった!僕は皆のことが嫌いだったけど、本当は、ほんの少しだけ……少しだけ、好きだったから……」

 

 

目の前で子供が大粒の涙を流しているのに、蒼良にはやはりかけるべき言葉が見つからない。

もしも自分にも正常な心があったなら、ヒーローらしくこの少年を救うことが出来たのだろうか。

 

 

「お姉ちゃんは好きじゃなかったの……?自分の家族のこと。兄弟のこと。嫌いだから殺したの……?」

 

「違うよ。そうするしかなかったから殺した。彼らに対して何を思っていたのかはもう、何も思い出せない」

 

 

それなのに、彼らの心臓を串刺し、首に刃を突き立てて、その命を刈り取った感触だけは今も鮮明にこの掌に残っている。

死体があった。

溺死した死体が。焼死した死体が。感電死した死体が。

貫かれた死体が。引き千切られた死体が。

あの時、蒼良の前には死体ばかりが転がっていた。

 

突如過ぎった過去の記憶の断片を、首を振って振り払う。

しかし一度脳内への侵入を許してしまったそれは、追い払おうとする蒼良の拒絶をすり抜けて、嘲笑うようにその耳元に囁きかける。

遠い遠い笑い声が聞こえた。

今の蒼良と同じくらいか、それよりも少し幼いくらいの兄弟たちの、無邪気な笑顔ばかりが見えた。

いつの間にか無意識に目を閉じてしまっていた蒼良は、ふと目を開き、自分の掌に視線を落として、いつかの火伊那を思い出した。

 

___蒼良の手ももう、あの頃からずっと真っ赤に染まっている。

 

それを再度自覚した突如、木霊していた兄弟たちの明るい声が絶叫へと変わった。

愛らしい表情が苦悶と恐怖の泣き顔に変わった。

息のある者は誰一人居なくなった。

生き残った者はもう、蒼良を除いて一人も居ない。

血の気を失い、泥と血にまみれた彼らの前には、うっそうとした静寂と自分だけが___

 

 

「あ……ぁ……、ごめんなさい……ッ!」

 

 

蒼良の意識を目の前の現実へと引き戻したのは、突如握られた左手の感触と涙混じりの謝罪だった。

見れば、転弧が小さな両掌でしがみつくように蒼良の手を掴んでいる。

あれほど何かに触れる事を恐れていた少年が、必死な顔で涙を流しながら。

 

 

「違う……僕、お姉ちゃんを責めたかった訳じゃない……ごめん、ごめんなさい……」

 

 

溢れ出す涙を止められず、転弧の頬が濡れている。

瞳の端から次から次へと涙がこぼれ落ちていく。

 

 

「私なら何も問題ないよ。謝る必要なんてない」

 

 

蒼良からすれば、責められた覚えも謝罪を欲する理由もなかった。

謝罪の意味が分からず困惑していると、「だって」と転弧が口を開く。

 

 

「お、お姉ちゃんの手、震えてる……。嫌な事、思い出したくない事、僕のせいで思い出しちゃったんでしょ……?だから、ごめんなさい……もう、怖がらないで……」

 

 

蒼良の手を握り、祈るように自身の額をつける転弧。

少年の揺れる肩が、震える両手が、まさか自分の左手から伝わったものだなんて、きっと指摘されねば蒼良は気づかないままだった。

左手に意識を向けて震えを止めると、転弧は泣き濡れた顔に僅かな安堵の表情を浮かべ、そっと自分の両手を離した。

 

 

「怖くなんてない。私は大丈夫。転弧こそ、無理はしなくていい。触りたくないなら、触ろうとする必要はないんだよ」

 

 

泣きじゃくる転弧は返事をしない。

泣き声を押し殺すのに精いっぱいで、これ以上は意味のある言葉を発する事が出来ないようだ。

 

この少年の方こそ、いったいどれほど怖かったのだろう。

家族に手をかけた事を悔やみ切れないほど悔やみ、何かを壊すことに怯え、それでも己の心の安全よりも蒼良を慰める選択をした彼の勇気は、いったいどれほどのものだったのだろうか。

 

 

「……一緒に帰ろう」

 

 

返事はなかった。

けれど、蒼良が肩を抱くように押して歩けば、手の甲で目を擦りながら小さな足が動き出す。

転弧の歩くペースに合わせて蒼良もゆっくりと歩を進めていると、次第にそのスピードが遅くなり、不意に転弧の身体がカクンと脱力した。

咄嗟に抱き留めた蒼良の腕の中、少年は苦痛に顔を歪めながら眠っていた。

 

決して良い夢を見ている訳ではなさそうだが、張り詰めていた糸が切れたのだろう。

転弧の身体を抱え上げ、蒼良は公安本部へと戻った。

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