転弧の公安引き取りが決まり、手続きを終えるまでに要した月日は実に一ヶ月を超えた。
未解決だった志村一家の事件の後処理や、目良と蒼良による上層部の説得、その他書類上の手続き諸々に少々苦戦したからだ。
その間蒼良はアズールとしてのヒーロー活動を一時お休みし、公安本部にてほとんどの時間を転弧と共に過ごしていた。
悲惨な事故を乗り越えたばかりの少年のメンタルケアのため、転弧が最も心を許した相手として、蒼良の仕事は転弧の隣に居る事だったとも言える。
しかし蒼良もいつかは仕事に復帰しなければならないわけで、二十四時間ずっと転弧といられるわけではない。
自分以外にも心の拠り所を作らせるべきだと考え、廻と啓悟にも協力を仰ぎ、なるべく四人で時間を共有するように心がけていた。
だが、一ヶ月経った現在その効果はなかなか微妙だ。
怖がりな転弧はあの二人が近くに居ると怯えてしまい、ますます蒼良の側にくっついてくるため交流どころではなかったのだ。
対する二人もあまりにも怯えを見せる転弧にじれったさを感じたのか、何かと好戦的な態度を取った。
廻はともかく、誰に対しても愛想が良く人見知りをしない啓悟までもがそんな調子なのは予想外だった。
しかし転弧はまだ幼いうえ繊細な性格をしているので、年長者である二人の方から歩み寄ってあげて欲しいと蒼良が転弧を庇いながら訴えると、何故だか二人がますます怒りを露わにするという悪循環。
ちなみに、背中に庇われていた転弧が隠れて二人を挑発していたことを蒼良は知らない。
そんな調子で一ヶ月が経過してしまったため、蒼良がヒーロー活動に復帰する事となった今日も、転弧と廻、啓悟の仲はさほど深まっていなかった。
そんな中で転弧を一人公安に残していくのは気がかりで、行かないでと駄々をこねられるのではと昨日まで危惧していた蒼良だったが、その予想はいい意味で裏切られる事となった。
今朝、蒼良を見送る転弧は「蒼良ちゃんを困らせるのは嫌だから」とどこまでも健気だったのだ。
やっぱりこの少年は、ちょっぴり怖がりで繊細なだけの心優しい男の子だ。
この調子なら、きっと直ぐに二人とも打ち解けられるだろう。
蒼良はそう安心して本部を発つことが出来た。
あの時そばで一緒にお見送りをしてくれていた啓悟と廻がものすごい顔で転弧を見ていたような気がしたけれど、あれはきっと気の所為だろう。
というか、もはやどんな感情なのか分からないくらいの顔をしていたので蒼良は思考を放棄して仕事に出かけることにした。
これから先、蒼良が居なくなった公安本部で被っていた猫を脱いだ転弧と二人が、繰り返される喧嘩の果てに何だかんだで互いを認めていく過程を蒼良が知る事は、恐らく一生ないだろう。
さて、実に一ヶ月ぶりの静岡出勤である。
蒼良が居ない間は親切な代理ヒーロー達が仕事を引き継いでくれていたため、特に問題もなくすんなりと元の日常に戻れそうだ。
もはや習慣となってしまったパトロール前の影分身の術を行い、蒼良は自らの分身体を瀬古杜岳へと送り出した。
この一週間アズール事務所の管轄区では大きな事件は発生していなかったようだが、あの少年の方は自分の居ない間に無茶をしていやしないだろうか。
翼で頂上までひとっ飛びしながら上空から山を見下ろしてみたが、ひとまず焼け跡は見当たらない。
最近の燈矢は炎のコントロールもかなり上達していたため、実のところそれほど心配していなかった蒼良としては予想通りである。
燈矢の修業場所に到着すると、そこには相変わらず上裸で炎をまとっている少年の後ろ姿があった。
すぐに声をかけようかと思ったが、どうやらかなり修業に集中しているようなので、今ではないなと判断し、定位置となりつつある太い木の根に腰かけた。
初めて修業を見守りに行った日は、黙って後ろに座っていたことを怒られてしまったが、登場と同時に声をかけて彼の集中を妨げてしまっても怒られる場合があるのだ。
彼との付き合いも中々に長くなってきたので、鈍い蒼良だってその辺りのことは心得ている。
それにしても、今日の燈矢はやけに気合いが入っているように見えるのは蒼良の気のせいだろうか。
この少年が無茶をして火傷をこさえるのは日常茶飯事だが、今日はいつも以上に危なっかしい。
火力がこれまで見たことがないくらい高まっているのに、反対にコントロールは雑になっている。
集中しているというより、がむしゃらという表現のほうが近いのかもしれない。
一か月間治療できていなかったせいで火傷痕が増えているし、傷が痛んで繊細なコントロールの邪魔になっている可能性もある。
休憩に入るタイミングで早く治療をしてあげなければ。
普通の子供はもっと痛みに弱い生き物だと認識していたのに、本当に我慢強い子だと思う。
見守り続けること約三十分。
一度も後ろを振り返ることなく火を放っていた燈矢が、不意に動きを止めてその両手を下ろした。
ようやく休憩に入るらしい。
以前はもっとこまめに休憩を挟んでいたはずなのだが、今日は相当やる気に満ち溢れていたみたいだ。
蒼良の隣に並んで休憩を取るのが習慣になっている燈矢が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その目が蒼良を映したタイミングで、ひらひらと片手を振る。
「久しぶり、燈矢」
話しかけるタイミングとしてはベストだったはずなのだが、燈矢は何故か驚いたように目を見開いている。
直立したまま腕はだらんと脱力し、ただひたすらにこちらを凝視する姿に少しだけ違和感を覚えつつも、蒼良は続けて口を開いた。
「この一ヶ月は大きな怪我も山火事もなかったようで何よりだけど、小さな火傷痕が蓄積されちゃったみたいだね。おいで燈矢、すぐに治してあげるか……ら___」
言い終える前に、蒼良は地面に背中を打ちつけていた。
目を開けると、木の根からずり落ちた蒼良の腹の上あたりに、燈矢が馬乗りにのしかかっている。
突如ものすごい勢いで突進してきたこの少年に、蒼良はいきなり胸ぐらを掴まれて押し倒されたのだ。
避けられない攻撃ではなかった。
むしろ蒼良には遅すぎたくらいだ。
けれど燈矢の行動には殺意が一切なかったため、避ける必要性が見いだせずにそのまま衝突されてしまった。
地面に落ちる際、受け身は取っていたので実質的なダメージはないが、蒼良には燈矢のこの行動の意味がてんで理解できず、困惑して数秒口を開けなかった。
まさかこの期に及んでまた話しかけるタイミングを間違ってしまったのだろうか。
燈矢は蒼良の胸ぐらを掴んだまま俯いていて、垂れさがる前髪に隠れてその顔色は窺えない。
けれど、これが蒼良の勘違いでないのなら、彼は恐らく怒っている。
それも、未だかつて見たことがないほどに。
「燈__」
「お前は見てるって言っただろ!!」
予期せぬ叫声に、今度は蒼良が目を見開く番だった。
俯く燈矢の表情は相変わらず見えないまま。
けれど、この少年の中に渦巻く激情は蒼良にだって感じ取れた。
「お前が言ったんだぞ!お前は俺のこと見てるって!それなのに……っ、何で……、何で勝手にいなくなるんだよ!」
言いたいことがあり過ぎるのか、紡ぐ言葉がもつれている。
胸ぐらを掴む手は震えていて、燈矢の怒りを表している。
呆気に取られ、蒼良は呼吸をする事すら忘れて燈矢を見上げていた。
「無責任なことすんな!テキトーなことばっか言うな!勝手に居なくなってんじゃねぇよ!お前はあいつらとは違うんじゃないのかよ……!期待させるだけ期待させて、勝手に人に火ぃつけといて、俺の前から消えるなよッ!」
ちらりと見えた燈矢の目の奥で、火花が弾け飛んでいた。
それなのに、蒼良には彼がここまで取り乱している理由がまだ分からなかった。
確かに燈矢の事を見ているとは言った。
個性を充分に扱い切れない少年の安全を守るためだった。
けれど今、個性コントロールが上達し始めた彼には必ずしも監視の必要性はないと判断した。
急な事情があったとは言え、事前報告もなしに一ヶ月以上も顔を見せなかったのは確かに蒼良の落ち度かもしれない。
けれど、元々二人は別に毎日会う約束をしていた訳では無い。
この奇妙な関係性は、蒼良がただ一方的に押しかける形のまま習慣化してしまっただけに過ぎなかった。
ここ最近は邪険にされるような事も少なくなったと感じてはいたが、自分の不在がまさかこの少年にこれほどの動揺をもたらすだなどと思わないではないか。
「俺を見ろ!俺を見てろよ蒼良!お前まで俺に背を向けないでくれよ!俺の許可なしに勝手に俺から離れるな……!お前は……、お前だけは……ッ!」
言葉尻が裏返ったかと思うと、燈矢の上半身がグラリと傾き、そのまま力なく蒼良の方へ倒れ込んできた。
燈矢の額が、蒼良の肩口にコツンとぶつかる。
「なぁ……、いい加減、何か言ってくれよ……」
蒼良の耳元で、小さく泣きそうな声が言った。
「……ごめん」
今この少年に、謝罪以外の何を返せば良いのかが分からなかった。
きっとこの言葉は正解ではない。
彼が欲しがっているのはこれではない。
それは理解できるのに、では何が正解なのかと探してみても、蒼良の中にその答えは見当たらない。
「ごめんね、燈矢。本当にごめんなさい」
何も無いからだ。
何も持たず、何も考えず、空っぽなまま歳を重ねただけのお人形には、人間の感情など所詮表面上でしか理解できない。
本当の意味で彼を救う事など、自分には出来ない。
謝罪の言葉を繰り返す度、ヒーローという職が如何に分不相応なものなのかを思い知らされるような気分になる。
「お前が来なくなってから……炎が安定しなくなったんだ」
不意に顔を伏せたままの燈矢が口を開いた。
蒼良は何を返すべきか迷い、言葉を発する代わりに燈矢の背中に腕を回して優しく叩いた。
かつて、好きだった女性が蒼良にそうしてくれた動きを真似て。
啓悟を撫でる時の動きに倣って。
転弧を寝かしつける時の動きを思い出して。
蒼良の知る、一番優しい触れ方で燈矢に触れた。
「もし俺が山を燃やしてたら、お前のせいだったんだからな……。何で……何で、急に来なくなったんだ」
「……家でちょっとしたトラブルがあった。断りもなしに休んでごめん」
すぐ横で、ひくっとしゃくり上げるような音が聞こえた。
じわり、じわりと蒼良の肩が濡れていくのが感覚で分かる。
身体の触れ合っている部分から、燈矢の震えが伝わってくる。
「いきなり……掴みかかってごめん」
「受け身は取ったよ。問題ない」
「怒鳴ったりして……ごめん」
「私に非があったからでしょう?私の方こそ、分かってあげられなくてごめん」
そう。謝るべきは蒼良の方だ。
自分でも気付かない内に、蒼良はきっと彼にとって大切なものを見落としてしまっていたのだろう。
火伊那のときだってそうだった。
人の心を完全に理解できない蒼良は、いつだって手遅れになってからそれを知ることになる。
肩口にある少年の頭に、蒼良はそっと手を置いた。
静かな森に、押し殺した泣き声が響いている。
「今日……、蒼良が戻ってきてくれたのを見た瞬間から、俺のことを見限ったわけじゃないんだって分かってた。だけど……抑えらんなかったんだ。俺、怖かったんだよ……。お前が見えなかったこの一ヶ月、もう来てくれないんじゃないかって……すごく怖かった」
何もわからない愚かな少女に、少年は己の心情を訥々と言葉にして教えてくれる。
それでもきっと、彼の感情は正確に届くことはない。
抱える恐怖も悲しみも、流れ落ちる涙と一緒に受け止められたなら良かったのに。
仮にも自分は全てを救い上げるべきヒーローだというのに、どうして手の届く範囲の者すら救えず傷つけてしまうのだろう。
「……私は、貴方のために何が出来る?教えて欲しい。私が何をしたら、燈矢はまた笑ってくれるの?」
命令通りに動く事、それが人生の全てだった少女は、少年に指示を仰ぐ。
同じ組織に属するわけでも、自分の上に立つ訳でもないこの少年の命令を聞きたいと思った。
彼の望みを知りたかった。
彼の願いを叶えたかった。
そんな蒼良の問いに返された答えは、拍子抜けするほどささやかなものだった。
「……俺のこと、見てて。俺がオールマイトを超えるまで。……ううん、俺がもういいって言うまで。ずっと、蒼良だけは……ちゃんと、見ててほしい」
顔を蒼良に押し付けながら、燈矢は絞り出すようにそう言った。
その告白を受け、蒼良は肩の上にある少年の頭を一度撫でると、頬に手を添え、ゆっくりと顔を上げさせた。
仰向けに見上げる先、覆い被さる少年の、何かを堪えているような顔が見えた。
それは怒りであり、恐怖であり、悲しみであり、涙だったのかもしれない。
抑えても抑えきれぬ雫が、蒼良の頬に滴り落ちる。
「……見るな」
「どうして?さっきは見てって言った」
蒼良の両目を掌で塞ごうとする燈矢の手首を掴んで避ける。
「馬鹿……何でそんなに意地悪なんだ。お前なんか……」
その先を言葉にする事はなく、燈矢は声を押し殺して泣いている。
「だって約束は、相手の目を見て、小指を絡めてするものでしょ?」
少し前、少なくとも蒼良はそう教わった。
そして、この行為には意味があると信じている。
どこまでも真面目な蒼良が「ほら」と小指を差し出せば、燈矢は赤い目を擦り、渋々といった表情で同じように指を差し出した。
「約束する。これから先、私は燈矢を見守り続ける。貴方が望まなくなるまで、ずっと」
「……そんなに、簡単に約束しちゃっていいのかよ?」
「簡単じゃない。本気で言ってる」
「じゃあ、俺が一生望み続けたら……」
「一生燈矢に会いに来る」
ハッキリと言い切った蒼良の言葉に、高鳴るような、むず痒くなるような気持ちが燈矢の心を満たしていく。
みっともない感情を曝け出し、一方的な要求を突き付け、ぐしゃぐしゃの顔で泣いている燈矢を笑うことなく、失望することもなく、真っ直ぐに見つめ返してくれる少女の存在に、胸が締め付けられるような思いがした。
この目を、手を、声を、どうしても信じたくなる。
彼女なら、彼女であれば、ずっとそこに居てくれるような気がしてしまうのは何故なのだろう。
こんな自分を捨てないと言うのなら、ずっとそばに居てくれると言うのなら___その言葉に縋りたい。
惨めでも、情けなくても、それでも構わない。
蒼良が側に居てくれると言うのなら、それだけで、今この瞬間は救われる気がした。
「___もっと、知りたい」
思わずといった様子でこぼれ落ちた蒼良の言葉に、燈矢は瞬いた。
「……何を?」
「人の気持ちを。貴方の気持ちを」
それは、蒼良の本心だった。
燈矢を傷つけたことで、自分が何も知らないことを改めて思い知った。
だからこそ、知りたいと思う。
人の心に触れる方法を。
人を傷つけずに済む方法を。
人を救う方法を。
「貴方が、泣かない方法を」
燈矢は目を見開いた。
「……そんなの、俺が知りたいよ」
拗ねたように顔を背けながらそう言った彼の横顔は、蒼良の目に少しだけ穏やかに映った。