「いやぁぁあーー!!!」
その日、公安本部の上層階に啓悟の絶叫がこだました。
時は夕方。
一日の訓練を終え、自室でオンラインゲームを楽しんでいた志村転弧五歳の肩がその声量に驚いてビクリと跳ねる。
そのせいで手元が狂い、気がつけば画面の中のアバターは一瞬で地に倒れ伏していた。
こめかみにピキリと青い筋が浮かぶ。
ヘッドセットを外し、ゲーミングチェアから立ち上がると、転弧は勢いよく自室のドアを押し開けた。
「ちょっと啓悟、うるさいんだけど!ビックリして手元狂っちゃったじゃん!謝っても許さないけど謝っ___うわぁッ!?」
目の前をものすごい速さで赤い残像が通過していったかと思うと、それが突如Uターンして転弧の自室へとなだれ込んできた。
驚いて腰を抜かした転弧の背後に、赤い小鳥が一匹ヘタリと落ちている。
「も〜……、何やってんだよ。廊下を飛んじゃいけませんって目良さんにいつも言われてんじゃん」
腰をさすりながら、啓悟に恨みがましい視線を向ける。
この少年、ここで約半年近くも啓悟や廻と生活を共にしているせいか、口調や性格に段々と二人の影響を受けつつあった。
ちなみに、啓悟や廻を呼び捨てにしているのはわりと初期の方からである。
何せ出会ったその日から転弧は二人を舐め腐っていたので。
「て、転弧……だって、出た、出たんやもん!」
「はぁ?出たって何が。ゴキブリ?」
「そんなんでここまで取り乱すわけなかよ!」
「じゃあ何なんだよ。まさかオバケでも出ちゃった?」
「………………」
からかうような転弧の問いに、啓悟は青ざめた顔で何も答えない。
尋常ではないその様子に、転弧はわずかに動揺した。
一度地獄を見てから立ち上がった人間は強い。
転弧もまさにそのケースで、あの事故の前後でかなり性格に変化があった。
端的に言えば、逞しくなったのだ。
しかし多少のことでは動じないそんな転弧でも、オバケは怖い。
だってまだたったの五歳なのだから。
転弧が顔を上げると、無機質な白い廊下へと続くドアは開きっぱなしになっている。
ゲームに集中するために部屋の電気を消していたせいで、室内は暗い。
何だか突然寒気がして、転弧は思わず後ずさりした。
「啓悟、ドア閉めてよ、今すぐ。早く!」
「やだ!転弧が閉めてきて!」
「何でだよ!?」
「オバケがおったんやから廊下に近づくのは無理に決まっとるやろ!」
「じゃあ僕も無理だろ!」
「お前の部屋やろ!?」
「お前が開けっ放しにしたんだろ!」
互いに責任を押し付け合うが、腰が引けて一歩も動けない。窓の外では夜風が細い音を立てて吹き抜けている。その音が二人の張り詰めた空気をさらに煽り立てる。次第に肩を寄せ合い、呼吸さえ抑えて目を見開く二人の表情には明らかな恐怖が浮かんでいた。
開け放たれた扉の向こう側。その奥で、何か黒い影がじわじわと蠢いていることに二人は不意に気が付いた。
逆光に包まれ、影の正体はまるで掴めない。それはゆっくりと、滑らかに床を滑るように近づいてくる。
「……ぅ、わ……」
啓悟がかすれた声で喉を震わせた。その音が静まり返った部屋に小さく響き渡る。
転弧もまた、得体の知れない恐怖に身体を強張らせていた。乾いた喉から小さくかすれた息が漏れる。
やがて、影がゆっくりと月明かりの差す範囲へと近づき、その輪郭が明らかになった瞬間──。
「いやあああああ!!」
「出たあああああ!!」
悲鳴を上げながら互いに強く抱きつく二人によって、部屋は一気に騒然となった。
大騒ぎを目の当たりにして、その黒い影が困惑したように揺らめいている。
「……二人とも、どうしてそんなに叫んでるの?」
聞き慣れた鈴のような声に、転弧の全身がピクリと震えた。誰よりも慕っているその人物の声を間違えるはずもなく、転弧ははっと息を吸い込んで振り返る。
「おい、啓悟……どこがオバケだよ!蒼良ちゃんをどう見間違えたらそうなるんだ!」
安堵と苛立ちから啓悟の頬をつねり、転弧はすぐさま顔を上げてニコッと人懐こい笑顔を作ると、扉の方へと駆けだした。
信じられない変わり身の速さである。
「おかえり蒼良ちゃん!今日もお仕事お疲れさ__」
「待て転弧!それは蒼良ちゃんに見えて蒼良ちゃんやなかっ!!」
背後で啓悟がそう叫ぶのとほとんど同時に、人影に近づいた転弧はその素顔をハッキリと捉えていた。
いつ何度見ても綺麗な顔立ち。
その口元が、妙に作り物じみた笑顔を形作っていた。
異様なほどに整った笑顔だ。
まるで絵のように崩れない、完璧な表情。
無表情がデフォルトのはずの少女が、いっそ不気味なほどに口角を上げ、何の感情も映していないその目を柔らかに細めている。
「……ひっ」
やり過ぎなくらいの作り笑いを浮かべながらジッとこちらを見下ろす少女を前に、転弧は目を見開いて固まってしまった。
転弧の目に映る情報は確かに目の前の人物を瑠璃川蒼良だと言っている。
だが転弧の魂がそれを強く否定するのだ。
瑠璃川蒼良の声と容姿を持ち、けれどその中身は蒼良ではない。
それならば目の前のコレはいったい何なのか。
導き出される答えは一つ。
それ即ち_____
「きゃあああああ!!」
「出たあああああ!!」
再び抱き合い、ベッドの端に一目散に逃げ込んだ二人を他所に、蒼良は一人首を傾げた。
ゆっくりと、しかし相変わらず崩れない笑顔のまま。
「……さっきからうるせぇよ、チビ共」
突然、低い声が響いた。
啓悟と転弧が顔を上げると、廊下に頼れる最年長の姿が見える。
「廻くん……!」
「廻……!」
涙目の二人が救いを求めて一斉に廻に飛びついたが、廻はそれを最小限の動きだけで冷静にかわす。
前のめりにズシャァと床に滑り込んだ二人が揃って振り返り、泣きそうな顔のままキッと睨みつけてくるのを涼しげな目で見下ろし、部屋の中を一瞥し、それから蒼良を見つめるや否や、状況を理解して口を開く。
「……お前ら、本当に馬鹿か?」
呆れ果てたように呟きながら、廻はポケットに手を突っ込んだまま、蒼良に視線を戻した。
「蒼良、お前は何をやってたんだ?」
「笑顔の練習」
その即答に、疲れたようにこめかみを押さえながら、廻は大きく肩を落とす。
「今度は何の影響を受けてきたんだよ……」
何を隠そうここ数ヶ月、蒼良は『人の心を理解する』と宣言しては、様々な実験的な行動を繰り返して周囲を困惑させ続けている常習犯だ。
一ヶ月前には『人と親しくなるためにはボディータッチが効果的だ』とどこかで学んだらしく、突如として啓悟と転弧を撫で繰り回していたことがあった。その前には、『相手の目を見つめると心が通じる』と学び、廻に向かって無言で延々と視線を送り続けるという暴挙に出た。あの時はさすがの廻もひどく困惑したものだったが、今回ともなれば、また新たな奇行が始まったとしか思えなかった。
「コミュニケーションの基本は笑顔なんだって」
そう話す蒼良の顔にはぎこちなく不自然な笑みが貼り付いている。表情筋だけが無理に動き、瞳には一切感情が宿っていない。その人形めいた無機質な笑顔に、廻は眉をひそめた。
「まあ、いつものことだな。手伝ってやるよ」
「手伝う?」
「何かするなら最初に俺を巻き込めって言ってるだろ。笑顔の練習だって付き合ってやる」
「……でも廻くん、あまり笑わないよね」
「それがどうした?」
「だから今回は、あまり頼りにならないかも」
「……は?」
短い言葉で蒼良が容赦なく廻を切り捨てると、啓悟と転弧は堪え切れずに吹き出した。いつも冷静で余裕のある廻が見せる珍しい動揺が、二人にはたまらなく可笑しかった。さらにその原因を作った蒼良に全く悪意がないことが面白さを倍増させてしまい、二人は必死で口を覆って笑いを押し殺している。
「……うるせぇよ」
廻が低く呟くと、二人はギクリと肩をすくめて慌てて背筋を伸ばした。 彼が蒼良の役に立つことを何より誇りに思っていると知っているからこそ、今は笑うべきではなかったと即座に反省する。そんな二人をじっと見守っていた蒼良が、やがてゆっくりと息を吐くように呟いた。
「素敵だね」
唐突な謎の賛辞に、啓悟と転弧はきょとんと目を丸くして蒼良を見上げた。
「二人とも、すごく楽しそうに笑ってたから」
「え、えへへ……?」
「俺たちの笑顔、そんなに素敵やった?」
急に照れくさくなった啓悟と転弧は、互いに視線を交わしながらもじもじと身体を揺らし始めた。そんなやり取りを横目で見ていた廻が、呆れたように鼻を鳴らす。
「バカ共が」
「なっ、なんだよ!」
「褒められたんやから喜んでもええやろ!」
騒がしく抗議する二人を適当にあしらいながら、廻は再び蒼良へ視線を戻す。笑顔を消した蒼良はいつもの無表情に戻っているが、微かに眉をひそめて何かを考え込んでいるようだった。その様子が気になり、廻が声をかけようとするも、先に口を開いたのは蒼良の方だった。
「私、廻くんの笑顔が見てみたい」
「いきなり何言い出すのかと思ったら……断る。お前の練習だろ」
言いながら、廻の手は自然に蒼良へと伸びていた。指先が蒼良の頬に触れると、そこは思った以上に柔らかく温かい。その感触を確かめるようにほんの一瞬だけ動きを止め、それから優しく彼女の口角を持ち上げた。
「ほら、笑え」
「くすぐったい」
無理矢理に皮膚を動かされる違和感に、蒼良が身体をよじって抗議する。
それを見た廻が手を離すと、じっと廻を見つめたままの蒼良が反撃のように手を伸ばしてきた。
そのまま廻の頬に触れようとして、指先が直前でピタリと止まる。
「……ごめん、駄目だった」
廻の潔癖症を思い出したのだろう。
蒼良が視線を下に落とし、それと同時に下がっていく指先を見て、廻は目を細めた。
「俺もさっきお前に触った。それで相子だ」
言葉は無意識のうちにこぼれていた。
蒼良が顔を上げ、「それなら」と気を取り直し、廻の口元を強引に持ち上げる。
「……満足か?」
無理に形作られた、蒼良以上に不自然な表情で廻が問う。
それでも廻がこんな笑顔を見せたのは初めてのことで、物珍しそうに蒼良筆頭に三人が廻を凝視している。
正面からまじまじと廻を覗き込む蒼良の手は一向に離れる気配がなく、段々といたたまれなくなった廻が「もういいだろ」と振り払おうとした時だった。
「いつも、こんな風に笑ってたらいいのに」
不意に呟いた蒼良の背後で、蒼翼が機嫌よさげに揺れ動いているのを視界に捉え、廻は驚きで一瞬言葉に詰まってしまった。
「ちょっと廻!蒼良ちゃんが楽しそうだよ!翼がパタパタしてる!」
「日頃からもっと笑ってよ廻くん!蒼良ちゃんのために!」
蒼良の様子に気が付いたらしい転弧と啓悟も興奮したようにはしゃいでいる。
彼女は本当にこんな事が嬉しいのだろうか。
だとしたら廻にはこれを止めさせる事など出来そうにないが、醜態とも呼べるこの姿をチビ二人の前に長々と晒す羽目になり、勘弁してくれと思う気持ちもないではない。
「嬉しい事もないのにそう簡単にヘラヘラ出来るか。俺はお前らとは違うんだよ」
「それじゃあ、廻くんはどうしたら嬉しくなるの?」
真っ直ぐな蒼良の声音。
ただの疑問。
深い意味のないその問いの答えを考えた。
「お前が……無茶せず、怪我もせず、俺の手を煩わせないでいてくれたら」
出てきた言葉は、あくまで現実的なもの。
いつも怪我ばかりしている蒼良の治療担当は廻なのだから、これは嘘ではない。
手を煩わせないでいてくれれば、迷惑をかけないでいてくれれば、嬉しいのは当然で___でも、それは誤魔化しでもあった。
蒼良の瞳に映ること。
蒼良と言葉を交わせること。
手を伸ばせば触れられる距離に、蒼良が居てくれること。
廻にとっての本当の幸福は、もっとずっと私欲的なものだ。
蒼良の心の中に、自分の居場所が欲しい。
自分だけの場所が欲しい。
いつからこんな感情を抱えるようになってしまったのだろう。
役に立つ事、それだけが望みだったはずなのに。
本当に、それだけで十分だったのに。
それ以上を望み始めたのは、いつからだったか。
「だからお前ももう少し、自分を大事にしろ」
蒼良の手首を掴み、自分の頬に触れていた指を遠ざける。
彼女は今、自ら人に近づこうとしている。
人の心を学んでいる。
そんなところに余計なものを押し付けて混乱させることなど、廻には到底出来る気がしない。
伝える気はない、その必要もない。
これからもただ、彼女を一番に支えられたらそれでいい。
そう自分に言い聞かせながら、静かに蒼良の手を放した。