とある廃墟の一室で、男が涙を流していた。
髪は明るい金。彫りの深い顔立ちにはかつての鋭さが残っているが、今や落ち窪んだ瞳は光を失い、焦点がどこにも合っていない。
男は木製の椅子に縛り付けられていた。
胴体には荒々しく巻かれた縄が幾重にも食い込み、背もたれごと体を拘束されている。
自由を奪われたその体は、とうに衰弱しきっていた。
「……やめてくれ……もう……やめてくれ……」
絞り出すような声は掠れていた。
息をするのもやっとの様子で、言葉は空気に溶けるように消えていく。
無理もない。男がここに囚われてから、すでに五日が過ぎていた。
その間、食べ物も水も与えられていない。
飢えと渇きは彼の体を確実に蝕み、今や脱水症状の末期を迎えていた。
汗はとうに止まり、尿すら出ない。
体温は上昇を続け、血はどろりと流れを鈍らせている。
体の隅々で毒のような老廃物が溜まり始めているこの男は、そう遠くない未来に死んでしまうだろう。
男に対してこんなにも残酷な所業を行った犯人たちは、今もずっと男の眼の前にいる。
人数はざっと二十人。
全員が武器らしきものを手にし、それぞれが口汚く言い争っている。
鋭く光るナイフ。使い古された金属パイプ。ひび割れた椅子の脚や、煤けた木材。
そのすべてが即席の凶器であり、混沌としたこの空間に生々しい暴力の匂いを添えていた。
突如、感情の昂ぶりが頂点に達したのか、一人がいきなり相手にナイフを突き立てた。
途端、刺された方の男が崩れ落ちる。
血の代わりに舞い上がったのはヘドロのような液体。
やがて身体は泥のように溶けて消えた。
___気が狂いそうだった。
声にならない悲鳴をあげ、恐怖に顔を強張らせながら、この地獄のような光景を、男は五日間も延々と眺め続けている。
何よりも不気味なのは、彼らの顔が誰一人として赤の他人のものではないこと。
ここに至るまでのその人生は、『不運』____そんな陳腐な一言に尽きる。
中学生の頃、ヴィランが起こした犯罪に巻き込まれ、仁は両親を失った。
親戚との縁は薄く、引き取り手は現れず、一瞬にして天涯孤独の身となった。
中学を卒業してからは住み込みの仕事を見つけ、ようやく居場所と呼べるものを手に入れたように思っていた。
けれど、十六歳になったある日。
バイクで走行中に飛び出してきた相手を撥ねてしまい、それが全ての転機となった。
撥ねた相手は、勤め先の取引相手である企業役員の親族だった。
これを不運と呼ばずして、いったい何と呼べばいい。
会社に迷惑をかけた仁は、その日の内に職場を追われ、仕事と住処を失った。
理不尽だった。
仁はルールを守っていた。
飛び出してきたのは相手だった。
負わせた怪我も、重傷には至らなかった。
それなのに何故。
〈___大丈夫。君はまだ若いんだ。人生、躓いても案外やり直せるもんだよ〉
唯一、仁の事情を把握して、僅かな同情を示してくれた警察官は、やや投げやりにそう言っていた。
けれど人は、躓き方によってはどこまでも転げ落ちてしまう生き物なのだ。
一人だった。
孤独だった。
寂しかった。
惨めだった。
寂しさを埋めるため、話し相手が欲しかった。
人の温もりを求め、信頼し合える人間と生きる事を望んだ。
しかし周囲からは鋭い目付きを怖がられ、後ろ盾もマトモな経歴すらない仁は、誰からも理解してなどもらえなかった。
そんな仁の心の隙間を埋めたのは、他でもない彼自身だ。
分倍河原仁___個性『二倍』。
一つのものを二つに増やすシンプルな個性だ。
対象が人間の場合はその人物の個性や人格までコピーすることができ、複製はある程度のダメージが蓄積すると泥の様に崩れ消滅する。
仁は次第に、話し相手欲しさに自分自身を複製するようになった。
自分自身を複製し、複製した自分がまた自分を複製。
そうやって増えた分身たちと過ごしている内に、仁は王様気分で分身たちを従えて、悪事や生活に利用するようになっていった。
転落中の人間が考えることは『楽になりたい』それだけだ。
真面目に生きてみた所で、運を持たずに生まれ落ちた仁に幸せな未来などもう思い描けなかったのだから仕方がない。
正しくあればあろうとするほど苦しんだ。
だからもう、我慢することをやめにした。
そうして仁は、誤った選択を更に積み重ねていったのだ。
____ある日突然、分身の一人が反乱を起こした。
仁が王であることに、そいつは不満を持ってしまったらしい。
「同じ『俺』なはずなのに、どうしてお前が上なんだ」とそいつは仁に襲いかかった。
その際に額をナイフで切られ、殺されかけた。
ショックのあまりマトモな抵抗が出来なかった仁は、命こそ奪われなかったものの、拠点としていた廃墟の中で自分自身に拘束された。
それが地獄の始まりだった。
その光景を見ていた大勢の分身たちが、今度はそれぞれ「自分が王だ」「本物だ」と主張し合い始めたのだ。
口喧嘩は次第に暴力に。暴力はやがて殺し合いへと発展し、目の前で自分同士が殺し合うというイカれた場面を仁は五日も眺め続けている。
仁の精神は今、過去一番にすり減っていた。
このままいつか、自分も彼らと同じように殺されてしまうのだろうか。
そもそも、自分とはいったい誰なのだろうか。
目の前で消滅していく自分自身を見続けているうちに、仁にはもう自分が本物であるという確信が持てなくなっていた。
「……確かに色々と悪さはしたさ。物を盗んだ。金を奪った。でも俺は、故意に人に危害を加えた事は一度もねぇ……。それなのに、俺は最期まで理不尽に害されて死んじまうのかよ……」
ただ仲間といたかった。
自分の居場所が欲しかった。
そんなささやかな望みですら、仁には過ぎた願いだったとでも言うのだろうか。
いっそ笑えるくらいの不幸体質に、仁の口から掠れた笑い声が漏れる。
ああ、ちくしょう。喉が痛い。
さっきから意識も朦朧としてきている。
ああ、ようやく終わるのか。
クソみたいな人生と、ようやくおサラバできるのか。
「ちくしょう…、ちくしょう……ッ」
嬉しいものか。最悪の気分だ。
こんなバッドエンド、到底納得できるはずがなかった。
これまでずっと不運続きだったのだ。
最後くらい、満足行く死を迎えさせてくれたっていいじゃないか。
身体全体が渇いているのに、流す涙はいつまでも失くならないのが鬱陶し___
「お兄さん、これって今どういう状況?」
___突然すぐ側で、氷砂糖のように澄んだ軽やかな声が聞こえ、仁の涙が驚きと共に引っ込んだ。
それはこの殺伐とした異常空間には、あまりにも似つかわしくない音だった。
「え、誰……いや、それよりどうやってここに……?」
「窓から。玄関も一応ノックしてみたんだけど、誰も気づいてくれなかったから仕方なく」
「窓はだいぶ、頑丈だったはずなんだが……?」
このボロ家をより強固な隠れ家にするべく、かつて仁たちはこの家のあらゆる窓に木の板を釘で貼り付け、めちゃくちゃに補強していたはずだった。
「硬かったから壊しちゃった。でも大丈夫。この家は所有者不明で国庫に帰属してるし、上から破壊の許可も出てるから問題はないよ」
そういう話ではない。
あの強固な守りを単騎で容易く突破してくるパワーと豪胆さに仁は驚いているのだ。
「あんた、いったい誰なんだ……何しにこんな所に来た……?」
ダボダボの白いジャケットに、白いショートパンツ。
黒のインナーと手袋を身に着けた女は奇妙な狐面をつけており、見た目からはそれ以上の情報が読み取れない。
仁の探るような視線を受け、女が答える。
「ヒーローだよ。近隣住民の方から、ここで連日激しい物音や怒鳴り合う声が聞こえるって通報があって様子を見に来たの。そしたら何だか想像以上に複雑な光景が広がってたから、一番落ち着いた様子の貴方に声をかけに来てみたところ」
言いながら、女は背中の羽を一枚手に取り、それをナイフのように使って仁を拘束していた縄を切り裂いた。
ヒーローの登場。久しぶりの解放感。
情報の多さに、喜びよりも戸惑いが仁を支配した。
「ヒーローだって……?」
この国の至る場所で活躍しているはずのその存在と、仁はこれまで無縁の人生を歩んできた。
期待などした事も無かったので恨みこそしていないが、とにかく仁には馴染みのないものだという事だけは確かだ。
「私の任務は迅速にこの場を収めること。お兄さんにはまず、状況を簡潔に教えて欲しい。協力してくれる?」
「あ、ああ……」
それは絶体絶命の大ピンチだった仁にとっても、またとない申し出だった。
「えっと、その……何ていうか、あいつらは、俺の個性が暴走した結果なんだ。オリジナル以外の複製物は、強い衝撃を与えれば泥になって消える」
「なるほど。ちなみにオリジナルは今どこに?」
「それはもちろんこの俺だ。いいや、違う俺じゃねェ!分からねぇ……自信がないんだ。俺は偽物だ!あっちの男が本物だ!あぁ……いや、違う……!俺は何を言ってるんだ……?」
目の前で自分同士が殺し合うという異様な光景を五日間も見続けたのだ。
死への恐怖から、自分が本物であるという確信が持てなくなった仁の自己同一性は崩壊しかけていた。
人は極度のストレスを受けると、その経験をまとまりのある一つの人格に統合できなくなることがあるという。
辛い現実を一人で受け止めきれないのであれば、二人で。
その個性の影響もあってか、仁の中にはもう一つの人格が形成され始めていた。
有り体に言えば、二重人格である。
「あ、あぁ……千切れる……千切れそうだ……助けてくれ……。最高の気分だぜ!あんたヒーローなんだろ……?俺ヒーローとか興味ねェや!ヒーローってのは困ってる人を皆助けてくれるんだろ……!?なぁ、助けてくれ裂けちまう……このままじゃ分裂しちまうよぉ……!」
仁は縋り付くように仮面のヒーローに手を伸ばそうとした。
しかし、疲弊しきった身体は思うように動かせず、勢い余って椅子から転げ落ちそうになる。
すると、地面にぶつかる直前、ふわりと柔らかい青が仁の身体を包みこんだ。
心地良い温度。心まで軽くなるような浮遊感。
そして、傷付いた心に染み込むような惚れ惚れするほど美しい青だ。
それがふわふわと宥めるように仁の髪に触れ、頬に貼り付き、顔全体を覆っていく。
仁はその羽に、再び泣き出してしまいそうなほどの安心感を覚えた。
ざわめいていた胸の奥が穏やかになり、葛藤が薄れていく感覚があった。
「そうか……。包めば……一つなんだ」
安堵のあまり、喉の奥から込み上げてきたのは、吐き気ではなく嗚咽だった。
「貴方は、どうしてこんな事をしたの?」
背中を丸めて震わせる仁の背中に、一つの疑問が落とされた。
冷たい声だが、不思議とそこには仁を責めるような意図は感じられない。
瞳の奥に焼けるような熱を抱えたまま、仁はぼそりと口を開く。
「……耐えられ、なかった」
「何に?」
「一人で……、いること」
「寂しかったの?」
「ああ、寂しかったさ……苦しかった、惨めだった……どうしようもないくらい、俺は、いつも一人だった……っ」
地べたに膝を突き、頭をもたげ、痛む胸を掻きむしりながら悲痛な感情をぶちまけたい衝動にかられる。
家族はなく、友も持たず、弱音の一つも吐く場所のなかった仁の、蓄積された悲しみが溢れだして止まらない。
「誰も俺を見てくれない、誰も俺の声を聞かない、誰も側に居てくれなかった、だから……!だから、俺は俺を複製した……ッ!そうするしか方法がなかった!そうでもしなけりゃ、誰も、誰も……ッ、俺なんて___!」
声が上擦り、喉が詰まり、安定しかけた心が再び砕けそうになった時、仁の頭に女の手が触れた。
慰めるような、甘やかすような指の感触に意識を囚われ、次の言葉が出て来なくなる。
「___もう大丈夫、私が来たから」
抑揚のない声だった。
それなのに、たったそれだけの一言が、仁の心の防波堤を呆気なく破壊してしまった。
「う……、う、ぁ、あああ……ッ」
激情の吹き溜まりが、一気に外へと溢れ出す。
何が悲しいのか分からない。
何が嬉しいのかも分からない。
混乱にも近い感情の渦が、仁の脳を蹂躙する。
「側に、側にいてくれ……っ、俺を、一人にしないでくれぇ……!俺は、ただ、誰かと一緒に……っ」
喜びか、憎しみか、怒りか、安堵か、自分でも判別つかない膨大な感情を吐き出しながら、仁は泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて、泣き疲れて。
出せる涙を全て出し切った後、自分の頭上に優しく留まっていた柔らかな手の感触にもう一度だけ涙した時、いつの間にか前方に集まりこちらを見ている複製体の姿に気づいた。
「もう一つだけ教えて欲しい。複製体を泥に戻すためには、どのくらい強い衝撃を与えればいい?」
残った羽を刀のような形状へと変え、戦闘態勢に入った女を視界に捉え、仁は己の過ちを自覚する。
場所も状況も考えず、大きな声で騒ぎ立てた結果、この状況のしわ寄せが彼女の元へ向かっている。
「あ……、あぁ……」
どうしてだ。どうしてこうも上手くいかない。
どうして上手く生きられない。
どうして自分だけが、こうも不正解ばかりを引き当てるのだ。
今にもこちらに向かってきそうな複製体は、仁自身と同じ強さを有している。
それが合計二十体。
仁では到底太刀打ちできない脅威の集団。
勝機を見失って閉口する仁に、再び同じ質問が投げかけられた。
「複製体を泥に戻すためには、どのくらい強い衝撃を与えればいい?お願い、答えて」
焦りなど微塵も感じられない声音だった。
この状況に絶望を見出していない毅然とした声に吞まれるように、仁はゆっくりと顔を上げた。
「……大人一人、骨折させられるくらいの、衝撃」
「了解。それじゃあ、歯」
「歯……?」
「ちゃんと喰いしばってね」
「え___、」
ドムッ___鈍い音が聞こえたかと思えば、仁の腹に女の拳がめり込んでいた。
あまりにも一瞬の出来事に、視覚情報に数秒遅れて痛みがやってくる。
「カハッ……っ!?ゲェ、ゴホッ、おえぇ……っ!!」
腹が痛い。死ぬほど痛い。もしも胃に食べ物が残っていたら、確実に全部ぶちまけていたと確信できる激痛だ。
ひょっとしたら内臓が潰れたのではないだろうか。
ヒーローっていったい何だろう、そんな疑問を抱きながら涙目でオエオエとえずいていると、女の手が再び仁の肩に置かれた。
また何か痛いことをされるのかと反射的に身を固くすると、気安い声が降ってくる。
「良かったねお兄さん。貴方が本物だ」
「……!」
___ああ、確かにそうだ。これだけの力で殴られても消えなかった。
「俺が……本物……っ」
安堵のあまり、いつの間にか止まっていたはずの涙がまた溢れ、仁は両手で顔を覆った。
「でも、どうせなら一言断ってからにしてほしかった……ウンコ、ウンコ漏れそう……」
「それは本当にごめん。うっかりしてた。お兄さんの命と尊厳は必ず守ってみせるから、もうちょっとだけ踏ん張って」
「ウンコを……?」
「いや、そっちじゃなくて___」
「つーか、今こんな会話してる場合じゃねぇ……!」
仁の低レベルな会話に、生真面目に付き合ってくれるヒーロー。
腹を押さえながらその馬鹿真面目さに突っ込みを入れ、迫る危機を思い出させようと仁が声を荒げると、女もようやく前方に視線を戻した。
「そろそろ仕上げにしなきゃね。お兄さんは少しだけここで待ってて」
言うが早いか、女は地を蹴り、驚異の集団に突入していく。
「な……ッ、待て、行くな……ッ!」
ヒーローとやらが普通の人間とは一線を画す存在であると、知識としては心得ている。
けれど、それなりに身体を鍛え、ガタイの良い自覚がある仁だからこそ、たった一人で立ち向かっていく自分よりも小さな身体を信頼しきるのは難しかった。
すぐに後を追おうとして、力の入らない足がカクンと膝から折れ、崩れる。
情けなくも地面に這いつくばり、顔だけを上げた仁の目線の先、女が剣を振りかぶる姿が見えた。
「___風遁・真空剣」
女の小さな呟きは、刀から生じた衝撃波による轟音にかき消された。
瞬きの刹那、仁を取り囲む環境が夢のように___否、悪夢のように変化する。
家具はひび割れ、薙ぎ倒され、元の姿がどうであったのか、もはや思い出せないほどの変わりようだった。
もうもうと立ち込めていた土煙が薄れたころ、さらに顔を出す破壊の痕跡。
抉られ、今にも崩壊しそうな壁と床。
そこに散らばる大量の泥。
小さな台風でも誕生したのかと疑いたくなるほどの、圧倒的な暴力がこの家を一瞬で塗り替えていた。
「……す、げぇ……」
信じられない光景を目の当たりにして、仁は硬直していた。
口からは感嘆のため息ばかりが漏れ出ていく。
これが、ヒーロー。
あの小さな背中で、華奢な身体で、仁の脅威をあっさりと薙ぎ払ってしまった女の後ろ姿を見つめる事しかできなかった。
半壊した家の中心、佇んでいた女がクルリとこちらを振り返る。
それからキョロキョロと辺りを見回し、再び仁に視線を戻すと、言い訳めいた口調で言った。
「……大丈夫。上からの許可は出てるから。多少の破壊は仕方がない」
「ちょっと自信なさそうじゃねぇか!!」
やり過ぎた自覚のありそうなヒーローに大声で突っ込めば、仁の視界がぐにゃりと歪んだ。
彼女の無事を確認できた安堵からか、ゆっくりと意識が遠のいて行く。
五日分の疲労、空腹、脱水症状、それらが一斉に襲い掛かってくる感覚。
チカチカと白く点滅する世界の中、「よく頑張ったね」と聞こえた声が、仁の心にじわりと染み渡っていった。