暗部の忍が転生して公安ヒーローになる話   作:ぴのっきお

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ヒーローにはなれない

 

 

式が終わると、蒼良は控え室へと戻り、置いていた荷物を即座に手に持って部屋を出た。

スマホを開き、近くまで車で迎えに来てくれているらしい目良にメッセージを送りながら廊下を歩いていると、向こう側からいくつかの足音が近づいてくるのが聞こえ、壁側に身を寄せ道を空ける。

ほどなくして視界に現れたのは、ヒーロー界の大物中の大物___フレイムヒーロー、エンデヴァーこと轟炎司その人だった。

私服に着替えた姿でも、放たれる存在感は隠しきれない。

すれ違う直前、蒼良は足を止めて小さく会釈をした。

 

 

「お疲れ様です、エンデヴァーさん」

 

 

彼も同じように立ち止まり、高い位置からじっと蒼良を見下ろしてくる。

 

 

「No.10のアズールだったか。……大したスピード出世だな」

 

 

口にしたのは褒め言葉だが、視線は値踏みするように露骨に蒼良を測っていた。

しかし、仮面越しの蒼良の表情など読み取れるはずもない。

すぐに興味を失ったように、炎司はぷいと顔を蒼良した。

 

 

「慢心せずに、せいぜい精進しろ」

 

 

吐き捨てるように言い残し、ズカズカと歩き去る。

その背中を、慌てたサイドキッカーズたちが追いかけた。

 

 

「ちょっとエンデヴァーさん!素直に『おめでとう』って言えないんですか!?それじゃ支持率上がりませんって!」

 

「俺は無駄な馴れ合いが嫌いなんだ」

 

「なーに言ってんですかこのコミュ障は!カッコつけてないで、ほら、今からでも言っときましょうよ!」

 

 

気難しいエンデヴァーに対して、物怖じする様子もなく噛みつくサイドキックたち。

通称 『炎のサイドキッカーズ』 は、その肝の太さと元気の良さが取り柄なのだ。

 

 

「うるさい。さっさと帰るぞ。コートを引っ張るな」

 

 

炎司に叱られながらワチャワチャと騒ぎ続ける彼らの背中に、蒼良はくるりと向き直った。

 

 

「待ってください、エンデヴァーさん」

 

 

廊下に響いた静かな声。

呼び止められた炎司が、怪訝そうに振り返る。

蒼良の声は普段通りの抑揚のないものだったが、その普段を知らないサイドキッカーズたちにとって、それは怒りを秘めた冷たい声のように聞こえた。

彼らは一様に冷や汗を浮かべ、あわや一触即発かと空気が張り詰める。

だが、当の炎司は動じていない。

ふてぶてしい仏頂面を貫いたままだ。

 

 

「何だ。もしや気でも悪くしたか」

 

 

だとしても、謝る気は微塵もない___そんな意志がありありと滲む返答だった。

サイドキッカーズたちが焦って間に入りかけた、その時。

 

 

「いえ、そうではなく。サインを一枚いただけませんか?」

 

「「「……は?」」」

 

 

流れも空気も無視した申し出に、サイドキッカーズはもちろん、炎司までもが一瞬ぽかんとした顔を見せた。

 

 

「サインだと……?何故だ」

 

 

もしやこの小娘は自分のファンなのではという当然の考えが炎司の中で生まれ、自分の冷たい対応をほんの少しだけ後ろめたく感じる。

そして先程からサイドキッカーズの咎めるような視線が背中に突き刺さっているのが鬱陶しい。

そんな炎司の目の前で、蒼良は手に持っていたバッグをガサゴソと漁り始め、おもむろにサイン色紙とマジックペンを取り出した。

それを見たサイドキッカーズたちが、すかさず叫ぶ。

 

 

「ほら!エンデヴァーさん、挽回のチャンスですよ!謝りながらサインしてあげてください!」

 

「見てくださいよ、あんな物まで用意してきてるんですよ!?なんて健気なファンなんでしょう!」

 

「あんな対応されてもサイン欲しいって、そんなコアなファン他にいませんって!」

 

 

三人がかりの援護射撃が、炎司の耳に突き刺さる。

断るわけにもいかない空気が作られていく。

ファンサービスを好む性質ではなかったが、わずかに芽生えた後ろめたさを振り払うこともできず、炎司は渋々口を開いた。

 

 

「……貴様、俺のファンなのか」

 

「だーかーら!」

 

「今この状況でファンじゃない訳ないでしょうが!」

 

「冷たい態度とっちゃった手前、いきなり掌クルクルするのが恥ずかしいからって、ジャブ打つのフツーにダサいですよ!」

 

「おい、それは言い過ぎだろ!エンデヴァーさんはこう見えて繊細なんだぞ!」

 

「そのギャップ、どこに需要あるんすか!」

 

「やめろッ!本当のことを言うな!!」

 

 

騒がしい連中に眉間を揉みながらも、炎司は無言で蒼良の色紙とペンを奪い取った。

この場を丸く収めるには、さっさとサインを済ませて立ち去るのが一番だ。

そう思い、ペンのキャップを外したその時。

 

 

「私は別に、エンデヴァーさんのファンじゃありません」

 

「「「……は?」」」

 

 

廊下に揃った間抜けな声。

今度は炎司も声を出したうちの一人だった。

 

 

「貴方に対して、好意も悪意も興味も何もありません。ただ……身内にエンデヴァーさんのファンがいるので、サインを持って帰れば喜ぶかなと思っただけです」

 

 

蒼良は相変わらず平坦な口調でそう続けた。

炎司が意図的な無礼を働くタイプなら、この少女は天然の無礼者だった。

 

 

「あ。宛名は『啓悟くんへ』でお願いします」

 

 

さらにぽつりと言い添えたその時、炎司の堪忍袋の緒が切れる音がした。

 

 

「俺は! 不要なファンサービスなどしない主義だ!それと、こんなもの用意して浮かれ気分でここへ来るな!Top10に名を連ねた自覚を持て!!」

 

 

怒鳴りつけると色紙とペンを蒼良に突き返し、踵を返してずんずんと地面が震える勢いで歩き去っていく。

 

 

「やっべぇ、すげぇ……流石No.10……!」

 

「俺、エンデヴァーさんをあそこまでブチ切れさせる人、初めて見ました!」

 

「いや待て!あの人、地獄耳だから!聞こえてたら死ぬぞ俺たち!」

 

「もう既に怒ってるって!宥めに行くぞ、急げ!」

 

 

ドタバタと慌ただしく走り去るサイドキッカーズたちを、蒼良は無表情で見送った。

 

 

「サイン……」

 

 

胸に色紙とペンを抱え、小さくつぶやく。

しょんぼりと項垂れた背で萎む蒼翼には、どこか哀愁が漂っていた。

 

 

 

 

 

_______

 

 

 

 

 

この国の平和の象徴、オールマイト。

その正体たる八木俊典は、今まさに非常に気まずい思いをしていた。

 

式典も無事に終わり、さて帰ろうかと楽屋を出たところだった。

前方でなにやら揉めている気配を察知し、そろりと覗き込んだ先。

そこで俊典が目撃したのはNo.2 vs No.10の緊張感ただよう一触即発の現場だった。

しかもその周囲で、やけに愉快なサイドキッカーズたちが事態をさらに盛り上げている。

 

結果、何かと好戦的で扱いづらい轟炎司に、堂々とケンカを売るかのような発言を繰り返す小柄なヒーロー。

そして、それをビクビク眺める筋骨隆々な大男という珍妙な空間が出来上がっていた。

ふっかけたのは炎司の方だったが、それにしても。

新人らしからぬ肝の据わりっぷりで炎司を弄んで見せた新人ヒーローに、俊典は内心、畏怖すら覚えた。

 

 

「これは、なかなかクセの強いニューヒーローが出てきたぞ……」

 

 

そんなふうに思っていた矢先だ。

その場に取り残された彼女の翼が、しゅるりしゅるりとしぼんでいく。

誰がどう見ても落ち込んでいる。

そして俊典はようやく思い至った。

もしかしたら、彼女は本当に悪意なく、ただ純粋にエンデヴァーのサインが欲しかっただけなのではないのかと。

印象を修正しながら、俊典は迷わず足を踏み出す。

困っている人を放っておけないのは、もはや彼の本能だった。

 

 

「あー……、えっと。君は確か、アズールだったかな?」

 

 

背後から声をかけると、蒼良がゆっくりと振り返る。

目の前には、この国のトップヒーロー。

それにもかかわらず、先ほどと同じ冷静なトーンで口を開いた。

 

 

「お疲れ様です、オールマイトさん」

 

 

型にハマった挨拶。

熱狂も、興奮も、特別な感情の色もない。

ヒーローに興味がない人間は一定数いるが、ヒーローを志す者の中で俊典にこまで無関心な反応を示す人間は珍しかった。

面白い子だと思いながら、敏典はにこやかに笑ってみせる。

 

 

「お疲れ様。そして、十位ランクインおめでとう」

 

 

その言葉に蒼良がこくりと一つ、礼を返した。

 

 

「ところで___君、エンデヴァーのサインが欲しかったんだろう?代わりと言っちゃ何だけど、私のサイン……要るかい?」

 

「……いいんですか?」

 

 

蒼良の声に、ほんの少しだけ温度が宿る。

身内にオールマイトの熱烈なファンがいるわけではない。

けれど啓悟や転弧なら、きっとこのサインに大喜びしてくれることだろう。

そんな光景を思い浮かべた蒼良は、ためらうことなく色紙とペンを俊典に手渡した。

 

 

「ありがとうございます、オールマイトさん。私の家族が喜びます」

 

「ハッハッハ、これくらいお安い御用さ!」

 

 

朗らかに笑いながら受け取り、俊典はまたひとつ蒼良の印象を上方修正する。

なんだ、素直で礼儀もわきまえている、可愛らしい子ではないかと。

慣れた手つきでさらさらとサインを書き上げ、中腰になって小柄な蒼良に目線を合わせた。

色紙を手渡すついでに、つい、ぽんぽんとその頭を撫でてしまってからハッとした。

 

 

「す、すまない!今のはレディに対する礼儀を欠いた……!本当に申し訳ない!」

 

 

ガタイのいい大男が、二本の触角をヘニャンと下げて必死に謝る。

普段子供たちにやっている癖が、つい自然に出てしまったのだ。

しかし対する蒼良はと言えば、首を小さく振って答えた。

 

 

「問題ありません。頭を撫でられるのは好きなので」

 

 

そう言うなり、スイッと俊典の方へ一歩近づき、撫でろとばかりに頭を差し出してくる。

 

 

「……えっ、マジで?」

 

 

年齢は非公開とはいえ、ヒーローとして活動している以上、彼女はきっと若くとも十八以上。子供ではないのだ。

いい歳したおじさんが、そんな年頃の女性の頭を撫でていいものなのか。

俊典が逡巡していると、待ちきれなかったのか、蒼良が顔を上げて不思議そうに小首をかしげた。 

その姿に俊典は苦笑して、再びそっと手を伸ばす。

 

 

「分かったよ、君がいいならそれでいいんだ」

 

 

ぽふ、と頭に手のひらが乗る。

小さな頭。

柔らかい髪。

そして、その背で嬉しそうにパタパタと動く青い翼。

 

 

「ん゙ん゙……っ」

 

 

俊典は思わず片手で顔を覆った。

冷たい声色からでは分かりづらかったが、ずいぶんと愛らしい感情表現をする人だ。

異色で不思議な新人ヒーロー、アズール。

この日の彼女とのわずかな交流は、まるでアニマルセラピーでも受けたかのように、優しい余韻を俊典の胸に残したのだった。

 

 

 

 

 

ちなみに蒼良の方はと言うと、帰宅後に皆の前で若干胸を張ってサイン色紙を差し出してみたところ、返って来た反応は想像とは違っていた。

何故か『オールマイトのサイン』よりも、『蒼良からのお土産』という事実に全員が沸き立ったのだ。

いつも冷静なはずの廻まで、無言でしれっと混ざってきたのには蒼良もさすがに驚いた。

色紙を巡って争奪戦が勃発し、翌日に訓練場で行われた正真正銘のガチンコバトル。

結果、色紙は最も予想外だった廻の手に渡った。

 

 

「あいつ、歳上のくせに遠慮ってもんがない!」

 

 

蒼良にしがみついて文句を言う転弧。

その横で啓悟は無言のまま、ふてくされた顔で地面を睨んでいた。

 

 

「……三枚貰ってくるべきだったのかもしれない」

 

「いいえ、蒼良。僕の分も入れて四枚です」

 

 

目良の横槍を受けながら、蒼良は次回への改善点を一つ頭にメモしたという。

 

 

 

 

_______

 

 

 

 

 

何かを始めるとき、一番大変なのは腰を上げる瞬間とはよく言ったものだ。

燈矢もその例に漏れず、蒼良がいなくとも始めさえすればすぐに調子を取り戻し、いつも通り熱心に修業に打ち込んだ。

むしろ、蒼良が帰宅時間を告げに来なかった分、つい夢中になりすぎてしまったくらいだ。

結果、家へと帰りついたのは、いつもよりずっと遅い時間だった。

 

 

「……ただいまー」

 

 

玄関の扉をそっと押し開ける。

ふと視線を落とすと、そこには昼間にはなかった父の靴が並んでいた。

帰ってきている___分かった瞬間、燈矢は靴を脱ぎ捨て、小走りでリビングへと急いだ。

 

 

「おかえりなさい、お父さん!」

 

 

そこには、ひとり食事をしている炎司の姿があった。

父は燈矢の方を見て一瞬目を丸くし、それから眉間に皺を寄せた。

 

 

「今日はヒーロービルボードチャートの更新日だったんでしょ? 遅くまでお疲れ様。俺も今からご飯なんだ。向かい側で食べてもいい?」

 

 

順位の話題には触れず、燈矢はすぐに話を蒼良す。

冷蔵庫から自分用の夕食を取り出し、電子レンジにセットしながら炎司の返答を聞いた。

 

 

「ああ、そうだが……燈矢、お前、今年はテレビを見ていなかったのか」

 

「うん、友達と遊んでたから。夏くんに録画お願いしてあるんだ。ご飯食べたら見るつもり」

 

「そうか。……友達を作るのはいいことだ。ただ、帰る時間は考えろよ。向こうの家にも迷惑になる」

 

「はーい、ごめんなさい。次からは気をつける」

 

 

音を立てた電子レンジから湯気の立つ皿を取り出し、父の前へ並べていく。

帰宅時間の遅い父と、こうして一緒に食卓を囲める機会は少ない。

「いただきます」と手を合わせる燈矢の顔には、反省よりも嬉しさが滲んでいた。

箸を取り、あたたかなご飯を口に運ぶ。

炎司は対面で黙々と箸を動かしながら、どこかぎこちない間を置いて燈矢に話題を振った。

 

 

「……最近、毎日遊びに出ているんだってな。冷から聞いた。学校は楽しいか」

 

「んー、普通。学校はね。でも、放課後は楽しいよ」

 

「そうか、普通か。……放課後に遊んでいるのは、学外の友達か?」

 

「うん。他校の子。俺より一歳上でさ、ちょっと抜けてるっていうか、変なとこあるけど。……でも、すごくいい奴」

 

 

箸を持ったまま嬉しそうに笑う息子を見て、炎司はそっと胸を撫で下ろした。

個性訓練を禁じて以来、あれだけ反発していた燈矢が、最近になってようやくヒーロー以外に目を向けるようになった___そう冷から報告を受けたときも安心したが、こうして本人の口から聞けると、なおさら重かった肩の荷が降りるような気がした。

しかし、あれほど頑なだった燈矢が、こんなにもあっさりと変わってしまうとは思わなかった。

 

 

「その子の名前は?普段はどんなふうに遊んでるんだ」

  

 

ほんのわずか、心のどこかに引っかかるものを覚えながら、炎司がさらに問いかけると、燈矢は箸を持つ手を止めて嬉しそうに顔を上げた。

 

 

「蒼良っていうんだ。瑠璃川蒼良。かけっこしたり、腕相撲したり……うん、だいたいそんな感じ!」

 

 

言いながら、どこか誇らしげに胸を張る。

基礎体力トレーニングの延長として、そういった遊びをしたこともあるのでこれは完全な嘘ではなかった。

 

 

「蒼良、か。……女の子か?」

 

「そうだよ。でも、俺より全然体力あるし、力だっていい勝負してるんだ。すごいでしょ?あ、でも身長は最近俺の方がちょっと高いよ」

 

 

楽しげに語る燈矢を見て、炎司は複雑な心境になった。

まさか友達より先に、ガールフレンドを連れてくるとは思わなかった。

十歳の息子に色恋沙汰などまだ早い、と心の中で首を振る。

しかし、それが燈矢の関心を個性訓練から遠ざけてくれる存在だというのなら、甘んじて受け入れざるを得ないだろう。

炎司は余計な言葉を飲み込み、代わりに話の続きを促した。

 

燈矢はさらに勢いづき、蒼良について語り始める。

その口は一向に止まる気配がない。

大好きな父に、大切な友達のことを語れるのが嬉しくてたまらないのだろう。

気づけば目の前の食事などすっかり忘れ、言葉だけがどんどんあふれ出していく。

 

そんな息子の様子を見ながら、炎司はまだ顔も知らない少女に対して、奇妙な感情を抱いていた。

燈矢からこんなにも生き生きとした表情を引き出してくれたことへの感謝と喜び。

そして、ほんのわずかな寂しさだ。

ヒーローから、自分から、燈矢の興味が離れるようにと、あれほど願っていたはずなのに。

いざ別のものに心を奪われてしまうと、こんなにも胸がざわつくとは思わなかった。

自分の勝手な感情に呆れつつ、炎司はちらりと燈矢の皿に目を落とした。

ほとんど手をつけられないまま、冷めていく夕食。

 

 

「燈矢、口ばかり動かしていないで手も動かせ。さっきからまったく進んでないぞ」

 

「あっ……、」

 

 

慌てて箸を持ち直そうとした燈矢だったが、指先からカランと音を立てて落としてしまった。

ただの注意不足ではない。

掌を走った鋭い痛みに、反射で箸を投げ出したのだ。

 

今日の燈矢には、訓練でできた火傷の痕が残っている。

いつもなら帰宅前に治してくれていた少女の不在を考慮して、服の下に隠れる場所のみ発火させるよう注意はしていた。

けれど、まだ成長途上の燈矢にとって、ただの一度もミスを犯さないというのは難しい話だったのだ。

 

 

「燈矢、お前……」

 

 

炎司の声が低く落ちた。

次の瞬間には、顔が見る見る険しさを増していく。

それを見た燈矢が、サッと顔を青ざめさせる。

先ほどまでの和やかな空気は一瞬にして吹き飛び、リビングに重苦しい緊張が満ち始めていた。

 

 

「手を見せろ」

 

 

唸るような低い声。

その圧に、燈矢の肩がびくりと跳ねた。

 

 

「い、嫌だ……」

 

「口答えするな!今すぐ両手を見せろ、燈矢!!」

 

 

怒号と同時に、炎司の拳がテーブルを打った。

鋭い音を立てて木製の机に亀裂が走り、陶器の皿が床に落ちて割れる。

ひやりと空気が凍りつく中、席を立った炎司がまっすぐに歩み寄ってくる。

迫り来る父に、燈矢は小さく後ずさった。

それでも、なお必死に首を横に振って抵抗の意思を示す。

 

 

「やだ、やめてよ……!」

 

 

懇願にも似た声は、しかし炎司には届かなかった。

力任せに両手首を掴まれ、小さな掌が無理やり晒される。

そこには、ところどころ皮膚がめくれた赤黒い火傷の痕が痛々しく広がっていた。

 

瞬間、炎司の視界が赤に染まる。

ひどく裏切られた気分だった。

危険を危険と認識できず、愚かにも同じ過ちを繰り返す息子に、沸き上がる怒りはもはや制御が効かなかった。

 

 

「嘘を、ついていたんだな……。なぁ、燈矢……この火傷が証拠だろう!? 友達と遊びに行くと嘘をついてまで、個性を使い続けていたんだろう!」

 

 

リビングに響き渡る怒鳴り声に、何事かと他の家族が駆けつけてきた。

焦凍を抱えた冷。

その隣に冬美。

そして冬美と手を繋ぎ、不安そうに震えている夏雄。

 

 

「ちょっと……、何してるの……?どうして、燈矢を叱ってるの……」

 

 

震える声で問いかけた冷に、炎司は怒鳴り声で返した。

 

 

「うるさい!お前は黙ってろッ!!」

 

 

ともすれば今にも殴りかかってきそうな雰囲気に、仲裁に入ろうとした冷が怯えた顔で後ずさる。

それでも燈矢は逃げなかった。

青ざめた顔で父をまっすぐに見上げながら口を開く。

 

 

「嘘なんか、ついてない……。本当に、友達と遊んでるんだよ……!」

 

 

絞り出すような声だった。

引き下がるわけにはいかなかった。

かつて無いほどに充実した日々を、こんな些細なミス一つで終わらせてしまうわけにはいかなかった。

 

 

「だったらその火傷は何なんだ!個性は使うなとあれほど言っておいただろう!?全部お前のためなんだ……!それなのに何故分からん!そこまでの火傷を負って、何故分からないんだ、燈矢ッ!!」

 

 

怒声と共に炎司が燈矢の両肩を掴み、乱暴に強く揺さぶった。

怒りに満ちたその目が、鋭い刃のように燈矢を貫く。

狂気にも似た息苦しいほどの圧力。

固唾を呑みながら、それでも燈矢は黙っていられなかった。

 

 

「分かるはず、ないだろ……。俺は、お父さんの子供なんだから……」

 

 

震える手で自分の服の裾を握る。

掌の痛みなど、もう感じなかった。

ただ胸の奥で煮えたぎる衝動が、どうしようもなく燈矢を突き動かしていた。

 

言いつけを破った自分に非がある事は分かっている。

けれど、燈矢はそもそもその言いつけに納得した事など一度もないのだ。

父はいつも一方的だった。

駄目だと決めつけ、聞く耳も持たず、ただ押さえつけようとするばかり。

言いたいことなら、燈矢にだって山ほどあった。

 

 

「大丈夫だよ、お父さん……。蒼良は治癒の個性を持ってるんだ。だから、蒼良と一緒なら訓練だって危険じゃない。今日はたまたま蒼良がいなかっただけで___」

 

 

炎司の目から、すっと光が消えたのはその時だ。

父を安心させ、納得させるべくしたこの発言が、蒼良という少女が燈矢の危険行為を助長させている事実を父に告げているようなものなのだと、口に出すまで気付けなかった。

 

 

「……燈矢」

 

 

低く、地を這うような声がリビングに落ちる。

燈矢の背筋にぞわりと冷たいものが這った。

父の怒気がさらに跳ね上がったのを肌で感じた。

肩を掴んでいる手が、怒りのあまり震えている。

その震えが、燈矢はたまらなく恐ろしかった。

 

 

「そいつにはもう、二度と会うんじゃない……!!」

 

 

獣が唸るような声だった。 

人を殺しかねないほどの狂気をたたえた父の目が見えた。

けれどこの怒りは恐らく、燈矢ではなくあの少女に向けられたものだ。

それを理解した燈矢の胸中で、恐れや恐怖を塗り潰すほどの憤怒と悲哀が渦巻き始めた。

 

 

「なんで……?夢も、友達も、何で俺から全部奪おうとするの……?」

 

「外を見ろと言っているんだ!ヒーロー以外にも沢山の世界がある!お前は冬美や夏雄と遊べ!学校で友達を作れ!そうして行くうちに、全部忘れる!」 

 

「そんなのひどいよ……俺に火をつけたのはお父さんだろ?それなのに、何で今さらそんな事言うんだよ……」

 

 

そんなに息子が心配なら、側で見ていてくれればいいのだ。

無茶をしないよう、あの少女のように個性訓練に付き合ってくれればいい。

もしも本気で燈矢を止めたいと思っているのなら、全てを母に任せていないで、毎日引き止めにくればいい。

こちらが求めるものは何一つ与えてくれないくせに、大切な夢も、あの少女までをも取り上げようなどと、そんな理不尽があってたまるものか。

 

 

「要らない子供作っておいて……その後ろめたさから逃げるために、俺から目を背けておいて。……そんなお父さんに、蒼良を責める資格なんてあるの?」

 

 

引きつった表情でそう問いかけた燈矢を前に、炎司が初めて怯んだような顔を見せた。

  

 

「俺、才能あるって蒼良に言われたんだよ……!」

 

 

燈矢の瞳に、ギラギラとした不穏なものが光り始める。

 

 

「やってみなきゃ分かんないだろ……?失敗作でもヒーローになれるんだって、オールマイトを超えられるんだって、俺が証明してやるよ!だからいい加減、俺のこと見てよお父さん!!」

 

 

燈矢は笑っていた。

その瞳に仄暗い炎を灯し、目の縁に涙を溜めながらも、決して炎司から目を逸らさない。

常人には到底理解できない、常軌を逸した妄執に取り憑かれたような目をしていた。

 

そんな息子の姿は、皮肉にも自分そっくりだと思わざるを得なかった。

恐ろしかった。

燈矢をこんな風にしてしまったのは他でもない炎司自身なのだと、責められているような気分だった。

 

目には見えない重たい空気の塊のようなものが、炎司の足元から忍び寄り、ゆっくりと這い上がってくる。

身体が重たい。息が吸えない。

ハッ、ハッと、呼吸が急速に短く浅くなっていく。

 

 

「_____」

 

 

炎司はとうとう、自分の息子から目を逸らした。

その瞬間、ようやく肺に取り込めた空気に安堵する。

全身に嫌な汗が浮かんでいた。

 

真の超人であるオールマイトへの羨望と僻み。

自らを努力(エンデヴァー)と名乗る卑屈な性根。

人前に出る時は常に炎を身に纏い、力を誇示していなければ己を保つ事すら出来ない醜心。

ナンバーツーヒーローエンデヴァーとは、極めて強い上昇志向と厳格さのその裏で、自己嫌悪と無力感に苛まれ続ける弱く脆い男だった。

 

薄い肩から手を離し、床に視線を落としながら口を開く。

そして今、決して口にしてはいけなかった言葉が、彼の口から紡がれた。

 

 

「分かってくれ、燈矢。お前は……ヒーローには、なれない」

 

 

父の言葉を受け、燈矢はますます笑みを深くした。

泣かないために笑っている。

燈矢のそんな表情は、この場にいる家族の誰もが初めて見るようなものだった。

 

  

「今さらなかったことになんて出来ないんだよ……もう、消えないんだよ……!なぁ、目を逸らすなよ!俺を見ろよ、エンデヴァーッ!」

 

 

ひっと引きつるような声と共に、燈矢の涙の膜は決壊した。

 

 

「俺を……!見ろよぉ……ッ!!」

 

 

そう叫んだと同時に、燈矢は目の前の父を擦り抜け、その奥に立つ母のもとへ___母に抱かれる焦凍のもとへ一直線に飛びかかった。

絶望に囚われ、正常な判断力を失った燈矢の中で、自分が喉から手が出るほど恋い焦がれているものを、産まれた時から全て手にしていた弟に対するやり切れない妬み、嫌悪、屈辱が溢れ出して止まらなかった。

 

驚いたように目を見開く焦凍の顔が見えた。

綺麗な瞳だ。

誰かを害する事も、害される事もまだ知らない、純心な弟だ。

けれど今はそんな清廉さすら燈矢の劣等感を燃え上がらせるための燃料のようだった。

 

燈矢の左手に赤い炎が灯る。 

明確な悪意を持っていた訳ではない。

焦凍を傷つけたかった訳でもない。

ただ、やり場のない想いの持って行き場が分からなかった。

本来であればそれを受け止めるべき父親に背を向けられた十歳の燈矢を、いったい誰が責められるというのだろう。  

 

 

「燈矢ァ__ッ!!!」

 

 

燈矢の手が焦凍に触れる直前、すんでのところで炎司が燈矢の右手を掴んだ。

一度は不意を突かれたものの、No.2の称号は伊達ではない。 

 

 

「冷!早く……!早く焦凍を冷やせッ!!」

 

 

触れるには至らなかったものの、あの火力の炎が直ぐ側まで迫っていたのだ。

炎司は血の気が引く思いで、強い力で燈矢を後ろへ引くのと同時に、焦凍のもとへと走り寄った。

 

 

「大丈夫。焦凍に怪我はない。燈矢が直前に炎を収めていたから……」

 

 

傷一つ無い柔くまろい焦凍の頬を震える手で撫でながら、冷や汗を浮かべる冷が答えた。

彼女の言う通り、焦凍は傷ついて泣くどころか、一瞬の出来事に何が起きたかも理解していないような顔でキョトリと目を丸くしている。

それを見た炎司の緊張が瞬間的に解け、しかし直ぐに目を吊り上げて後ろを素早く振り返った。

 

 

「お前は今、自分が何をしようとしたのか分かってるのか!?」 

 

 

燈矢は何も答えなかった。

炎司の怒声にピクリとも反応することなく、ただジッと俯いて下を見ている。

反省を感じられないその態度に、炎司はますます声を荒げた。

 

 

「こっちを向け!聞いているのか燈矢!!」

 

「……そうやって俺が呼びかけた時、お父さんは俺を見てくれた?」

 

 

何の感情も感じさせない静かな声に、見たくなかった物を突然見せられたような、そんなショックが炎司を襲った。

燈矢がゆっくりと顔をあげる。

炎司がターコイズブルーの瞳を大きく見開くと、反対に燈矢は同じ色をした目を細めた。

 

 

「俺、もう部屋に戻るよ。……焦凍、ごめんね」

 

 

クルリと後ろを向き部屋を出ていくその背中に、炎司は何も言えなかった。

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