暗部の忍が転生して公安ヒーローになる話   作:ぴのっきお

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よく分からない

 

子供部屋へ戻ると、燈矢は外から帰ったままの格好で、そのまま布団へと身を投げた。

どっと押し寄せる疲労感。

もう食事をする気力も、風呂に入る余裕も残っていない。

布団を頭までかぶり、横向きに縮こまってじっとしていると、やがて引き戸がそっと開く音がした。

 

 

「……燈矢兄、入ってもいい?」

 

 

夏雄の声だ。

こちらの様子を探るような、不安げな気配が声の響きから伝わってくる。

 

 

「大丈夫だよ、ここは夏くんの部屋でもあるんだから」

 

 

燈矢が布団の中から答えると、遠慮がちに足音が近づいてきた。

 

 

「ねぇ、燈矢兄……俺、ちゃんと言われた通りテレビ録画しといたよ。明日、皆で一緒に見よう?」

 

 

先程の燈矢の様子を見ていたからこそ、夏雄なりに元気づけようとしてくれているのだろう。

けれど、今の燈矢にその言葉は逆効果だ。

父が好きだ。憧れている。認められたい。

だからこそ、今はそんな偉大な父のヒーロー姿を、純粋な高揚感一色の心で眺めていられる気がしなかった。

 

 

「……いい。要らない。明日も、その次の日も見ない。……お願い夏くん、消しておいて」

 

「燈矢兄……」

 

 

エンデヴァー至上主義の兄にこの励まし方が通じないとなると、夏雄にはもう為す術がない。

他にかける言葉も見つからず立ち尽くしていると、燈矢がぽつりと口を開いた。

 

 

「焦凍の様子……どうだった?」

 

 

その言葉に、夏雄はホッと胸をなで下ろした。

兄にまだ、誰かを気にかける余力が残っている事に安堵したのだ。

 

 

「大丈夫だよ」

 

 

努めて明るく夏雄は答えた。

 

 

「焦凍はまだ赤ちゃんだし、ちょっと鈍感っていうか……ほら、ぼけっとしたとこあるだろ?燈矢兄が部屋に戻った後も、全然平気そうだったよ」

 

「……そっか。良かった」

 

 

布団の中から、ずびっと鼻をすする音が聞こえた。

続けて、かすれた声でもう一度「良かった」と。

 

 

「俺……焦凍に個性を向けたとき……何も考えてなかったんだ」

 

 

心に溜まったものを吐き出すように、燈矢がぽつりぽつりと語り始める。

 

 

「焦凍は、何も悪くなかったのに。なのに……俺、衝動だけで、傷つけようとした……」

 

 

やり切れない感情が心の奥に溜まりきると、燈矢は決まって弟の夏雄に打ち明ける癖があった。

最近ではそんな姿もほとんど見せなくなっていたため、夏雄はどこか懐かしさを覚えながら、丸まった布団の隣に静かに腰を下ろす。

 

 

「でも……焦凍に触れそうになったとき、蒼良の顔が浮かんだ」

 

「蒼良……?」

 

 

夏雄は反射的に聞き返した。

さっきの父とのやりとりの中で何度か耳にした名前だが、その人物の声も顔も知らないままだ。

それでも、今の燈矢には夏雄の戸惑いを拾う余裕はなく、吐き出すように言葉を続ける。

 

 

「すごく、怖かった……。もしも焦凍を怪我させちゃったら、俺、明日……どんな顔で蒼良に会えばいいか、分からなくなるって思ったんだ」

 

「……うん」

 

 

分からないなりに、兄の言葉を出来る限りすくい上げようと夏雄は頷いた。

 

 

「蒼良はね、心配性なんだ。俺がちょっとでも火傷すると、すぐに来てくれる。手当てしてくれる。……俺、蒼良のそういうところ、ヒーローみたいだなって、ちょっとだけ思ってた」

 

 

言葉を紡ぐたびに、布団の中で燈矢の身体はさらに小さくなっていく。

 

 

「だから……もし、俺が誰かを火傷させたりなんかしたら、蒼良は悲しむと思う。……ううん、きっと怒る。きっと俺のこと、許せなくなる。どうしよう、夏くん。もし蒼良にまで背を向けられたら、俺……俺、もう、どうしていいか分かんないよ……」

 

 

話しているうちにますます縮こまっていく布団を眺めていた夏雄は、恐らく兄の頭があるであろう場所にそっと優しく片手を乗せた。

 

 

「きっと大丈夫だよ、燈矢兄」

 

 

夏雄はできるだけあっさりとした口調で言った。

兄の話している内容の重さは、正直十分に理解できていない。

それでも今、燈矢が求めているものは、正しさではなくただの安心なのだという事は分かっていた。

 

 

「だって、燈矢兄は焦凍を傷つけなかったじゃん。それに、蒼良ってヒーローみたいなんでしょ?だったら、そんな簡単に誰かを嫌いになったりしないって」

 

言葉を返した直後、布団の中からズビッと鼻をすする音が聞こえた。

夏雄は一瞬、返答を間違えたかと不安になったが、そっと顔を出してきた兄の表情を見て、その心配は杞憂へと変わった。

燈矢は泣きながら、それでも少しだけ安堵した顔をしていたから。

 

 

「そっか……そうだよね……?」

 

 

燈矢が布団に顔を半分埋めたまま呟く。

 

 

「蒼良は優しいもん。それに……俺のこと、見ててくれるって約束してくれたんだ。俺がもういいって言うまで、蒼良はずっとそばにいてくれるよね……?」

 

 

縋るような声だった。

そんなことを尋ねられても、蒼良本人でも無ければ、蒼良の顔すら知らない夏雄には何も分かるはずがない。

けれど、これまで父への思いの丈を何度も言い聞かせられてきた経験から、こんな時の対処法はしっかりと心得ていた。

 

 

「うん、大丈夫だよ、燈矢兄」

 

 

夏雄は頷くと、テレビで聞きかじった言葉を思い出して付け加えた。

 

 

「ヒーローは、一度した約束を絶対に破らないんだってさ」

 

 

それが真実かどうかは重要ではない。

今この瞬間の燈矢には、その類の言葉が必要なのだと漠然と理解していた。

 

 

「そうだよね……うん、きっと、そうだ……」

 

 

ややあって再び鼻をすする音がしたかと思えば、燈矢は自分に言い聞かせるように「きっとそうだ」と繰り返す。

夏雄はその様子を見守りながら、静かに胸を撫でおろした。

 

 

「ありがとう、夏くん……」

 

 

ようやく落ち着きを取り戻したらしい燈矢が、か細い声で礼を言う。

 

 

「へへ、どういたしまして。……あ、そうだ、燈矢兄。元気になったならお風呂に入ったほうがいいよ。晩ごはんもほとんど残してるし、お母さんが心配してた」

 

 

思い出したように夏雄が促すと、燈矢はややうんざりしたような顔を向けて来た。

 

 

「無茶言わないでよ……。さっきの今でまたお父さんと焦凍に遭遇したら、俺、どんな顔してればいいんだよ……」

 

 

しぼんだ声でぼやきながら、困り果てたように眉をひそめる。

 

 

「ごはんは明日の朝、お父さんが出かけてから食べるよ。お風呂もその後で入る。夏くんもまだでしょ?俺のことはもういいから、先に行ってきなよ」

 

 

急かすように言って、燈矢はまた布団に潜り込んでしまった。

夏雄は腕を組んで少し考えたあと、ふうと小さく息をつく。

 

 

「うーん……。それじゃあ、お母さんにはそう伝えとくけどさ。せめて、服くらいは着替えなよね。布団どろどろにしたら、明日お母さんが悲鳴あげるよ?」

 

「……ごめん、すぐ着替える」

 

 

ぼそぼそと答えると、ようやく布団の中で燈矢の身体が動き出す。

夏雄はそれをちらりと確認すると、軽く手を振りながら部屋を出ていった。

静かになった部屋にひとり取り残され、燈矢はしばらく天井をぼんやりと見上げていたが、やがて重い腰を上げ、下着から服まで乱雑に着替え終えると、再び布団に潜り込んだ。

 

そしてまた、静寂だけが戻ってくる。

ひとりきりになると、どうしても頭に浮かんでしまうのは、先ほどの父とのやりとりだ。

胸を締め付けられるような息苦しさが、ゆっくりと忍び寄ってくる。

 

___分かってくれ、燈矢。お前は……ヒーローには、なれない。

 

耳を塞いでも、あの声が消えない。

鼓膜に刻まれた父の言葉が、頭の奥で何度も何度も反響し、まとわりついて離れない。 

 

 

「うるさい……うるさい、うるさい、うるさい……っ」

 

 

繰り返し呟きながら、燈矢は自分の声すら掻き消されそうになるのを感じていた。

どんなに強く耳を塞いでも、どんなにきつく目を閉じても、父の声は呪いのように身体の内側に染みついている。

 

燈矢は少女の名前を呼んだ。

ここにはいない彼女を必死に呼び寄せた。

その声、その匂い、その体温___彼女にまつわるすべての記憶をかき集めた。

頭の中で形作った幻影を、ありったけの力で抱きしめた。

それが唯一、胸の痛みに対抗できる手段だった。

 

誰よりも近くで、誰よりも自分を見ていてくれる、あの少女に会いたかった。

今すぐに顔が見たかった。

燈矢の胸は、はち切れそうなほどに少女への渇望で満たされていった。

 

 

 

翌日___学校が終わると同時、燈矢は家に立ち寄りもせずに瀬古杜岳へ駆けた。

息も絶え絶えになりながら山道を登る。

頭の中は、ただひとつの願いで埋め尽くされていた。

 

そこに、いつもと変わらぬ表情でこちらに手を振る少女の姿を見つけた瞬間、張り詰めていたものが一気にほどけた。

胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。

自分でも分かるくらい、顔がぐしゃりと歪んでしまった。

それは泣きたくなるほど優しい光景で、心が潰れそうに痛かった。

 

駆け寄る足が、自然に早くなる。

この世界には蒼良がいる___それだけで、まだ戦えると思えた。

 

 

 

 

 

 

_____

 

 

 

 

 

 

その日、蒼良が足を運んだのは住宅街の一角だった。

夕暮れの静けさが落ちる道を歩き続け、やがて一軒の家の前で足を止める。

二階建ての、ごくありふれた家屋。

一度だけ見上げた後、ポケットからスマホを取り出して時刻を確認する。

十九時五十五分。約束の時間より五分早いのを確認してから門扉横のインターホンを押した。

 

三度目の呼び出し音が鳴り終わるかどうかという頃、家の扉がガチャリと開く。

そこから顔を覗かせたのは、背の高い青年だった。

黒い猫っ毛が無造作に顎下まで伸び、覗く三白眼はどこか無気力で、気だるげな空気をまとっている。

 

 

「こんばんは。消太くんから会いたいって言われるの、初めてだね」

 

「……ああ、そうだな。俺が何でお前に会いたがってるか、心当たりはあるか?」

 

 

玄関先まで出てきた消太が、扉を内側に引いて開ける。

蒼良は軽く頷き、足を踏み入れた。

 

 

「一つだけ」

 

「なら多分、それで正解だ。覚悟しとけよ。今日は洗いざらい聞かせてもらうからな」

 

「答えられるところは極力答えるつもりだよ」

 

 

消太に続いて玄関に入った蒼良は、たった今消太が脱いだ一足しか靴の置かれていない玄関を見て首を傾げた。

 

 

「消太くんの両親や兄弟は今日もいないの?」

 

 

靴を脱ぎながら何気なく尋ねた蒼良に、消太は壁にもたれたままポツリと答える。

 

 

「俺は一人っ子だよ。両親も今日は二人そろって帰りが遅くなるらしい。……お互いに周りに人がいないほうが話しやすいと思ったから、この時間、この場所を指定したんだ。今は俺しかいないから、安心して入ってこい」

 

 

蒼良は納得したと小さく頷き、玄関に上がるとフローリングに足を置いた。

だが、目の前の青年はなぜかその場に留まったまま、部屋の奥へ進もうとしない。

不思議に思って顔を上げれば、消太がじっとこちらを見下ろしているのと目が合った。

その顔には、何か言いたげな色がはっきりと滲んでいる。

 

 

「どうしたの?」

 

 

首を傾げた蒼良に、消太は少し口ごもった後、呆れたような、心配するようなため息を漏らした。

 

 

「……いや、誘った俺が言うのもなんだけどさ。知らない奴に同じように誘われても、絶対について行くなよ?」

 

「知らない人は、そもそも私を家に招かないと思うけど」

 

 

蒼良の淡々とした返答に、消太は軽くため息をつきながら黒髪をかき上げ、真剣な口調で言った。

 

 

「世間はお前が思うほど甘くないんだよ。見知らぬ女の子を誘い込もうとする危ない奴なんて珍しくないし、お前みたいなのは特に気をつけろ。いいな、俺以外の男にはついて行くなよ」

 

 

やや強められた声に、蒼良は小さく目を瞬かせ、頷いた。思い返せば、初対面の時にも似たような忠告を受けた気がする。

 

 

「分かった。消太くん以外の人の家には入らない」

 

 

素直な蒼良の言葉に、消太はほっとしたように目を細め、口元に小さな笑みを浮かべる。

 

 

「よし、偉いぞ。念のためにもう一回な」

 

「消太くん以外の人の家には入らない」

 

「よし。『今日は両親いないから』なんて言ってくる奴は特に駄目だぞ。たとえ知り合いでもな」

 

「じゃあ消太くんは__」

 

「俺は良いんだ」

 

 

消太は満足げに蒼良の頭を軽く撫で、それから奥へと向かった。その背中を、蒼良は小さな歩幅で追いかけていく。

途中、キッチンで消太は慣れた手つきで自分用にお茶、蒼良用にリンゴジュースと甘いお菓子を盆に並べると、そのまま二階への階段を上がった。

消太の部屋は六畳ほどの清潔で簡素な空間だ。ベッドと勉強机、本棚やクローゼットが端整に配置されており、余計なものは一つもない。

空いたスペースに折り畳み式のローテーブルを手際よく広げ、その上に盆を置くと、消太はすぐに別室から二つのクッションを運んできた。

 

 

「はい、好きな場所に座っていいぞ」

 

 

促すように言いながらクッションを並べた消太に、蒼良はちらりと視線を送った。

 

 

「じゃあ、消太くんはそこ」

 

 

指示された消太があぐらをかいて座ると、蒼良は迷うことなく彼に近づき、当然のようにその膝の上に腰を下ろした。突然の出来事に、消太は数秒呆然と固まってしまう。

 

 

「……そこなのか」

 

 

思わずこぼれた声の後、自分の「好きな場所に座れ」という言葉が脳裏をよぎったが、向かいのクッションが寂しげに置かれたままなのを彼女はどう捉えているのだろう。

 

 

「こうすれば、話しながらくっつけて一石二鳥」

 

 

背中を預けたまま、蒼良は顔だけこちらに向け、さらりと言ってのけた。

互いの密会目的を同時に果たそうという、あまりにも合理的な提案だ。

 

 

「いつの間にこんな甘え上手になったんだろうな」

 

 

初期の頃の、あのぎこちなさはもう跡形もない。

今や、甘えることも甘やかされることも自然と受け入れるようになった少女を見て、消太は素直に感心した。

もちろん蒼良をこんな風にしたのは消太であるし、その自覚はちゃんと持っている。

ふと、農産物のパックに貼られている「私が育てました」シールの笑顔が頭をよぎる。

気分はまるであの生産者だ。

 

子供が素直に誰かに甘えられるのは良い事だ。

特に、複雑な事情を抱えている子供の場合は尚の事そう思う。

蒼良は表情の変化が極端に乏しい子供だが、会う回数を重ねていくうちに、消太にも彼女の様子が段々と正確に把握出来るようになってきた。

蒼良はいつも消太に会いに来るとき、必ずどこか張り詰めたような空気を纏ってやってくる。

けれど、こんな風にしばらく甘えていると、少しずつその緊張がほぐれていった。

 

まだプロヒーローにもなれない半人前の学生に過ぎない自分には、できることなどたかが知れている。

現実主義者な消太はそれをきちんと理解していたからこそ、むやみに踏み込みすぎず、線を引くべきところは引こうと、ずっと自制してきたつもりだった。

けれど、それでも願わずにはいられなかった。

何もかもを一人で抱え込むのではなく、もっと素直に、もっと無防備に、周りの大人たちに頼ってほしいと。

だからせめて、少しずつ寄り添いながら少女の背中を押していく___それが今の自分にできる最大限の役割なのだと、ずっと思っていた。

 

今、目の前で起きた少女の変化に、消太の胸がじんわりと温かくなる。

蒼良の心に生まれた柔らかな揺らぎは、間違いなく「成長」と呼べるものだ。

 

 

「いいよ、それじゃあこのままお話しようか」

 

 

蒼良の体に腕を回し、薄い腹のあたりでそっと手を組む。

痛くしないように気をつけながら、消太はすぐ下にある頭に顎を乗せた。

三十分も前から暖房を入れて室温を整えてはいたが、それでも子供の体温というのは別格だ。

湯たんぽのような温もりが心地よく、せっかくならもう少しこうして密着していたかった。

もしもこの光景をひざしや朧が目にしたなら、きっと言葉も出ないまま硬直することだろう。

 

周りの事はやたら見えているが、自身の事は疎かになりがちな消太は、自分もまたなかなか深刻な距離感バグを引き起こしていることに、まだ気づいていない。

蒼良を甘え上手に矯正していく過程で、消太もまた甘やかし上手へと成長しているのだ。

果たして絆されているのはどちらで、育てられているのはどちらなのか。

 

 

「さて」

 

 

穏やかだった空気を断ち切るように、消太が口を開いた。

 

 

「俺はまだるっこしい腹の探り合いは苦手なもんでな。単刀直入に聞かせてもらうが___No.10ヒーロー、アズールの正体は、お前で間違いないな?」

 

 

助走すらなしに核心を突いてきた消太に対し、蒼良もまた、何のためらいもなく「そうだよ」と素直に返した。

 

 

「……随分すんなり認めるんだな」

 

 

ほとんど確信は持っていたものの、これほどあっさり肯定されるとは思わず、消太は拍子抜けする。

 

 

「だって、ここで違うって言っても無理があるから」

 

「そりゃそうだが……あれだけ厳重に情報を非公開にしておいて、こんな簡単に正体をバラしていいもんなのか?」

 

「良くはないね」

 

「だよな」

 

「でも、消太くんなら大丈夫だと思ったから」

 

「……何を根拠にそんなことを」

 

 

世間の注目を今最も集めていると言っても過言ではないNo,10ヒーローが、こんなにもポヤポヤとした危機意識の低い少女で本当に大丈夫なのだろうか___消太は思わず苦い顔になる。

甘えることを教える前に、人を疑うことの大切さも教えておくべきだったのかもしれない。

 

 

「じゃあ消太くんは、今日までにアズールの正体が私かもしれないって、誰かに言いふらした?」

 

「するわけないだろ。お前を困らせるって分かってて、そんな真似できるか」

 

「ほら。やっぱり消太くんなら大丈夫」

 

「……」

 

 

消太は無言のまま、膝に座った蒼良の頬をそっとつまんだ。

身も心も何のためらいもなく預けきったこの少女は、消太という人間を正確に見極めたうえで全幅の信頼を寄せている___その事実が嬉しく、だがそれ以上にどこかむず痒い気持ちを誤魔化すための、ささやかな意趣返しだった。

想像以上に柔らかい感触に、指先はつい何度も頬を押したり引いたりしてしまう。

だが蒼良は何一つ抗議するでもなく、ただじっと大人しくそれを受け入れている。

それがまた、自分への懐き具合を如実に物語っているようで、消太はため息まじりに苦笑した。

 

 

「お菓子食べるか?チョコとクッキー、どっちがいい」

 

「消太くんが要らないほう」

 

「子供が変な気を遣うな。どっちもお前に食わせるために用意したんだから、両方食え」

 

 

言いながら、テーブルに置いていた個包装のクッキーをひとつ手に取る。

袋を破き、「じゃあなんで質問したの」と呟いている蒼良の口元へ近づけると、彼女は素直にパクリと齧りついた。

もぐもぐと動く小さな頬を見届けてから、消太は本題へと切り込む。

 

 

「話を戻すが、どうして正体を隠してヒーローをやってるんだ?」

 

 

消太が改めて問いかけると、蒼良は一拍置いてから静かに答えた。

 

 

「前例のない年齢だから。公表すると、世間が動揺するんだって。この世界では、子供が命を張ることは倫理に反することらしいよ」

 

 

事実としては理解しているのだろう。

けれど、そこに重みが伴っていないのは明らかだった。

 

 

「……じゃあ、どうしてそんな歳でヒーローになった?お前が自分からやりたいだなんて言い出すタイプだとは思えない。誰かに背中を押されたんだろ。やっぱり、親か?」

 

 

慎重に踏み込んだつもりだった。だが___、

 

 

「それについては、私の一存じゃ話せない」

 

 

蒼良は初めて顔を伏せた。

ここから先には踏み込ませない___そう無言で線を引かれたような感覚に、消太はそれ以上の追及を諦めた。

もとより無理に答えを引き出して、彼女を追い詰めるつもりなどなかった。

「ごめんね」と呟きながらこちらを窺おうとする蒼良の頭に、消太は黙って手を伸ばす。

その小さな頭を一度だけ撫でてやり、大丈夫だと伝えた。

深追いしすぎれば距離を置かれてしまう。

その教訓は、幼いころ近所の野良猫たちに十分に叩き込まれている。

 

 

「……なら、質問の方向を変えさせてもらう。ひとつ気になってたんだが、学校はどうしてる?」

 

「行ってない。でも、通信教育で高校卒業レベルまでは履修してるから、問題ないよ」

 

「問題だらけだろうが」

 

 

思わず声を荒げかけたが、ぐっと呑み込む。

その異常な学力についてはひとまず置いておくとして、当然与えられるべき子供の権利がこの少女には欠けている事実に、消太の胸が痛んだ。

 

 

「___もしかしてお前、自分からヒーローになりたいなんて思ったこと、一度もないんじゃないのか」

 

 

問いを重ねると、蒼良は小さく頷いた。

 

 

「……辞めたいとは思わないのか?」

 

 

夜の帳が窓から染み込む部屋の中、小さな影がかすかに揺れる。

 

 

「どうだろう。考えたこともないし、考えたところで辞められない」

 

「お前が本気で辞めたいとさえ言えば、何か方法はあるはずだ。児童相談所でも、自治体でも。どこかに助けを求めれば___」

 

「無駄だと思う。アズールの後ろには、もっと大きな力がついてるから」

 

 

迷いのないその口調に、消太の胸が締めつけられる。

見えない闇が、じわじわと少女を呑み込んでいく予感がある。

 

 

「それは___」

 

「言えない」

 

 

消太が食い下がろうとすると、蒼良は首を横に振った。

 

 

「これ以上は何も言えない」

 

 

それは拒絶ではなく、ただ静かな事実の告白だった。

消太は言葉を失った。

押し黙る蒼良の姿を見ながら、目の前の小さな身体を取り巻く、見えない巨大な圧力の存在を痛いほどに感じてしまった。

 

 

「……辛く、ないのか」

 

「よく分からない」

 

 

彼女の声は相変わらず平坦で、背を預けたままではどうしてもその本心を掴みきれない。

消太は蒼良の両脇に手を差し入れ、軽々と抱え上げると、そのまま自分の方へ向きを変えて膝の上に乗せ直した。

真正面から、視線を交わす。

 

 

「もう一度聞くぞ。___今、お前は辛くはないのか」

 

 

蒼良は一瞬だけ、まるで戸惑うように大きな瞳を揺らし、それから首を傾げて言った。

 

 

「……よく、分からない」

 

 

自分の境遇に何の疑問も持たず、当たり前のようにそれを受け入れて来たのだろう。

この場所から逃げたいなど、他の世界を知りたいなど、そんなことは考えつかないほど、少女の世界はそこにしかないのだ。

辛くないはずがなかった。

疲弊して、彷徨って、寄る辺を求めて、それでもなお自分がどれだけ追い詰められているのかすら気付けない___その無自覚が痛々しかった。

 

じっとフローリングの一点を見つめ、こみ上げる感情を押し殺していると、消太の頭に不意に小さな手が伸びてきた。

頭を優しく撫でられている。

蒼良が自分を心配しているのだと分かった。

その優しさが苦しかった。

何も分からずまっさらであるが故に、この少女はこんなにも綺麗で、こんなにも悲しい。

 

消太は蒼良の手を取って膝に下ろすと、代わりにその細い肩を抱き寄せた。

片腕で小さな身体を抱きしめ、もう片方の手で蒼良の頭を自分の胸元に押しつける。

 

 

「ちょっと苦しい」

 

 

腕の中からくぐもった声が聞こえ、思わず小さく笑い、抱き寄せる力を少しだけ緩めた。

 

 

「……お前がヒーローやってること、弟には話してるのか?」

 

「うん、家族はみんな知ってる。No.10になったことも、すごく喜んでくれた」

 

「そうか……そりゃよかったな。弟はお前を心配してないか?」

 

「どちらかと言うと、心配性なのは啓悟よりも廻くんの方。怪我して帰ると、いつもすごく不機嫌になる」

 

 

聞き慣れない名前に消太が眉をひそめると、蒼良は当たり前のように言った。

 

 

「廻くんが一番上で、その次が啓悟。その下に転弧」

 

「兄弟は一人だけじゃなかったのか?」

 

 

問えば、まるで堰を切ったように蒼良は兄弟たちの話を始めた。

少し潔癖気味で気難しいところもあるけれど、家族思いな一面を隠し持つ長男、廻のこと。

朗らかさと狡猾さを併せ持つ、感情豊かで正義感に満ちた次男、啓悟のこと。

子供らしい幼さと素直さ、他者への深い共感力を持つ三男、転弧のこと。

 

消太が軽く相槌を打つと、それだけで背中を押されたらしく、聞かれたわけでもないのに自分からどんどん言葉を紡いでいく。

普段はあまり饒舌とはいえない蒼良が、こんなにも忙しなく口を動かすのは本当に珍しいことだった。

消太はそれを壊さぬよう、穏やかに頷きながら、ひたすら聞き役に徹することを決意する。

 

やがて兄弟たちの紹介が一通り済むと、今度は取り留めもない日常のエピソードがぽつぽつとこぼれ始める。

その合間には、転弧のゲームの腕前や、啓悟の個性の上達ぶり、廻の聡明さを、どこか誇らしげに語る蒼良の姿があった。

声は心なしか弾んでいて、その温かな空気が消太の胸にもじわりと染み渡ってくる。

 

人は、好きなものについて話すとき、話すことそれ自体が楽しく夢中になってしまうものだ。

この少女にとって、兄弟たちがどれだけ大切な存在なのか。

その片鱗に触れたような気がして、消太は小さく微笑んだ。

なるべく蒼良が気持ちよく話せるよう完璧な聞き手として寄り添っているうちに、あっという間に時は過ぎ、壁にかかった時計の針は、いつの間にか二十一時を指そうとしていた。

 

そろそろ帰す時間だなと、そんなことを思い始めた矢先。

下の階から聞き慣れた玄関ドアの開閉音が聞こえ、それに続いて床を震わせる微かな振動が二階まで伝わってきた。

蒼良もそれに気づいたようで、話を止めて首を傾げる。

 

 

「誰か帰ってきた?」

 

「いや、そんなはずは……今日は父さんも母さんも、職場の人たちと飲み会だって___」

 

 

消太が首をひねりかけた、その時。

 

 

「ショーちゃーん!見慣れない靴があったんだけど、また誰かお友達呼んでるのー?」

 

 

階下から、能天気なまでに明るい母の声が響き渡った。

その声を聞いた瞬間、消太は即座に口をつぐみ、蒼良を抱えたまま勢いよく立ち上がる。

 

 

「まずい、母さんだ。多分今から部屋に来る」

 

「何かまずいの?」

 

「まずいだろ。この状況をいったいどうやって説明すればいいんだ」

 

「迷子拾いました、でいいんじゃないかな」

 

 

あまりにあっさりした提案に、消太は頭を抱えた。

 

 

「拾った迷子を交番に届けもせず、こんな時間まで家に連れ込むような息子じゃ親が泣く」

 

 

消太は割と本気で焦っていた。

まさか本当の事を話してしまう訳にもいかないし、懐いている近所の子供という設定で押し通そうにも、消太よりよっぽど社交的で親密なご近所付き合いをしている母が、こんなにも目立つ容姿の子供を認知していないのは辻褄が合わない。

 

そもそも外がすっかり暗くなったこの時刻。

親の居ない日を見計らって家に招いた計画性。

日頃自分から誰かを家に呼ぶことなど滅多にない消太には珍しい行動力。

そして老若男女問わず惹きつけてしまうであろうこの少女の絶世の美貌が、何かあらぬ誤解を生み出してしまいそうで恐ろしい。

 

 

「それじゃあ私、窓から出ようか?」

 

「やめろ、ここ二階だぞ!お前は今、翼がないんだってことを自覚しろ!」

 

 

こんな会話をしている間にも、母親の足音がゆっくりと部屋に迫ってくるのが聞こえている。

翼がなくてもそれくらいは出来るけど……と蒼良が発言するよりも先に、消太がハッとした顔で蒼良の髪を一房すくいとった。

 

 

「蒼良……。お前、演技力に自信はあるか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

短いノックの後、ガチャリと扉が開けられた部屋の中で、蒼良は再び消太の膝の上に座っていた。

 

 

「おかえり、母さん。聞いてた時間より随分と早いけど、何かあった?」

 

「ただいま、ショーちゃん。飲み会が思ったより早く終わったの。特に何かあったわけじゃないわよ。それより、玄関にあったあの小さな靴は___」

 

 

言い切る前に、消太は蒼良を持ち上げてライオンキングの名シーンよろしく母親の前に差し出した。

消太母と蒼良の視線がパチリとぶつかる。

初めて目にした消太の母親は、猫っ毛の黒髪が消太によく似た女性だった。

しかし目はつぶらで黒目の割合が大きく、鋭い印象はあまりない。

顔のパーツは父親似なのかもしれないなと、蒼良が悠長に思考している背後で、消太が何か覚悟を決めたようにスッと息を吸う音が聞こえた。

 

 

「……この子、白雲の……妹」

 

「あら、白雲くん?それってこないだ家に来てた、背の高いカッコイイ子よね?確かに言われてみれば髪色が一緒!」

 

「そうなんだ。あいつの家、今日は二十一時まで誰も居ないらしくて……妹を預かるように頼まれてた」

 

 

なるべく不自然にならないよう、しっかりと母親の目を見て普段通りの喋りを意識して返す。

打ち合わせをする時間などほとんど無かったので、消太の発言を聞いた蒼良が「何の話ですか?」とばかりにチラリと後ろを見やって来た。

それに消太が「前向いてろ」と口パクで返すと、素直にまたクルリと前を向く。

よし、いい子だ。どうかそのまま大人しくしていてくれ。後はこっちで何とかするから___などと考えていた矢先、消太の母が膝を曲げ、蒼良に「こんばんは、お名前は何ていうのかしら?」などとにこやかに話しかけ始めた。

くそ、これだから社交性の高い人間は___

  

 

「はじめまして。白雲の妹です。蒼良と言います。十一歳です」

 

思いがけぬファインプレーに、消太は心の中で蒼良の頭を撫で回した。

正直この少女に場の空気を読んで言葉を選び、消太をサポートするなどという芸当が出来る可能性は絶望的に低いと思っていただけに、感動もひとしおだった。

 

 

「兄がいつもお世話になってます」

 

 

いや、本当に上手い。相手に一切の隙を与えない見事なまでの連携技である。

  

 

「あらあらまあまあ、なんて可愛いらしいの……!礼儀正しくてお利口さんねぇ」

 

 

そんな天才児を挟んで前にも感動に打ち震える大人が一人。

消太とは違い、ただでさえおおらかで子供好きな母は、天使のように愛らしい美少女の出現に、胸を押さえながらデレっとだらしなく頬を溶かしている。

 

 

「ショーちゃんは無愛想だから、昔から近所の子供たちには怖がられてたのに、蒼良ちゃんとは仲良しさんなのねぇ」

 

「仲良しさんです」

 

「あらかわいい!今のもう一回言ってくれる?」

 

「仲良しさんです」

 

「きゃ〜!ショーちゃん聞いた?この子すっごく可愛いわ!あ、もちろんショーちゃんの事もちゃんと可愛いと思ってるわよ?」

 

「要らないよそのフォロー。俺のこと何歳だと思ってるんだ」

 

 

呆れてため息をついていると、蒼良が不意にモゾモゾと消太の手から抜け出して、ピョンと床に着地した。 

そのまま母の方へ近付いて行ったかと思うと、「撫でますか?」と首を傾げながらスイっと頭を差し出したので、消太は思わず目を点にした。

しかしすぐに、キャッキャと蒼良を可愛がる母親と、目を閉じて満足げな様子の蒼良を見て、驚きは笑いへと変化した。

どうやら、この少女は消太が思っていた何倍も甘えん坊に成長してしまったようだ。

 

消太はそっと目を細めた。

母に撫でられ、無防備に誰かの手を受け入れる、蒼良の姿が嬉しかった。

 

___この子が、いつか。

自分の痛みに気づいてしまう日が来るのなら、そのとき助けを求めて一番に手を伸ばす先は、できれば自分であってほしい。

そんな身勝手な願いを、ふと抱いてしまう。

けれど同時に、蒼良がまだ知らない痛みに触れる日が、できるだけ遠い未来であってほしいとも願う。

哀れみと、庇護欲と___その先に芽生えかけた、まだ名もない感情を抱きながら、消太は無垢な背中を見守っていた。

 

 

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