新しい年が始まり、蒼良はまたひとつ歳を取った。
十二歳になった蒼良の日々は、去年とほとんど変わらない。
日中はヒーロー活動に励み、午後からは燈矢の個性訓練に付き合い、帰宅後は家族と過ごしながら、時には公安ヒーローとして裏任務にも赴く。
そして空いた時間を見つけては、相澤宅に顔を出した。
そんな一定のサイクルで、少女の日常は成り立っていた。
ひとつだけ変わったことがあるとすれば、十一歳になった燈矢の個性訓練の時間が、以前よりも長くなったことだ。
もともと修業熱心な少年だったが、最近は修業のためだけではないらしい。
家に帰りたくないという理由から、瀬古杜岳での滞在時間を引き延ばすことが増えたのだ。
彼の身に何があったのかは分からないが、燈矢にそんな傾向が見られ始めたのは昨年末からだったように思う。
一度だけ理由を尋ねたことがあったが、燈矢は何も教えてはくれなかった。
「知らなくていい」、「知られたくない」と、そう言われてしまえば、それ以上は踏み込めなかった。
身体の成長期に入った燈矢は、日ごとに蒼炎の扱いも上達していった。
だが、感情の昂りを火力に変える___蒼良からすれば悪手とも言える方法で、無理やり炎を制御しようとするその姿には不安が募った。
修業中、燈矢はよく涙をこぼすようになった。
本人は隠しているつもりのようだったが、蒼良はちゃんと気が付いていた。
それを敢えて指摘するような事はしなかったが、蒼良にはそれが気がかりだった。
気がかりなことは、もうひとつ。
燈矢の身体が、蒼炎の負荷に耐え切れずにいることだ。
以前の赤い炎による熱傷は表皮にとどまっていた。
痛みは強くとも皮膚が赤くなる程度で、市販薬でも治療可能な範囲だった。
だが蒼炎は違う。
熱傷は真皮にまで達し、酷いときには皮下組織にまで影響を及ぼした。
ここまでくると、蒼良の簡易治療では追いつかなくなってくる。
それなのに、神経や血管を火傷でやられているため痛みの感覚がなく、それ故、本人が傷を軽視しているのも問題だった。
春が過ぎ、夏が近づいて、季節が梅雨に差し掛かった頃___蒼良は燈矢に、蒼炎の使用を禁止する決意を固めた。
父親との衝突があったからと言って、燈矢の生活は何が変わるでもなく、相も変わらず蒼良と共に個性訓練に明け暮れる日々を送っていた。
あの一件以来、炎司は仕事を言い訳にますます燈矢から目を背けるようになり、母の制止のみでは当然燈矢が止まるはずなどなかった。
何も知らず、燈矢の心にただそっと薪をくべてくれる蒼良の隣は居心地が良く、あの家よりも遥かに呼吸がしやすいような気がしていた。
しかし、いつからか燈矢の蒼炎が安定性を増すのと比例するように、蒼良は褒め言葉よりも心配を口にする事が増えていった。
燈矢にはそれが不満だった。
耳が痛くなるような忠告は、家族からのものだけでもう十分間に合っていた。
蒼良には成長を認めて欲しかった。
蒼良からは、もっと違う言葉を聞きたかった。
そんな不満が少しずつ募り、積み重なっていたある梅雨の日の事。
朝から何となく落ち着かない日だった。
前日の夜からずっと雨が降り続いていて、明け方からは風も吹き始め、窓がガタガタと音を立てていた。
小学校で授業を受けている日中は校舎全体が落ち着かない様子で、他のクラスメイトたちも皆度々窓の外を横目に見ては上の空で過ごしていたように思う。
燈矢も胸の底にざわめくような不安を抱えながら午後を過ごしていたのだが、それが急に形をもって緊迫したのは、瀬古杜岳にて蒼良が姿を現してからだった。
「___燈矢、もうやめにしよう。これ以上蒼炎の特訓を続ける気なら、私はもう協力出来ない」
開口一番にそう切り出した蒼良を、燈矢は目を見開いて見つめた。
「……何で?何で、急にそんな事言い出すんだよ。前は蒼良も乗り気だったじゃん。俺の上達、すごいって言ってくれてたよな?」
蒼良は静かに首を振った。
「私はずっと、危険だって言い続けてきた。燈矢の火傷はもう私の手には負えない。専門的な機関で治療を受けなきゃ完治しないような怪我も増えてきた。もう、これ以上は黙認出来ない」
そう言って、蒼良は燈矢の腹部を指さした。
服の下に隠れたその場所には、変色して元に戻らないままの皮膚がある。
燈矢は蒼良の手を目で追い、奥歯を強く噛みしめた。
「……蒼炎すら満足に扱えないで、オールマイトに勝てるかよ」
その指摘から逃れるように、蒼良の指先を手の甲で弾く。
「ああ、そうだよ。俺の身体は蒼良の言う通り、蒼炎には耐えきれない。……で、だから何?」
軋るような呟きだった。
蒼良の優しさを拒絶した燈矢の声が震えそうになる。
「もともと俺の体は長期戦に向いてない。だからこそ、爆発的な火力が必要なんだ。短期決戦に持ち込む力が。……俺には、それしか道がない。なのに……何で、蒼良まで俺を止めるんだよ」
___ああ、駄目だ。
朝からずっと胸の内にあった重苦しい鬱屈とした感情が、そのまま舌に乗って吐き出されていく。
蒼良の心配は自分を想っての事だと分かっているのに。
この優しい少女が、誰かの痛みを見て見ぬふりできる人間ではないと、ちゃんと分かっているはずなのに。
それでも、蒼良にだけは自分を理解して欲しかった。
どんな状況に陥ろうとも、肯定して欲しかったのだ。
「ここまで辿り着くのだって、簡単じゃなかった……。俺がどんな思いで、どれだけの時間をかけて、これだけの力を手に入れたのか……蒼良には分かるはずだろ?きっと学校で友達作って、家で冬美ちゃんや夏くんと遊んでる方がずっと楽だった。だけど、どうにもならないんだよ……ここで諦めたら俺は、何のために生きてるのか分かんなくなる……!」
父に焦がれ、手を伸ばし、何度その背に追い縋ろうと、それでもなおこの声は父には届かなかった。
いっそ全てを諦めてしまえば楽になれたのかもしれないが、幼い頃に抱いた憧れは、時が経っても色褪せるどころか燈矢の中でますますその光を強くしていく。
己の無力を否定したかった。
理不尽な世界を否定したかった。
否定しようとすればするほど絡みついてきたそれを、覆しようのない事実なのだと認めてしまえば、きっと自分はもう二度と心から笑えなくなるであろう事が分かっていた。
「燈矢、少し落ち着いて。冷静に話をしよう。私は何も一生蒼炎を使うななんて言ってる訳じゃない。もう少し身体が成長するのを待ってみようって提案をしてるの。いつか燈矢の身体に、熱への耐性が十分に備わってから___」
「俺の身体に、熱への耐性が備わってから……?」
燈矢はその言葉を繰り返し、虚ろに笑った。
「燈矢……?」
「変わらないよ。俺の体質は変わらない。ずっとこのままだ。……熱に弱いままなんだ」
渇き切った声で告げた燈矢の鼓動は早く、息が荒く乱れていく。
「俺は……お父さんの炎の個性と、お母さんの氷の体質を、両方受け継いだ最悪のハイブリッドなんだよ」
そう言って、燈矢は笑った。
引きつった歪な笑みだった。
「どっちものいいとこ取りをしようとしたら、一番悪い組み合わせで生まれてきた、一番最初の、一番酷い『失敗作』。それが俺だ。……そりゃあ、お父さんだって、そんな奴に構ってる暇なんかないよな」
これ以上隠し通すのは限界だった真実を、わざと自虐的な言葉で蒼良に伝えようとした。
自分自身を大げさに嘲ることで、同情心からでもいいから、燈矢の存在を肯定する言葉を引き出したかった。
卑怯な手段だと分かってはいたが、これから吐き出す言葉全てを否定して欲しかった。
他でもない蒼良相手だからこそ、そう思うのだ。
「次に期待して、新しい子ども作って……当たりが引けたら、もう俺なんか用済みだ。そりゃ当然だよな。自分の炎で自爆するような没個性も同然の俺が、どう頑張ったってヒーローなんかになれるわけない。……そんなふうに思われたって、仕方ないよな」
相手の優しさに付け込んだ、姑息な自己防衛の手段に手を伸ばそうとする自分を情けなく思う。
けれど、こんなにも不格好で、不甲斐なくて、時折自分自身ですら信じきれなくなるような自分を、彼女には信じてもらいたかった。
そんな我儘な懇願が、燈矢の独白を導いていく。
「……俺のお父さんはさ、信念があって、熱意があって、誰よりもストイックで……最高にカッコいいヒーローなんだ。俺は、そんなお父さんの血を引いた息子だ。……それなのに、真似しても、追いかけても、同じところには辿り着けない。だって、『失敗作』だから……たったそれだけの理由で、俺の未来は決められてるんだ。……なぁ、笑っちゃうだろ?」
言い切った後、喉を掻き毟りたくなるような不安が燈矢の全身を支配していた。
蒼良からの返事はない。
不自然な沈黙が生まれた。
心臓が胸からこぼれ落ちそうなくらいにがなり続けていて、そんな燈矢に無言の時間が圧し掛かってくる。
草木のざわめく音すら今は遠く、激しさを増しながら全身にぶつかってくる雨風も一切意識に入り込んでこない。
両の拳をぎゅっと握り込み、目の前に立つ蒼良の様子を窺うも、顔を伏せて微動だにしない彼女からは何も読み取ることができなかった。
歯を食い縛り、とうとう耐え切れなくなった燈矢の怨念じみた声が漏れた。
「黙ってないで、何か答えろよ……!」
呼びかけに呼応するように、少女がゆっくりと顔を上げた。
「今……何を言おうか考えてた」
常と変わらずの平坦な声で告げられた言葉は、燈矢の耳から胸へと届き、その胸中で言葉にはできない哀切に満ちた激情となった。
返ってきた第一声が自分の望む答えではなかった時点で、続く言葉に希望を抱けるほど燈矢は楽観主義ではなかった。
___ああ、そうだ。本当は最初から分かっていた。
この少女が、根拠もない口先だけの甘い言葉を器用に吐くことが出来ない事など、燈矢はとっくに知っていた。
出会った日から約二年、ほとんど毎日を共に過ごしたのだ。
彼女の人となりはもう十分に理解していた。
『失敗作なんかじゃない』
『君は必ずヒーローになれる』
『いつかきっと、オールマイトだって超えられる』
無責任にそんなその場しのぎの優しい嘘を与えられるほど、蒼良は残酷な人間ではないのだ。
運命の袋小路に迷い込んだ燈矢の前で、たった一つだけ存在していたはずの扉が今、閉ざされた。
「……もう、いい。もういいよ……!帰れ、帰ってくれ!もう二度とここには来るなッ!」
燈矢の激情が、胸の内側で燃えたぎる炎が噴き出して止まらない。
堪えきれない感情のままに、燈矢はすぐ脇の木を拳で殴りつけた。
鈍い音。繰り返す火傷のせいで脆くなっていた拳は容易く砕け、ダラダラと赤い血を垂れ流した。
「燈矢、血が___」
伸びて来た手を遮るように、目の前に炎の壁を作った。
一度驚いたように動きを止めた蒼良は、しかし何を思ったのか、数秒の間も空けずにその炎壁に身体をねじ込んできた。
これに怯んだのは燈矢の方だ。
すぐさま炎の放出を止め、けれど決して蒼良を近寄らせまいと距離を取る。
いきなり一方的な拒絶を突き付けられてなお、身を焦がしながらでも手を差し伸べようとする深い慈愛が疎ましかった。
その高潔さが憎かった。
その優しさにこれまで何度救われたかも分からないのに、八つ当たりじみた悲哀が、不満が、鬱屈が抑えられなかった。
「嫌いだ……お前みたいな奴が、一番嫌いだ……。強くて、個性が二つもあって、高い所から他人を見下ろして慈悲を振りまける余裕があって!いいよなぁ……、産まれた時から何でも持ってる奴は生きやすそうで羨ましいよ!」
突然悪意を持って喚き散らし始めた燈矢に、蒼良が身を竦めたのが分かったが、それでも言葉が止められなかった。
「蒼良には分かんないだろ……!?俺の気持ちなんて、分かるはずないんだ!みっともなく夢にしがみついて、皆から否定されても諦めきれずに、無駄な足掻きをし続ける俺が、お前の目にはどれだけ滑稽に映ってるんだろうな!?訓練を積んでも、挑んでも、意味なんてないのに馬鹿みたいだって思ってるんだろ!?……なぁ、努力しなくても力があるってどんな気分だよ。ヒーローみたいに他人を気遣って、そんな自分に酔いしれる気分はどんなだよ!!」
持つ者に対する、持たない者の羨望と嫉妬___胸の底に沈む汚濁のような闇を最悪の形で吐き出して、燈矢は肩で息をした。
他人を傷付けることで鬱憤を発散出来ると思っていたのに、何故か心は少しも軽くなってはくれない。
むしろ何の非もない、善意から側に居続けてくれた心優しい少女相手に、濁りに濁った思いの丈をぶちまけてしまう自分の人間性に反吐が出そうだった。
そして、そんな自分でさえ彼女なら受け止めてくれるだろうと、心の何処かで信じている自分の厚かましさに死んでしまいたいほどの羞恥を感じた。
弱くて、身勝手で、傷つけるくせに愛されたい。
そんな醜い自分を見られたくなくて、燈矢は蒼良に背を向けた。
「……もう、いい。もう終わりだ……あの約束も、全部。もう、ここには来なくていい」
そう告げた唇は震えていた。
これ以上この場に留まり続ければ、更に蒼良を傷つけてしまいそうで恐ろしかった。
これ以上彼女に無様を晒し、その温もりを踏みにじるような事があれば、自分自身を心底許せなくなりそうで怖かった。
どんな返答であろうとそれを聞き届ける勇気はなく、蒼良が何かを言う前に逃げ出すように走り出した。
蒼良が追いかけて来ていないことなど分かっていたのに、息が切れ、肺が痛み、治り切っていない火傷痕が悲鳴を上げようと、燈矢はその足を止めなかった。
その日、一日の仕事を終えた炎司が帰宅すると、まるで待ち構えていたかのようなタイミングで燈矢が廊下に姿を現した。
一度衝突して以来、炎司は燈矢を避けていたし、燈矢の方も前のように積極的に声をかけてくる事はなくなっていたため、久しぶりに真正面から向かい会った炎司は緊張から身を固くした。
視線を斜め下に固定し、まるで燈矢を見えていないものとして扱うかのように横を通り過ぎようとしたその時、燈矢が小さく口を開いた。
「……ねぇ、お父さん。明日は土曜日だし仕事は休みだよね?何時でもいいから、瀬古杜岳に来てよ」
掠れた声で紡がれた言葉に、炎司は弾かれたように燈矢の方を向き直った。
意図的に視界の外へ追いやっていた燈矢を、ここに来て初めて注視する。
夏だと言うのに、燈矢が手首や足首がスッポリと隠れるような衣服を身に付けている事にようやく気がついた。
そしてその姿に違和感を感じた瞬間、炎司の全身を強烈な悪寒が襲った。
頭に浮かんだ可能性が恐ろしく、けれど目と鼻の先にある答えの存在を知りながら、見て見ぬふりなどもう出来ない。
速度を上げる心臓の鼓動に急き立てられた炎司は、燈矢の右手首を掴んで捕らえ、反応する隙すら与えずにその服の裾を捲り上げた。
___そこに広がる光景に、愕然とした。
以前とは比べ物にならないほど重症だと一目で分かるほどの熱傷がそこにはあった。
服に隠されていた皮膚はただれ、めくれ、変色し、その下の赤い肉が所々剥き出しとなって広範囲に歪な凹凸を作っている。
もう二度と個性訓練などするなと、あの日あれだけ叱ったはずなのに。
燈矢から目を離すなと頼んでいた冷はいったい何をしていたのか。
大きく息を吸い込み、込み上げてきた怒りを舌に乗せ、炎司は吠えようとした。
「お前はまだ__」
「すごい事が出来るようになったんだ!必ず来てよ!!」
しかし被せるように叫んだ燈矢が、炎司の叱責を遮って一方的にまくし立て始める。
「焦凍にだって到達できるかどうか分からないよ!オールマイトにも負けないかもね!お父さんもきっと、俺を認めざるを得なくなるからさ!!」
口元は笑っているのに、その目には大粒の涙をたたえ、怯えを宿した瞳で必死に訴えかけてくる。
「___俺をつくって良かったって、思うから!!」
歪んだ笑みと共に投げかけられたその一言が、炎司の心臓を強く穿った。
自分の目的のためだけに妻を娶り、子を産ませ、その子供に到底許されざる重荷を背負わせてしまったその事実が、今まさに眼前に突き付けられているかのようだった。
強くなければ価値がない。
ヒーローになれなければ価値がない。
オールマイトを超えられなければ自分に生きる価値などないのだと、そう強く思い込んでいる燈矢があまりにも自分の生き写しのようで恐ろしい。
その考えを否定してやらなければと思うのに、燈矢にそんな思想を植え付けた張本人である炎司の言葉が今更いったいどうしてこの子の心に響くだろうか。
止められない。炎司にはもう止められないのだ。
自分の犯した罪が、人の形を持って炎司の前に立っている。
これがお前の業なのだと、激しく炎司を責め立てている。
頭が痛い。喉が震える。胃の奥に重たい何かが沈んでいる。
正面に立つ燈矢の顔が見ていられない。
見る勇気など欠片も持ち合わせてはいない。
そもそも、もしもそんなものを持っていたのなら、今ここにこんな地獄は存在すらしていなかったはずだ。
プライドばかり高いくせに、脆弱で意気地のない臆病者__そんな一人の男の弱さが、この悲劇を生み出したのだ。
「___何故止めなかった冷!頼んだはずだ!!」
胸に渦巻く恐怖を怒りへと変換し、声を荒げ、感情のままに喚き散らした。
己の罪を認めてしまうのが怖かった。
見たくなかった。考えたくなかった。
過ちを是認する事は自分自身を否定する事で、炎司にはそれを成せるだけの度胸がなかった。
だから炎司は首を振り、責任転嫁して冷を非難する事で自分を守ろうとした。
炎司と同じく罪の意識に苛まれ、子供に背負わせた業と旦那から板挟みに恐怖を味わわされ、それでもなお踏ん張って我が子と向き合おうとした冷を罰して、自分可愛さを優先したのだ。
「前にも私は言ったでしょう……?あの子が見ていて欲しいのは、私じゃないの。私じゃなくて貴方なのよ……。どうしてそれが分からないの?」
分からないのではない。
分からない振りをしていたいだけだ。
「それについてはちゃんと説明したはずだ!俺にはヒーローとしての仕事がある!ずっと子供の面倒を見ているわけにはいかんのだ!!」
真っ赤な嘘だ。
そうやって逃げるための理由を探して、燈矢に背を向ける自分を正当化したいだけだ。
「また、ヒーロー?……そう言って、貴方はいつも逃げてるだけじゃない」
核心に触れる冷の指摘が炎司の鼓膜を震わせた直後、その表情がハッキリと歪んだ。
誰にも見られたくない心の一番柔らかな部分を暴かれて、今にも泣き出してしまいそうな子供のように。
家族のために頑張っている振りをしていたい。
罪の意識を誤魔化すために努力しているポーズを取りたい。
仕方がないのだと自分自身を肯定したい。
どうしようもなかったのだと周りから許しを与えられたい。
そんな矮小で下等で薄汚い虚栄心を見透かされているような恐怖に囚われ、それを振り払うために殺気にも似た圧迫感を放って冷を睨みつけた。
「今、何と言った……?話を逸らすな!俺はお前にやれと言ったんだ!お前はそれを守れなかった!!そうだろう!?」
冷の胸ぐらを掴み、乱暴に揺すった。
炎司の怒号に、冷は思考停止に陥ったように「ごめんなさい、ごめんなさい」とあえぐように繰り返す。
騒ぎを聞きつけて部屋に入ってきた焦凍が、その光景を見て手に持っていたオモチャを取り落とした。
「なに……やってるの……?はなして……!お母さんをはなしてよ!!」
母を守ろうと、焦凍が短い腕を懸命に振り回しながら炎司の足元に駆け寄ってくる。
庇うように冷に背を向け、二人の間に小さな身体をねじ込もうとする焦凍を見て、炎司は舌打ちして乱暴にその手を放した。
その拍子に冷はよろけ、背後の壁に背中を打ち付けくずおれる。
「うわぁぁああ!!!」
状況などほとんど理解していないだろうに、虐げられている母の姿にショックを受け、泣き叫びながら焦凍は炎司の脚を殴りつけた。
幼い子供の柔い拳だ。
プロヒーローとして日々肉体を鍛えている炎司には痛くも痒くもない、打撃とすら呼べないような衝撃が脚に響いている。
「お母さんいじめないで!やめて!いじめないでよ!!」
子供特有のキンキンとした声が耳障りで、炎司の荒ぶった神経を逆なでする。
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、真っ直ぐに炎司を睨みつけてくる純粋な瞳がひどく煩わしい。
「焦凍は出てろ!お前には関係ない話だ!!」
けれど焦凍は泣き喚くばかりで一向に手を止めようとしない。
うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。
非難めいた視線が目に痛い。悲痛な叫びが耳に痛い。
「言う事を聞け焦凍!大人の話に子供が口を出すんじゃない!!俺は今、冷と話をしているんだッ!!」
だから炎司は目を逸らす。
焦凍の叫びを上回る大声で怒鳴りつけて塗り潰す。
そうやって目と耳を塞いで知らない振りをしていれば、現実を直視しないで済むからだ。
「私じゃ……止められない」
騒然たる空間の中で、その静かな声が嫌にハッキリと炎司の耳に届いた。
放心したようにポツリと漏れた冷の言葉だ。
ゆるゆると、もどかしいほどの遅さで炎司は首を巡らせた。
空虚な瞳が炎司を見ていた。
炎司を見下し、軽蔑を隠さない眼差しが向けられていた。
白けた目。侮蔑の目。敵意の目。
もしかしたらそれは、恐怖に囚われた炎司の被害妄想による拡大解釈だったのかもしれない。
しかし、そこに宿った糾弾の色だけは紛れもない真実だった。
事の始まりはお前だろうと、責任を取るべきはお前だろうと、訴えてくる声なき声に貫かれ、炎司は肩を震わせた。
それが恐れによるものなのか、怒りによるものなのか、あるいはそれら全てがない交ぜになった感情の濁流によるものなのか、炎司自身にすらもう分からない。
「黙れ……!黙れッ!!お前がやれ!俺は見ない!!」
炎司は一瞬表出した動揺を搔き消すように目尻を鋭く持ち上げて、血走った目を冷に向けた。
睨まれた冷の肌を、粟立つような刺激が駆け抜ける。
恐怖した。恐ろしかった。
狂気の海に沈んだその目は冷には到底理解できない次元にあって、会話の成立する余地などないのだと残酷に宣言している。
冷はこの目を知っている。
父に縛られる事なく、家の外に意識を向けて、そこで本当になりたい自分になって欲しいのだと告げた日に、燈矢が冷に向けたあの目と同じだ。
自分を作ったことに加担したとして、冷を責める燈矢のあの目と。
「仕方がないでしょう……?やれる事ならやったよ……、これ以上、私にどうしろって言うの……」
冷の生まれた氷叢家は、元は名家と呼ばれた由緒ある家柄であり、彼女は古くから続く一族のしがらみに翻弄されながら育ってきた。
炎司との結婚は恋愛によるものではなく、自分の目的に都合の良い個性に目を付けた炎司と、炎司の名声と経済力に目を付けた氷叢家の親族側の思惑によるものだった。
個性婚に情熱を燃やす炎司と、経済的に困窮していた親族の板挟みに合い、冷は縁談を受け入れざるを得ない状況にあったのだ。
選択肢は限られていた。
けれど、自分の意思でこの道を選び、歩いてきたつもりだった。
だからこそ、道の先では笑って暮らそうと思っていた。
それがどうだ。
親族、炎司、それに加えて息子である燈矢からまで絶え間なく押し寄せられているこの現状はいったい何だ。
やれる事なら全てやった。その結果が今なのだ。
それなのに目の前に立つこの男は、冷が何もしないで、何も考えないで、あっさり全てを諦めたせいでこの現状があるとでも思っているのだろうか。
抗いたい。向き合いたい。同じ目線で話をしたい。
一人で駄目なら、二人で手を取り合って乗り越えて行けばいい。
そう思っていたけれど、圧倒的な権力、経済力、物理的な力を持ちながら拒絶を突き付けてくる炎司を前に、無力な冷に何が為せると言うのだろう。
主体性に欠ける一面を抱えつつも、理不尽な現実も受け入れる忍耐強さを持った氷の冷。
受け入れがたい現実を認めず、必死で抗い続けようとする炎の炎司。
何から何まで二人は真逆の性質の人間で、どうしたって相容れる事は出来ないのだと、その事実が冷の絶望を深くする。
力の抜けた体で地面に座り込んでいた冷の両目から、とうとう涙が溢れ出した。
もう疲れてしまった。
何をしても報われず、どこにも縋る場所はなく、こんなにも苦しい。
両手で顔を覆い、背を丸め、弱々しく涙するそんな冷を、炎司は呆然と立ち尽くして見下ろしていた。
強い女だと思っていたのだ。
触れれば消えてしまいそうに儚いが、芯のある氷のように強い女だと。
そんな彼女が、いったい何故、どうして、いつの間にこんなにも脆くなってしまっていたのだろうか。
___いいや、理由なら分かっている。分かりきっている。
炎司は自分の頭から血の気が引くのを痛みすら伴って感じた。
嫌だ。無理だ。これ以上は見たくない。見ていられない。受け入れられない。
だから炎司は、すすり泣く自分の妻さえ見捨てる選択をした。
「俺は……明日も仕事に行く。燈矢の事を頼んだぞ」
一方的に言い切って、話は終わりだとばかりに炎司が後にした部屋の中で、嗚咽を漏らして泣く冷と、そんな冷に寄り添いながら泣きじゃくる焦凍の声だけが、いつまでも、いつまでも痛々しく響き続けていた。