「――きて」
「――起きてよ」
「――燈矢兄、起きてってば!」
「ふぐぅ……っ!?」
腹に重たい衝撃を受け、燈矢の意識は眠りの底から強引に引きずりあげられた。
「お腹痛ぇ……最悪の朝だ」
呻き声を上げながら瞼を開くと、燈矢の視界に、こちらを見下ろす見慣れた紅白頭が映る。
「起きて、燈矢兄」
「……見て分かんないのかよ。もう起きてるだろ」
「じゃあ布団から出て。はい、おはよう」
「おはよう、そんでお休みな。一週間ぶりの土曜日なんだから、もうちょっとお兄ちゃんを寝かせてくれ」
四つん這いで燈矢の上に乗っかっていた小さな身体を軽く蹴とばし、布団を頭の上まで持ち上げる。
寝返りを打って再度入眠の構えを取ろうとしていると、燈矢を包む温もりが無理矢理に剥ぎ取られた。
「ダメだってば!」
「あ、何すんだよ焦凍。布団返せ!」
「ダメ!今日はおれとヒーローごっこしてくれるって約束した!」
「えーー……?そんな約束してたっけ?」
とぼけたふりをしているのではなく、本当に身に覚えがないのだ。
「覚えてないからそれ無効な。代わりに冬美ちゃんか夏くんに遊んでもらっておいで」
「二人がヒーローにきょうみないこと、燈矢兄だって知ってるくせに。喰らえ、でとろいとすまっしゅ!」
「うぐっ!?お前……、無防備なお兄ちゃんの顔ぶん殴って楽しいか……?」
この世界に、加減を知らない子供ほど恐ろしい生き物はきっといない。
躊躇いのない拳をもろに頬で受けた燈矢は、両手で痛む場所を抑えながら身体を起こした。
これ以上攻撃を喰らうのは御免なうえ、今の一撃で眠気が吹き飛んで頭が覚醒してしまったのだ。
凝り固まった首を左右に倒してコキコキと音を鳴らし、寝ぐせのついた頭をポリポリと掻いていると、焦凍が「はい」と着替えの服を差し出してくる。
一見気遣いの出来る献身的な弟のようだが、これはただ単に早くしろと燈矢を急かしているだけである。
何故なら普通、気遣いの出来る弟は兄の腹にダイブなどしないし、頬を殴りつけもしない。
しかし一応は「ありがとう」とそれを受け取り、パジャマをもぞもぞと脱いでいると――
「焦凍、燈矢はまだ起きないのか。もう昼前だぞ」
子供部屋の戸を引いて、顔を覗かせた父の姿に、燈矢は思わずピタリと動きを止めて目を見開いた。
「………お父、さん……?」
「どうした燈矢。そんな驚いた顔をして」
「え?だ、だって……、あれ……?」
ぐしぐしと目を擦ってみても、見える景色に変化はない。
いったい何をこんなに不思議がっているのか、自分でも分からなかった。
けれど常と変わらないはずのこの朝の一幕に、何故だか違和感を感じてしまうのだ。
喉に小骨が突き刺さっているかのような気持ち悪さ。
納得いかない何かがある。
「何だ、もしかしてまだ寝ぼけてるのか?」
戸惑いに呑まれ、黙ったまま首を傾げていた燈矢に、炎司が訝し気な視線を向ける。
すると、「おれに任せて」と焦凍がサッと片手を挙げた。
「必殺、せんとるいすすまっしゅ!」
「っぎゃあああっ!?脛はやめろって!急所はやめろっていつも言ってるだろ、馬鹿焦凍!!」
「元はと言えば、お前がいつまでも起きてこないのが悪いんだろう……。早く準備をして下りてこい燈矢。ご飯を食べたら瀬古杜岳に行くんだろう?」
焦凍に蹴られた脛を押さえて、床をゴロゴロと転げる燈矢を呆れたように見下ろしながら、炎司が言った。
その言葉に、燈矢はまたしても何か引っかかりを感じてしまい、目の端に涙を滲ませながら首をひねる。
「瀬古杜岳……?」
「……これは相当寝ぼけてるな。お前が俺を誘ったんだろう。何か見せたいものがあるんじゃなかったのか?」
「見せたいもの……?」
オウムのように言われた単語を繰り返していると、ふと燈矢の頭に理解が生まれた。
――そうだ。そうだった。
燈矢は昨夜、父に修業の成果を披露するため、瀬古杜岳に来るようお願いしていたのだった。
どうしてこんなに大事な約束を今の今まで忘れて眠りこけていられたのかと、自分自身が信じられない。
「あれ……?でも、お父さん今日は仕事があるって――」
「俺がいつそんな事を言ったんだ。勝手に薄情な父親にしてくれるな。週末くらい家族のために確保してあるに決まってるだろう」
「そっ……か、そうだよね、そうに決まってるじゃん。おかしいな、俺、さっきから何言ってんだろ?」
自分の寝ぼけ具合に燈矢は小さく笑ってしまう。
どうやら昨日の自主トレメニューがハード過ぎて、記憶を飛ばす勢いで眠りについていたらしい。
今後はトレーニング内容をほどほどのものに考え直す必要がありそうだ。
「せことたけ、おれも燈矢兄と一緒に行くよ。ヒーローごっこに混ざっていいって、お父さんが言ってくれた」
「焦凍、正しくはヒーローごっこじゃなくて個性訓練だぞ」
「焦凍にとっては遊びの延長みたいなものなんでしょ。てゆーか何だよ、やっぱり焦凍は俺と約束してた訳じゃないじゃん」
下唇を突き出しながら、焦凍の額をピンと指で弾いてやった。
すると焦凍の顔がたちまち梅干しのようにシワクチャになってしまったが、無垢さを盾に暴虐の限りを尽くす弟に対する仕返しがこの程度なのだから、我ながらよく出来た兄なのではないかと、燈矢は自己評価を高めていた。
「お?泣くのか?ヒーローがたったデコピン一発で泣いちゃうのか??」
八つも年下の弟を大人げなく煽る燈矢に、炎司はため息をこぼしつつも、その口元にはやんわりと笑みが浮かんでいる。
このやり取りが仲の良さ故のコミュニケーションである事、そして末っ子の逞しさを誰よりも知っているからだ。
ニタニタと歯を見せて笑う燈矢に顔を覗き込まれた焦凍は、泣き顔から一転、その眦をキッと吊り上げて燈矢を睨んだ。
しかしそんな精一杯の威嚇は、対する燈矢に効果は今一つのようである。
ますますムキになった焦凍がその手をデコピンの構えにし、全く同じ方法で燈矢への報復を目論んで、
「でらうぇあすまー――」
「させるか!プロミネンスバーン!」
「お」
伸ばした腕を燈矢の脇に挟まれて、グイと引き寄せられたかと思えば、首の後ろに腕を回してロックされ、その体勢のまま仰向けに布団の上に倒された。
いわゆる袈裟固め状態である。
後方でその様子を見ていた炎司の「ほう、上手いな」と感心したような一言を聞き逃さなかった燈矢の口角が、ギュインと上に持ち上がる。
「とどめだ!歯ぁ食い縛れ焦凍!赫灼熱拳ヘルスパイダー!!」
「ひっ、はっ、あはっ、あははは!」
「おらおらおらおらぁ!」
「あははははっ、いひひっ、やめて!たすけてお父さん!」
気を良くした燈矢が調子に乗って全力で焦凍をくすぐって遊んでいると、
「こらッ!いったいいつまで上で騒いでるつもりなの!?燈矢、起きたなら早くご飯食べちゃいなさい。あなたも、燈矢を起こしに行ったのなら、しっかり役目を果たしなさい!」
一階から声を張り上げて叫ぶ母の声が聞こえ、燈矢はその場で飛び上がった。
「やベッ、お母さん超怒ってるじゃん!」
「むう……っ。燈矢、お前がふざけていたせいで俺まで冷に怒られたじゃないか!」
「何言ってんだよ、お父さんだって楽しそうに見てたくせに!止めなかったんだから同罪――」
「下りてきなさいって、あと何回言えばいいのかしら!?」
再び聞こえた怒りの声に、炎司と共に飛び上がる。
「と、とりあえずすぐに下りるぞ燈矢!焦凍も急いでついて来い。階段で転ばないよう注意しろよ!」
「了解!焦凍、ほら、手!早く!」
慌てて小さな手を掴み起こすと、燈矢は父の背を追って、パタパタと階下へ急ぐのだった。
「――赫灼熱拳んんん……」
天に向かって掲げた拳に纏わせた炎が、赤から青へとその色を変える。
輝きは増して、澄んだ青が眩しいほどの光を放ち――、
「ジェットバーンッ!!」
右手に溜めた青い炎を、素早く拳を繰り出すと共に放出する。
瞬間、燈矢の正面に設置されていた的に蒼炎が炸裂し、その姿を消し炭へと変えた。
今の自分に為せる最大限を披露した燈矢は、ふうっと大きく息を吐き出し、そろりと後ろへ視線をやった。
そこには目をキラキラとさせながら、開いた口が閉じられない様子の焦凍。
そして、その隣では腕を組み、目を見開いたまま固まっている炎司が立っていて――その姿を目にした燈矢は、サプライズの成功を確信した。
「ねぇお父さん、どうだった?お父さんに比べたらまだまだ炎の量も勢いも、コントロール精度も大したことないかもしんないけどさ、それでも火力には結構自信が――」
「燈矢兄、すごい。おれもやる。おれもやりたい」
燈矢の話に割って入って、隣に駆け寄ってきた焦凍が、見よう見まねでその左手から赤い炎を噴き出した。
「え?わっ、ちょっ、危な……っ」
「かくしゃくねっけん、てきさすすまっしゅ!」
慌てた燈矢が止める暇もなく、焦凍はそのまま勢いよく腕を振りぬく。
拳はピッチャーの投球フォームのような軌道を描き、炎は正面ではなく真下へと着弾。
雑草に燃え移った火を燈矢が急いで靴の裏底で踏みつぶして鎮火させた。
「あのなぁ……!まだ上手く個性をコントロール出来てない奴が、無闇矢鱈に炎出すな!俺だって焦凍くらいの年齢の頃は、お父さんの許可なしに個性使うのは禁止されてたんだぞ?付いて来ていいとは言ったけど、お前は今日は離れたところで見てるだけだ」
焦凍の両頬をつねって左右に引っ張りながら注意を促す。
まだ火力が低いから良かったものの、この調子で辺りに炎を撒き散らされてはたまったものではない。
聞いているのかいないのかよく分からないぽけっとした表情の弟に、重ねて厳重に注意をしていると、
「燈矢」
名を呼ばれ、燈矢は父を振り返った。
「見事だ。……本当に、見事としか言いようがなかった。きっと俺の見ていないところで、沢山努力してきたんだろう」
「――――」
「お前の頑張りの全てを隣で見ていてやれなかった事が、口惜しいな」
「う……ううん、だって、お父さんは皆のヒーローだもん。俺、ヒーローしてるお父さんが好きだよ。学校の友達にもいつも自慢してるんだ。それに、お父さんが家族のために頑張ってくれてる事、ちゃんと分かってる。どんなに忙しくても、こうして時々修業に付き合ってくれて……俺、それだけでも十分嬉しいんだ、ホントだよ」
前のめりに父を擁護する燈矢の熱弁に、炎司の口元が優しく和らぐ。
目尻を下げて「そうか」と慰めを受け止めた。
「ありがとう、燈矢。強く優しい子に育ったな。いつかきっと、お前は俺と肩を並べて立てるような……いいや、俺よりもずっとすごいヒーローに、きっとなれる」
その力強い称賛に何故だか泣きたい衝動が生まれたのはほんの一瞬で、燈矢の心はえもいわれぬ幸福で瞬く間に埋め尽くされた。
「……へへっ、何て言ったって、俺はお父さんの子供だからね」
照れ隠しのように肩をすくめて笑う燈矢を、炎司が見ている。
その視線が逸らされる事は、決してない。
「ああ、流石は俺の息子だ。お前は俺の誇りだよ」
――幸せだった。
尽きる事のない多幸感に、燈矢は包み込まれていた。
嬉しくて、嬉しくて。
幸福が甘く身体に染み込んで。
心は安らぎ、感情は穏やかに凪いでいた。
不足しているものなど何もない。
降り注ぐ陽は温かく、草木は青々と生い茂り、そしてここには、家族が居る。
燈矢を見つめ、燈矢を認め、燈矢に期待して、愛してくれる父が居る。
一番欲しかったものがここにある。
一番好きなものがここにある。
一番――――
「本当に……、そうだったっけ」
無意識の内に、ふと湧いて出た疑問を口にした燈矢は、ハッとして自分自身の口を押さえた。
この幸福に浸っていたい。
余計な事を考えれば、穏やかな心に水を差してしまいかねない。
今朝と同じだ。
違和感など見て見ぬ振りをして忘れてしまおう。
何も考えてはいけない。
思考してはいけない。
ただひたすらに、与えられる幸せだけを享受していたい。
「ねえ、燈矢兄。さっきの、もう一回見せて」
くいと服の袖を引かれ、横を向いた燈矢の視界に、一本の大樹が映り込んだ。
大きさ故か桁外れの存在感を放つその木の幹は太く分厚く、地表に露出している根まで同じようにガッシリとして力強い。
けれど、何かが物足りない。
あの場所に、あるべきものが見当たらない。
それが何かも分からないのに、痛烈な喪失感が燈矢を襲った。
「あ……、」
動かさないようにしようと決めていた思考回路が、急速に回り出して止められない。
強いショックに脳天を叩かれ、酸素不足にすら陥りそうな切迫感が突然燈矢を責め立ててくる。
「ああ……、駄目だ、俺、まだ……」
フラフラと頼りない千鳥足でその大木へと駆け寄ると、燈矢はとりわけ太い木の根の上に手を置いた。
「燈矢、突然どうしたんだ。さっきからそこで何をやってる」
「お父さん……!どうしよう、俺、まだ謝ってないんだ。酷い事言ったのに。嫌いだなんて嘘だって、言わなくちゃ……!」
「……何の話だ?いったい誰に謝るんだ」
「分かんない!分かんないけど、言わなきゃ駄目なんだよ……!!だって俺、ホントは、ホントは――」
「燈矢、こっちに来い。修業の続きをしよう。俺がちゃんと見ていてやるから」
悲愴感を滲ませた燈矢の訴えを遮って、炎司が燈矢に手招きをした。
「大丈夫だ燈矢。お前をずっと見ていてやる」
幸福が、燈矢に囁きかける。
ひび割れかけた幸福を、幸福で上塗りして修正していく。
そうして心はまた穏やかに、落ち着いて、焦りも、不安も、恐怖も徐々に薄れて行って――、
「それでも……!それでも、俺、行かなくちゃ!!」
父の誘惑を振り払い、何処ともなく走り出した燈矢の背後で、幸福がその手を伸ばしていた。
「――流石は俺の息子だな」
幸福が、燈矢の背中を這った。
「――お前を作って、本当に良かった」
幸福が、燈矢の頬を撫でた。
「――お前は俺の誇りだよ」
幸福が、燈矢の脚を掴んだ。
「――お前が、最高傑作だ」
膨大な幸福が、燈矢をそちらへ引き戻そうと縋ってくる。
「うるさい、放せ……ッ!邪魔するな!!」
幸福に呑まれて、幸福に溺れて、幸福に引きずり込まれながら、燈矢はそれを、自らの意志で焼き切った。
燈矢の全身を包む蒼炎が、幸福を拒み、跳ね除け、そして再び走り出そうとしたその瞬間、視界が白く明滅し始めた。
抗えない終わりが近付いてくる予感があった。
性質も、重みも、次元すら違う終わりが来る。
蒼炎は『終わり』への対抗手段には成り得ないのだと、燈矢は絶望的なまでの隔絶を感じとってしまった。
「駄目だ……、まだ、駄目、まだ、だって、ここで終わったら――!!」
抵抗も虚しく白に潰され、世界はぷつんと呆気なくその幕を閉じた。
_______________
濃紺の夜空を、亜音速で駆け抜ける一人の少女の姿があった。
その背で羽ばたく翼は、かつて鮮やかな青色をしていた面影などもうどこにも残しておらず、翼と呼べるのかどうかも疑わしいほどにボロボロに朽ちかけていた。
チャクラで補強に補強を重ねていなければ、いつ墜落してもおかしくはない。
そんな無茶な真似をしてでも、彼女には飛び続けなければならない理由があった。
その腕に抱く少年の命が、もう長くは保たない事を直感していたのだ。
呼吸器官の損傷、一酸化炭素中毒、人体の許容量を遥かに上回る熱傷、そのどれもが彼の死因として十分過ぎる可能性を持っていた。
常識で考えれば、この少年はもう助からない。
とっくに手遅れなほどの重傷を負っている。
――けれど蒼良には、燈矢を救える人物に、たった一人だけ心当たりがあった。
事態は一刻を争っている。
一分、一秒の遅れが燈矢の生死を分かつのだ。
出し惜しみなんてしている余裕はもはやない。
翼の補強にチャクラを使い、スピードのあまり生じる衝撃波に肉体を引き裂かれないよう、二人分の身体にもチャクラを注いで保護していた。
さらには燈矢に忍び寄る死の影から少しでも時間を稼いで逃れようと、飛んでいる間も同時進行で治療を施し続けていた。
チャクラの使用は生命エネルギーを放出する事と同義であり、既に消耗して枯渇気味のチャクラを止め処なく消費する蒼良の行いは、自殺行為にも近かった。
視界は次第に狭く薄ぼけていき、こめかみを鋭く刺すような痛みが身体に危険信号を発し、先ほどまで強く波打って警鐘を鳴らしていた鼓動など、一周回って弱まり始めてしまっていた。
けれど今は、そんな些末な事に気を取られている場合ではなかった。
止まってはならない。
休息を取る暇などあるはずがない。
息を切らし、引きつった呼吸を繰り返しながら、歪な翼で夜を駆ける。
己の無力と向き合う時間は後でいい。
今はただ、前へ、前へ、前へ――。
――一秒でも早く、廻のところへ急がなければ。
――――――――――
「――は………?」
時刻は深夜一時過ぎ――日付は既に移り変わり、世界が闇に閉ざされた頃。
突然のノック音を耳にして読書を中断させた廻が、気だるげにドアを開いて最初に口にした言葉がそれだった。
今日は事務所に泊まると連絡を寄越してきていたはずの蒼良が、何故こんな時間にここに居るのだろうとか、また衝動的に拾い物をしてきやがったなとか、そんな感想が頭に浮かんだ。
そんな、状況に対して明らかに優先度の低い感想ばかりが廻の頭を埋め尽くした。
それは自身の心を守るための思考の凍結であり、言ってしまえば、現実逃避に他ならないものだった。
自分の目に映る情報が受け入れられない。信じたくない。否定していなければ耐えられない。
表情一つ動かさず、ただ茫然と立ち尽くす廻の凍り付いた思考にヒビを入れたのは、掠れてほとんど聞き取れないような蒼良の拙い懇願だった。
「……と……や、た……け、て」
聞いているこちらの身が震えるような痛々しい声には、彼女本来の澄んだ響きは見当たらない。
それどころか、その姿形にさえ蒼良の名残などもう――それなのに、廻にはどうしたって、自分の命よりも大切な少女を見間違う事は出来なかった。
どうか偽物であってくれたら、などと考える隙もないほどに理解してしまっていた。
何故それを蒼良だと認識出来るのか、自分自身不思議なくらいに変わり果てた姿の蒼良。
そして、その腕に横抱きに抱かれているものも、蒼良と同じくらいに酷い有り様をしていた。
元の顔どころか、性別すら分からないほどにただれて剥げて焦げた皮膚。
その大きさからして、蒼良と歳の近い子供だろうという事くらいしか分からない。
「た、け……て」
蒼良が腕の中の子供を廻に突きつけて来る。
助けてくれと、ハッキリとは聞き取れずとも、蒼良の頼みは正確に廻に伝わった。
金縛りが解けたかのように、ハッと現実へと帰還した廻はしかし、そんな必死の要望を無視して蒼良に向かって手を伸ばした。
当たり前だ。
廻にとって最も重要なのはいつだってこの少女の身の安全で、その彼女が目も当てられないほどの危機に陥っている今、他のものに構っていられるような強靭な精神など持ち合わせてはいなかった。
それなのに、すぐさま分解と修復を施そうとしていた廻の手首を、蒼良はガシリと掴んで止めた。
この状態で立って動けているだけでも奇跡に近いというのに、いったいどこからそんな力が湧いているのか。
蒼良はぎこちない動きで首を振って、また絞り出すような願いを舌に乗せ、どこの誰かも知らないような子供を廻に突き出し続けてくる。
「俺に……お前よりも、そいつを優先しろって言ってるのか……?」
愕然とする廻の問いに頷いて、蒼良はぐいぐいと廻の手を無理矢理燈矢の肌に触れさせた。
蒼良以外の人間との接触を嫌う廻の潔癖を知っているはずの心優しい少女が、その苦痛を乱暴に押し付けてでも治してくれと訴えている。
「……無理だ」
蒼良が心から望むのならば、廻には命だって差し出せる覚悟がある。
けれどその望みに対してだけは、首を縦に振る訳にはいかなかった。
「治療をするのはお前からだ。その後でそっちの奴も治してやる」
前提として、人体の修復には繊細な個性コントロールと多大な集中が必要とされる。
加えて、廻にはこれほどの重傷者を治療した経験が過去にないため、どれだけの体力を消耗するのか予測が出来ない。
そうでなくとも成功率に自信を持てないのだから、蒼良の治療にはせめて万全の状態で臨みたいと考えるのは至極当然の事だった。
「し……じゃう。お、ねが……」
「死にそうなのはお前もだろうが!いいから手ぇ退けろ!黙って大人しく治療を受けろ!」
眼力を強め、聞き分けのない子供を叱りつけるように声の圧を強くする廻に対し、蒼良は何度も首を横に振る。
蒼良もまた、廻の懸念を理解していて、だからこそ燈矢の治療を優先させようとしているのだ。
廻の足元に燈矢をそっと寝かせると、自分は一歩後ろに下がって距離を取り、ふらりふらりとよろめきながら片膝を突く。
少女が次に取るであろう行動を察した廻が止めるよりも早く、蒼良は両膝を折って頭を下げようとし、上手くバランスが取れずに額を床に打ち付けた。
「蒼良……っ!」
「たす、け……おね……が……」
冷たい床に顔をつけたまま、うずくまった姿勢でぼそぼそとこもった声が力なく言う。
「た……け、くだ……さ――」
「もういい、やめろッ!!」
胸の奥底を掻きむしりたくなるような、悲痛な叫びが廊下に響いた。
「分かった、分かったから……やめてくれ。俺相手にそんな事、二度とするな。絶対にだ」
辛そうに顔を歪ませ、引き絞るような声でそう告げるや否や、廻は燈矢の身体を持ち上げて、室内へと運び込んだ。
そして直ぐにまた蒼良の元へと戻ってくると、同じように丁寧に抱え上げ、燈矢の隣に並べて寝かせる。
「……なるべく早く終わらせる。楽にして待ってろ」
この素性も知れない瀕死の誰かを救えなければ、蒼良の治療に取り掛かる事すら許されないと痛感した。
極限の焦燥、緊張、不安――不慣れな感情に心の内をかき乱されながらも燈矢に手を触れた廻の耳に、自分の仕事をやりきって安心したかのような、ほうっと息を吐き出す小さな呼吸音が聞こえた。
人体の構造知識を総動員し、寸分のミスもおかさぬよう、身体の末端から徐々に徐々に分解と修復を施していく。
そのスピードの遅さに焦りは増し、自身の力不足に歯噛みしながらも、集中を切らさぬよう燈矢だけに視線と意識を向けていた。
心理的にものしかかる負担が大きいせいか、いつもよりも体力をごっそりと持って行かれているような感覚がある。
それでも今日に至るまでの研鑽の日々は確かに廻の味方であり、決してスムーズとは言えないものの、人間一人を丸々分解して修復するという初めての偉業を廻は見事に成し遂げた。
傷一つない本来の姿に戻った燈矢は、目を閉じたまま、穏やかに呼吸を繰り返している。
しかし、その寝顔は穏やかとは形容し難く、苦しそうに眉が寄せられていた。
あれだけの怪我を負っていたのだ。
廻の個性は身体へのショックしか取り除く事は出来ないため、今なお残る精神面への衝撃に苦しめられているのだろう。
だが、ここまで来ればもう命の危険はないに等しい。
治療成功と判断した廻が、顎に伝う汗を袖で拭いながら、蒼良の方に向き直る。
「……待たせて悪かった。今度こそ、お前の番だ」
蒼良の頬に手を触れて、頭部からじわじわと治療を開始する。
「大丈夫だ。安心しろ。俺が絶対に治してやる」
通常無駄な会話をあまり好まない少年が、何度も何度も大丈夫、大丈夫だと、呟くように同じ言葉を口にする。
それはまるで、蒼良に語りかけているというよりも、自分自身に暗示をかけているかのようで――、
――大丈夫。
蒼良のいっそ非常識なまでの美貌が、手際よく復元されていく。
一度目で要領は掴んだため、今度はさっきの倍速で。
治療は順調そのものだった。
――大丈夫。
もともと修復は蒼良のためだけに磨いた個性だ。
もちろん一番良いのは力を使う機会が来ない事だが、培った技術をこうした場面で余すことなく発揮し、蒼良の身を守れる事に充足感さえ感じていた。
――大丈夫。
なのにどういうわけか、自分の額からも背中からも、冷たい汗が噴き出してくるのを止められない。
「……蒼良」
まだこちらの声掛けに一度も反応を返さず眠る少女に呼びかけた。
呼吸器官の修復は既に済んでいる。
もう声は出せるはずだが、燈矢と同じく精神的な疲労のせいか、目を覚ます気配はない。
――大丈夫。
治療中に意識がないのはむしろ幸いだ。
分解の際は強烈な痛みが伴うため、それに気づかず眠っていられるのなら、それに越したことはない。
なのにどこか、漠然とした不安を拭い切れていない自分が居る。
「蒼良」
さっきよりも強い声で名前を呼んだ。
肩を揺らして、手の甲で頬を軽く叩いてみる。
蒼良は目を覚まさない。
「蒼良」
閉じた瞼に透けて見えるはずの毛細血管の血流は途絶え、目の下の隈は色濃く、頬や唇には赤い血脈の陰が見当たらない。
植物じみて、より人間味を失った蒼良は花のようで、皮肉にもさらに際立って見えるその美しさから目が離せない。
個性使用の副作用とは明確に異なる理由で、廻の息が荒くなっていく。
全てが上手くいっているのは間違いないのに、明らかに何かがおかしい気がした。
「蒼良……」
何とはなしに片手を蒼良の口元にかざした。
「……何で、」
かすかに震え始めたその手を、蒼良の左胸の上に置いた。
「何で……」
――――何故、心臓が動いていないのだろう。
「あ………ああ……ッ。蒼良……蒼良、蒼良、蒼良、蒼良……ッ!!」
頭の中が真っ白になったのは一瞬で、嗚咽を堪えるように少女の名前を叫びながら、廻は再び一度修復した蒼良の身体を分解し始めた。
分解して、また作り直す。
蒼良の瞼は開かない。
それならばともう一度分解して修復する。
蒼良の心臓は動かない。
「くそ、くそ……ッ!何でッ!動け!動けよ!!」
分解。修復。分解。修復。壊して、治して。殺して、戻して――その度にスピードも精度も増していく。
その度に、心が踏みにじられていく。
大切な少女を何度も何度も自分の手で壊す不快な感触に吐き気すら覚えながらも、廻はただ蒼良を救おうと必死だった。
理解したくないけれど、逃げてはならない。
見たくなくても、目を逸らしてはならない。
思考を放棄してしまいたい願望と、目の前の少女を救いたいという強い想いが、廻の中で激しくせめぎ合っていた。
燈矢の治療に、きっと時間をかけ過ぎた。
そもそも、最初の判断から間違えていたのかもしれない。
たとえどれほど蒼良を傷つける事になろうとも、頼みを無視して蒼良の治療を強行するべきだったのだ。
自分のせいだ。
何があっても治してやれると、そう思っていた。思い上がっていた。
膨大な後悔を抱えながらも、こみ上げてくる怒りを力に変換し、蒼良の身体に注ぎ続ける。
絶望している場合ではないのだ。
嘆くくらいなら手を動かせ。
何が出来るかを思考しろ。
「死なせて、たまるか……ッ!!」
蒼良の胸の中央に重ねた手を置き、右手の付け根で上から垂直に圧迫する。
肘を伸ばして、体重をかけて、胸骨を折らんばかりの勢いで心臓マッサージを繰り返す。
蒼良の額を押さえて顎を持ち上げ、気道を確保して鼻をつまんだ。
大きく開いた自分の口で蒼良の口を覆い、ゆっくりと息を吹き込んでいく。
胸が盛り上がり、口を離すのと同時に沈んでいくのを確認して、それを二回ほど繰り返すと再び心臓マッサージに戻る。
しかし幾度となく心配蘇生を行おうと、蒼良が動き出す事はない。
呻き声をあげる事もない。
息を吹き返す気配すら見えない。
「何で、起きない……ッ。何で、俺が居て、こんな……」
両目の端から涙をこぼし、自分の唇を噛み切った。
心のどこに力を入れていればいいのか分からなくなってしまいそうな弱気に、鮮烈な痛みで対抗する。
歯を喰いしばると胸の奥で呼吸が詰まった。
歯の根が震え、寒くもないのに息がうわずり、何の意味も持たない唸り声にも近い音が勝手に口から漏れ出ていく。
――認めない、認めない、認めない認めない、認められるわけがない。
情けない。不甲斐ない。手を止めている時間などどこにもない。
何かあるはずだ。まだ、何か出来る事が。
鍛えてきた力が通用しないからなんだ。
積み上げて来た知識が役に立たないからどうした。
まだやれる。体力は残っているし体は動く。
五体満足で五感も正しく機能している。
心臓だって強く鼓動し続けている。
生きている限り、全力を尽くせるはずなのだ。
この命がある限り――、
「――ああ……、そうだ」
暗い靄で埋め尽くされていた廻の脳内に、突然一筋の光明が差し込んだ。
見慣れた無表情のまま目を瞑る少女を見下ろして、一度だけその頬を優しく撫でると、着ていたスウェットの上を脱ぎ、露出した肌に――自分の左胸に手を当てた。
触れた指先から肌が崩れ、赤い血となってこぼれ出す。
流れ落ちる赤が、仰向けの蒼良の上で、踊るように跳ねている。
「……ぁ、ぐ……ぅ」
初めてその身で体験した分解の痛みは、廻の想像を遥か絶するものだった。
苦鳴を漏らし、背中を丸め、それでも廻は自らを破壊する手を止めない。
空いているもう片方の手で蒼良に触れ、分解と修復を同時に発動させていく。
赤い血が、蒼良の肌に染み込むようにして消えていく。
痛みを堪え、苦悶を滲ませた廻の口元に、歪な笑みが僅かに浮かんだ。
二つの対象の融合――これまで考えた事すらなかった試みが、オーバーホールの究極形とも呼べる技が、今、ここで完成したのだ。
――これでもう、大丈夫だ。
左胸に五指で触れ、自らの心臓を抉り取るように、奥へ奥へと指を沈める。
赤い血肉が溶けだしては蒼良の身体に吸収され、吸収されたそばからその白い肌を赤が汚していく。
心臓が動かないのなら、動いている心臓と取り換えてしまえばいい――こんなにも単純な方法を、どうして初めから思いつかなかったのだろう。