目を覚ました時、息苦しさに蒼良は眉をひそめていた。
肺の真上に何か重たいものが乗り、呼吸の動きを抑えつけられているような苦しさがあった。
状況を確認しようと頭だけ起こし、視線を足元へ向けた途端、眼球の動きに伴い目の奥に鈍い痛みが走った。
「………ッ」
身に覚えのない不調に、思わず小さな呻きが漏れる。
力なく再び枕に頭を埋めると、普段と感触が違うことに気がついた。
全身を押さえつけるような倦怠感に抗いながらも、何とか布団から半身を這い出し、上半身を起こす。
それに伴って胸元にあった重みがずるりと下へ滑り落ち、太腿の上へ移動した。
「――あれ……、廻くん……?」
ぼんやりと視線を落とせば、なぜかスウェットのズボンだけを身に着けた廻が半裸で眠り込んでいた。
身体は布団から大きくはみ出し、横向きに丸まってこちらに顔を向けている。
どうやら呼吸を妨げていた重さは廻の頭だったらしい。
ぼんやりと、自分が今居る場所が廻の部屋である事と、廻のベッドで布団を占領していた事実を理解した。
朦朧とした頭の中で、様々な疑問が脳裏をかすめる。
何故廻と一緒に眠っていたのだろうとか、何故頭が痛いのだろうとか、何故自分は今何も服を着ていないのだろうとか――けれど、ゆらゆら、ふわふわと意識が曖昧に漂って、疑問を解決する気にもならない。
とにかく、酷く頭が痛い。
そして、起きたばかりだというのに、頭痛すら上回る強烈な眠気を感じてしまう。
さらには全身に絡みつく脱力感のせいで、何かを考える事すら、今は億劫で仕方がなかった。
腿の上にある廻の顔を覗き込んで、その頭に意味もなく手を伸ばして触れてみる。
短い前髪を指でつまんだりサラサラ分けたりと弄びながら、虚ろな瞳は廻の無防備な寝顔だけを映していた。
啓悟や転弧と並んでいると数割増しで大人びて見える少年だが、こうしてただ眠っていると、年相応に幼くあどけない子供の顔をして見えるのが何だか少し珍しかった。
ふと、廻の瞼が赤く腫れているような気がして、その目元を指の腹で撫でてみる。
目尻にかさついた感触。
よく見てみると、それは渇いた涙痕だった。
ほんの僅かに、眠気が遠のく。
この気丈な少年が泣くだなんて、いったい何があったのだろう――そんな考えを抱いた瞬間、蒼良は唐突に昨晩の出来事を思い出した。
それと同時に、先ほど過ぎった疑問が、図らずも解決に至る。
頭が痛いのは、昨日無茶をした後遺症。
全裸なのは、昨日の時点で服がほとんど焼け焦げていたから。
廻と共に寝ていた理由は、個性の過剰使用で力尽きたのだろうと察しがつく。
「そうだ、昨日……」
瀕死の燈矢を連れて、廻の部屋を訪れたところまでは覚えている。
廻に燈矢を預けた後の記憶がないので、恐らくあの時にチャクラが切れてしまったのだろう。
「でも……、生きてる」
体内のチャクラを全て使い切った時、人は死に至る。
それは覆しようのない事実で、前世の蒼良の死因も大部分がチャクラの枯渇によるものだった。
なら何故、自分は今こうして息をしていられるのか。
体の中央に強く意識を集中させると、体内に張り巡らされた経路を通り抜けていく、微量のチャクラが感じ取れた。
しかしそれは、蒼良本来の馴染みあるチャクラではなく、質も形状も異なる別の誰かのもので――それが廻のチャクラだと気が付いた時、蒼良が発した言葉には困惑の響きが含まれていた。
「どうやって……」
他者にチャクラを受け渡す行為は、手練れの忍ですら困難とされていた技術だ。
相手の持つチャクラを感知し、自分のチャクラ形状を変化させ、対象とリンクさせる器用さが必要とされるのだ。
それならば、チャクラコントロールはおろか、その存在すら知らないであろうこの少年が、どうやって自分にチャクラを渡せたというのだろう。
ズキズキと痛む眉根を押さえながら部屋を一周見回してみる。
自分と廻の他には人の気配が感じられず、蒼良の頭にまた新たな疑問が浮上する。
――燈矢は、どこへ行ったのだろう。
自分が今こうして無事に生きているという事は、先に治療を施されていた燈矢も間違い無く無事なはずだ。
廻の実力に確かな信頼を置いている蒼良にとって、それを疑う余地はない。
とはいえ、その安否をハッキリ自分の目で確認するまでは、様子が気になって二度寝などとても出来そうになかった。
「廻くん……廻くん、起きて」
疲弊している廻には悪いが、耳元で名前を呼びながら、その肩をトントンと軽く叩いて揺り起こす。
するとしばらくして、廻の睫毛が細かく震え、瞼がゆっくりと持ち上がった。
「おはよう、廻くん」
上から声をかけると、ぼんやりとした様子の寝起きの瞳が、ゆるゆると蒼良の方へ向けられた。
「昨日は本当にありがとう。一つ教えて欲しい事があるんだけど、私が連れて来たあの男の子は今どこに――」
問いかけの途中、突然廻が跳ねるように飛び起きて、蒼良の細い二の腕を掴んだ。
その勢いに驚いて言葉を止めてしまった蒼良を凝視する廻は、これまで一度も見せた事がないような表情をしていた。
引き結ばれた歪んだ唇。大きく見開かれた目。強く怯えを宿したその瞳。
まるで今にも泣きだしてしまいそうな、酷く憔悴しきった顔だった。
「生きてる……ちゃんと、生きてるんだよな……?」
不意に廻の右手が蒼良の左腕から離れ、首筋に触れた。
どうやら脈を確認しているらしいその手が、やけに震えている。
「うん、廻くんのお陰で生きてる。ありがとう、迷惑かけてご――」
「どこか痛いところは?体に不調が生じたりはしてないか……?」
蒼良の生白い肢体を不安げに見つめながら、廻らしくない落ち着きのなさで質問を投げてくる。
「まだ疲労感が抜けきらないけど、大丈夫。数日安静にしてれば、そのうちまた元気になる」
チャクラというのは、一度使えば二度と戻らない消耗品ではない。
適切な休息を取る事で、上限値まで回復が可能なのだ。
「……本当だろうな?」
痛まし気に目を細める廻の瞳は憂いを帯びていて、しかしその奥に潜む憎悪にも似た感情を、蒼良は敏感に感じ取った。
「廻くん……もしかして、怒ってる?」
素直に問うと、廻の顔が瞬間的に強張り、顔を俯かせて蒼良から視線を逸らしながら、「当たり前だろ」と小さく口にした。
「何で……あんな無茶しやがった。自分をもっと大切にしろって、お前が怪我をする度、俺は再三言って来たはずだ」
首にあてられていた廻の手が、再び蒼良の腕を掴み、強い力で圧迫してくる。
掠れた声で言葉を紡ぐ事に意識を奪われている廻の、無意識下での行動だった。
「心臓が止まって、呼吸だってしてなくて、身体がどんどん冷たくなって……!あんな思いをするのは……もう、二度とごめんだ」
やはり昨日、自分はあのまま死んでいた。
その事実を受け止めてなお、蒼良の心が衝撃に揺れる事はない。
それは決して、覚悟していたからでも、悔いがなかったからでもない。
ただ単に、蒼良の自分の命に対する粗野な向き合い方が故だ。
そんな蒼良にとって、自分の生死などよりも、あの廻が負感情を声に乗せ、弱気な言葉を並べ立てて項垂れている姿の方がよほど今は気がかりだった。
「心配かけてごめん。迷惑かけてごめん。沢山力を使って疲れたよね」
いつもとは様子の異なる廻を気遣うような声掛けに、廻は唇を噛み、おもむろに頭をもたげた。
この少女が、自分の怒りの原因を決定的に履き違えているように感じたのだ。
迷惑などと、考えた事は一度もない。
むしろ廻にとっては、蒼良に何か大変な事があった時、真っ先に自分を頼って来ない事の方が許せない。
個性の行使で疲弊はした。
けれど、それに関して腹を立てる理由がいったいどこにあるというのか。
何も分かっていない。
何も伝わっていない。
それが誰のせいでもない事を理解していながら、廻は蒼良を睨みつけた。
「……お前が今、こうして生きていられるのは何でだと思う?」
身を刺すような視線の鋭さ。先程よりも数段落ちた声のトーン。
それらが自分に向けられている現状に、蒼良はますます困惑を深めた。
何故なら廻は、いつだって蒼良の前では優しかった。
口調が柔らかな訳でも、よく笑う訳でもなかったが、それでも廻はいつだって蒼良を気遣い、家族を思い遣る心優しい少年だった。
だから蒼良には、目の前の現実がなかなか上手く呑み込めない。
そんな事をするはずがないと思い込んでいた少年から、自分へと放たれる激しい怒りの感情に理解が停滞してしまいそうになる。
「鼓動の止まったお前の身体に、俺の心臓を移植しようと考えた。……そうするしかもう、お前を助ける方法が思い浮かばなかった。俺の個性ならそれが可能だったし、事実、今のお前の身体には俺の肉体の一部が融合してる」
廻の告白に、蒼良は全身を硬直させた。
声こそ出さなかったものの、ひくひくと慄く唇が、少女の狼狽を物語っていた。
かじかんだように固くなった蒼良の指先が、恐る恐る、廻の左胸に触れる。
掌を肌に密着させると、とくとくと一定のリズムを刻む心臓の存在を確かに感じ、いつの間にか止めてしまっていた息が、抜けるように口から出て行く。
「……見ての通り俺はこうして生きてるし、結局心臓は渡してない。どういう訳か、渡そうとした直前にお前の心臓が動き始めた」
廻にとっては、理屈も何も分からない現象だった事だろう。
蒼良の身体に吸収された廻の一部――その細胞に宿ったチャクラが、チャクラ切れを起こす寸前の蒼良の身体に補充された事により、心肺停止に陥っていた命を繋いだのだ。
意図せずとはいえチャクラの受け渡しを肉体ごと行うという離れ業を成し遂げられたのは、それが廻だったからこそで、そんな優れた個性を持つ廻だからこそ、一歩間違えればその命を落としていた。
蒼良の身体にチャクラが行き渡るのがあと少し遅ければ、廻が心臓移植を実行するタイミングがあと少し早ければ、今、ここにあったのは廻の死体だったかもしれないのだ。
廻が命を落としていた未来――その可能性に行き着いた蒼良の呼吸が浅くなる。
そんな蒼良の無言の奥に秘めた心情をほとんど正確に捉え切った廻が、畳みかけるようにとどめの言葉を吐き出した。
「お前のために死ぬ事を、俺は躊躇したりしない。俺の命を握っているのはお前だってこと、せいぜい肝に銘じておけよ」
それは紛れもなく、廻の命を人質にとった、蒼良への強い脅迫だった。
自分が傷つくことで、自分以上に傷つく誰かが居るという事に気づけない少女に。
自分を蔑ろにするという事は、自分を想う周りの人間をも蔑ろにする行為だという事を理解できないこの少女に対して、廻は自分自身を脅しの材料にすることで、これ以上の無茶を抑止しようとしているのだ。
廻がどれほど蒼良を大切に思っているのか、その身を案じているのか、蒼良だってきっと、それを全く分かっていない訳ではない。
それなのにこの少女の中では、それを自分を大切にする理由とイコールで結ぶことができないのだ。
ならば、彼女の優しさと情の深さを利用するしかないではないか。
相変わらず言葉を発さないままの蒼良が、唖然と廻を見上げている。
お前が死ぬくらいなら自分が死ぬ――そう宣言され、それを理由に生きる事を強要された少女が、凍り付いた表情に当惑を滲ませて廻を見ている。
その視線から逃れることなく、真正面から蒼良の瞳を見つめ返す廻の口元には、自嘲気味の微笑が浮かんでいた。
それはまるで、唐突に身勝手な脅迫を突き付けられ、戸惑う少女を憐れんでいるかのような、寂しげな笑みのようにも見えた。
「――そんな事、私、頼んでない」
ぽつりと。小さな声が廻の鼓膜を震わせた。
常にハキハキとものを言うこの少女にしては珍しく、力のない声が廻に拒絶を突き付けていた。
「心臓なんて要らない。命なんて要らない。私が助けてほしかったのは燈矢だけで、そこに私は含まれてなかった」
「……俺たちは一蓮托生だ。いつだったか、お前はそれを受け入れただろ?忘れたとは言わせない」
「取り消したい。私は廻くんの命に責任なんて持てない」
「それならそれで好きに使えよ。俺の命をどれだけ雑に扱おうが、俺はお前を責めたりしない。これも前に伝えたはずだ」
「ずるい、そんなの。じゃあ全部取り消して。なかった事にして。こんな事ならあの時廻くんを……皆を受け入れたりなんてしなかった。それなら私は一人でいい。家族なんて要らない。今まで通り一人で――、」
泰然と、しかしどこか勢い込んだ口調で、まくし立てながら廻の胸を押す蒼良の手首を、廻が掴んだ。
強く握られた訳でもない。
大声で罵倒された訳でもない、それなのに。
「いい加減にしろよ」
静かな廻の警告に――その気迫に、呑まれたように口を閉ざした。
押し黙ったまま視線を交差させていると、ややあって、廻の口から短いため息がこぼれ落ちる。
どうしようもなく呆れ返ったような、露骨なまでの嘆息だった。
「……一つ聞くが、お前は俺が死ぬと悲しいのか?」
急な問いかけ。
蒼良は答えようと口を開いて口ごもり、言葉に迷って、小さく首を横に振った。
『悲しい』はまだ知らない。自分の感情が分からない。
「それなら次の質問だ。俺とお前、どちらか片方しか生き残れないとして、組織全体の利益を思えば、どちらを生かすのが正しい選択だ?」
「それは――、」
考える間でもない。
廻の持つ個性が極めて希少かつ万能な類のものである事を差し引いても、蒼良は客観的に自分の能力の高さと、その有用性を理解していた。
けれどそれを口にすることは、自分の代わりに廻が死ぬという宣言を許容する事に繋がってしまうような気がして、蒼良は言葉に躊躇った。
しかし、言いかけた答えの続きを正しく把握した廻は、蒼良が回答したものとして話を続ける。
「それなのに何で、俺がお前の身代わりになる事に、お前はそんなに否定的なんだ?」
分からない。分からなかった。
廻の疑問は最もで、これまでの蒼良の判断基準に則れば、おかしな主張をしているのは間違いなく蒼良の方だった。
それでも、納得できないのだ。
理屈など分からない。
言い返すべき言葉が見つからない。
けれど、だって、認められない。認めたくない。受け入れられない。
廻がこの世界から居なくなるなど、想像するだけで――、
「そういうのを、『悲しい』とか『寂しい』って言うんだよ」
蒼良の眉間にトンと人差し指を置いた廻が、「覚えとけ」とぶっきらぼうに言い放った。
自分でも気づかない内に寄っていた皺がゆるりと解け、蒼良は放心したように、教えられた単語を復唱する。
『悲しい』、『寂しい』と、自分の中に落とし込むように、確かめるように。
「俺も同じだ。もう何度もその感情を抱いて来た。……いいや、そんな表現じゃ生ぬるいくらいだ。誇張でも冗談でもなく、俺はお前を失う事を想像しただけで気が狂いそうになる。だからいつも、お前が新しい傷を作る度に不安になった。これから先だってそうだ。お前が自分を傷付ける度、俺はきっと、何度もこんな気持ちを味わう事になるんだろうな」
蒼良は、好きな人の笑顔が好きだ。
ずっと笑っていてほしいから、喜ぶ事をしてあげようと思うようになった。
あらゆる憂いを取り去ってあげようと思うようになった。
その笑顔を曇らせるすべての要因から、守ってあげたいと思うようになった。
――いつの間にか、そんな風に考えるようになっていた。
そして、悲しみの感情を理解した今。
廻の笑顔を永遠に失う事に、強烈な悲しみを覚えた今。
蒼良を大切に思う廻が、自分が死ぬことによって全く同じ感情を抱くのだと知った今。
これまで、知らず知らず自分の行動が廻から笑顔を削り取っていたという事実に、茫然とした。
「……ごめん、なさい」
今になって、ようやく分かった。
かつて、自らを軽んじる蒼良に対して、悲しいと述べたカカシの気持ちが。寂しげに笑った火伊那の気持ちが。
あの日、火伊那を殺せなかった、自分自身の本当の気持ちが。
「ごめんなさい。……もう、しない。ちゃんと、生きる」
生きる理由が出来てしまった。
死なない理由が出来てしまった。
命令からではなく、感情から生まれた使命が一つ、増えてしまった。
まるで道具らしくない。人間のような思考回路に、最高傑作だった自分自身が崩れ、劣化していく感覚があった。
心を持った人間は弱い。迷いの生じた人間は脆い。
――けれどもう、それでもいいような気がしてしまった。
かつて蒼良が生きた世界は、もうここにはない。
蒼良に道具である事を強いた人間も、もういない。
芽生え始めた蒼良の心が、心のままに生きてもいいのだと、蒼良の背中を押していた。
「ちゃんと、生きるから、だから……廻くんも、死なないで」
自然と、廻に掴まれた右手に力がこもっていた。
空いた左手の指先が、シーツをクシャリと握っていた。
そんな蒼良の様子を眺めていた廻は、掴んでいた手首を解放し、掌に爪が食い込みそうな勢いで硬く閉じられた蒼良の左手に優しく触れた。
強く曲げられた指を一本一本丁寧に剥がしながら、「当たり前だろ」と口にする。
「お前が生きるなら、俺もちゃんと生きてやるさ。お前を一人になんてさせてたまるか」
それから二度目のため息を落とすと、廻は頭を掻いて若干視線をさ迷わせた後、言いづらそうに口を開いた。
「俺も……悪かった。俺が怒りを向けるべきは、蒼良じゃなかった。お前は多分、ヒーローとして正しい事をしたんだろ?俺が本来怒るべきは俺の力不足であって、さっきのはほとんど八つ当たりみたいなもんだ」
「……それじゃあもう、怒ってない?」
「ああ、怒ってない」
「許してくれた?」
「自分の行動を振り返られたならもうそれでいい。そもそも、お前は別に何も悪く――いや、六割くらいはお前も悪い気がするから、そこはちゃんと反省しとけよ」
八つ当たりだったと宣言したばかりのその口で、今度は半分以上の非を押し付けてくるあたり、すっかりいつもの廻らしさを取り戻している。
その事にいくらかの安堵を感じつつ、蒼良は素直に頷いた。
「私の事、嫌いになった?」
機嫌を伺う三度目の質問に、廻が一瞬、目を丸くした。
首を傾げ、眉根をグッと寄せながら、「はあ?」と不機嫌全開の返事が返ってくる。
「お前には、俺が嫌いな人間のために命を懸けるほどのお人好しに見えるのか?」
「…………」
確かに見えない。
廻は自分の内側に入った人間にはとことん優しいが、それ以外の者には薄情な一面も持ち合わせているのを蒼良は知っている。
けれど――、
「よく考えてみると、私、廻くんに好きって言われた事が一度もない」
「…………」
長い沈黙。
廻にもその自覚はあったのだろう。
「ねぇ、廻くんは私の事、好き?」
廻の顔を覗き込みながら問うその声が、心なしか不安げな感情を含んでいるように聞こえるのは、廻の気のせいなのだろうか。
廻は目を細め、苦々しく笑ったその表情のまま、片手で自分の顔を覆った。
「……いちいち言葉にしなきゃ、伝わらないのか?」
「廻くんには、私が言葉にしなくても理解できるほど感受性豊かに見えてるの?」
見える訳がない。
堂々と言い切るその姿に渋い顔を作りつつも、廻は目元から手を外し、蒼良の瞳を見下ろした。
互いに引く事を知らないので、見つめ合ったまま廻はしばし逡巡する。
結局、最後に折れたのは廻の方で、諦めたように眉を下げると、蒼良の右腕を再び掴み、自分の方へと引き寄せた。
しかし何を思ったのか、肌と肌が触れ合う直前、自分の方へ倒れ込みかけた蒼良の左肩に手を置いて、その動きを止めさせる。
そして一度視線を下にやり、無言で後ろを振り向いた廻は、ベッド下をゴソゴソと漁りだしたかと思うと、床に脱ぎ捨てていたらしい自分のスウェットの上を手にして、それを蒼良の頭にズボリと被せた。
「………着ろ。悪かったな、昨日は俺も気絶するみたいに眠ったから、服を着せてやる余裕がなかった」
モゾモゾとスウェットに両腕を通しながら、「大丈夫」と蒼良が返す。
「廻くんが布団をかけてくれてたお陰で、全然寒くなかったから」
「気にするポイントはそこじゃない……」
本日三度目のため息を吐き出すと、廻は今度こそ蒼良を抱き寄せ、小柄な身体を自分の腕の中に収めた。
「お前の燃えカスになったヒーローコスチュームは、今度俺に新調させろ」
目良に頼んで耐火性を可能な限り高めようと、廻は今、心に決めた。
そんな廻の背に回された蒼良の手が、トントンと廻を叩く。
「ねえ、廻くん。さっきの答えは?」
たった今、最大限の答えを返したつもりでいた廻は、少女の追撃に思わず呆気にとられてしまった。
「……分かれ」
ここまでしてまだ伝わっていないのかと驚き、だがこの少女ならばそれも仕方がないと納得してしまいそうな廻の呟きだった。
「どうして教えてくれないの?」
「言われなきゃ、不安なのか?」
質問に質問で返された蒼良が、廻の肩に顎を乗せたまま口を噤んだ。
蒼良の反応が鈍くなるのは、決まって自分の内側を探っている時だと廻は知っている。
だから廻は、蒼良が答えを出す前に先手を打った。
「いつかまた、そのうちな」
この少女に心から望まれてしまえば、自分は為す術なくその頼みを聞いてしまう事を、廻自身が一番よく分かっていたからだ。
その柔らかな頬に自分の頬をするりと摺り寄せ、廻はそっと、蒼良の身体を遠ざけた。
「そういえばお前、連れて来たあの子供の事が心配なんじゃなかったのか?」
「そうだ、あの子は今どこに?」
これ以上この話を蒸し返されないようにと話題転換した廻の思惑に、蒼良はまんまと引っかかった。
「客室で寝かせてる。俺の部屋に、よく知りもしない他人が長居するなんて不快だったからな」
あまりにも廻らしい返答である。
個性を行使し過ぎて力尽き、自分も蒼良にも服を着せる余裕すらない中で、燈矢を自室から追い出す事だけは怠らなかった筋金入りの潔癖少年だ。
それでも部屋の前の廊下に放置ではなく、丁寧に客室まで移動させているあたり、蒼良が命がけで守り抜いた客人だという意識はあったらしい。
「ありがとう廻くん。それじゃあ私、様子を見に行ってくる」
ベッドから下りようと、地面に着けた片足に体重を乗せると、ぐらりと脳が揺れるような気持ち悪さが蒼良を襲った。
微量なチャクラしか宿っていない今の身体が、本調子とは程遠い事を実感する。
そんな蒼良の横を、同じようにベッドから立ち上がった廻が通り過ぎたかと思えば、「ちょっと待ってろ」などと言いながらクローゼットを開けて中を覗いている。
「外に出るなら下もちゃんと履けよ。下着までは流石に貸せないが、他の服を出してやるから、それで応急処置を――」
廻の話し声は蒼良の耳にはほとんど入ってきておらず、力の入らない足で如何にバランスを取って二足歩行を行えるかを模索するのに夢中になっていた。
思い切って両足に体重を乗せて腰を浮かすと、床がうねうねと波打ち、世界がグルグル回り出したような感覚に陥った。
その感覚は酷い乗り物酔いに近く、三半規管が完全におかしくなってしまったみたいに激しい眩暈が続いている。
けれど、歩ける。
一歩右足を踏み出して、もう一歩左足を踏み出して。
始めはヨチヨチヨタヨタとしていた足取りは、進むたびにコツを掴んでしっかりとした歩みへ変わっていく。
それと同時に、もどかしい歩みの遅さが、燈矢の元へと向かいたい蒼良の気持ちを焦らし始める。
はやる思いに手を引かれ、蒼良が扉を押し開けたとき、背後で「おい、馬鹿、待て!」と焦った声が聞こえたような気もしたが、動き出した身体を止められず、素足のままで蒼良は廊下を走り出していた。
呼びかけを無視して部屋を出ていく小さな背中を、廻は慌てて追いかけた。
貸したスウェットは、体格差のお陰でミニスカートくらいの丈にはなっているものの、蒼良が何も気にせず豪快に足を動かすせいで、裾がひらひらとめくれてとても見ていられない。
部屋を出る直前に確認した現在時刻は朝の四時。
こんなにも朝早くから廊下をうろつく職員はいないため、半裸の全力少女の目撃者が廻だけである事が、せめてもの幸いだった。
なにせ、もしも誰かに見られようものなら、廻はそいつを可及的速やかに分解せねばならないので。
「おい、蒼良……っ!!」
あの素直な少女がこちらを振り返らないとなると、恐らく本当に聞こえていないのだろう。
歩幅は廻に分があれど、昨夜体力をごっそりと削られた廻も思うように足を動かせず、蒼良との距離は縮まる事も開く事もない。
結局、鬼ごっこの終着点は燈矢の眠る客室だった。
扉が開け放たれたままの部屋に、呼吸を乱しながら遅れて入室した廻は、蒼良を叱ろうと口を開きかけて――未だベッドで眠る少年の頬に手を添えている蒼良の姿を前に、言葉を発する事なくその口を閉じた。
息を、していた。
落ち着いた呼吸音には苦しみの片鱗はもう見当たらず、清潔なベッドの上、燈矢は健やかに寝息を立てて眠っていた。
布団を剥いでその全身に目をやると、傷一つない、火傷痕などもうどこにも見当たらない燈矢の身体がそこにはあった。
頬に触れる。
涙の痕すら見つからない、なめらかな手触りを指先に感じた。
首に、肩に、腕に触れる。
凹凸のない皮膚がある。
焼けただれてもいない、焦げてもいない、溶けてもいない肌がある。
目視だけではまだ納得できず、燈矢の全身に触れてその無事を確かめようとする蒼良を、不意に後ろから羽交い絞めにする者が居た。
「そこまでだ。全裸の異性にベタベタ触るな。見るのも駄目だ。教育に悪い」
「廻くんだって、私の裸見てたのに」
「……俺の場合は不可抗力だ。それに、もしもの時は責任だって取ってやる」
「じゃあ私だってこの子に責任――む"っ」
完全に燈矢に気を取られたまま適当な返答をしかけたところで、後ろから伸びて来た廻の右手が蒼良の頬を下から掴んだ。
「意味もよく分かってないくせに、軽々しくそんな台詞を口にするなよ」
タコのように口を突き出す蒼良に無理矢理横を振り向かせ、その顔を覗き込んだ廻が、凄みのある声とは裏腹に、穏やかな微笑みを浮かべながら首を傾けていた。
内面と表情が一致しないタイプの感情の読み取りは、蒼良の苦手分野の一つだ。
そのはずなのだが、今回に限っては廻の放つどす黒いオーラが強すぎて、鈍い蒼良にでも彼の気持ちがおよそ正しく伝わった。
「ひゃい」
雰囲気に呑まれ、つい従順な返事を返してしまう蒼良。
その様子に満足したのか、廻が蒼良の拘束を解除する――のとほぼ同じタイミングで、眠りから覚めた少年の、くぐもった声が部屋に響いた。