「――手をグーにして、突き出してみて」
蒼良に連れられて訓練場へと辿り着いた燈矢に、いきなり投げられた謎の指示。
道中は体力づくりだと言う彼女に全力の山道ランニングを強要されていたため、あの晩の話もこれからの話もまだろくに出来てはいない。
言いたい事はまだ色々とあるのだが、両手を膝の上に置き、息を切らす燈矢にはしばらく言葉を紡げそうになかったため、大人しく蒼良の命令に応じた。
すると、差し出した右手の拳に、蒼良が自分の左の拳をトンと突き合わせてくる。
理解不能な儀式に戸惑う燈矢が顔を上げてみれば、蒼良は何をするでもなく目を閉じて風に吹かれている。
その行動の目的が分からず、自分も何かするべきなのかと疑問を浮かべる燈矢に「そのまま」と制止の声がかかった。
「何もしなくていい。私は少し集中するから、燈矢は静かに。落ち着いて呼吸を繰り返して」
絶妙に難易度の高い注文だ。
燈矢は深い呼吸を数回繰り返すと、丸めていた背を伸ばして徐々に息を整え始めた。
いくらか落ち着いたところで、完全に口を閉ざしてしまった少女の様子をちらりと窺う。
病み上がりのくせに、自分と同じペースで走っておきながら、彼女が何故息の一つも乱さずにいられるのかが不思議でならない。
その身のこなしの軽やかさも、何を考えているのか読めない無表情も、常識はずれなこの容姿も、改めて見ると、何もかもが非現実的だった。
焦凍が彼女を人間のカテゴリーからうっかり外してしまうのも仕方がないと思わせるほど、この少女は美しい。
気が付けば燈矢は、何気なく観察し始めた蒼良から目が離せなくなっていた。
その美に魅せられ、引き込まれていく燈矢の脳内で――「繋がった」と呟く蒼良の声が、泡のようにパチンと弾けた。
開かれた大きな瞳がこちらに向けられた瞬間、食い入るように彼女を凝視していた事が気恥ずかしく、さっと視線を横にずらす。
「つ、繋がったって何が?」
「言葉で説明するよりも、実際に体験してみた方が早いと思う。今から流し込んでみるから、感じてみて」
「感じてって何を……」
問いかけの言葉が途絶えたのは、言い切る前に、蒼良の指し示す『何か』が彼女の拳から体内へと流れ込んで来たからだ。
自分のものではない『何か』が侵入してくる感覚に違和感はあれど、忌避感は少しも感じなかった。
それが自分にとって異物である事は疑いようがないのに、拒絶したいと思うどころか、何だかとても心地が良い。
温かく、優しいそれがじんわりと身体を巡っている。
疲弊していた身体に力がみなぎってくるかのような、満ち足りていく不思議な感覚。
「それが、私のチャクラだよ」
「……チャクラ?」
聞き慣れない単語に、燈矢は小首を傾げながら復唱した。
「分かりやすく言えば、生命エネルギー。その力を上手く利用すれば、色んな事が出来るようになる。例えば、基本的な身体能力を向上させたり。例えば、舗装されてない山道を息も切らさず駆け上がったり」
暗に、先程の自分の醜態を指摘されているようで、うっと苦い顔をしながらも、蒼良の超人的な体力の秘密に触れた燈矢は拳を固く握り込んでいた。
「……さっき、個性はその背中の翼だけだって言ってたよな?」
「そうだよ。私の個性は蒼翼の一つだけ。チャクラは個性とは全くの別物で、多かれ少なかれ、生者であれば誰しもが身体に宿してる」
「てことは、俺の身体にも?……そんなの、お父さんからだって聞いたことないよ」
「知らないだろうからね。エンデヴァーさんにだって、知らない事の一つや二つはあるものだよ。それでも、エンデヴァーさんにも、燈矢にも、チャクラは絶対に備わってる」
これまで存在すら知らなかったその力を意識した事のない燈矢にとって、あまりピンと来ない話だが、今、燈矢の身体に蒼良のチャクラが循環している感覚があるのが何よりの証拠なのだと蒼良は言う。
血液を運ぶために血管があるように、チャクラの経路が備わっているのは、燈矢の身体がチャクラの保有を前提とした造りをしているという事らしい。
その説明になるほどと頷いた燈矢は、やや間を空けた後、「ん?」と斜め上の空を睨んだ。
「それなら、あの水はどう説明するんだよ?」
今までの消火活動も、水を利用した治癒だって、全て夢幻でもなければ手品だったはずもない。
「あれもチャクラの応用だよ。練り上げたチャクラを術に変換する事で、水を生成してただけ」
「何それすげぇ、めちゃくちゃだ……。じゃあ、練習すれば俺も水を出せるようになるの?」
「チャクラには五種の性質がある。火、風、雷、土、水――どんな属性の技を使えるかはそれに依るから、断言するのは難しい。……補足すると、燈矢はチャクラの総量が少ないから、術を扱うのには向いてないと思う」
それは何も燈矢に限った事ではなく、この世界の人間全員が持つチャクラ量が、平均的に前世の世界よりも大きく下回っているのだ。
それがこの世界の理なのかと思いきや、ごくまれに大きなチャクラを持つ人間を見かける事もあり、それがどういう理屈なのかは未だに判明していない。
そして、かくいう蒼良も転生前より今の方がチャクラ総量は少なくなっている。
身体エネルギーはこの世界の基準通りになってしまったものの、前世の人格をそのまま引き継いでいるからか、精神エネルギーの量が並の人間と比べて遥かに多く、忍術使用に支障は生じないので特段気にしてはいないのだが。
「俺には必殺技、出せないんだ……」
見るからに落ち込んだ様子の燈矢。
幼い少年には、分かりやすく派手で強烈な能力の方がかっこよく映るのだろうが、地味な戦いを侮ってはいけない。
チャクラを用いれば、垂直な壁を歩く事も、水面の上を歩く事だってお茶の子さいさい。
どんな地形でも不自由なく動き回り、常人には出来ない体裁きを行えることが、いったいどれだけのアドバンテージになるのかを彼はまだ知らないだけなのだ。
それを今から解説してあげようと考えていたところで、諦めきれない燈矢がどうしても自分のチャクラ属性を知りたいとねだり始めた。
「属性はあまり重要じゃないと思う。燈矢の場合は、単純な身体強化と炎の組み合わせで、短期決戦の戦闘スタイルを確立するのが理想形だよ」
蒼良としては、身体への負荷が大きすぎる蒼炎の使用はなるべく控え、スピード制圧を基本としたヒーローを目指してほしいと考えているのだ。
「お願い、蒼良!別に、何かすごい技を使いたいわけじゃないんだ。ただ、気になって仕方ないんだよ。こんなにワクワクする話を聞かされて、気にならない方がおかしいだろ?」
「そこをなんとか!」と顔の前で両手を合わせて頼み込む燈矢を前に、蒼良はしばし逡巡する。
チャクラ切れは生死に関わる大問題なので、チャクラ消費の多い忍術をこの少年に伝授する気は毛頭ない。
しかし、好奇心旺盛な彼の知識欲を満たしてやらねば話が進展しそうにないと感じ、最終的に折れたのは蒼良の方だった。
属性が分かったところで、どのみち印の結び方を教えねば忍術発動は不可能なため、燈矢が危険行為に走る可能性が見当たらなかったからでもある。
「それじゃあ、まずはチャクラを練る練習から始めてみようか。経路を巡行するチャクラの動きに慣れて、自分でチャクラを増やせるようになってみて」
厳密な話をすれば、誰しもが身体に宿しているのはチャクラではなく、チャクラの源となるスタミナと呼ばれるものだ。
忍は皆、これを意識的にチャクラへと変換することで術の発動源としていた。
燈矢のチャクラ属性を知るにあたって、まずは自分でチャクラを生み出さねば、スタートラインにすら立てないというわけだ。
いずれにせよ、その訓練はすぐにでも始めるつもりだったため、予定通りに修行の火蓋が切って落とされたのである。
日が暮れ始め、帰宅時間が迫ってきたころ、燈矢はとうとう微量なチャクラの生成に成功した。
もちろん、燈矢のチャクラはまだ不安定で粗削り。
量は雀の涙ほど。
コントロール精度などほぼ幼児の域だったが、それでも蒼良は大したものだと称賛を送った。
幼少期から当たり前にチャクラを身近に感じていた自分とは違い、燈矢にとっては初めて触れた概念なのだ。
それをこうも短時間で呑み込んでしまえるのは、子どもならではの素直さにも起因するのだろうが、彼の才能とセンスによる部分がやはり大きいだろう。
「すごいよ、燈矢。自分の身体を操るセンスが抜きん出てる。多分、勘もいいんだと思う。コツを掴むのがすごく早かった」
「それはどうもありがとう……!だけど言ってる場合じゃないって!これ維持すんのもすっごく難しいんだからさ!早く調べて!早く!!」
悠長に拍手してる場合じゃないと燈矢がうるさいので、蒼良は再び彼と拳を突き合わせた。
燈矢の身体にチャクラを流し込み、産まれたばかりのごく少量なチャクラを探し、リンクさせる。
同時に、空いた左手で小さな羽を一枚、背中から取り出した。
「これ、貰うね」
燈矢から受け取ったチャクラを右腕を通して自分の体内へ。
次に、それを左腕に向かわせ、その先に握った青い羽へと集約させる。
自分以外の対象へのチャクラ付与は段違いにレベルの高い技術だ。
こればかりは昨日今日でどうこうなるものではない。
自分の役割を終え、疲労困憊といった顔で地べたに座り伏した燈矢の隣、蒼良は腕を頭上に振り上げて、勢いをつけ、前方にそびえ立つ一本の木に向かって青い羽を振り投げた。
「えい」
その羽が幹に突き刺さると同時、そこに発生したのは熱量だ。
小さな炎の出現。
そこから一本の木がたちまち赤く包まれていくその光景に、隣の燈矢が悲鳴を上げた。
あの晩の火災の恐怖を思い出させてしまったのなら申し訳ないが、目の前で燃え上がる木の様子に目を見張る蒼良は、自分の行動のもたらした結果に燈矢以上に大きな衝撃を受けていた。
「……火だ」
「そんなの見たらわかるよ!早く消火を――」
「違う。燈矢のチャクラ属性が、火なんだよ」
触れるもの全てを焼き尽くさんとする、炎の如き高熱のチャクラ。
対象を炎上させる付加効果もあり、風と並ぶ攻撃特化型だ。
燈矢が火の性質のチャクラを有している事を、考えた事がないわけではなかった。
意識の端で、蒼良は一度のみならず、何度かその可能性を思い浮かべた事があった。
それでもなお、意識の端以上にその可能性が上ってこなかったのは、期待というものはその姿を容易く不安や絶望に変えてしまう事を、無意識的に理解していたからに他ならない。
印を結び、慣れた動作でボヤを鎮火させながら、こんなにも都合の良い話があっていいのだろうかと、蒼良は珍しく脳をフル回転させていた。
燈矢のチャクラは火属性だった。
それが意味するのはつまり――、
「燈矢には、熱への耐性が備わってるってこと」
火遁使いの忍が自らの炎で負傷しない事からも分かるように、火性質のチャクラは熱への対抗手段に成り得るのだ。
燈矢の場合はチャクラ量が少ないという欠点こそあるものの、使い方さえ工夫すればいくらでも戦闘の幅は広げられる。
「チャクラコントロールがもっと上達すれば、蒼炎だってリスクなしに扱えるようになるかもしれない」
足から炎を出す時は足に火遁チャクラを集約し、手から放出したい時にはチャクラで手を保護すれば良い。
常時全身を覆えるほどのスタミナはなくとも、充分に驚異的な力を発揮出来るはずだ。
蒼良が燈矢の未来への可能性をつらつらと解説している間、燈矢は心ここにあらずと言った表情で自分のチャクラによって燃えかけた木を見つめていた。
蒼良の語りが右から左へ流れているわけではないのだが、それが自分の話だという実感が持てずにいるのだ。
そんな姿を不思議に思った蒼良が、猫だましの要領で燈矢の眼前で両手を打つと、ようやく現実に回帰出来たらしい燈矢がびくりと肩を震わせる。
「私の話、ちゃんと聞いてた?」
もっと喜ぶ姿が見られると思っていた蒼良が、横から顔を覗き込みながら尋ねると、燈矢は震える吐息を小さくこぼして視線を返した。
「……聞いてた。聞いてたよ、ありがとう、蒼良」
「これは燈矢の実力だよ」
「ううん、蒼良のお陰だよ。これだけじゃなくて、全部、あの晩の事も、出会った時の事も、あの日からずっと……いつも、沢山……ほんとに、ありがとう」
「どういたしまして……?」
何に対する礼なのかをイマイチ理解していなさそうな少女に向けて、燈矢は重ねてありったけの感謝を言葉に込めた。
「――助けてくれて、ありがとう」
やっと言えた。
伝えるのが随分と遅くなってしまったけれど。
絶対に言わなければならなかった事を、やっと口に出来たのだ。
人好きのする優しい顔で、燈矢はにこりと笑顔を作った。
燈矢が嬉しそうに笑っている。
それだけで自分も嬉しくなってしまった蒼良の頬に、ほんのりと淡い桃色が差す。
「どういたしまして」
こちらの想いが届いているのかいないのか、先ほどと同じ台詞を、先ほどよりハッキリと口にした少女に、燈矢は笑った。
笑っているうちに気持ちが高ぶってきて、蒼良を抱きしめ、その首筋に顔を押し付けた。
好きだとか、寂しいだとか、嬉しいだとか、苦しいだとか、色んな感情がごちゃ混ぜになって、我慢していたのに、涙が涙腺から溢れていく。
燈矢自身にも、自分の心の詳細が良く分からなくなっていた。
蒼良が好き過ぎて苦しいのか。
ヒーローへの道が切り開かれて嬉しいのか。
自分を救ってくれるのはやはり今回も父ではなくこの少女で、炎司には完全に見捨てられてしまった事実を思い出して寂しいのか。
「燈矢……どうしたの?また泣いてるの?」
「……またって言うな。泣いてない。今、何とかして気持ちを落ち着けようと頑張ってるとこ」
何がきっかけで自分の個性が暴走してしまうか分からない今、精神安定剤のような蒼良を大至急摂取しているところなのだ。
「どうして泣くの?何か、悲しい事があった?」
燈矢の泣いていない発言はサラリと流し、蒼良が原因を探ってくる。
先程まで楽し気に笑っていた少年の突然の涙に動揺しながらも、頭を撫でて燈矢を気遣う彼女は本当に心優しい。
この少女はいつだって優しくて、やり過ぎなくらいに燈矢を甘やかそうとする。
そのせいか、燈矢は蒼良に触れられると、自分がどんどん柔らかく溶かされていくような心地がする。
ぐすぐずに頼りなくされて、いつか彼女無しでは生きていけなくなるのではないかと不安すら覚えてしまうほどに――否、いつかではない。もうとっくに、手遅れな所まで来てしまっている。
「蒼良……」
助けを求めるように呼び掛けた燈矢に、「大丈夫」と落ち着いた囁きが返された。
「対処法なら見つけてあるって言ったでしょ?」
言いながら、蒼良は燈矢の両肩を掴んで、その身体をゆっくりと押し離した。
遠のく温もりにやたら悲しくなってしまう燈矢に、聞き覚えのある言葉がかけられる。
「私の目を見て」
ほとんど消えかけていた意識の中で、自分の目を見ろと必死に叫んでいたあの晩の蒼良を思い出した。
痛みすら感じなくなるほど全ての機能が鈍っていく中、彼女のよく通る声だけは聞き逃さずにいられたのだ。
そう言えばあの時、彼女の両目は炎のように赤く――
「なぁ……その目、どうしたんだ……?」
瞳を赤く発光させ、瞳孔の周囲に黒い勾玉模様を浮かべた少女の異様な姿に、燈矢の感情は驚きと心配で塗り潰された。
「その目?」
疑問符を浮かべる蒼良は両目の異変に自覚がないようで、その事実に二度驚く。
「目……!赤くなってるんだよ!充血とかいうレベルじゃないぞ!」
ポケットからスマホを取り出し、蒼良の写真を一枚撮って見せつけると、当の本人も驚いたのか、翼をぶわりと膨らませた後、そわそわと自分の目元に手を当てている。
何かの病気なのかと慌てる燈矢に、蒼良は首を横に振る。
痛くはないのかと肩を揺する燈矢に、がくがくと頭を前後に動かしながら「痛くない」と蒼良が答える。
あたふたと騒ぎ立てる燈矢に対し、いつものように冷静に「落ち着いて」と宥める言葉が出て来ないのは、蒼良自身も落ち着きを欠いているからだ。
おかしいとは思っていたのだ。
ありとあらゆる生を焼き尽くしていく蒼炎の中、燈矢の死を確信しかけた瞬間に、蒼良の意志とは関係なしに、チャクラが目に流れ込んでくる奇怪な感覚が確かにあった。
この瞳には心当たりがある。
かつて蒼良が暮らしていた木ノ葉隠れの里に存在した、戦闘民族『うちは一族』が代々遺伝により伝えてきた『写輪眼』という代物と酷似しているのだ。
里の中で最も優秀な家系と謳われていたその一族の中でも、ごく一部のものにしか現れなかったという特殊能力で、その瞳は優れた洞察眼と催眠眼を宿すのだと聞いた事がある。
「だからあの時、幻術が……」
しかし、この能力が何故うちはとは無縁の自分の瞳に宿ったのか、それだけはいくら考えても答えが浮かんできそうにない。
蒼良の記憶では、うちはは既に滅んだ一族だったはずだ。
ごく一部の生き残りを除いて、暗部の忍が一夜にして彼らを皆殺しにした事実を蒼良は知っている。
うちは一族には精神状態が不安定になりやすい性質を持つ者が多く、強い力と危険な思想を併せ持つ彼らを里の脅威と判断したのは、蒼良の長。根のリーダーを務めていた男だった。
もし仮に、蒼良がうちはの生き残りの一人だった場合、あれほど彼らを恐れていた男が蒼良を生かしておいた理由が分からない。
「げんじゅつ……?」
耳馴染みのない単語を繰り返し、燈矢が首を傾げている。
「催眠術の一種だよ」
幻覚により、対象者の精神を幻の世界へと引きずり込み、相手を疲弊・混乱させる術のことだ。
あの晩、燈矢と目を合わせるというたったそれだけの出来事を合図に、蒼良が燈矢に仕掛けた夢がそうだった。
特別得意分野とは言えなかったはずのそれを、あの時は絶対に成し遂げられるというよく分からない自信と確信があったのだ――もっとも、それが写輪眼に裏付けされた自信だったと、今になって分かったのだが。
「本来であれば敵に悪夢の類を見せるための術だけど、燈矢に見せたのは、私の思いつく限りの幸福な夢」
精神の昂ぶりは火力に直結する――であれば、興奮状態に陥っていた燈矢の心に安らぎを与える事こそが、あの事故の唯一の対処法だった。
困惑する燈矢を差し置いて、蒼良は散っていった冷静さを少しずつ搔き集めていた。
色々と納得いかない疑問点を抱えながらも、基本的に自分への関心が薄い蒼良はまあいいかと思考を切って、今度こそ燈矢に深呼吸を促した。
「理屈は分からないけど、パワーアップしただけだから問題ない。それじゃあ、燈矢が気にしてた、あの晩の話に戻ろうか」
「その説明で『そっか、それなら良かったね!』ってスルー出来るほど俺は馬鹿じゃねぇよ!?」
蒼良の切り替えの早さに、燈矢が大仰に身を振って元気に突っ込む。
「馬鹿になんてしてない。私自身よく分かってないから説明も難しいの」
「だったらとりあえず病院に――!」
叫んでいる途中で、蒼良の目からふっと模様が消え去り、水色の瞳に変化したのを目撃した燈矢は口を開いたままの形で言葉を止めた。
蒼良が目に流し込んでいたチャクラを切ったのだ。
写輪眼の完成形は、黒い巴が三つ円形に配置された姿だ。
まだその模様が一つしかない蒼良の写輪眼はどう見ても不完全で、しかし亡びた一族の開眼条件など知る由もない彼女には、進む事も戻る事も出来ない正にお手上げ状態だった。
蒼良でさえ知らない事をこの世界の医者が知っているはずもないため、この話はここらで終わりにしておきたい。
「普段の目にも戻せるから、本当に問題はないんだよ」
それでもやはり『そっか、それなら良かったね!』などとは微塵も思えないのだが、続く蒼良の「秘密にしてほしいの」の一言に、燈矢は何も言えなくなってしまった。
「チャクラの事も、私の目の事も、全部秘密にしてほしい。絶対に、誰にも言わないで」
「……蒼良がそうしてほしいなら、言わない。でも、何で蒼良はこんな力を知ってたの?こんなの、俺のお父さんだって、オールマイトだってきっと聞いた事もないはずだよ」
トップヒーローですら知らないであろうこの未知なる力を、何故蒼良のような子供が使いこなしているのか。
この少女は本当に何者なのかと疑義の念を抱く燈矢に、「それは燈矢にも秘密」と蒼良が答える。
「秘密にするって、約束したから。あの人との約束は、まだ破れない」
本当は、チャクラの存在自体を明かした時点で少し約束に違反しているのだが、約束よりも燈矢の笑顔を守る事を選んだあたり、蒼良の心は確実に成長を遂げていた。
「……あの人って、誰?」
「秘密」
「秘密秘密って、そればっかりじゃん……」
「それよりも、聞きたかったんでしょ?あの夜の話」
自分以上に親しい関係性の誰かが居る事を匂わせる蒼良の態度にぶすくれてしまいそうになる燈矢だったが、彼女を困らせるのは本意ではないので、話題転換しようとする彼女の要望を不承不承受け入れた。
それから、蒼良渾身の幻術と、木々に燃え移った炎の消火活動の一部始終が語られることおおよそ十五分。
「俺があの変な夢を見たの、お前の仕業だったのかよ……」
力の抜けた声で言い、燈矢はがくりと肩を落としていた。
ちなみに、ところどころ根元からポッキリ折れている木々たちも、水の出力を計算する暇もなくここら一帯を一網打尽にしてしまった蒼良のやらかしによるものである。
「変な夢じゃなくて、幸せな夢だったでしょ?実際、私が幻術をかけ始めてから、燈矢の蒼炎はみるみる小さくなっていってた」
「変な夢だよ。やけに俺に優しいお父さんと、やたら俺に懐いてる生意気な焦凍が出て来て、俺もそれを当たり前みたいに受け入れてんだもん」
「エンデヴァーさんを見せたのは確かに私だけど、しょうとは私のせいじゃない。状況が状況だったし、あまり解像度の高い幻術はかけられなかったから。細部の設定は、燈矢が自分の見たいものを勝手に作ってたんだと思う」
燈矢が父親への承認欲求をこじらせている事を知っていたからこそ、架空のエンデヴァーを燈矢に宛てがい、昂る感情を穏やかな幸福一色で埋め尽くそうと企んだのだ。
「俺が見たいもの……?あの焦凍が、俺が望んで作り出したものだって言ってんのか?」
「だって、私はしょうとを知らないから」
「俺の弟だよ。今日、蒼良がうちを訪ねて来て、多分一番最初に遭遇した奴」
それを聞いて、あの紅白頭の少年かと初めて合点がいく蒼良を横目に、燈矢はまだ彼女の憶測を信じられないでいた。
妬ましく思う気持ちはあれど、燈矢は何も焦凍を毛嫌いしているわけではない。
ただ、好きかと問われれば答えに躊躇う。
焦凍に罪はないとは言え、あの子の存在に苦しめられてきた事実は燈矢の中で消えてはいないのだ。
あれが本当に自分自身が深層心理で願ったものなのかと思い悩む燈矢に、「そう言えば」と蒼良が思い出したように問う。
「燈矢が意識を失う直前、一瞬だけ炎の勢いが強くなったの。あの時、どうやって私の幻術を破ったの?」
チャクラの存在すら知らない燈矢に術を解かれた事にも驚いたが、何より疑問だったのは、幸せな夢に浸っていたはずの燈矢が全てを振り払って暴れ出した事である。
意識が落ちるのがもう少し遅ければ再燃していたのではないかと、蒼良はヒヤヒヤさせられたのだ。
「……ホントに分かんないの?」
問われた燈矢がジト目でこちらを睨んでくるので、蒼良は両掌を燈矢に向けて降参アピール。
すると、燈矢はこれ見よがしにため息をついた。
「あのさぁ……。あの夢、蒼良が俺の幸せを想像して作ったんだよな?」
「うん。エンデヴァーさんだけ解像度高めに」
「それで逃げ出そうとした俺に、お父さんだけが食らいついて来たわけか……」
あの時背後から伸びて来た数多の手と甘ったるい猫なで声を思い出し、自分の身体を抱いてぶるると震える燈矢に、「嬉しくなかった?」と蒼良が首を傾げてくる。
ぶっちゃけ毎晩夢に出てきそうなくらいには怖かったので、蒼良はやっぱり色々な部分がズレている事を燈矢は再認識した。
「蒼良が見せてくれた世界は、完璧なんかじゃなかったよ」
バッサリと断じる燈矢に、蒼良が驚いた顔をする。
「……だって、蒼良が居なかった」
あれが燈矢の理想も反映した世界だったとするなら、何故あの時蒼良の影も形も見当たらなかったのか。
どうして蒼良を思い出そうとする思考をノイズが邪魔してこようとしたのか。
その理由が分からないと文句を垂れる燈矢に、驚きをその顔に浮かべたまま、少女は「だって」と小さく口にした。
「幸せな夢に、私が居るのはおかしいと思ったから」
呟かれた言葉の意味が分からず、燈矢はしばらく呆けたように蒼良を見ていた。
そして次に、聞き間違いかと自分の耳を疑った。
「燈矢は、私に居てほしかったの?」
しかしこちらの心情を探るような蒼良の問いかけに、先ほどの発言が幻聴の類ではなかった事を理解する。
「逆に、どうして居なくてもいいと思ったんだよ……?」
「それは、燈矢が――」
言いかけて、不意に自身の喉を押さえ、蒼良は何度も目を瞬かせる。
口にする言葉は頭の中に用意出来ているはずなのに、それを声に変換しようとすると、言葉は大きく重くなり、喉に詰まって突然口から出て来なくなった。
そんな自分自身を理解できずに戸惑っている。
その挙動不審な動きに、燈矢も釣られて困惑した。
「蒼良?」
眉を下げて名前を呼ぶと、続きを急かされていると勘違いした少女は、再び唇を開き、震える声で言葉を紡いだ。
「燈矢は、私の事が嫌いだから。……もう、会いたくないって言ってたから」
遅すぎる理解に達した燈矢の全身を、激しいショックが貫いた。
「あ……、」
本当に伝えなければならなかったのは、感謝よりもまず最初に、一時の激情で彼女を散々に傷付けた事に対する謝罪だった。訂正だった。反省だった。
何か言わなければと思えば思うほど何から言葉にしていいのか分からず、死にそうに顔を青くしながら、思わず蒼良の両手を掴んだその時、彼女の眦からこぼれ落ちたものに燈矢は愕然とした。
「――――」
あの蒼良が、泣いている。
顔は歪む事すらなく綺麗な無表情を保っていて、それなのに、薄水色の瞳からは途切れることなく後から後から涙がこぼれ落ちてくる。
そんな蒼良の泣き顔を前に、燈矢の胸中を満たしたのは、あろうことか溢れんばかりの愛おしさだった。
だって、泣き方すら理解していなかった不器用な彼女が、燈矢に嫌われ、拒絶を突き付けられたその事実一つで、涙を流して震えているのだ。
彼女にとって、その悲しみはどれほどのものだったのだろう。
そして、それを乗り越えてなお、燈矢のためにこうして会いに来てくれたのだ。
可哀想な事をしたと理解しているのに、燈矢のせいで、燈矢ために泣いているのだと思うと、余計に愛おしくてたまらなかった。
最低だった。最悪だった。
どうしようもなく愛おしかった。
愛情とは時に、とても利己的な形をしている。
前髪の隙間から覗く瞳が、ゆらゆらと揺れていて綺麗だった。
蒼良が悲しんで泣いている姿を前に、これをずっと見ていたいだなんて考えてしまう自分は、多分どこかおかしいのだろう。
彼女を泣かせてしまった罪悪と、自分のためだけに心を震わす彼女を目にして灯った薄暗い快感に浸り、長い時間をかけて我に返った燈矢は、蒼良と繋いだ自分の両手に力を込めた。
「嫌いじゃない。俺は蒼良を嫌ってなんかない。あの時言ったことは全部嘘だ。こんな言葉一つで許されるだなんて思ってないけど……本当に、ごめん」
傷付けて楽になろうとした。
だけどもっと苦しくなった。
あまつさえ、蒼良をこんなにも泣かせてしまう結果に繋がり、燈矢は心から己の行いを後悔していた。
「ごめんなさい」
もう一度、謝罪を繰り返す。
眼前、真摯な声音を聞く蒼良は、静かな声で確認するように言葉を漏らした。
「……それなら、燈矢は私の事、好き?」
こちらを見つめる双眸に、揺れる自分が映っている。
月光をすくったような淡く青い髪の毛が、風にさらわれ踊っている。
薄い唇から紡がれる寂しげなその響きに、際限のない愛おしさがこみ上げてくる。
燈矢はきっと、蒼良とは違う。
彼女のような人でありたいと願ったところで、彼女のようには優しくなれない。
みっともなく嫉妬して、不安になって、彼女を泣かせたその立場で、この綺麗なものを全部自分のものにしたいなどと考えてしまう、我儘な性根の人間だ。
「好きだよ。……いつからこんなに好きになったんだろう」
情けないなと、そう思う。
けれど、燈矢の幸福に蒼良が不可欠であったように、自分も彼女の幸せを担う一部になりたいと――欲を言えば、彼女の幸せそのものになりたいと強く思う。
蒼良の隣を他の誰にも譲りたくない。
稚拙な表現だが、自分が蒼良を宇宙一幸せにしてあげたい。
自分にとっての彼女がそうであるように、姿を見れば、声を聞けば、抱きしめ合えば、どんなに苦しい事だって弾き飛ばせると思わせるくらいの、唯一無二の存在でありたい。
そんな思いやりと独占欲の入り混じった愛を告げた燈矢に――、
「ごめんね燈矢、よく聞こえなかった」
こんな時でも空気を読む事を知らない蒼良にめげる事なく、燈矢は彼女が聞き取りやすいようにと配慮し、ゆっくり丁寧に同じ言葉を口にする。
「蒼良が好きだよ」
「よく聞こえなかった。もう一回」
最初からそういう事を決めていたかのような間髪入れずの突っ込みに、燈矢は思わず気の抜けたように苦笑した。
この距離で聞こえていないはずのない台詞を何度も言わせようとしてくるのは、燈矢の都合で振り回された蒼良なりのささやかな意趣返しだと受け取ったのだ。
あまりそんな事をするタイプだとは思っていなかったのだが、こうなったら、蒼良が満足するまで可愛らしい仕返しにとことん付き合おうと腹を括る。
「……ったく。今のはさすがに聞こえてるだろ」
多少の照れ臭さを誤魔化すために、蒼良の頭を無遠慮に両手で撫で回してから、気を取り直して口を開く。
「いいか、よく聞けよ?俺は、蒼良の事が――」
上から雑に撫で付けられ、やや背を丸めて俯く少女の和らいだ口元に、言おうとした言葉が掻き消えた。
顔を上げた少女は、乱れた髪をそのままに、燈矢を映したその瞳をふっと柔らかに細めて笑った。
それは燈矢が初めて見る蒼良の嬉しそうな表情で、この世で最も愛らしい少女の微笑みだった。
「__もう一回、教えて燈矢」
無邪気と艶やかの中間で笑う少女を前に、燈矢の胸が痛いほどに高鳴った。
破れそうに苦しく、それなのにこれ以上なく満ち足りているという矛盾を抱えながら、求められるままに唇を動かす。
「……す、」
喉が渇く。ものすごく渇く。
言おう言おうとあんなにも強く思っていたはずなのに、先ほどまでは難なく言えていたはずなのに、どういうわけか、言葉よりも先に口から心臓が飛び出しそうに頭がのぼせ上がっていく感覚があった。
「俺は……、」
身体が熱い。
心臓がめちゃくちゃな動き方をしている気がする。
こんなの初めての感覚だ。
それなのに、燈矢はきっと、この感情の名前をもう知っていた。
「俺は……蒼良の事が、好き」
口にした瞬間、確信が増した。
自覚した途端、なおさら強く、ハッキリと蒼良を意識してしまう。惹かれてしまう。
今さら引き戻そうとしても、友達で良いだろうと自分自身を説得しても、走り出した心はこちらを振り返りすらしてくれない。
ぐんぐんと加速していく気持ちは、もう燈矢にだって止められない。
「私も、燈矢の事が好き」
鈴の音を思わせる澄んだ声音に、空気の色さえ鮮やかな蒼色に変えられていく。
大げさでも何でもなく、目の前に立つ少女だけが、世界の全てのように思えた。
――ああ、駄目だ。いい加減、認めざるを得ない。
きっともう随分と前から、この感情を抱いていた。
ただ、その名前が恋だという事に、気づいていなかっただけの事で。
蒼良自身は知り得なかった事だが、うちは一族に伝わる写輪眼の開眼条件は、愛情の喪失を感じて深い悲しみに呑まれた時――また、己の力不足に対する憤りを爆発させた時であるとされていた。
その際、脳から特殊なチャクラが発生し、視神経が影響を受けることでその目を覚醒させるのだ。
それと同時、副作用で精神に変調をきたす場合が多く、感情の強さによって症状はより深刻なものになっていく。
かの一族の人格や思想が危ぶまれていた原因はそこにあり、精神状態が平常から遠ざかるほど、負の感情が増大するほど、その瞳力は飛躍的に高まっていくとされていた。