公安に拾われてすぐ、蒼良は自分の先輩にあたる一人の公安ヒーローとの面会の機会を得た。
彼女の名は
ヒーロー名をレディ・ナガンといった。
学生時代からその頭角を現していた優秀な彼女は、その噂を聞きつけた公安委員会会長から直々にスカウトを受け、公安直属のヒーローとなったらしい。
高校を卒業したばかりだという十八歳のナガンと、公安に拾われたばかりの五歳の蒼良は、ほとんど同時期に公安直属のヒーロー(と、その卵)になっていた。
ナガンは勝ち気で男勝りな性格の女性だったが、意外にも可愛いものや綺麗なものが大好きで、公安がこの度お人形のような少女を引き入れたという噂を聞きつけた彼女の方から、「少女に会わせろ」と嬉々として申し出があったのだ。
「ははっ、ちっちぇ〜!本当にお人形みたいだな。翼まで生やして、まるで天使じゃねぇか!」
「……ナガンさん」
「お、この翼フワッフワだ!モフモフだぞこれ!」
「ナガンさん」
「なぁ目良さん、私この子持って帰っていいか?今日から抱き枕にしようと思うんだけど」
「駄目ですナガンさん。まず落ち着いてアズールを放してください」
初めて顔を合わせたその日。
ナガンは蒼良を見るなり両脇に手を差し込み、高々と抱き上げたかと思うと、そのままクルクルと回転し始めた。
前世も含め、初対面でこんな扱いを受けたことなど一度もなかった蒼良は、正しいリアクションが分からず、ただ硬直するしかない。
呆れ顔の目良がナガンをたしなめるも、本人は一切気に留める様子もなく、無邪気に笑い続けている。
その明るさとエネルギーの奔流に戸惑いながらも、蒼良にとってはインパクトのある第一印象となった。
あふれるような陽光を擬人化したような存在。
溌溂とした賑やかさを全身に宿しながらも、その瞳の奥には星を飼っているかのような澄んだ光があった。
宙ぶらりんに振り回されながら、もしや彼女は通常の人間よりも目の水分量が多いのだろうかと、蒼良がそんな生真面目な疑問を抱く間も、ナガンはピンクとダークブルーの入り混じったポニーテールを犬の尻尾のように揺らし、大きな声で笑っていた。
「にしてもお前、こんなにチビなのにもう訓練受けてるんだって?偉いなぁ。何か分かんないことがあったらすぐ私に聞きに来いよ。ヒーロー"レディ・ナガン"が助けてやるからな!」
「そうですか。ありがとうございます」
「ん"~~~塩対応っ!」
「その子はそれがデフォルトですよ、ナガンさん。彼女の家庭事情に関しては前に説明したでしょう?」
「あー……うん、ごめん。分かってる。今のは私が無神経だったな」
「問題ありません。謝罪は不要です」
蒼良が無表情で首を傾げながらそう答えると、ナガンはふと、ほんの一瞬だけ悲しげな顔をした。
けれどすぐにそれを消し去り、笑顔を取り戻して蒼良をそっと地面に降ろす。
しゃがみこみ、目線を合わせ、蒼良の頭を優しく撫でた。
「あのさ、覚えといてくれ蒼良。お前はまだ小さくて分かんないかもしれないけど、この世界にはヒーローって奴らが存在するんだ。お前が辛い時、悲しい時、苦しい時、ヒーローは必ずお前を守ってくれる」
辛いも、悲しいも、苦しいも全て、蒼良がとうの昔に捨てたものだ。
それに、蒼良は里の人々を守護するために作られたものであって、守られる側の立場ではない。
道具というのは駄目になれば使い捨てるのが基本なのだから、誰かに守られる必要などない。
それ故ナガンの言葉は到底的外れのように思えたが、先輩に当たる彼女の話に水を差そうという気にはなれず、とりあえずは大人しく耳を傾ける選択をした。
「せっかく仲間になったんだ。私の背中見て育ちなよ、ヒヨっ子ヒーロー。ヒーローってのが何なのか、私が教えてやるからさ」
そう言ってニッカリと歯を見せるナガンの笑顔はやはり不思議な活力に満ちていて、彼女の個性は光を放つ類のものではなかったはずなのに、蒼良の目にはやけに眩しく映っていた。
蒼良が素直に「分かりました」と首を縦に振ったところで、横に立つ目良が腰を曲げてひょいと顔を覗き込んでくる。
「アズール、ナガンさんはきっと良いヒーローになります。どうかお手本にして励んでください。
それとナガンさん。公安ではヒーローネームでの呼称を徹底してください。うちを代表する貴方が規律を破れば風紀が乱れてしまいます」
蒼良に穏やかに声をかけたかと思えば、続けざまにナガンをジト目で見つめながら小言を言う。
そんな目良の対応に、ナガンは「げぇ」とこれ見よがしに反抗的な態度で自身の両耳に人差し指を突っ込んで嘆いた。
「あーあー、頭がかてぇオッサンだな。もっと臨機応変に行こうぜ。ヒーロー名じゃなんか距離感感じんだろ?私はこの子と仲良くなりたいんだよ」
「職場に私情を持ち込むのはやめてください。そして僕は頭が硬いのではなく、根が真面目なんです。てゆーか誰がオッサンですか。僕、あなたと同い年ですよ」
「はぁっ!?マジかよ……!十八歳が醸し出していい疲労感じゃねぇだろそれ!あんたもっと休み貰ったほうがいいぜ?五年後には多分ハゲてるよ」
「ハゲません。遺伝子的にもハゲないはずです。そして僕はオッサンではない」
どういうわけか蒼良をいたく気に入ってしまったらしいナガンは、その日から毎日のように訓練終わりの蒼良を待ち伏せし、やたらと絡んでくるようになった。
ただでさえキラキラとした彼女の瞳は、蒼良の姿を映す度にぱっと数段華やかさを増す。
そのまま満開の笑顔で蒼良の頭を撫で、当然のように抱き上げて自室に連れ込む彼女は、最初に宣言していた通り、本当に蒼良を自分の抱き枕として愛用し始めた。
そして、来る者拒まず、去る者追わず、先輩の命令に逆らわずな蒼良も一切の抵抗を示さずナガンをすんなりと受け入れたため、いつの間にやら彼女と生活を共にする事が当たり前のようになっていった。
日中はヒーローとして街のパトロールをメインとした活動をしていたナガンだが、彼女の事務所の所在地は静岡県だった。
ちなみに、蒼良の生活拠点である公安本部は東京都に構えられている。
ではそんな二人がどうやって共同生活をしていたかというと、ナガンがわざわざ新幹線通勤をして、毎日東京と静岡を往復していたのだ。
蒼良と出会う前までは事務所近辺で住居を探していたらしいのだが、何を血迷ったのか突如その計画を取りやめ、今のような生活スタイルに変更したのだという。
その話を耳にしたとき、蒼良は当然困惑した。
ナガンの行動は実に非合理に思えたし、何より自分のために彼女が不要な労力を費やしている意味が分からなかった。
「__ナガンさん、そんなに抱き枕が好きならもっと高性能なものを買えばいいんじゃないですか?お給料は十分もらってるんでしょう?」
だから蒼良は疑問をそのまま口にした。
抱き枕にそこまでの価値を見出しているのなら、蒼良よりも質の良いものを手にして静岡に持って行けばいいではないかと考えての提案だった。
基本的には思考を放棄しがちな蒼良だが、自分の所属する組織全体の利益/不利益に関する事であれば、それなりに思うところはある。
「蒼良以上に愛らしい抱き枕があるなら考えてやってもいいが、あるはず無いんだから却下だな。お前の翼がフワフワで、お前が可愛い過ぎるのが悪い」
呆れたように肩を竦めるナガンの顔には、お前はいったい何を馬鹿なことを言い出すんだと分かりやすく書いてあった。
しかしそれを言いたいのはむしろ蒼良の方である。
「貴方の発言はいつも私には難解です……というか、また名前で呼んでいます。ちゃんとアズールと呼んでください。他の職員に見つかるとまた叱られてしまいますよ」
蒼良が注意すると、ナガンは芝居ががった動きで唇を突き出し、拗ねた顔をアピールをしてくるが、対する蒼良はノーリアクションだ。
すると今度は縋り付くように蒼良を抱きしめ、強制的に自分の方へ意識を向けさせようと画策してくるが、それもまたスルー。
突き放しはしないが応えもしない。蒼良はいつだってされるがままだ。
「バレなけりゃあ別にいいだろ?蒼良を蒼良って呼ぶことのいったい何がいけないのか、私にはサッパリ分からんね」
「理由なんてあってもなくても同じ事です。上が決めたルールは絶対で、ただそれに従うだけ。私たちは公安の道具なんですから」
「私は自分を道具だなんて思ったことはないし、お前をそんな風に思った事も一度だってないからな」
「ナガンさんがどうかは知りませんが、少なくとも私はそうです。昔からずっとそうでしたから」
「お前さぁ……そういう言い方、いい加減やめな?お前を溺愛してる私が可哀想だとは思わねぇのかよ」
「どうしてナガンさんが可哀想になるんですか」
「ああ、クッソ、情操教育ぅ……!」
目を伏せ、悔し気に呻きながら蒼良を抱きしめる腕の力を強めたナガンは、やや間を置いて気持ちを落ち着けると、蒼良の背中に回していた手を、そのまま後頭部へとずらした。
「そりゃまァ、今すぐどうこうって訳にはいかないよな。……うん、今はまだそれでもいいさ。時間ならいくらでもあるんだ。これからゆっくり教えてやるよ、いろんなこと」
そう言って、ナガンは癖のように蒼良の頭を撫で付ける。
彼女は蒼良の翼を柔らかいと好んでいるが、自分に触れるくすぐるような彼女の指先の方が、よほど柔らかいと蒼良はいつも思っていた。
ナガンを見ていると、蒼良はかつてのカカシを思い出すことが度々あった。
見た目は似ても似つかないのに、ふとした瞬間に彼女の姿に彼が重なる。
何度訂正しても、蒼良を本当の名前で呼ぼうとした彼が。
世話焼きで教えたがりでお節介。
蒼良がかつて捨てたものを一つ一つ、丁寧に拾って返そうとする。
たとえ受け取りを拒否したとしても、それを無視して押しつけてくる強引さ。
そんなところが二人はよく似ていたからかもしれない。
それに加えて、何の因果か前世と変わらないこの名前のせいで、世界でたった一人自分を「そら」と呼ぶ彼らを、なおさら強く結びつけてしまっていたのだろう。
そんなナガンと出会ってから約一年が経った頃だ。
常にしつこいくらいに蒼良を構い倒していた彼女と、一週間以上顔を合わせない事があった。
ヒーローの繁忙期なのだと言っていた彼女が久しぶりに本部に帰って来た時、その顔には珍しく濃い疲労の色が滲んでいて、いつもの覇気が感じられなかった。
しかし蒼良を見るなりすぐに普段通りの明るい表情を取り戻したので、彼女の不調をさほど気に留める事はなかった。
そんな事が繰り返し続くうちに、ナガンは次第に本部を空けている期間の方が長くなり、いつしかすっかりその姿を見かける事がなくなった。
有能かつ多忙な人材に不要な負担を強いる事は悪だと考えていた蒼良は、彼女が静岡に拠点を移した事を人づてに知った時、妥当な判断だなという感想しか抱かなかった。
来る者は拒まず、去る者は追わず、側にあった温もりを失った事に何かを思う情緒も持たずな六歳の蒼良には、彼女が来られないならこちらから会いに行ってみよう、などという考えは一切出てこなかった。
当然だ。命令されていないことを、蒼良はする必要がないのだから。
ナガンの姿を見かけないまま、あっという間に時は流れ、気がつけば蒼良は七歳になっていた。
この頃、蒼良は本当に偶然、本部の通路でナガンとすれ違ったことがある。
向こうから歩いてくるナガンは視線を床に落としていて、近づく蒼良になかなか気が付く気配がなかった。
「___ナガンさん、こんにちは。お久しぶりです。最近あまりお会いする機会がありませんでしたが、お元気でしたか?」
一年ぶりの再会だというのに、蒼良の声かけは実に気安いものだった。
しかし、対するナガンの反応は劇的だった。
蒼良が声をかけた瞬間、その喉元からひゅっと空気の鳴る音がして、弾かれたように顔を上げた彼女の表情はひどく強張っていた。
無邪気の権化のようだった以前の面影がどこにも見当たらず、蒼良はその変貌ぶりに驚いて思わずその場に立ち止まる。
「その……久しぶり、だな。……本当に、久しぶり。はは、見ない間に少し背が伸びたんじゃないのか?」
動揺を微塵も隠せていない挨拶を返したかと思うと、ナガンは次に何を思ったのか、その腰をゆっくりと、深く深く九十度よりも更に曲げ、蒼良に向かって頭を下げた。
「…………悪かった。何の断りもなしに居なくなったりして」
それが何に対する謝罪なのか、蒼良には心当たりがまるでなかった。
彼女が居なくなった事で、迷惑や不利益を被った覚えなど一つもないのだ。
「私なら特に問題はありませんでした。ですので謝罪は必要ないです」
「背中見てろなんて、かっこつけてたくせにな。約束一つ守れないだっせぇヒーローだ。本当にごめん」
「それも問題はありません。ですから謝罪は____」
言い切る前に、蒼良は中途半端に口を開いたそのままの形で言葉を止めた。
おもむろに身体を起こしたナガンが、これまで一度たりとも見せたことが無いような悲痛な表情を浮かべているのに気が付いたからだ。
蒼良は自分の感情には疎いが、人のものなら自分のそれより些か正確に把握できた。
ナガンの胸中にあるものが、悲しみなのか恐れなのか。自責の念なのか怒りなのか。
その詳細までは理解が及ばなかったものの、少なくとも彼女の精神状態が普通でないという事は読み取れたのだ。
「ヒーローを教えてやるなんて言ったのにごめん。他にももっと、もっと色んな大切な事、お前に教えてやりたかったのに……ごめん。私はもう、何もしてやれそうにない」
とつとつと言葉を紡ぐナガンの視線は蒼良ではなく床に落とされていて、その頭はまるで断罪を待つ罪人のように項垂れている。
けれど、蒼良には彼女の抱える罪の正体が、罪悪の原因が分からない。
繰り返される謝罪に、蒼良はますます困惑した。
「謝らないでください。私なら大丈夫です。ヒーロー養成プログラムを受けながら、毎日ちゃんとヒーローというものを学んでいます。元より、ナガンさんの手を煩わせるには及びません」
「……偉いなぁ。お前は本当にいい子だよ。毎日頑張ってるとこ、ちゃんと見てやれなくてごめんな」
「褒められるような事は何もしていません。プロヒーローとして活躍しているナガンさんに比べれば、私の組織への貢献度はまだ微々たるものです」
「子供が謙遜なんてよせ。お前はもっと心のままに、自由に生きていいんだ。やりたくない事はやりたくないって言え。我儘放題してもっと周りを困らせろ。そんで、逃げたくなったら飛んで逃げて、ここにはもう戻ってくるな」
「……規律を乱す行動を推奨されたのは初めてです。これも、ナガンさんが私に教えたかった事の一つなんですか?」
眉間に寄った皺、引き結ばれた唇に抗って無表情を作ろうとし、けれど所々に無理が生じたような歪な表情のまま、蒼良の問いかけにナガンは小さく頷いた。
「ああ、そうだよ。本当はお前の手を取って、隣で全部教えてやれたなら良かった。……なのにもう、私にはそれが出来そうにない。何も出来ない。助けてやれない。側に居てやれない。抱きしめて眠る事も、もう___」
言葉を重ねるごとに、彼女の声は低く、小さく掠れていく。
「___私は、お前のヒーローには、なれなかった」
ぽつりとその一言を落とした後、苦しみの滲んだ彼女の吐息が、静かな廊下でやけにハッキリと蒼良の鼓膜を震わせた。
あの凛々しさを、あの明るさを、あの負けん気を、この人はいったいどこに置き忘れてきたのだろう。
「問題ありません。私には不要なものですから」
辛い時、悲しい時、苦しい時、必ず守ってくれるのがヒーローだと言うのなら、何も感じない蒼良はきっと、それを最も必要としない存在だ。
ヒーローも蒼良に構っている暇があるくらいなら、本当に欲している他の誰かのもとで使命を全うすべきだろう。
そう、それは例えば、今まさに蒼良の目の前で虚ろな目をしている彼女のような人のために。
「貴方を救ってくれるヒーローは、どこに居るんですか?」
予想だにしていなかった蒼良の台詞に、ナガンの目が見開かれた。
「………は、ぁ?」
「自覚がないんですか?辛いのも、悲しいのも、苦しいのも、ヒーローを求めているのもきっと、私ではなく貴方です」
「何だよ、それ……いきなり、何訳わかんない事言って___」
「私の指摘が的外れだと言うのなら、笑ってください。本当に大丈夫だと言い張るのなら、今すぐ笑ってみせてください。もっと無邪気に。もっと朗らかに。もっと華やかに。一年前と同じ顔をしていてください」
蒼良は知っている。
ヒーローレディ・ナガンの活躍を。功績を。周りからかけられている期待の大きさを。
それは例えば朝のニュース報道で、例えば目良が毎日読んでいる新聞記事の一面で、例えば公安職員たちの噂話という形で、この一年間、会えない間も蒼良の目と耳にはナガンの情報が絶え間なく届いていた。
蒼良は知っている。
公安に所属するヒーローはナガン以外にも複数いれど、彼女の実力が抜きんでているのは火を見るよりも明らかで、彼女は一切の他の追随を許さない存在であることを。
ナガンと公安の関わりは世間一般には伏せられているものの、組織内部の者たちは、誰もが彼女を公安を代表するヒーローだと認めている。
そんな彼女の精神面に異常が生じているのだとしたら、それはもう彼女一人だけの問題ではなく、組織全体に関わる問題だ。
蒼良は知っている。
通常の人間は、精神の安定を失えば性能が著しく低下する事を。
戦場で、あるいは暗殺任務の最中で、恐怖に囚われ動けなくなる者、激情に惑わされ冷静さを失う者、共に戦う仲間を亡くした途端に後を追うように命を落とす者を大勢見てきた。
一瞬の隙が命取りになる局面において、心の脆さは__否、心の存在そのものが弱さに直結してしまうのだ。
約二十年もの長い間を人として生きてきた彼女に、今さら心を捨てて道具になれというのは恐らく簡単な話ではない。
それならばせめて、揺らがない心を持つべきだ。
戦いの場において、凍てつくような空気にも、圧迫するような緊張感にも、重く息苦しい感覚にも支配されないぶれない心を。
だから蒼良は要求する。
決して揺らぐな。笑って見せろと。
全ては自らの所属する組織のために。
組織の安寧と繁栄のために。
「……お前に、何かを望まれたのは初めてだな。突然どうしてそんな事を言い出したのかは分かんねぇけど、何か不安にさせたなら悪かった。ここ最近は任務続きだったせいか、どうも疲れが溜まっちまってたみたいだ」
そう言うと、ナガンは初めて会った日のように蒼良の前に片膝を突いて座り、白い歯を見せながら目を細めた。
「いいえ、それではありません。私が見せて欲しいと言ったのは、その笑顔じゃない」
「……一年前と違って見えるなら、それはただの思い違いだよ」
「いいえ」
「一年もあれば人は変わる。お前の背が伸びたみたいに、私だって大人になったんだ」
「いいえ、違います」
能面のような面で容赦なく否定を突き付け続ける蒼良に、ナガンは唇を噛みしめて、我儘な子供を諭すみたいにわずかに眦を吊り上げた。
「…………なんで。……何で、私にそうして欲しいんだ。どうして、今。そんな事、どうして今さら……」
しかし、震える声と唇が、彼女の内心が怒りに染まりきれていない事実を明確に証明していた。
口ごもり、言葉に躊躇い、とうとう視線を蒼良から外した彼女の姿には、その苦悩と懊悩が見え隠れしていた。
違う。それでは駄目なのだ。蒼良の知識と経験が、眼前の彼女を否定する。
弱々しい面構え。覇気のない丸まった背。怯えたようなその眼差し。その全てが___
「……貴方には、似合わない」
何を、言っているのだろうと思った。
いつの間にか口をついて出ていた言葉は、寸分までの蒼良の思考とはまるで関係のないものだった。
自分の口から許可もなく勝手に外へと飛び出した言葉に思考が停滞する蒼良の眼前、ナガンの瞳を驚愕の色が走り抜ける。
あまりにも言葉足らずな短過ぎる一言だった。
けれど、出会ってからの一年間、蒼良と共に濃密な時間を過ごした彼女に、その言葉の真意はおおよそ正しく伝わっていた。
「なん、だよ……それ」
ナガンの顔がくしゃりと歪んだ。
膝を突いた態勢のまま、片足を引きずるように前に出る。蒼良との距離が一歩詰まる。
肩を震わす彼女の瞳に、蒼良は自分の姿を見た。
そして、たまらなくなったように彼女の右手が伸ばしかけられ___その掌は蒼良の頭には触れることなく、さ迷うように彼女の体側へと戻っていった。
「……ごめん。本当に……ごめんな、蒼良」
そう言って泣き笑いのような表情を見せたナガンの瞳に、もう以前のような澄んだ眩さは見当たらなかった。