暗部の忍が転生して公安ヒーローになる話   作:ぴのっきお

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自由だから綺麗なんだよ

 

静まり返った現場に、突如として騒々しい回転翼の音が響き渡った。

複数の警察ヘリが、蒼良達を取り囲むように上空から降下してくる。

 

 

「負傷者の救護を急げ!重傷者を最優先に、医療チームは迅速に動け!」

 

 

警察や医療班の声が慌ただしく飛び交う中、消太は疲労困憊で、今にも意識が途切れそうになっていた。

しかし、視界の端に担架へと運ばれる蒼良の姿を捉えた瞬間、頭が急速に冴え渡る。

フードがズレ落ち、素顔が周囲の視線に晒されかけているのを見て、消太の身体は即座に動いた。

自分の首に巻いていた捕縛布を引き抜き、蒼良の元へ駆けつけると、その頭に包帯のように手早く巻き付けていく。

 

  

「なっ!?君、何をしてるんだ!?」

 

 

それを見た隊員が慌てて詰め寄って来たが、消太は鋭い目つきで一瞥すると、牽制するように短く告げた。

 

 

「……この子のためだ」

 

 

切迫した空気に隊員が思わず言葉を失った時――、

 

 

「通して!早く通してください!僕はアズールを迎えに来たんですってば!」

 

 

情けないほど取り乱した男の声が辺りに響き渡った。

皆の視線が一斉にそちらを向く。

くたびれたスーツに乱れた髪、目の下に濃い隈を浮かべた明らかな不審者が、血の気を失った顔色でこちらへと駆け寄ろうとしていた。

 

 

「待ちなさい!それ以上彼女に近寄るのは許さないぞ!」

 

 

俊典が進路を塞ぎ、その男――目良の行く手を阻む。

 

 

「邪魔しないでくださいっ!あそこにいる子は、その子はうちの子なんです!ああ、アズール、そんな包帯ミイラみたいになって……どうしてこんなことに……!?」

 

 

包帯ミイラとは言い得て妙だが、実際のところ、それは消太の機転によって巻かれた捕縛布に過ぎない。

しかし、何も知らない目良の目には瀕死状態の重篤患者のようにしか映らず、悲壮感が漂っていた。

 

 

「うちの子だって?それなら、身分証を提示しなさい」

 

 

警戒心を最大限に高めた俊典の言葉に、目良の表情が一瞬で強張った。

焦りと戸惑いを露わにしながら、言葉を詰まらせ動揺する。

 

 

「そ、それは……困りましたね。いえ、私は公あ――じゃなくて、その……保護者です!一般人ですよ!だからそんなに身構えないでくださいよ!」

 

 

多くの視線を集めてしまっているこの状況下で、蒼良の背後にある公安の存在を露見することは避けなければならない。

それゆえ、目良は言葉を濁すしかなかった。

 

 

「一般人だって?一般人がなぜここに……君、本当にあの子の関係者なのかい?」

 

 

怪しい目良の態度に、俊典の疑惑の目が更に鋭くなる。

 

 

「とにかく、身分を明かせないと言うのなら、尚更警戒せざるを得ない!」

 

「そ、そんな殺生な!本当にその子の保護者なんですよ!早く連れて帰って治療を受けさせないと……!」

 

「治療なら、こちらで既に病院を手配してある!」

 

「うちには、それよりもっと腕の立つ医者が居るんです!」

 

「なおさら怪しい!!」

 

「どうしてですか!?」

 

 

不審者扱いされ、ますます状況が悪化する中、不意に仰向けで横たわっていた蒼良が身じろいだ。

誰もが息を呑んで見守る中、彼女はぎこちない動作で身体を起こし始める。

両手を地面に着いてのそのそと上体を持ち上げ、捕縛布の隙間から見える瞳が数度瞬きをした後、ぼんやりと開かれた。

 

 

「……目良さん?」

 

「アズール!?よかった、意識があったんですね!迎えに来ました、僕です、目良です!」

 

「こら、待て!止まりなさい!……アズール、本当に彼は君の保護者なのかい?」

 

 

俊典が目良の襟首を掴みながら尋ねれば、蒼良はゆっくりと頷いた。

 

 

「はい……、間違いありません」

 

「アズールぅ……!」

 

「ふぅ……それなら、疑って悪かったよ」

 

 

目良の表情が一気に明るくなり、俊典は目良を解放した。

疑いの目を向けていた隊員たちも警戒を解き始め、ようやく目良は安堵の息をつく。

 

 

「アズール、早くお家に帰りましょう!そんなに傷だらけになって……」

 

「かすり傷です……見た目ほど酷くはありません」

 

「よ、よかったぁ……本当に心臓が止まるかと思いましたよ……」

 

「嘘ですよ。そいつ、背中は刃物で刺されてますから」

 

「アズールッ!?」

 

「……消太くん」

 

「事実だろ、隠すなよ。この人はお前を心配してくれてるんだぞ?」

 

 

肩を落とす目良。

その背中を蒼良が励ますように叩き、消太は小さく微笑んだ。

先程まで緊張をはらんでいた場の空気が徐々に和らぎ、消太もようやく心の平穏を取り戻していく。

 

――蒼良にも、こんなに心配してくれる人がいる。

 

心から安堵し、涙を湛え、何度も繰り返し蒼良の無事を確認する目良を見ていると、消太の胸にじわりと温かいものが広がっていく。

喜びを噛みしめながら、消太は自分にあてがわれた担架の上に横たわった。

 

西の空は紅色に染まり、薄くたなびく雲が夕暮れの色彩をまとっている。

長く続いた戦いが、ようやく終わりを告げようとしていた。

 

 

 

 

 

 

_________

 

 

 

 

 

 

 

「廻くん……、私――」

 

「余計なことは喋らなくていい。……こっちに座れ」

 

 

公安へと戻った蒼良は、目良の手を借りながら、真っ直ぐ廻の部屋を訪れていた。

すでに状況は目良から伝わっていたのだろう。

廻は何一つ表情を変えることなく、淡々とした手つきで蒼良のジャケットを脱がせ、そっとベッドへと導いた。

 

 

「一番深い傷はどこだ?」

 

「……背中」

 

 

そう告げると、蒼良は廻の誘導でうつ伏せにベッドに横たわった。

慎重にインナーを捲り上げられる感覚と共に、冷たい空気が傷口をなぞる。

一瞬だけ、廻の動きが躊躇うように止まったが、言葉を発することはなく、傷口へ手を伸ばした。

 

 

「……かなり痛むぞ。歯、食い縛ってろ」

 

 

警告はあった。けれど、分解と再構築が始まった瞬間、激痛はその警告を超えて来た。

傷口が内部から溶けては繋がり直される感覚は、経験を重ねても慣れるものではない。

蒼良は歯を食い縛ったが、思わず小さな呻き声が漏れ、全身に冷や汗が滲み、シーツを掴む指先は白く変色していた。

 

 

「終わりだ。他に痛むところは?」

 

「他は全部かすり傷だから――」

 

「もう一度聞く。他の怪我は?」

 

 

簡潔な廻の口調に滲む怒りは隠しようもなく、蒼良にも痛いほど伝わっている。

そして、普段は冷静な彼が、ここまで怒気を孕んでいる理由を今の蒼良はもう十分に理解している。

 

 

「……次に深いのは右脚、その次が左腕。でも、致命傷じゃない」

 

「そうか、それでも念のために治療はする」

 

 

冷たく言いながらも、廻の指は優しく次の傷に触れる。

 

 

「廻くん」

 

「今お前は発熱してる。無駄な体力を使わないように黙ってろ」

 

「でも、廻くん――」

 

「確かに最初の傷に比べれば浅いだろうさ。でも、数が多ければそれだって致命傷になり得るんだ。だから俺は――」

 

「廻くん、私……死なないように戦った」

 

 

遮るように蒼良が言い切った瞬間、廻の手が止まった。

これまで意図的に逸らされていた廻の視線が、初めてしっかりと交差した。

 

 

「……最善だったのか?」

 

 

静かな問いに、蒼良が頷く。

 

 

「やれることは全部やった。怪我をしてごめんなさい……私の実力不足だった」

 

 

何も考えていなかった訳じゃない。

自分の命を大切にすると誓ったあの日を忘れた訳でもない。

死に急いだ訳でもないのだと、蒼良は廻に伝えたかった。

揺るがない蒼良の瞳を前に、廻の眉間から、ようやく深い皺が薄れていく。

 

 

「……別に、お前を疑ってた訳じゃない。頑張ってきたことくらい、俺にだって分かる」

 

「でも、怒ってる」

 

「怒らないように我慢してたんだ。仕方ないだろ……正直に言えば、こんな傷だらけで帰ってくるくらいなら、俺はお前に全部放り投げて逃げてほしかった」

 

「逃げ遅れた民間人がいた。あの状況で、ヒーローは逃げられない」

 

 

はっきりと告げる蒼良の言葉に、廻は静かに息を吐き出す。

 

 

「そうだな。俺はつくづくヒーローには向いてない」

 

 

自嘲を交えつつも、廻は蒼良の髪に手を置いた。

少し乱暴に、けれど不器用な温かさを滲ませながら、その頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。

 

 

「……よく頑張ったな」

 

 

囁くようにそう告げると、廻はふと鋭い目つきで扉の方を振り返った。

睨むような視線を受け、ドアの陰で息を潜めていた三つの気配が一斉に縮こまる。

 

 

「俺の治療は見世物じゃねぇぞ。各自、自分の部屋で待機しとけって言ったよな?」

 

 

諦めたように扉が開き、転弧、啓悟、仁の三人が遠慮がちに顔を出した。

蒼良が帰宅する前にも一度ここに集結し、そして廻に叱られ、追い払われたばかりの三人だった。

 

 

「だ、だって、蒼良ちゃん酷い怪我だったって目良さんが言ってたし!」

 

「転弧の言う通りばい。心配するに決まっとるやん」

 

「お前らの心情なんざ知るか。患者に無駄な気を遣わせるなって言ってんだよ。……おい、最年長。お前まで何のこのこ参戦してやがる」

 

「仕方ねーじゃん!それで大人しく引き下がれるほど大人じゃねーし!お前が逆の立場だったらどうするんだよ!?」

 

「……大人しく部屋で待機に決まってるだろ」

 

「はい、間!間が空きました!廻が答えるまでに三秒かかりました!平然とした顔で嘘つくなお前!」

 

 

彼らの登場により、室内の空気は一転した。

静寂は一瞬で破られ、心地よい騒がしさが広がっていく。

廻と仁が半ば本気の言い争いを繰り広げているその隙を見計らって、転弧はするりと蒼良の傍へと駆け寄り、その手を握った。

その後ろでは、啓悟が心配そうに蒼良を見つめている。

 

 

「大丈夫だよ。今は少し頭がくらくらするだけ」

 

 

外傷や疲労は廻の個性によって癒されたとはいえ、チャクラ不足による気だるさや体調不良はそう簡単に改善するものではない。

原因不明の発熱も、恐らくはチャクラが枯渇した影響だろうと蒼良自身は冷静に自己分析していた。

 

 

「心配だから、僕、今日は久しぶりに蒼良ちゃんと一緒に寝てもいい?」

 

「転弧、俺が廻くんから蒼良ちゃんストーカー禁止令を出されたの、何歳の時やったと思う?」

 

「うるさいなぁ。文句があるなら啓悟も一緒に寝ればいいだろ?」

 

「そういう問題やなか!」

 

「あ、馬鹿!そんな大声出したら廻に聞こえ――」

 

「最初から全部丸聞こえなんだよ、チビ共」

 

 

背後から低く響く廻の声に、転弧は思わず顔をしかめて舌打ちをする。

案の定、一緒にお休み作戦は却下され、全員が自分の部屋へと戻るよう強制的に帰宅を促されてしまった。

 

それでも夜が完全に深まるまでは、蒼良の部屋に目良、仁、啓悟、転弧が入れ替わり立ち替わり顔を出し、穏やかな微笑みや温かな言葉を蒼良にそっと届けていく。

その度に門番役の廻から「安静にさせろ」と叱責されるが、彼らは聞き流すばかりだった。

 

騒がしくも優しい時間が、少しずつ夜の帳に包まれていく。

 

次第に瞼が重くなり、蒼良の意識は深い眠りへと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

__________

 

 

 

 

 

 

 

夢を見ていた。

温かな夢を。

眩い光が意識を包み込んでいた。

 

降り注ぐのは視界を白く染め上げるほどに眩しい陽光。

――そこは、寒くてたまらなかった。

 

眼前に広がるのは、果てなく波打つ壮大な草原。

――体の震えが止まらなかった。

 

聞こえてくるのは、幸福に満ちた笑い声。

――それが、耳から離れなかった。

 

草原は柔らかく波打ち、鮮烈なまでの緑が視界を埋め尽くす。

そこに咲く花々はあまりにも鮮やかで、目に痛いほどの不自然な色彩で揺れている。

 

胸の奥底から強烈な不安が這い上がってくる。

理由も分からぬ罪悪感が喉を締め付け、自分は今、許されざる者としてここに立っているような感覚が全身を蝕んだ。

 

ふと空を見上げれば、作り物のように美しい空の向こうに、誰かの声がする。

悲しみを含んだ苦しげな声。

名前を呼ばれているような気がして視線を巡らせるが、周囲には誰の姿もない。

 

どこまでも美しく、どこまでも歪んだ光景。

これが夢なのだと理解しているのに、抜け出す術が見つからない。

 

風に揺れる草が足首に絡みつき、動きを縛られている。

進もうとしても、逃げようとしても、一歩も足を動かせない。

息が詰まるような焦燥感が、段々と意識を蝕んでゆく。

 

やがて、一つの足音が聞こえた。

背後に誰かが立っているのが分かる。

不思議なほど懐かしく、どこか切なく、けれど恐ろしいような存在感。

 

ゆっくりと振り返った先――赤い光が視界を満たし、鼓動が大きく脈打った。

その光に飲み込まれるように、意識は抗う間もなく、別の記憶の奥底へと引きずり込まれる。

 

そこから始まるのは、鮮明すぎるほど鮮やかで、けれど決して触れたくはなかった記憶の旅路。

気づけばもう抵抗することすらできず、身体ごと深い記憶の海の底へ――かつて自らが封じたはずの、決して消えない過去の欠片の中へと、沈んでいくのを感じていた。

 

 

 

 

 

__________

 

 

 

 

 

 

 

――もっと、別の個性だったなら良かった。

 

啓悟は今日、生まれて初めてそう思った。

目の前で蒼良がボロボロになり、苦しそうに横たわっているというのに、自分には何一つできることがなかった。

ただ扉の前で情けなく棒立ちになり、無力な自分を痛感するだけ。

もしも自分にも、廻のように傷ついた人を癒せる力があったなら――。

啓悟の胸には嫉妬にも似た願望が渦巻いていた。

 

――蒼良の力になりたい。

 

心の中でそう何度も繰り返した。

しかし、今の自分に一体何ができるというのだろうか。

どうすれば、この胸を引き裂くような焦燥が消えてくれるのだろうか。

 

その答えを求めながら、結局何一つできない自分への苛立ちだけが募っていく。

啓悟は眠ることも叶わず、落ち着きを失ったまま夜を迎えた。

心の奥底でざわめく焦りを鎮められる唯一の方法は、蒼良の顔を見ることだけだと分かっている。

 

数時間前に蒼良が疲れ果て眠りに落ちたのは知っている。 それでも、もう一度彼女の無事な姿を見るまでは、胸を蝕む不安が消えてくれそうにない。 じっとしていられず、気付けば啓悟の足は蒼良の部屋へと向かっていた。

 

夜は深く、静寂が世界を包んでいる。

蒼良の部屋の前で息を詰めて立ち止まると、静まり返った廊下には自分自身の浅い呼吸音だけが響く。

 

 

「……蒼良ちゃん、やっぱり眠っとるかな」

 

 

呟きながら、扉にそっと耳を当てたその時だった。

 

 

『――っ……うぅ……っ』

 

 

部屋の奥から漏れ聞こえる、呻き声と荒い息遣い。 それを耳にした瞬間、啓悟の心臓が跳ね上がった。

 

 

「蒼良ちゃん!?」

 

 

思考より先に身体が動いた。

乱暴に扉を開けて室内へ入れば、視界に飛び込んできたのはベッドの上で苦しそうに身を捩じらせる蒼良の姿。

寝汗で乱れた髪が頬に張りつき、シーツはぐしゃぐしゃに崩れている。

 

 

「起きて、蒼良ちゃん!」

 

 

焦りで震える手で肩を掴んだ瞬間、その肌から伝わる熱に息を呑んだ。

異常なほどの高熱だ。

 

 

「うっ……ふ、うぅ……っ」

 

 

蒼良の身体が細かく震え、唇から苦痛の声が途切れ途切れにこぼれ落ちる。

普段の彼女からは想像もつかないほど弱々しいその姿に、啓悟の胸が締め付けられる。

 

 

「大丈夫やから、俺がここにおる。怖いことなんて何もないよ。ねぇ、目ぇ開けて……蒼良ちゃん」

 

 

声は切羽詰まり、肩を揺さぶる手には自分でも気付かぬうちに力が入っていた。

揺さぶる度に蒼良の呼吸が乱れ、眉間に皺が刻まれていく。

 

 

「起きて、蒼良ちゃん……お願いやけん、目ぇ開けてッ!」

 

 

必死の呼びかけに、次の瞬間、閉じていた蒼良の瞼が勢いよく開いた。

そして同時に、啓悟の身体が凍り付いたように動きを止める。

 

目の前に現れたのは、見慣れた柔らかな水色ではなく、禍々しく煌々と光る赤色。

その瞳孔の周りに浮かぶ黒い勾玉が、啓悟の視線を逃さず捉えて離さない。

 

 

「蒼良……ちゃん……?」

 

 

かすれるように呟いた啓悟の意識は、なすすべもなく深い闇の中へと引きずり込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に瞼を開けた時、啓悟は見知らぬ草原にぽつんと一人佇んでいた。

柔らかな緑が一面に広がり、足元の草が絨毯のようにふわりと揺れる。

頬を撫でる風は温かく、どこか切なさすら覚えてしまうほどに心地よい。

周囲に視線を巡らせれば、草原は穏やかに起伏を描き、そのところどころに無骨で古びた岩々が見える。

 

 

「ここは……?」

 

 

呟きは風に溶け、誰の耳にも届くことなく消えていった。

不思議なほどリアルな景色でありながら、同時に幻想的で、掴みどころのない奇妙な感覚が啓悟を包みこむ。

困惑しながら周囲を見回していると、遠方から不意に小さな影がこちらに向かって駆けてくるのが見えた。

それは草原を通り抜ける風のように軽やかで、細く華奢なシルエットは、間違いなく幼い少女のものだった。

 

近づいてくる姿に、目を凝らす。

風になびく黒髪、煌めく黒曜石のような瞳。

やがて鮮明になっていく少女の姿に、啓悟の呼吸は止まりそうになった。

 

 

「蒼良ちゃん……?」

 

 

その少女は間違いなく蒼良だった。

けれど、啓悟の知る彼女とはまるで違う。

その背中に翼はなく、代わりに漆黒の髪と瞳は生気に満ち溢れ、普段の無表情からは想像もできないほど天真爛漫な笑顔が太陽のように眩しかった。

身体つきもどこか幼く、一回りほど小さな姿が、いっそう彼女のあどけなさを際立たせている。

 

 

「待って、蒼良ちゃん!」

 

 

啓悟は反射的に両腕を広げ、その小さな身体を受け止めようと身構えた。

幼い蒼良はその笑顔を輝かせ、躊躇いなく真っ直ぐこちらに向かってくるが――

 

 

「え……?」

 

 

まるで霧か幻のように、蒼良は啓悟の腕をするりと通り抜けていった。

触れる感触はなく、ただ冷たい風だけが後に残されていく。

呆然と振り返った先には、蒼良が変わらず朗らかに笑いながら、さらに草原の奥へと駆けて行く姿があった。

 

 

「止まって、蒼良ちゃんッ!ねぇってば!」

 

 

叫びながら、啓悟は必死でその小さな背中を追った。

しかし幼い蒼良の駆ける速度は、その見た目からは到底想像もできないほど速く、啓悟の足ではまるで追いつける気がしない。

 

 

「ああ、もう……っ」

 

 

背中に意識を集中させると、力強い羽ばたきと共に真紅の翼が広がった。

赤い羽が風を切り裂き、一気に空中へと舞い上がる。

 

眼下には、草原を真っ直ぐに走り抜ける小さな背中が見えた。

その姿は草原の端を越え、深く生い茂った森の入り口へと差し掛かろうとしている。

 

啓悟は焦りながら木々の間を縫うように飛び込み、森の中を滑空した。

森は意外なほど明るく、優しい木漏れ日が降り注いでいる。

蒼良は器用に樹々の間を抜けて進み、啓悟はその後ろを慎重に追いかけた。

 

 

「――おいおい、ソラ!そんな笑顔ダダ漏れで、何かいいことでもあったのか?」

 

 

突然、すぐ横の木の枝から見知らぬ少年がひょこりと顔を覗かせ、啓悟はぎょっとして翼を揺らした。

 

 

「これから兄さんと遊んでくるの!」 

 

 

幼い蒼良が片腕を上げて答えると、その少年は微笑みながら手を振った。

啓悟が気を取り直して再び追いかけ始めると、今度は草陰から少女が唐突に姿を現し、またしても啓悟は驚きで体勢を崩しかける。

 

 

「――ソラ、どこ行くの?さっきニイナが貴方のことを探してたわよ」

 

「後で行くって伝えといて!」

 

 

元気よく返事をしながら、幼い蒼良は立ち止まることなく駆け抜けていく。

次々と現れる少年少女たちが彼女に声を掛け、その度に啓悟は動揺したが、蒼良はいつものことのように自然な返事を返していた。

 

 

「――ソラ、シオンならきっといつもの場所だぞ!」

 

「うん、分かってる!ありがとう!」

 

 

駆けていく蒼良の笑顔は、啓悟にとって驚きだった。

普段の無表情な彼女とはまるで別人のように、あどけない笑みを浮かべ、頬を紅潮させている。

その明るさ、溢れるような生命力――その姿形は見間違いようもなく蒼良であるはずなのに、まるで知らない少女のようだった。

 

やがて木々が途切れ、目の前が突然大きく開ける。

そこは樹々に囲まれた、小さな湖のほとりだった。

水面が陽光を受けて煌めき、そよぐ風が草の香りを運んでくる。

 

 

「兄さん――!」

 

 

蒼良は嬉しそうな声をあげると、湖の岸辺で片膝を立てて座っていた青年の背中に勢いよく抱きついた。

その物音に驚いた水辺の鳥たちが一斉に羽ばたき、水面には幾重もの波紋が広がっていく。

 

 

「……あーあ。ソラのせいで、また鳥たちが逃げちゃったじゃないか」

 

 

突然背後から衝突されたにもかかわらず、青年は驚くでもなく、のんびりとした声と共に肩をすくめるだけだった。

艶やかな黒髪がさらりと揺れ、深い漆黒の瞳に陽だまりのような温かい光を宿しながら、青年は後ろを振り返った。

整ったその顔立ちには、不思議と見ている者を安心させるような、穏やかな魅力がある。

 

 

「鳥は静かなのが好きなんだって前にも言ったろ?あんな風に大きな声を上げたら、みんな怖がって逃げちゃうよ」

 

 

やんわりと注意しながら、青年は蒼良を抱き上げて自分の膝に座らせた。

しかし叱られている当の本人は、全くと言っていいほどその忠告を気に留めてはいないようだ。

青年の腕の中で、蒼良はただ無邪気に笑っている。

木漏れ日が彼女の頬に降り注ぎ、黒い髪が絹糸のように光っていた。

 

 

「だって、早く兄さんに会いたかったんだもん」

 

 

悪びれもせず答える蒼良に、青年は困ったように目を細めて微笑を浮かべ、その髪の毛を撫でてやる。

 

 

「はいはい、仕方ない子だな。次からはそーっと来るんだぞ?」

 

 

耳に心地よい声音が、静かな水辺に溶け込んでいく。

彼の手のひらに撫でられている蒼良の表情は、幸福に満ちていた。

楽しげに彼へと語り掛ける蒼良の声は、まるで小鳥の囀りのようで、差し込む陽射しにきらめく湖面が二人を明るく照らしていた。

 

そんな光景を前に、啓悟の胸にはどうしようもない不安感が広がっていく。

まるで、この温かな空間に自分だけが切り離されて放り込まれたような奇妙な感覚に襲われて、胸がざわざわと落ち着かない。

 

すぐ側にいるはずの自分の存在が、彼らにはまったく届いていない。

世界から拒絶され、見えない壁に阻まれているような心細さ――そんなやり場のない感情に苛まれながら、ふと、不穏な気配を感じて啓悟が視線を巡らせたその時だった。

湖のほとり、青年のすぐ傍にもう一つの影が佇んでいることに気がついた。

 

 

「……蒼良、ちゃん?」

 

 

風に乱れる水色の髪。

その顔色はひどく蒼白で、唇は紫色に染まっている。

――そこに立っていたのは、間違いなく啓悟がよく知る蒼翼の蒼良だった。

 

 

「啓悟……?どうして、ここに?」

 

 

その唇が啓悟の名を呼んだ瞬間、心の中に張り詰めていた緊張の糸がふっと緩んだ。

この世界で初めて、誰かが自分の存在を認識してくれたという実感に、啓悟はほっと息を吐く。

だが、安堵したのもほんの一瞬。

立っているのが不思議なほど、限界まで青ざめた様子の蒼良の元へ、啓悟は慌てて駆け寄った。

 

 

「蒼良ちゃん、その顔色どうしたん……って、何これ……?」

 

 

蒼良の足元に視線を落とすと、地面から伸びた蔦のような草が複雑に絡みつき、彼女の両脚をがっちりと拘束していた。

まるで、彼女をこの場所に縫い止めようとするかのように。

迷わず啓悟はその草を振り払おうと手を伸ばす。けれど――

 

 

「……触れない」

 

 

指先が空を掴んだように、すり抜けた。手応えがまるでない。

もう一度試しても結果は同じ。

草も蔦も確かにそこに見えているのに、まるで幻のように、啓悟の手は一切触れることができなかった。

 

 

「くそっ、こんなんどうやったら……!」

 

「――きゃははっ!」

 

 

焦りと苛立ちが胸を焼き、歯を喰いしばる啓悟の背後で、弾けるような笑い声が響いた。

思わず振り返った啓悟の視界に映ったのは、湖畔で寝転ぶソラと、その傍らに座る青年の姿だった。

青年は地面にゆったりと座ったまま、木の枝の先で土に何かを描いている。

啓悟の目にも、それは鳥の絵だとすぐに分かった。

青年の隣でうつ伏せになっていたソラが、頬杖をつきながら彼の描く絵を覗き込んだ。

 

 

「ねぇ、兄さん。この鳥、私が捕まえてこようか?」

 

 

やる気十分といった顔で、ソラが青年を見上げて言った。

青年はそんな問いかけを受け、ゆるやかに首を横に張る。

 

 

「ううん、いらない。それよりソラ、あんまりそっちに行くと水に落ちちゃうよ」

 

 

しかしソラは、その注意を気にすることもなく、不服そうに身をよじって転がった。

 

 

「でも、兄さんは鳥が好きでしょ? さっきみたいに逃げられないように、籠の中に入れておこうよ!」

 

「鳥は自由だから綺麗なんだよ。ソラにはまだ難しいかな?」

 

 

幼い少女の純心な提案を聞き、青年はくすりと微笑んでいる。

 

 

「ふぅん……兄さんがそう言うなら、そうなのかも」

 

 

ソラはあっさりと納得すると、青年の言葉をすぐに受け入れ、再びごろごろと寝転がって土を弄び始めた。

そんな少女を柔らかに窘める声と、彼女の明るい笑い声が、時折湖畔に反響する。

 

――そのあまりにも満ち足りた光景が、啓悟の隣で立ち尽くす蒼良の蒼白な顔と、どうしようもないほど鮮烈な対比をなしている。

 

この場において異質なのは恐らく、あの幸せな光景ではない。

この暖かな世界において、異物であるのは自分たちの方なのだと啓悟がようやく悟り始めた、その時だった。

 

足元で、ざわりと微かな振動が広がった。

反射的に視線を落とした啓悟の瞳が捉えたのは、蒼良の両足に絡みついていた蔦が、不吉に脈動する姿だった。

蠢いた蔦は次の瞬間、爆発的な勢いを得て、音もなく急激に伸び始めた。

 

 

「――っ、蒼良ちゃん!」

 

 

蔦はまるで生き物のように少女の身体を這い上り、足から腰、胴、肩、首へと次々に巻きついていく。

啓悟の目の前で、蒼良は瞬く間に身動きが取れないほど植物に絡め取られてしまった。

 

 

「やめろッ!」

 

 

触れられないことは既に知っている。

だから狙ったのは蔦ではなく、蒼良自身の身体だった。

腕を伸ばし、細い肩を強く引き寄せて抱きしめる。

 

 

「大丈夫、絶対離さんから……っ」

 

 

決意の籠もった囁きが蒼良の耳元に落とされた瞬間、蔦は啓悟ごと蒼良を呑み込んだ。

視界の端から鮮やかな緑が消え去り、代わりに眼前を満たしていくのは、どこまでも深く広がる底知れぬ暗闇。

 

啓悟は蒼良を抱きしめたまま、その深い闇の中へと飲み込まれていった。

 

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