次に目を開けた瞬間、啓悟はすぐに周囲の変化を感じ取った。
風は乾き、辺りに満ちるのは硬く冷たい岩の匂い。
空気はどこか埃っぽく、視界には色褪せたような無機質な光景が広がっている。
「今度はどこだよ……」
思わず呟き、身体を起こす。
足元は荒々しくごつごつとした岩場。
砂塵が薄く舞い上がり、植物の姿は見当たらない――不毛な荒野のような場所だった。
啓悟は腕の中に蒼良がいることを確認し、いくらか肩の力を抜く。
手を繋ぎ、この異様な場所を探索しようと一歩踏み出した瞬間、後ろから引き止められる感覚があった。
「……え?」
振り返った啓悟の視線の先には、驚きに目を見開いたまま立ち尽くす蒼良の姿がある。
その足首から下が岩と融合したかのように埋まり込んでいて、びくとも動かないのはどう見てもそれが原因だった。
「またこれかよ……!」
啓悟は眉を寄せて膝をつき、蒼良の足を拘束する岩に手を伸ばすが、その指先は何の抵抗もなく岩の中をすり抜ける。
「あ~もう意味分からん!これどういう理屈なん?」
苛立ちを滲ませ、背中の翼を振るわせた時、不意に蒼良が小さな声で問いかけてきた。
「啓悟……本物?本物の啓悟なの?」
その声に顔を上げた啓悟は、思わず息を止めてしまった。
蒼良がすぐ近くでじっと自分を覗き込んでいる。
その細い指が頬に添えられ、意表を突かれた啓悟はとっさに後ろへ尻もちをついて倒れ込んだ。
「うわっ……ちょ、近い近い!そんな至近距離で確認せんでも、本物やけん!」
慌てて距離を取りながら、自分の耳がほんのり赤くなるのを自覚する。
そんな啓悟の様子に構わず、蒼良は揺れる瞳を向けてくる。
「夢じゃない?本当にここにいるの……?」
彼女には似つかわしくない、頼りなげな声。
彼女もまた、自分と同じようにこの得体の知れない空間に気が弱っているのだと啓悟は気づいた。
「……俺はちゃんとここにおる。夢じゃなかよ」
気持ちを切り替え、努めて落ち着いた声で返し、宥めるように蒼良の手を取ろうとした、その時だった。
『――次の組、始め』
どこか機械的で冷淡な声が響き、啓悟たちの視線は咄嗟にそちらへと向けられる。
続いて絶え間なく響き始めた鈍い音。
「何、この音……?」
啓悟は立ち上がり、岩場の淵からゆっくりと眼下を覗き込み――そこで繰り広げられていた、現実離れした光景に言葉を失った。
数十人にも及ぶ子供たちが、広大な岩場の底――闘技場のように切り立った岸壁に囲まれたフィールドで、砂埃を巻き上げながら激しくぶつかり合っている。
そこには幼い子供から十代半ばほどの少年少女まで、様々な年齢の子供たちが入り混じっていた。
鋭い蹴りが少年の身体を吹き飛ばし、かと思えば次の瞬間には別のペアが拳を交え、少女が激しく頬を打たれて崩れ落ちる。
拳が衝突するたび、生々しい骨の軋む音が乾いた空気を震わせる。
それは単なる訓練とは到底言い難い、命を賭した実戦そのもののように見えた。
目の前の異様な光景に全身が固まり、啓悟は思考が追いつかない。
眼下の子供たちは、小さな身体には似つかわしくない破壊力と剥き出しの獰猛さを抱え、その瞳には勝利への執念だけが宿っている。
傷や痛みに頓着する様子もなく、ただ目の前の相手を倒すことに集中していた。
そんな彼らを囲むように立つ監視役らしき大人たちは、まるで機械のように無感情な表情で立ち尽くしている。
彼らの視線には慈悲も躊躇いもなく、眼前の苛烈な闘いを当然のように眺め続けていた。
――ドゴンッ!!
突然、それまで響いていた戦闘音を圧するように、ひときわ重く凄まじい衝撃音が岸壁を震わせた。
音の発信源は啓悟たちの足元、岸壁の側面。
事態を把握しようと視線を落とすと、岩壁に打ち付けられた何かが、力なく地面へと落下していくところだった。
「ねぇ……。あれ、蒼良ちゃん……?」
啓悟の呼吸が浅くなる。
地面に倒れ込んだ小さな身体――それは紛れもなく、先ほど無邪気な笑顔を見せていた幼い黒髪のソラだった。
細い腕には鋭利な岩の破片が深く突き刺さり、鮮血が滴っている。
片足を引きずりながら必死に立ち上がろうとするその瞳には涙が滲み、歯を食いしばって苦痛を堪えているのが遠くからでも窺えた。
「ひ……っ、ひぃ……っ」
嗚咽を喉の奥に押し込み、薄い背中を震わせている。
この世界に介入できないと分かっていても、啓悟は衝動的に走り出したくなる。
「試合終了だ。決着はついた。医療班のところへ行け」
感情を排除した声で、近くの監視員が冷たく告げた。
しかし、蒼良は涙を湛えた瞳を精一杯吊り上げて首を横に振る。
「まだ、負けてないです……ッ」
涙ながらに張り上げられた彼女の声に、場の空気が張り詰めたのが啓悟には分かった。
彼女は今、命令に抗うべきではなかった。
監視役の男が目を細め、微かに眉をひそめるのを見て、啓悟はそう直感する。
それと同時、彼女を守ろうと地を蹴ったその刹那――まるで視界が歪んだかのように、ソラの背後に新たな人影が現れていた。
啓悟は驚きに動きを止める。
そこに立つのは、湖のほとりで見たあの黒髪の青年だった。
端正な顔立ち、深く柔らかな瞳。
それらは先ほど見た彼と寸分違わない。
けれど今、そこに立つ彼の表情には、あの時の穏やかな笑みの片鱗すら存在しなかった。
まるで仮面を外したかのように、氷よりも冷たい眼差しが幼いソラを見下ろしている。
湖畔で温かく少女を見守り、ゆったりとした仕草で髪を撫でつけていた青年と、いま目の前に立つ冷酷な存在が、啓悟の中でどうしても結びつかない。
戸惑いの最中、泥と涙にまみれたソラが背後の気配に気づいて素早く振り返り――その細い首筋に、青年の手が容赦なく振り下ろされた。
短い悲鳴に似た呻きが響き、少女の身体が糸の切れた人形のようにぐったりと前のめりに倒れ込む。
砂利混じりの地面にその顔が叩きつけられる嫌な音が、啓悟の胸に深々と突き刺さった。
「勝負ありだ」
静かに告げた青年の言葉が、啓悟の耳を通り抜ける。
冷徹さを滲ませるその声には、先ほどの耳触りの良い優しさなど欠片もない。
あり得ないと叫ぶように胸が軋んだ。
信じられなかった。
ほんの僅か前に、あれほどまでに慈愛に満ちた眼差しでソラを見つめていたこの青年が、今目の前に広がる惨状を作り上げた張本人であるなどと、信じられるはずがなかった。
青年はソラの襟首を無造作に掴み、その身体を荷物のように肩へと担ぎ上げる。
「医療班のところに連れて行きます」
監視役の男に向けて事務的に告げられる言葉には、温度も感情もなかった。
「あ……」
啓悟の唇からは、意味をなさない息だけが虚しく漏れた。
「なんで……あんな、平然と……」
声が震え、身体が強張った。
幼い少女を傷つけた張本人に、この状況を問うことすら叶わず、ただ無力感に苛まれる。
「あのままやったら……あの子、死んでしまうやろ……」
暗い絶望が啓悟の胸に広がっていく。
目の前で起きている出来事を、どうしても受け入れることが出来なかった。
「……大丈夫。あの子は死なない。少なくとも、二十五までは生きられる」
傍らで一連の様子を同じく眺めていた蒼良が俯き、小さく呟いた。
確信めいた蒼良の言葉に、啓悟の胸がざわめきを帯びる。
微かな風が、岩場の荒い表面を撫でていく。
彼女の言葉に込められた確信の根拠を尋ねようと、啓悟が口を開きかけたその時――不穏な音が岩の下から響き、蒼良の立つ足元が突然ぐらついた。
「蒼良ちゃん、下ッ!」
ぽっかりと闇が開いたように地面が割れ、蒼良の体が重力に引かれるように傾いていく。
細い指が、掴むものを探すように宙を泳ぐ。
その手を咄嗟に掴み、啓悟は迷わず足を踏み込んだ。
「この展開、既視感あるなぁ……ッ!」
抱きとめた蒼良の体が自分の腕の中に収まるのを確かめながら、二人して深い暗闇に呑み込まれていく。
闇に覆われ、すべての音と光が途絶える浮遊感。
時間さえ止まったような不思議な感覚に襲われたあと、ゆっくりと目を開いた啓悟の眼前に広がるのは、再びあの湖のほとりだった。
夕暮れが柔らかく水面を染め、揺れる湖は橙色の光を反射して煌めいている。
岸辺には何人もの子どもたちが思い思いに腰を下ろし、談笑したり、傷の手当てをしたりしていた。
その中に、ひと際小さな姿――幼いソラの姿も見える。
周囲の子どもたちはそれぞれに包帯を巻いているが、ソラは特に目立つほど包帯が厚く、頭や腕をしっかりと覆っている。
しかしその表情には痛みや悲壮感は全く見られず、ただ屈託のない笑顔が浮かんでいた。
「――火遁・豪火球の術ッ!!」
突然、蒼良が元気な掛け声と共に両手を素早く動かし、湖に向かって勢いよく息を吐き出した。
期待に満ちた目で結果を見つめる彼女をよそに、湖面はゆるやかに波打つだけで何も起きない。
いったい何がしたかったのだろうと啓悟が目を丸くしていると、数秒遅れて周囲の子どもたちからどっと明るい笑い声が起こった。
からかわれたと思ったのか、ソラは真っ赤な頬を膨らませて肩をいからせている。
「馬鹿ねぇ。あんたのチャクラ属性は火じゃないって、何回言ったら分かるのよ」
呆れ顔でソラに近づいた少女が、燃えるように鮮やかな長い赤髪をふわりと揺らし、小柄なソラの頭の上に肘をのせた。
ソラは不満げにぷいっと顔を背けると、小動物のように口を尖らせて小さく威嚇する。
「ニイナの嘘つき。練習すれば絶対にできるようになるって、ヤシロは言ってたもん」
「あのねぇ……ヤシロの言うことを真に受けてると、馬鹿を見るわよ」
ニイナと呼ばれた彼女は深々とため息を吐き、やや吊り上がった瞳を険しく細め、頭上に向けて鋭い視線を送った。
その視線の先、頭上の木の枝の上では、金髪で垂れ目がちな少年が呑気に脚をぶらつかせて休憩している。
「おいおい、ニイナ。怖い顔で睨むなよ。俺はソラの可能性に期待してるだけだってば」
垂れ目をますます緩ませて、少年――ヤシロがへらりと気楽そうに笑った。
「ヤシロ、あんたはいつだって無責任なのよ。いい? 下手な慰めはかえって毒になるだけなんだから。ソラ、あんたのチャクラは風と水と雷。三つも適性がある時点で、もう十分に恵まれてるんだから、まずは自分に合った術から練習しなさいってば」
呆れを含んだニイナの注意を聞きながらも、ソラはまだ諦めきれないように頬を膨らませたまま、小声で呟く。
「……でも、火遁が使えたら格好いいのに」
「ほら見ろ、ソラは俺に似て向上心があんだよ!」
その言葉を聞きつけたヤシロが枝の上で愉快そうに笑い声を上げた。
「あんたのどこに向上心なんてものがあるのよ……」
ニイナが心底呆れたようにぼそりと呟くと、ヤシロの笑い声がより一層大きく響く。
「まあまあ。落ち着いて、ニイナ。適性が無い属性の術も使えるっていうのは本当の事だよ。現に、俺の適性は火しかないけど、全属性の忍術が辛うじて使えてるし」
「兄さん!」
「それはあんたが規格外なだけでしょーが、シオン!」
会話に柔らかな横槍を入れて歩み寄ってきたのは、またしてもあの優しげな黒髪の青年だった。
先ほど湖の畔でソラと和やかに笑い合っていた人物。
シオンと呼ばれた彼だけが、この空間で唯一どこも負傷した様子がない。
ソラは自分の味方の登場に満面の笑みを浮かべると、嬉しそうに青年――シオンの背に回り込み、その腰に勢いよく抱きついている。
その姿は、まるで兄に甘える妹そのもので、そこには先ほどの痛々しい訓練のわだかまりは微塵も感じられない。
ニイナの説教から自分を守る盾のように青年を挟み、ソラはすっかり安心したように笑っている。
対するシオンは人の良さそうな微笑を浮かべ、ソラの頭を優しく撫でる。
しかし啓悟には、その穏やかすぎる微笑が不気味でならなかった。
訓練場で、まだ幼いソラをあんな風に打ちのめした男が、今はまるで別人のように柔和な笑みを浮かべ、あやすように彼女と接している。
その異様な光景に、啓悟の心がざわりと揺れた。
あれだけ酷い目に遭わされておきながら、ソラが少しの怯えも見せずに彼に懐いている光景を、啓悟はどうしても理解できない。
「俺が規格外なら、ソラだって十分規格外だよ。俺がこのくらいの歳の頃は、今のソラほど戦えなかった」
ソラを庇うシオンに対し、「どうだか」とニイナが肩をすくめた。
「あんたねぇ、そんなにこの子を高く評価してるなら、毎度毎度一方的にボコボコにするのはやめなさいよ」
「そーだそーだ、少しは加減するなりしろー!」
木の上からヤシロがヤジを飛ばす。
シオンは口角をあげたまま、軽く首を傾けてヤシロを見上げた。
「そんなに不満なら、今度からはヤシロが俺とペアを組む?」
「げぇ……ッ、無理に決まってんだろ!ソラでその怪我なら、俺は全治一ヶ月だ!」
情けない悲鳴をあげるヤシロの姿に、ニイナはうんざりと額を押さえ、シオンは眉を下げて苦笑する。
そんな彼らのやり取りを前に、ソラが声をあげて笑った。
「――啓悟、巻き込んでごめん」
隣からふいに蒼良の声が届き、啓悟ははっと我に返った。
振り向くと、彼女の水色の瞳が湖岸で遊ぶ子どもたちをじっと見つめている。
穏やかな夕暮れの光が、その横顔を淡く照らし出していた。
「ここは多分、幻術――ううん、催眠術の中……正確には、私の記憶の中なんだと思う」
「……記憶の、中?」
彼女の言葉を繰り返しながら、啓悟は戸惑いを隠せずにいた。
目の前に広がる光景、笑い合う子どもたちの姿は、『記憶』という曖昧な言葉で片付けるにはあまりにも輪郭が鮮明過ぎる。
状況を正しく掴めないまま、疑問と困惑が胸の奥で絡み合い、ただ呆然と彼女の言葉を受け止めるしかなかった。
「すぐにでも解放してあげたいのに……今の私は、自分を制御できてないみたい。どうしてか、この世界の終わらせ方が分からないの」
蒼良の言葉をすべて理解することは難しかった。
しかし啓悟は、自分が今、現実離れした出来事に巻き込まれているという事実だけは痛切に感じている。
突拍子もない話であれ、この奇妙な空間にいる以上は彼女の言葉を素直に受け入れるほかないのだろうと思えた。
「――火遁・豪火球の術」
その時、低く落ち着いたシオンの声が響いた。
そちらに視線を向けた瞬間、シオンの口元から巨大な火の玉が豪快に噴き出し、対岸にいる少年たちが予想外の迫力に悲鳴をあげて慌てふためいている様子が見えた。
「おい、あぶねーぞ!」
「加減しろよ、シオン!」
「チビにかっこいいとこ見せたいからって、張り切ってんじゃねーよ!
」
少年たちのからかい混じりのブーイングが飛び交い、騒がしい声が湖面を震わせる。
そんな騒動を眺めながら、啓悟は思わず呟いた。
「……エンデヴァーみたい」
その呟きを耳にした蒼良が、ゆるく首を横に振る。
「そうだね。でも、彼の炎は個性由来のものじゃない」
「……え?」
「この世界には、『個性』なんて存在しないの」
啓悟の眉が自然と寄る。ますます頭が混乱してしまう。
胸の中で次々と疑問が渦巻き、整理するどころかより複雑に絡まり合っていく。
「じゃあ、あの子たちはみんな無個性ってこと……?」
だが、それならば先ほど目の当たりにしたあの驚異的な戦闘能力は一体何なのだろう。
瞬間移動のような速度で動き回り、到底普通の人間には避けられない攻撃を軽々と回避していた。
しかも今、目の前で炎を自在に操る者までいる。
そんな彼らを無個性という言葉で片付けるには、あまりにも無理がありすぎる。
「個性がない代わりに、この世界には別のエネルギーがあったの。私たちはそれを『チャクラ』と呼んでた」
蒼良は遠い昔の記憶を辿るように、どこか懐かしげな響きを帯びて語った。
その声を聞いているうちに、啓悟の中で絡まっていた思考がゆっくりと、だが確実に整っていくような感覚がある。
「ちょっと待って……じゃあ、ここは本当に蒼良ちゃんの記憶の中ってこと?あそこで走り回っとる小さい蒼良ちゃんは実際に昔存在しとった蒼良ちゃんで……壁に激突したり、包帯巻いてはしゃいどるのも、全部実際に起きたことなん?」
疑問を抑えきれず問いかけると、蒼良は顎を引いた。
その頷きがあまりにも自然だったために、啓悟は再び混乱しかける。
「ええ……でも、公安に引き取られる前の蒼良ちゃんって――」
「それよりも、もっとずっと昔の話。ここは、私の前世の記憶」
蒼良の口から零れ落ちた言葉は、冷静に考えればあまりに突飛で理解に苦しむ内容だった。
だが啓悟は不思議なほど抵抗なく、それを素直に受け入れている自分に気づく。
考えてみれば、彼女は最初からずっと『普通』という概念から遠く離れた場所にいるような存在だった。
良くも悪くも常に一般常識や論理を軽々と超えた地点に立つ彼女に振り回されてきたからこそ、啓悟自身も自然とその言葉を受け入れられたのかもしれない。
あるいは、彼女が胸の奥深くに隠し持っている何かにいつか触れてみたいと願う啓悟の思いが、この突拍子もない状況をすんなりと受け入れさせているのかもしれなかった。
「ここには、私と啓悟が生きてるようなヒーロー社会は存在しない。ヒーローなんて概念も、個性もない。その代わり、この世界の国々は、忍という特殊な武力を保有してたの」
彼女の静かな語り口調は、どこか遠い場所から響いてくるようだった。
「さっき、あの黒髪の彼が噴き出した炎は忍術。子供たちの異様な身体能力は、体術によるもの。ここにいる彼らは皆、国を背負って立つ忍の卵だった」
次々と提示される信じがたい事実に、啓悟は徐々に現実感を失い、感覚が麻痺していくようだった。
今や彼女がどれだけ常識外の話をしようと、それに対して特別な驚きや抵抗を感じることはなくなっている。
むしろ啓悟の心に引っかかったのは、蒼良が『黒髪の彼』と表現した、妙に他人行儀な距離感のある言い方だった。
「蒼良ちゃんはさ、あのシオンって人のこと、大好きやったんやろ?」
「……そうなのかもしれない。記憶自体は少しずつ取り戻してきたけど、感情まではうまく思い出せないの」
「じゃあさ、ここってどういう教育機関なん……?あんな酷い戦闘訓練、俺、今まで見たことない。蒼良ちゃんは自分から望んでここに来たん?それとも、無理やり連れてこられて――」
「孤児だった。赤ん坊の頃に拾われて、それ以来ずっとここで暮らした。他の子どもたちも殆ど同じ境遇だったと思う。身寄りのない子供は、組織にとって都合が良かったから」
「都合がいいって……?」
「感情的な結びつきや帰属意識を他に持たないから、徹底的な洗脳教育には丁度よかったの」
啓悟は返す言葉を見つけられず、ただ押し黙った。
酷い内容であるにも関わらず、その当事者である蒼良本人が少しも憤りや悲しみを見せないことが、余計に辛く胸に突き刺さる。
目の前では幼いソラがはしゃぎながら、何度も懸命に印を組み、シオンの真似事をしている。
その無防備な姿が、啓悟の目にはひどく痛々しく映る。
周りの子どもたちに笑われたり、頭をぐしゃぐしゃに撫でられたりしながら、必死になって何かを言い返している彼女の表情には、それでも確かに楽しそうな笑顔が浮かんでいた。
「――啓悟、そろそろ、記憶がまた切り替わりそう」
蒼良の呼びかけと、足元が蠢く気配にハッとして、啓悟は蒼良の手を取った。
視界を覆っていく植物。
そして世界は、また暗転した。
次に二人が飛ばされたのは、子供たちの宿舎――それは、自然豊かな湖とも、殺伐とした訓練場ともあまりにも違う空間だった。
木造りの温もりある建物で、そこかしこに小さな傷や修繕跡が見えるものの、それすらも居心地の良い生活を感じさせる場所。
中に一歩踏み入れると、真っ先に目についたのは部屋の中央に広がる共有スペースだった。
柔らかな陽射しが差し込む窓辺には、小さなテーブルと椅子が並べられ、壁際には簡素ながらも清潔な寝台が並ぶ。
壁には子供たちが描いたのだろうか、拙い絵や手作りの飾りが慎ましく飾られており、子供たちの暖かな生活感が、宿舎全体を包んでいた。
「――ただいまー……」
突然、扉が押し開かれる音がした。
その隙間から現れた幼い少女の姿が、啓悟の心を揺さぶった。
傷だらけながらも健気な笑みを浮かべる少女――ソラは、少しだけ伸びた背丈で疲れた体を引きずりながら部屋の中へと入ってきた。
既に訓練を終えて戻ってきていたヤシロとニイナが、その姿を見るなり椅子を蹴り倒す勢いで駆け寄っていく。
「ちょっと、ソラ!? またこんなに傷だらけになって……!」
ニイナが鋭く声を震わせ、痛ましげな視線でソラの腕を掴んだ。
「またシオンかよ……さすがNo.1様だな、容赦なさすぎんだろ」
怒気を含んだヤシロの声には隠しきれない苛立ちが滲んでいる。
それでも彼は細心の注意を払いながら、ソラの体をそっと抱き上げて寝台の上に丁寧に座らせ、その間にニイナが治療道具を取って戻って来た。
「動かないで、ソラ。傷が開くでしょ」
ニイナが厳しい口調で言いながら、慎重に傷口の汚れを落とし始める。
ひんやりとした薬液が傷口に触れた途端、ソラが小さく身をよじった。
「痛い、痛いってば、ニイナ!もうちょっと優しくできないの?」
ソラが涙目で抗議の声を上げるが、ニイナはため息をつきながら容赦なく叱りつける。
「我慢しなさい!ヤシロ、ソラをちゃんと押さえてて!」
「はいはい。相変わらずニイナは包帯巻くの下手だよなぁ」
「うるさいわね。文句があるならあんたがやれば?」
「嫌だよ。めんどくせー」
いつもの調子で交わされる軽口に、ソラは痛みを忘れたように小さく笑った。
「ねぇ、二人とも聞いて。今日ね、兄さんに七回も攻撃を当てられたんだよ」
得意げに報告するソラの言葉に、ニイナが困惑気味に首をかしげ、ヤシロが諦め交じりに斜め上の空間を仰ぐ。
「だからシオンの奴、ムキになってんのね……最近あんたの怪我が酷くなってるわけだわ」
「まぁ、あいつがムキになるってのは想像つかねぇけど……あの馬鹿真面目野郎、本気出せって命令されたら手加減なんかしねぇからな」
「兄さんの悪口言わないでよ、ヤシロ」
ソラが頬を膨らませて睨みつけるも、ヤシロはからかうようにその頬を軽くつついた。
「ところで、ソラ。ずっと気になってたんだけどさ」
ヤシロが不意に声を潜め、意味深な視線でソラを見つめる。
「お前さ、なんでシオンのこと『兄さん』って呼んでんの? 血が繋がってるわけでもないくせに」
その問いかけに、ソラは少し困ったように目を伏せ、小さな声で呟いた。
「髪と目の色が、同じだから……」
「え、それだけ?」
ニイナが驚きと呆れを滲ませながら問い返すと、ソラは頬を赤らめ、はにかみながら言葉を続ける。
「だって……私、ずっと『家族』っていうのに憧れてたから……兄さんが本当のお兄ちゃんだったらいいなって……」
その言葉が静かな部屋に響いた、その瞬間――
「ちょっと待った!!」「おい!!」
ニイナとヤシロがほぼ同時に絶叫し、身を乗り出した。
「家族なら俺がいるだろ!?」
「私だっているじゃない!」
予想外の勢いに驚いた蒼良は、ぽかんと口を開けてしまう。
「え、あ……?」
間の抜けた返事に、ヤシロが照れ臭そうに頭をかく。
「俺たちだけじゃないだろ。ここにいるみんな、お前の兄弟で、家族みたいなもんじゃねぇか」
ニイナも気恥ずかしげに頷いた。
「シオンだけ特別扱いなんて、腹が立つからやめてよね」
その温かな言葉はソラの心にまっすぐ届き、胸をいっぱいに満たしていく。
「そっかぁ……そうだよね。ヤシロもニイナも、皆もいるんだもんね……!」
弾けるような笑顔を見せ、ソラは思わず両手を広げて二人にガバリと抱きついた。
一瞬驚いた二人だったが、すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべ、両サイドから温かくソラを包み込む。
「まったく、ソラは甘えん坊だなぁ」
「本当、仕方ない子ね」
ニイナが優しく背中を撫で、ヤシロがソラの頭を撫でる。
くすぐったそうな表情で、ソラは更にぎゅっと二人に抱きついた。
「でもさ、二人とも。もし兄弟になっちゃったら、二人は将来結婚できなくなっちゃうよ?それでもいいの?」
ソラの素朴な問いかけが、その場の空気を一瞬止めた。
「は……っ!?」
「な、何言ってんのよ!?」
二人は同時に声を上げ、みるみるうちに顔を真っ赤に染めあげる。
「そ、そんなんじゃねぇよ俺たちは!」
「そうよ!子供のくせに生意気言うんじゃないわよ!」
ヤシロが乱暴にソラの頭を撫でまわし、ニイナも慌ててソラの頬を引っ張っりながら焦りを誤魔化す。
そんな二人の必死な姿がおかしくて仕方がないかのように、ソラは声をたてて笑った。
――次々と浮かび上がっては儚く消え去る記憶の欠片。
その欠片を追いながら、啓悟は幼きソラがゆっくりと、けれど確かに成長していく様を眺め続けた。
過酷な訓練に傷つき、何度も地に伏せては苦しげな息を吐くソラ。
それでも小さな身体は諦めを知らず、憧れに煌めく瞳をシオンの背へと向け続けていた。
ニイナの不器用な優しさは、ソラの傷ついた心をいつも密かに癒やしていた。
乱暴な言葉遣いに隠されたその真摯な想いが、時に厳しく、時に温かくソラを包み込む。
彼女の存在はソラにとって決して揺らがぬ支柱のようであり、胸に沁みる優しい叱咤激励は何度も幼い少女の背を押した。
ヤシロの纏う軽やかな明るさは、ソラが塞ぎ込みそうな夜、抱えきれぬ現実の重さをほんの少しだけ忘れさせてくれた。
紡がれる軽口に潜むその気遣いは、張り詰めていたソラの心を穏やかに解きほぐし、自然と笑顔を引き出してしまう、不思議な力を持っていた。
そして、シオン。
訓練の場ではあまりにも容赦がなかった彼だが、普段は微笑みを絶やさない心優しい青年だった。
柔らかく物腰の穏やかな彼は、誰に対しても分け隔てなく親切で面倒見がよく、多くの子供たちから厚い信頼を寄せられていた。
その包容力のある人柄には、自然と周囲を惹きつける魅力があった。
最年長として皆に慕われ、頼りにされるそんな人気者の彼を、ソラは誰よりも特別な存在として慕っていた。
それこそ、他の子供たちがシオンを独占していると、不機嫌そうな表情で彼らを威嚇して回るソラの姿が頻繁に見られるほどに。
シオンもソラに対してはひと際目をかけていて、いつも小さな努力や成果を丁寧に褒めては頭を優しく撫でていた。
ソラが心細そうにしている時はそばに寄り添って、安心するまでその手を強く握っていた。
時に戦いの術を教え、時にはただ隣にいてくれる。
そっと髪を撫でるその指先の優しさは、幼いソラにとって、間違いなく『家族』の温もりそのものだった。
ソラは多くの子供たちとの日々を過ごす中で、無数の小さな絆を積み重ねていった。
食事を分け合い、怪我を互いに手当てして、夜更けの語り合いで同じ未来を夢見て眠る。
ささやかな笑顔と穏やかなひとときこそが、過酷な世界に生きる彼らにとって唯一無二の救いだった。
――あぁ、彼らは間違いなく、ソラにとって『家族』だったのだ。
自分もまた、蒼良と深い絆を築いていると信じていた啓悟にとって、彼女の感情豊かな表情や生命力溢れる姿を自然に引き出せる彼らの関係は羨望を誘った。
それでも、ソラが力強く日々を生き抜く様子を見るたびに、啓悟の胸は温かい感情に包まれていた。
「――これが、最後の記憶だと思う」
ふと、蒼良がか細い息を吐きながら呟いた。
啓悟と蒼良が立っているのは、これまで幾度となく目にした、岩場に囲まれた訓練場だ。
しかし今、そこに日常の気配はまるでなく、空気は異様に張り詰めている。
ひどく歪んだ静けさは、まるでこれから起こる惨劇を予感させるかのように、子供たちをじわじわと押しつぶしていた。
――殺し合え。
簡潔に、あまりにも無慈悲な響きでその命令は場を支配した。
一瞬の静寂が落ち、誰もがその言葉の意味を呑み込むことができず、硬直したまま息を呑んだ。
場は重苦しい沈黙に包まれ、息苦しいまでの静寂は次第に濃密さを増していく。
子供たちは息をひそめ、互いの視線を慎重に避けるように目を伏せた。
その胸に宿るのは、信じ難い命令を前に揺れる脆い感情と、現実から目を背けたいという痛切な願望だけだった。
身体は緊張に縛られ、誰もが自分自身の手足を自由に動かすことすらできない。
最終戦別――ただ一人の生存者を選ぶためのそれは、あまりにも残酷で非人道的な儀式だった。
共に育った家族同士で命を奪い合えという命令に、ただ吐き気と恐怖が押し寄せる。
冷や汗が背筋を流れ落ち、息が詰まるような重圧に誰もが耐え切れなくなりそうだった。
「ねぇ……嘘だよね、こんなの……」
強張った唇から漏れ出したニイナの声は掠れ、その問いに対する答えは誰からも返されない。
ニイナは今にも泣き出しそうな表情で、声だけでなく身体中が震えている。
その横でヤシロは唇を噛み締め、血の気を失ったまま、無表情に一点を凝視していた。
辺りの空気はますます重く冷たくなり、子供たちの表情は恐怖と疑惑に染まり、視線だけが互いの姿を探り合うように泳いだ。
息を呑む音すらためらわれるような緊迫した静寂が広がり、耳元で高鳴る心臓の音だけが響いている。
誰もが自分以外の誰かが動くのを待ち、それと同時に決して誰も動いてほしくないと願っていた。
ほんの僅かな動きでさえ惨劇の引き金になることを理解しているからこそ、子供たちの誰もが凍りついたようにその場に張りつけられ、その張り詰めすぎた緊張が最高潮に達した瞬間――
「――悪い」
聞き慣れた声が、酷く冷ややかにその場に響いた。
振り返ったソラの視界に最初に映ったのは、ふらつきながらゆっくりと傾くニイナの身体。
彼女の赤い髪が鮮やかに散らばり空中を舞う。
その視界の端にちらりと見えたのは、静かに佇むシオンの姿。
瞬間、ソラは何が起きたのか理解できず、ただ本能的に手を伸ばした。
力なく自分の方へ倒れ込んでくるニイナの身体を咄嗟に抱き留めると、腕の中で生温かい感触がじわりと広がるのを感じた。
ゆっくりと視線を下ろせば、彼女の喉元から溢れる滲むような鮮血が広がっていくのが見えた。
喉元をかき切られたのだと理解が追いついたのは、その後だ。
少女は小さく、掠れた声で呟いた。
「……え?」