昼休みの雄英高校――食堂は溢れんばかりの生徒たちで賑わい、あちこちから聞こえる楽しげな話し声と、食器が重なり合う軽やかな音色が空間を埋め尽くしていた。
焼き立てのパンや熱々のスープの香ばしい匂いが漂い、そこには活気あふれる生徒たちの笑顔が交錯する、一見いつもと変わらぬ日常の風景が広がっている。
だが今日は、その日常にわずかな違和感が潜んでいた。
「なあ、お前聞いたか?こないだテレビで中継されてた高校生ってさ、うちの学校の生徒らしいぜ」
「ええっ、それってただの噂じゃなくて?」
「マジマジ、ヒーロー科のインターン生だったって聞いた」
「インターン中にあんな事件に巻き込まれたってこと?ヤバくないか、それ……」
小さな囁きが食堂の隅々へと波紋のように伝わり、多くの視線が密かに一点に集中し始めている。
抑えきれない好奇心が遠慮がちに、しかし確かにある方向を盗み見ていた。
「ほら、あそこ……」
誰かが小声で指さした先、食堂の片隅で、ひと際目立つ三人組が席を占めていた。
ラウドクラウドこと白雲朧、イレイザーヘッドこと相澤消太、プレゼント・マイクこと山田ひざし――普段は明るく賑やかな雰囲気の三人だったが、今日は明らかにいつもとは違う、重苦しい空気を纏っている。
「うわ、本当にボロボロじゃん……」
朧と消太の素肌には赤黒く痛々しい打撲痕が刻まれ、消太に至っては右腕を三角巾で吊っている。
いつもは誰よりも元気なひざしでさえ、周囲の雰囲気に押され、珍しく静かな表情で食事をしていた。
「――はは、俺たちってば、まさかの一躍有名人?」
朧は諦め混じりの苦笑を浮かべ、軽く肩を竦めてみせた。
「こんな悪目立ち、誰が望んだんだよ……」
消太は露骨な苛立ちを隠そうともせず、眉をひそめながら頬杖をついている。
「まあまあ、そんなに気を落とすなって! お前らの怪我は、言うなれば名誉の負傷ってやつだろ? ほら、相澤、あーん」
ひざしが明るさを装ってスプーンを差し出すと、消太はそれをちらりと睨み、はっきりと嫌悪の表情を浮かべた。
「それを食うくらいなら、俺は名誉の飢え死にを選ぶ」
言い捨てると、消太は自ら左手で器用に食事を口に運ぶ。
「ひざし、ショータにとってはお前の好意よりも絶食の方が魅力的らしいぞ」
「お前ら、地味に傷つく言葉選びやめない?」
三人は後になって知ったことだが、あの日のヴィランとの激しい交戦の一部は、全国へと生中継されてしまっていたらしい。
放送された場面は、オールマイトが到着する直前の、朧と消太が必死に抵抗している姿。そして、倒れたまま動かないアズールの姿だった。
遠距離からの撮影だったため顔の詳細までは映らず、映像自体も直ぐに削除されたが、知名度の高いアズールが関係していたことで、多くの人間がその瞬間を目撃してしまっていた。
結果として朧と消太の身元が特定されるのも、時間の問題だったのだ。
「可哀想に……何で逃げなかったんだろ」
「ヒーロー科って怖いよな」
「無茶するからああなるんだよ」
遠くから届く他学科の生徒たちのひそひそ話が、三人の耳にいやでも入ってくる。
その中に含まれる同情の声や冷たい言葉に、朧はうんざりしたように頬を掻いた。
「あーあ、最悪だな。あんな無様な姿を全国に晒しちゃったら、まだ数少ない俺のファンの女の子たちも逃げ出しちゃうっつーの」
「そもそも、その『数少ない』がゼロだったらどうする?」
消太が淡々と切り返すと、朧は胸を掴んでわざとらしくよろけてみせた。
「ひでぇっ!ただでさえ俺の繊細なハートは複雑骨折中なのに!」
「お前ほど心が骨太な人間を俺は他に知らないけどな」
「そもそも心に骨ってあんの?」
消太の容赦ない追い打ちに、ひざしがとぼけた疑問を投げかけていると、不意に耳障りな囁きが雑多なざわめきに紛れて滑り込んできた。
「……アズールって、ランキング十位の割には全然役立たずだったよな」
「何か期待外れって感じ」
「話題性だけで実力が伴ってなかったってことだろ」
その辛辣な評価が耳に届いた瞬間、消太の手が微かに震えた。
胸中で燃え上がる怒りが喉元までせり上がるが、それを言葉にするよりも早く、勢いよく立ち上がったのは朧とひざしの二人だった。
「アズールを馬鹿にすんじゃねぇッ! お前ら、何も知らねぇくせに一部の映像だけであの人を知ったつもりになってんじゃねーよ!」
ひざしが激情を露わにし、怒りを爆発させるように叫んだ。
「お前らが見た中継の前にさ、アズールは一人でヤバい敵二人を相手にしてたんだぜ?それに、俺もひざしも彼女に命を救われてる。お前らみたいな何も知らない連中が、軽々しく口出していい人じゃねぇんだよ」
朧の瞳は氷のように鋭く冷たく、その視線が食堂の空気を一瞬で張り詰めさせた。
突然の二人の激昂に、周囲の生徒たちは困惑を露わに囁き始める。
「やだ……、何急にムキになってんの?」
「ただの感想じゃん、大げさすぎ」
「何もそこまで怒んなくても……」
不穏な空気が流れ出したその時、騒ぎをかき消すかのような重い足音が辺りに響いた。
いかつい風貌で場を支配しながら現れたのは、二年B組の閃走寺だ。
いつもは何かと対立し、険悪な態度を隠さない彼だが、今日ばかりは朧たちの横に堂々と並び立ち、周囲を威圧するように睨みつけた。
「アズールがいなきゃなぁ、俺だって今頃ここにはいられなかっただろうよ。俺の命の恩人を侮辱しやがって。まだ何か言いたい事があんなら、陰でコソコソ言ってねぇで、俺の目の前で正々堂々と言いやがれ!」
閃走寺の重低音が食堂を震わせるように響いた瞬間、ざわめきは一瞬で凍りつき、息を飲む音すら聞こえそうなほどの沈黙が訪れた。
閃走寺のその威圧的な視線と、強面な外見に圧倒され、騒いでいた生徒たちは急に視線を逸らしながら、逃げるようにそそくさと散っていく。
その後に残されたのは、静かな緊張感だけだった。
「敵に回すと厄介だけど、味方だとすごく頼もしいジャイアンだな」
「ああ。劇場版のジャイアンだ」
朧が小さく呟くと、ひざしがすかさずニヤリと笑いながら応じた。
しかし頼れる劇場版ジャイアンはふと視線を動かし、黙り込んだままの消太を見つけるとさらに目を吊り上げた。
「相澤、てめぇはなんで黙りこくってんだ?お前だって世話になったなら、ビビってねぇでアズールの名誉を守りやがれ!」
その挑発に消太の眉がぴくりと反応する。
「誰がビビってるって?あいつのことをろくに知らない奴らに何を言ったところで意味がねぇだろ」
消太は落ち着いた口調ながらも、明らかな怒気を含んだ声で反論した。
「お前こそ、ちゃんとアズールのことを考えてんのか?有名ヒーローには厄介なファンがつきものだ。お前みたいにすぐ頭に血が昇る奴が周りにいたら、むしろあいつの評判に傷がつく可能性だってあるんだぞ」
意外なほど理性的に言葉を放つ消太だが、その拳が固く握られ、小刻みに震えているのを朧は見逃さなかった。
その拳には隠しきれない消太の本音が宿り、湧き上がる怒りを懸命に堪えているのが伝わってきた。
「おい相澤、アズールを『あいつ』呼ばわりだと!?てめぇ、何様のつもりだ!」
閃走寺は消太の発言に激昂し、声を張り上げて吠え返した。
ささいなことだが、二人はただでさえ犬猿の仲なのだ。
それも相まって、閃走寺の怒りは容易く沸点を超えてしまったらしい。
顔を真っ赤にして目をぎらつかせる彼の剣幕に、その場にいた誰もが気圧され口を挟むことができなかった。
その怒りが伝播して場の空気がさらに張り詰めていく中、その様子を冷静に眺めていた朧ただ一人が、面白がるように口角を上げて口を挟む。
「あのさぁ、閃走寺。聞いて驚けって感じなんだけどさ、何を隠そう、消太とアズールって実は友達なんだよな。俺、あの時目撃しちゃったんだけど、消太ってばアズールにめちゃくちゃ愛されてんの!」
その瞬間、傲岸不遜を常としている閃走寺が、初めて明確な動揺と敗北の気配を見せた。
周囲に居た生徒たちも朧の発言を聞き逃さず、そ知らぬふりをしながら再び興味津々に話に聞き耳を立て始める。
辺りに奇妙な静寂が落ち、やがて一人の生徒が思い切ったように立ち上がった。
「……なぁ、それじゃあお前ら、アズールの素顔を知ってるんだよな?」
興味を抑えきれない問いかけ。
微かに震える声と興奮に輝く瞳が、その生徒の好奇心をはっきりと示していた。
「白雲もあの時、あの場に居たってことは、アズールの顔を見たんだよな!?どうだった!?」
興奮気味の一生徒に続き、周囲が色めき立ち、復活したざわつきが次第に伝染していく。
「顔に大きな傷があるから仮面をしてるって噂があるよな」
「いやいや、すごく不細工だから隠してるって説もあるぞ?」
「実は芸能人で正体を隠してるって噂もあるし……」
そんな根も葉もない憶測が飛び交い、生徒たちが勝手な想像を膨らませていく中、朧は騒がしい空気を遮るようにスッと一歩前へ歩み出た。
いつもの軽薄さが消え、凛とした表情をまとい、まるでとてつもなく重要な宣言をするかのように、真っ直ぐに片手を上に挙げる。
「……めちゃくちゃ美人だった。冗談でも誇張でもなく、言葉を失うほどに」
キリリと言い切った朧の力強い言葉に、生徒たちは一瞬驚いて歓声を上げかける。
しかしすぐに、その反応は疑念交じりの囁きへと変わった。
「でもさ、言ってんの白雲だぜ?」
「あいつ、どんな女の子でも可愛いって言いそうだしな」
「信憑性がイマイチだよなぁ」
普段の軽口が祟ったのか、不信感を向けられ朧は不満そうに唇を尖らせる。
そんな朧が戦力外通告されてしまった今、次に白羽の矢が立ったのは、当然残った消太だった。
「じゃあ相澤、お前の意見はどうなんだよ?」
問いかけられた消太は一瞬、面倒くさそうな表情を隠さずに眉を軽くひそめた。
しかし周囲から注がれる無言の圧力と、『さあ、答えろ』とでも言いたげな視線に耐えきれず、小さなため息を漏らす。
敗北者となったはずの閃走寺までもがチラチラとこちらを気にしいているのは気に食わないが、答えない限りは場が収まらないことは理解していた。
僅かな沈黙の間、消太の視線は宙を漂い、まるで記憶の中の彼女の姿を丁寧に辿るかのようにゆったりとした動きを見せる。
やがて彼の瞳は無意識のうちに柔らかく伏せられ、口元には自然と慈しみに満ちた微笑みが広がった。
「……可愛いよ、すごく」
その声は驚くほどに艶やかで、聞く者の耳に甘やかな余韻を残した。
普段は無愛想で感情をあまり表に出さない消太がふと見せたその温かな表情に、周囲の生徒たちは息を呑み、一瞬にしてざわめきを広げていく。
その微笑みは、まるで彼がその相手を心の底から愛おしんでいることを物語るような深く優しいものだった。
周りにいた女子生徒たちがその色香に思わず目を奪われ、動きを止めてしまうほどに。
食堂内の囁きは一気に熱を帯び、まるで信じられないものを見るような目が、消太に一斉に向けられていた。
「えっ、あの相澤が……?」
「相澤って、あんな風に笑えるんだ……?」
驚きと戸惑いが混じり合った声が広がるにつれ、憶測は瞬く間に雄英高校中を駆け巡っていった。
その日を境に、『相澤消太とアズールは付き合っているらしい』という噂は、伝説めいた恋物語として雄英生の間で代々語り継がれていくこととなったのだった。