蒼良が十三歳を迎えたその年、十六歳になった廻が無事にヒーロー免許を取得した。
試験当日の夜、六人で囲む食卓にはいつもとは少し違った特別な空気が流れ、仲間たちはそれぞれに温かな祝福を廻に送った。
笑い声が部屋を満たし、平穏な日々に小さな幸福が訪れる。
しかし、その和やかな時間も深夜になると跡形もなく消え失せ、公安本部の最上階は冷ややかな沈黙に呑まれていた。
昼間の温かさが完全に姿を消した廊下には月光が差し込み、不吉な静謐さを漂わせている。
青白い光が床を照らし、まるで薄氷が張ったかのように寒々しい輝きを放つ。
その薄気味悪い空間を、蒼良は一人で歩いていた。
壁に映る影は幽かに揺らぎ、不気味に蠢いているようだった。
小さな靴音だけが辺りに規則正しく響き、静寂の中に吸い込まれて消えていく。
やがて蒼良は公安本部の最奥に位置する扉の前に辿り着いた。
そこで軽く息を整えると、控えめに二度ノックをする。
「――入りなさい」
扉越しに届いた声は柔らかだった。
蒼良は最小限の動作で扉を開け、中へと足を踏み入れる。
橙色のランプの明かりが薄く広がる室内で、奥の机の前に座る会長の表情には控えめな微笑が浮かんでいた。
「こんな夜更けに珍しいね、アズール」
「……お話があります」
蒼良が短く切り出すと、会長は口元の笑みを深め、ゆったりと頷いた。
「聞こう」
短い返答には明確な含みがあった。
室内に微妙な緊張が走るのを感じながらも、蒼良は表情を変えずに口を開く。
「まずはオーバーホールの今後の処遇について、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……なるほどね」
会長は頷きながら目を細めた。
その呟きが室内の空気を僅かに揺らし、二人の視線が交差する。
「優秀な君のことだ。大方、察しはついているんだろう?オーバーホールについては、君と同じ道を辿ることになるだろうね。まずは一年間、表のヒーローとして活動させる。その後、徐々に君の任務を分担させていく予定だ」
「お言葉ですが、裏の任務に関しては全て私に一任していただけないでしょうか。その方が組織全体にとっても有益かと思います」
会長は蒼良の言葉にゆるりと首を横に振り、問いを返した。
「それだけではまだ説得力に欠けるね。具体的に理由を説明してくれるかな?」
蒼良は一瞬視線を伏せるも、ややあって再び顔を上げ、明瞭な声で説明を続ける。
「オーバーホールの個性は破壊と修復ですが、特筆すべきは彼の持つ治癒の力の方です。ご存じの通り、治癒の個性を持つ人間は極めて希少であり、組織にとっても代替の効かない資源と言えます。そんな彼を積極的に前線に立たせることは愚策ではないでしょうか。万が一彼を失うようなことになれば、組織全体に与える損失は計り知れません」
蒼良の言葉に会長は口を挟まず、その説明を吟味するように耳を傾けていた。
少しの沈黙の後、組んでいた手をほどき、指先で軽く机をたたく。
「……そういえば、次にヒーローデビューするのはトゥワイスだったかな。彼についてはどう考える?」
「トゥワイスは感情豊かであると同時に精神面に不安定さを抱えています。彼は善良であるがゆえに精神的に揺らぎやすく、任務途中で破綻し、使い物にならなくなる可能性が高い。裏任務を担わせることは得策とは言えません」
蒼良はあくまでも冷静な分析を提示した。
そこに隠れ潜む私情は、表出さないと決めていた。
会長は小さく頷き、柔和な口調で問いを続ける。
「では、ホークスに関しては?」
「ホークスは表のヒーローに対して強い憧れと理想を抱いています。彼が裏の現実を目の当たりにすれば、その理想との大きなギャップに精神的ショックを受ける可能性が高い。結果として組織に反感を抱き、レディ・ナガンと同様に公安を離反するリスクさえあります。それは公安にとって絶対に避けるべき事態です」
「それでは、残るはルイナ一人か」
「ルイナは過去、自身の個性によって家族を殺害した経験があり、それが深いトラウマとなっています。最近になってようやく戦闘目的での個性使用が安定してきましたが、殺害任務に投入すればそのトラウマが再燃する可能性が高い。個性制御が再び不安定になり、任務遂行が難しくなることは、組織にとって明らかな損害となります」
蒼良は最後まで丁寧に言葉を紡ぎ、口を閉ざした。
それに応じるように、会長は椅子の背に身体を預け、悠然と足を組んだ。
肘掛に肘をつき、顎を軽く撫でながら、蒼良の顔をじっくりと眺める。
その眼差しには余裕が漂い、彼女の思惑をすべて見透かすような底知れぬ何かが宿っていた。
「君の説明はよく分かったよ、アズール。ただ、私には君の提案こそが非合理的に思えるがね」
会長は一呼吸置くように目を閉じて沈黙した。
それから瞼をゆっくりと開き、静かな威圧感を込めて蒼良に言葉を投げかける。
「君は組織の利益を最優先としているようだが、その結果、自分自身にあらゆる負担を背負わせている。そのやり方に伴う危険性を、君自身はどう考えているのかな?」
会長の問いかけに、蒼良は動じず真っ直ぐな視線で返答する。
「現状では私が任務を一元的に担当することが最も効率的だと判断しています。それぞれが最適な役割を果たすことが、組織全体にとっての最良の選択です」
会長は深く息を吐いてさらに椅子に身体を沈め、眉を上げて興味深そうに蒼良を見つめた。
「だが、その負担が君の限界を超えた時はどうする?その時は君が守ろうとしている者たち――ホークスやトゥワイス、ルイナやオーバーホールがその尻拭いをする羽目になる。その覚悟はあるのかい?」
その問いが放たれた瞬間、蒼良の瞳が限界まで見開かれた。
全身の筋肉が硬直し、血管の中を氷水が流れるような冷たい感覚が迸る。
硬直したまま視線だけが会長を見据え、その胸中では言葉にできない感情がぶつかり合い、内側から蒼良を引き裂こうとしているかのようだった。
「君がいかに優秀でも、限界は必ず訪れる。一人で全てを背負い込もうとした者が破綻する様を、私は何度も見てきた――そう。あのレディ・ナガンのように」
その名前を聞いた瞬間、蒼良の身体が凍りついたように動きを止めた。
目の前で他人事のように彼女を引き合いに出す会長の言葉を理解できなかった。
火伊那をあのような状況に追い詰めたのはこの組織であり、この男こそがその中心人物であるというのに。
硬直した様子の蒼良を眺めながら、会長は口元に薄い笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。
「まあいい、現状では君の意見を尊重しよう。君は公安にとって必要不可欠な存在だからね。その意見を無下にするのは賢明ではない」
言葉が途切れると、室内には再び沈黙が訪れた。
ランプの光が二人を静か照らし、会長の視線だけが蒼良の無表情の裏に潜む動揺をじっと観察し続けていた。
「……ご理解いただき感謝いたします。それでは、私はこれで」
蒼良は抑揚を抑えた声で短く述べ、深く一礼すると出口に向かって歩き出した。
その足取りは整然としていたが、服の裾を掴む指先は微かな揺れを帯びていた。
その小さな背中を、会長は椅子にもたれかかったまま見送った。
やがて蒼良が扉を押し開け、廊下の闇へと溶け込んだ後。
再び訪れた室内の静けさの中、ゆったりと椅子に身を沈めながら目を閉じた。
「……随分と人らしくなった」
ランプの光が作り出す薄い影に包まれたまま、それ以上は何も語らず、机の書類に視線を戻す。
完全な静寂が部屋を満たし、彼はまるで何事もなかったかのように淡々と次の作業へと移っていった。
一方、廊下へ出た蒼良は、息苦しさに似た重圧に襲われていた。
身体の奥底から得体の知れない鈍い疼きが広がっていく。
だが表情は決して崩さず、胸に込み上げるものを飲み込むように拳を握った。
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朝、公安本部のロビーでは、澄み渡る陽光と心地よい喧騒が穏やかに調和していた。
磨き抜かれた白い床には窓から差し込む陽射しがゆったりと流れ込み、ところどころに置かれた観葉植物がみずみずしい緑の葉を揺らしている。
出勤や業務準備に忙しく動き回る職員たちが行き交うロビーは活気に満ち、これから始まる一日の息吹に溢れていた。
そんな爽やかな朝の空気を一段と賑やかにしているのは、幼い転弧の弾むような声だった。
「いいなぁ、いいなぁー!僕も早くヒーロー免許欲しい!アズちゃんと一緒に任務に行きたい!」
小さな両手を握りしめ、瞳を子犬のように輝かせる転弧が、隣に立つ蒼良と廻を交互に見上げながら地団太を踏んでいる。
その愛らしい姿に、通りかかる職員たちの頬は自然と緩み、微笑ましい視線が注がれていた。
そこへ芝居がかった仕草で胸を大きく張りながら、仁が意気揚々と割り込んでくる。
「可哀想になぁ、ルイナ。俺はもうすぐあっち側だけど、お前にはまだまだ先の話だもんなぁ。羨ましいか?羨ましいだろ?」
「馬鹿かお前。俺がアズのサイドキックになれたのは、この個性の有用性ありきだ。お前なんて、道端で拾った割れクリップくらいの価値しかないだろ」
「割れクリップの価値って何!?」
無慈悲な廻の一言に、仁は一瞬固まった後、胸を押さえて劇的に崩れ落ちた。
「酷すぎねぇか?アズール、俺胸が痛ぇよ……心療内科の領収書って労災で落とせるんだっけ……?」
「アホに支払われる労災は存在しない」
嘆く仁。辛辣な廻。そこに目良が、表情一つ変えずに追い打ちをかけてくる。
「申し訳ないんですけどね、馬鹿に効く保険、僕も知らないんで……」
「待って、これって俺が悪い流れなの??」
仁のツッコミがロビーに響くと、周囲にいた職員たちがこらえきれずに小さく吹き出す。
書類を持った女性職員などはあからさまに仁に背を向け、年配の職員も口元を隠しながら肩を震わせていた。
「おい、何だよこの公開処刑……!」
弱々しく呟いた仁をよそに、目良は疲れ切った顔つきのまま、ゆっくりと廻のもとへ近づいた。
青白い顔色と目元深く刻まれたクマは、彼が最近ほとんど休息を取れていないことを如実に物語っている。
「というかオーバーホール、君一人の功績みたいな顔をしてますけど、君をアズールのサイドキックにするために僕がどれほど奔走したか分かってますか……?」
悲痛な訴えを投げかける目良に対し、廻は興味なさげな視線を軽く流し、素っ気なく言い放つ。
「ご苦労だったな。一応感謝はしてる」
「驚くほど伝わってこないんですが!?僕が推薦状を何度修正したか知っていますか?キーボードを叩きすぎて指が悲鳴を上げてるんですよ!」
目良が自らのクマを恨めしげに指差しながら熱弁を振るったが、廻は既に視線を逸らしてしまっていた。
その無関心な態度に目良はがっくりと肩を落とし、小さな溜息をついて項垂れる。
少し離れた場所では、啓悟が腕を組み、ヘラりと軽薄な笑みを浮かべてその光景を眺めていた。
だが、その視線の先にあるのは廻でも目良でもなく、静かに佇む蒼良一人だ。
表向きは軽い調子を崩さないが、啓悟の瞳の奥には微かな憂いと秘められた深い心配が揺れている。
視線を向けられていることに気づいた蒼良がふと振り返ると、啓悟は笑みを浮かべたまま、ひらりと小さく手を振って見せた。
やがてゆったりとした足取りで廻に近づき、冗談めいた口調で告げる。
「オーバーホール、アズちゃんのこと、よろしくね。しっかり守ってあげて」
「なんか最近のホークス、後方彼氏面しがちじゃない?」
眉をひそめ、不快そうに文句を垂れる転弧の指摘に、啓悟は一瞬片眉をひょいと上げたが、すぐに余裕のある笑みを浮かべた。
「あら、バレとった?」
軽口を叩いて見せる啓悟だが、事実、この場に啓悟以上に蒼良を理解している者はいない。
あの幻術の夜から数か月――啓悟は蒼良の凄惨な過去を知り、痛みと共に深く刻まれたその記憶を、誰にも悟らせることなく隠し通していた。
それどころかあれ以降、蒼良自身とすら一度もその話題に触れたことはない。
今や二人の間には、あの日見た記憶の断片について、無暗矢鱈に触れてはいけない暗黙の了解が成り立っている。
「お前が俺に指図するな。言われなくても分かってる」
「んじゃ、ホントによろしく」
不機嫌そうに舌打ちを落とす廻に、眉を下げつつ念を押せば、廻はそれを背中で聞き流しながら蒼良の方に顔を向けた。
「そろそろ時間だ。行くぞ、アズ」
「うん。それじゃあ、行ってきます」
柔らかな朝の陽射しに包まれながら、二人の足音がロビーから離れていく。
その背中が光に溶け込んでいく様子を、啓悟は何気ない素振りを保ちながらも、内心深い憂いと共に、そっと見送り続けていた。