公安本部、特別応接室。
重厚な木製の扉が静かに閉じると、家具用オイルの香りがふわりと部屋に漂った。
整然と配置された調度品の一つ一つは品格を放ち、室内の空気に落ち着きを与えている。
ブラウンの革張りソファにはオールマイト――八木俊典が姿勢を正して座っていた。
その表情は一見穏やかだが、僅かに強張った口元が、彼の内心にくすぶる不安を物語っている。
彼の右側にはサー・ナイトアイ――佐々木未来が座り、扉に向けるその鋭い視線には警戒と好奇の微妙な混合が浮かんでいた。
眼鏡の奥の瞳は冷静だが、その指先が無意識に膝を叩いている様子が、心の底に潜む苛立ちを露わにしている。
静寂が満ちる中、やがて衣擦れの音を伴って扉がそっと開かれた。
「お待たせいたしました、オールマイト」
低く明瞭な声が静けさを破る。
その声の主は公安の副会長であり、金髪をきつく後ろに撫で付け、鋭く吊り上がった眼差しがその強い意志を窺わせていた。
そんな彼女の背後には、控えめな動きで寄り添うように、もう一人の若い女性が続いている。
副会長が立ち止まると、その陰にいた女性が一歩前へ出た。
「こちらが今回の案件で貴方と協力することになる公安所属の特務エージェント、コードネーム『アズール』です」
「アズールと申します。よろしくお願いいたします」
紹介された女性――蒼良が丁寧に一礼すると、室内の空気が微かに揺れた。
未来は瞬時に目を細め、注意深く値踏みするような視線を蒼良に向ける。
肩まで流れる黒髪は艶やかな光沢を帯びている。
透き通るような白い肌と精巧に整った顔立ちは、人工物のような完璧さを感じさせる。
だが何より未来の視線を捉えたのは、その蒼く冷え切った湖面のような瞳と、背から広がる蒼い翼だった。
目の覚めるような美しい翼は微動だにせず静止しており、その静謐さが彼女自身を感情を持たない人形のように見せていた。
『アズール』――その名は最近のヒーロー業界で急速に注目され、新進気鋭の謎多きヒーローとして若者たちの間で熱狂的な支持を集めている。
秘匿主義を貫き、メディア露出を徹底的に避けるその姿勢が、かえって民衆の彼女に対する興味と憶測を煽っているのだ。
だが一方で、その詳しい経歴や活動の実態がほとんど明らかにされていないことから、漠然とした不信感を抱く声も少なくない。
そして、それはも未来も例外ではなかった。
特に、彼女が公安に所属しているという事実が今日のこの瞬間まで完全に隠されていたこともあり、その背景や意図について、自然と疑念が深まっていくのを感じていた。
俊典に近づく者を無条件で受け入れるわけにはいかない。
そんな思いが未来の心の中で強く反響し、静かな敵意が胸中に広がっていく。
だが、そんな未来の視線にも蒼良は全く動じず、涼やかな表情を崩さない。
彼女はただ、冷えた蒼い瞳で未来の視線を真っ直ぐに見つめ返してくる。
その掴みどころのない態度が、未来の内にさらなる警戒心と不安を呼び覚ました。
「我々公安は、最近頻発しているヴィラン事件に『オール・フォー・ワン』という人物が関与している可能性を掴んでいます。また、彼に最も多く接触しているのがオールマイト、貴方であるということも。ただ、現在我々が得られている情報は断片的で、不明瞭な部分が非常に多いのです」
副会長は慎重に言葉を選びながら説明を始めた。
その内容を耳にした瞬間、俊典の表情には動揺が走り、眉間の皺が深く刻まれる。
彼の瞳には明らかな苦悩が滲んでいた。
「……なるほど。やっと分かりました。それで私に協力を求めてきたというわけですね」
俊典は納得したように頷き、しかし長い沈黙を挟んだ後、苦し気に首を横に振った。
「申し訳ありませんが、協力は難しい。オール・フォー・ワンは極めて危険な存在だ。それに、これは私自身の問題でもある。彼女のような若く未来ある人間を巻き込むわけにはいきません」
俊典の言葉は穏やかだが、はっきりと拒絶を示していた。
その奥には彼自身の責任感や配慮が色濃く滲んでいる。
しかし、副会長は毅然とした態度を崩さず、小さく顎を引くと隣の蒼良に視線を移した。
「お気遣いは重々承知しております。しかし、アズールは若さに似合わぬ確かな実力と冷静な判断力を持ち、我々公安が絶大な信頼を置いているヒーローなのです。あなたが持つ経験と力、そして彼女の能力とが合わさったとき、初めてこの脅威に正面から立ち向かうことが可能になると考えています」
「……彼女の意志はどうなのですか?」
俊典は、先ほどから話題の中心にいるにもかかわらず、蒼良が一切の感情を表さないことに微かな違和感を覚えていた。
その無機質な瞳の奥には何があるのかと、小さな疑問が頭に浮かぶ。
その真意を確かめようと口を開きかけたその瞬間、未来がそっと穏やかな動きで俊典を制止した。
「オールマイト、少し待ってくれ」
未来は視線を俊典に投げると、蒼良へと歩み寄っていく。
その表情は落ち着いているが、眼鏡の奥の瞳には消えぬ疑念がちらついている。
「初めまして、アズール。サー・ナイトアイと申します。オールマイトは何でも一人で抱え込む傾向がありますから、私個人としてはチームアップ自体は悪い話ではないと考えています。もちろん、あなたの能力や人となりが信頼に足ると確認できれば、喜んで手を組ませていただきますよ」
友好的な声音で言いながら、未来は握手の手を差し出した。
「ちょっと、サー。そんな勝手に……」
俊典が戸惑いの声を漏らしかけると、未来は微笑みながら軽く首を振る。
「私はあなたのサイドキックだ。こういう時に動くのが仕事だろう?」
未来は朗らかな表情を崩さぬまま、丁寧に差し伸べたその手を蒼良へと近づけた。
そして指先が触れ合う寸前、未来は視線を蒼良の瞳に合わせ――その瞬間、個性発動の条件が整い、意識を強く集中させた。
しかし、対する蒼良の反応はあまりにも迅速だった。
無表情のまま蒼い瞳が冷徹に光ったかと思うと、次の瞬間には背後の蒼翼から青い短刀を生み出し、流れるような動作で未来の喉元に突きつけていた。
その動きは完璧に統制され、一切の無駄も迷いも感じさせない。
未来は予期せぬ出来事に目を見開き、息を詰めた。
喉元に触れる刃先の感触が彼の心に鮮烈な衝撃を刻み込む。
「……このような場での不用意な個性使用は、敵対行為とみなされても仕方ありませんよ」
蒼良の落とした冷たい声に、周囲の空気が瞬時に張り詰める。
俊典は言葉を失い、ただ呆然とその光景を見つめていた。
「アズール、刀を下ろしなさい。無礼が過ぎるわ」
凛とした副会長の叱責が室内の空気を切り裂いた。
その声音には明確な非難が込められ、抑えられた怒りがはっきりと感じられた。
蒼良は副会長の言葉に従い、ゆるやかに短刀を下げると、まるで何事もなかったかのように冷静な佇まいを取り戻す。
「サー、君もだ。協力者に対して事前の了承なく個性を使うことは感心できないよ」
俊典が諭すような口調で言うと、未来は険しい表情を保ちながら下ろした手を握りしめ、視線を蒼良から離さないまま口を開いた。
「……すまない。今回は私がやり過ぎた」
短い謝罪の言葉は発したものの、未来の目にはまだ解けない警戒が色濃く宿っている。
対する蒼良は未来の視線を受け止めてなお動じることなく、副会長の横で直立不動の姿勢を保ったままだ。
副会長はため息をつき、再び場を整えようと口を開いた。
「まずは実際に協力して任務を進めてみてください。その中でアズールの実力を見てから、改めてご判断いただければと思います。……どうかよろしくお願いいたします、オールマイト」
俊典は渋々といった表情で頷き、指を組み合わせた両手を膝の上に置いた。
「少し、彼女と我々三人だけで話をさせていただけませんか?」
副会長は一瞬躊躇うような様子を見せたが、すぐに表情を和らげて承諾を示すように頷いた。
「承知しました。では、私は失礼いたします。アズール、くれぐれも失礼のないように」
副会長が整然とした足取りで部屋を退出すると、室内は俊典、未来、蒼良の三人だけの静けさに包まれた。
俊典は座ったまま手を伸ばし、対面に並んだ椅子を差し示す。
「立ったままでは落ち着かないだろう、アズール。座って楽にしてくれないか?サー、君もだ」
促されるまま、蒼良は素直に椅子に腰を下ろした。
未来はまだ納得していない様子で腕を固く組んだまま、少し躊躇した後に俊典の隣に座り直す。
俊典はそんな二人の様子を観察しながら苦笑を浮かべ、努めて穏やかな口調を意識して蒼良と向かい合った。
「君が公安のヒーローだったとは……正直、驚いているよ。全く気づかなかった」
「申し訳ありません。立場上、公にするわけにはいかなかったんです」
「いいんだ、責める意図は微塵もない。私が気にしているのは、ただ……」
俊典は深く息を吐き出し、片手を軽く額に当てて瞼を閉じ、少しの間思案するように沈黙する。
やがて手を下ろし、真摯な眼差しで蒼良を見据えた。
「……今回の敵は非常に危険で強力だ。私自身、何度も命を脅かされてきた。ましてや君のように若いヒーローにとっては、五体満足で任務を終えられる保証はどこにもない。その事実を踏まえた上で、君自身の意思を確認したい」
俊典の声には強い憂慮がはっきりと滲んでいた。
室内の空気が徐々に重苦しくなり、再び静寂が訪れる。
その沈黙を破ったのは、蒼良の平坦な声だった。
「私はただ、与えられた命令に従うだけです」
それは落ち着きと同時に、どこか渇いた諦念が含まれているような返答だった。
俊典の表情に、戸惑いと困惑が交錯する。
「それでも私は君の本心を知りたい。その答えを聞けなければ、私はこのチームアップには同意できない。君が本当に自分の意思で選んだ道なのか、それとも――」
俊典が言葉を選びかねていると、蒼良は緩慢な動作で首を横に振った。
蒼く澄んだ瞳には何の感情も映し出されず、底なしの空虚が広がっている。
その視線が、俊典の胸中に漠然とした不安を呼び起こした。
「……どうでもいいんです」
呟くように放たれた虚ろな言葉は、窓の外から射し込む陽光でさえ色褪せて感じられるほどの冷淡さを帯びていた。
俊典の表情から穏やかさが消え去り、自然と口元が固く引き締まる。
隣に座る未来もまた鋭い視線をさらに細め、胸元で組んでいた腕に力を込めた。
張り詰めた沈黙の中、蒼良は悠然と窓の外へ視線を移し、膝の上に重ねて置いた手を整え直した。
その横顔にはうっすらと影が宿り、瞳はどこか遠くをぼんやりと見つめるように揺れている。
ゆっくりと瞼が閉じられ、再び開かれたその瞳に浮かぶ影は、さらに濃く暗くなっていた。
「ただ……その脅威が私の周囲にまで及ぶのであれば、早めに対処するまでです」
静かな口調とは裏腹に、蒼良の言葉には底冷えするような重たい覚悟が込められていた。
その瞬間、俊典の胸中に警鐘が響き渡り、蒼良が抱える得体の知れない危うさを直感的に感じ取った。
――この子からは、決して目を離してはいけない。
俊典は意識的に呼吸を整え直し、両手を膝の上で握りしめると、改めて真剣な眼差しを蒼良に注いだ。
「……分かった。まずは共に任務を進めていこう。本格的なチームアップについては、その上で判断させてもらう」
未来は俊典の言葉に眉をひそめ、依然として警戒の視線を蒼良に向け続けたが、異論を口にすることはなかった。
「それと、今回の案件は非常にデリケートだ。仮に協力体制を築くことになったとして、我々としてもすぐに全ての情報を提供することは難しい。お互いに少しずつ信頼関係を深め、徐々に情報交換を進める必要があると考えているのだが、その点についてはどうだろう?」
「公安としても同じ考えです。一歩ずつ着実に信頼を築いていければと思います」
蒼良の返答に、俊典は安堵したように微笑んだ。
「よかった。焦らず、慎重に進めていこう」
話がおおよそまとまったところで、それまで沈黙を守っていた未来が、苛立ちを隠そうともせず口を挟む。
「これはあくまでも仮協定ということをお忘れなく。あなたがどういう人物なのか、しばらくは私がしっかり観察させてもらいますから」
「当然のことだと思います。どうぞご自由に」
挑発的な物言いにも、蒼良は表情一つ変えずに応答する。
未来の眉がさらに険しく吊り上がり、警戒心はむしろ一層強まっているようだった。
しばらく張り詰めた沈黙が続いた後、未来は静かながらも圧のある口調で問いかけた。
「――ヒーローにとって、一番大切な資質が何かご存知ですか?」
突如向けられた問いに、蒼良は一瞬目を丸くして、困惑気味に返答する。
「……強さでしょうか」
「ユーモアです」
自信たっぷりの即答だった。
予想外すぎる解答に、蒼良の翼はまるで雷に打たれたかのような衝撃を受け、ぶわりと大きく膨らんだ。
そんな二人を目撃した俊典が慌てて手を振り、急いで割って入ってくる。
「いや、アズール!あくまでもサー個人の持論だからね?そこまで真に受けなくても……!」
しかし俊典のフォローなど気にも留めず、未来はますます真面目な表情で熱弁を振るう。
「ユーモアなき社会に明るい未来などあり得ません!人の心を解きほぐし、絆を強める最も重要な要素、それこそがユーモアなのです!」
まるで歴史を揺るがす重大な事実を宣言するかのように未来が言い切ると、蒼良は完全に混乱した様子で懐から小さなノートを取り出し、慌ただしくペンを走らせはじめた。
それはまるで今後の人生を左右するほどの深刻な教えを書き記すような真剣さで、俊典は唖然としてしまう。
「あ、あの、サー……?」
たまらず軽く咳払いし、俊典が助け舟を出そうとしたが、未来は毅然と片手をあげてそれを制した。
「よろしいですか、アズール?ユーモアとは社会を豊かにするための鍵。ですが残念ながら、あなたにはこれが致命的に欠如している!」
容赦ない断言に、蒼良の翼が再び勢いよく膨らみ、動揺した様子で目を泳がせ始めた。
眉間に皺を寄せ、真剣そのものの表情でおずおずと問い返す。
「……そのユーモアというものは、具体的にはどうしたら身につくのでしょうか?」
「ユーモアの身につけ方を他人に真面目に質問している時点で、あなたが面白味に欠ける人間だということは既に明白ですね」
蒼良の真摯すぎる問いに、未来は深々とため息をつき、眼鏡を押し上げて容赦ない追撃を放った。
その言葉を受けて蒼良の翼はもはや収拾がつかないほどに膨らみ、動揺のあまり、持っているペンが小刻みに震え出している。
「あぁっ、もうやめるんだ、サー!さすがに君、ちょっと言いすぎだよ!」
俊典が焦りながら慌ただしく未来を止めようとするが、未来はまったく意に介さない。
一方、蒼良は真剣な表情を崩さず、ただひたすらに混乱したまま固まっていた。
真面目すぎる二人のあまりにも馬鹿馬鹿しいやり取りを前にして、俊典は深くため息をつくと、疲れ切ったように顔を覆って小さくぼやいた。
――これは思った以上に前途多難な道のりになりそうだ、と。