郊外の人里離れた丘の頂に放置された、かつて星々を観測するために造られた古い天文台。
円形のドームは長い年月を経て朽ち果て、錆びついた鉄骨が露わとなり、屋根の一部が抜け落ちている。
残った天蓋の隙間からは細く、頼りない月明かりが差し込み、暗がりに陰鬱な影を落とす。
薄暗い天文台内部には、巨大な望遠鏡が今もなお不自然な角度で空を指し示しているが、長らく放置され、レンズは砕け散り、表面は汚れと埃に覆われている。
望遠鏡を支える金属製の土台には深く亀裂が入り、塗装は剥がれ落ちて不規則な模様を描いている。
その天文台の中央付近に置かれた古びた木製の椅子に、一人の男――オールフォーワンが悠然と座していた。
彼はのんびりと脚を組み替え、細長い指先で肘掛けを叩く。
その微かな音が場の静寂を乱し、やがて彼の退屈そうな声が響いた。
「――公安とオールマイトが手を組んだ、か……。何て名前だったかな、確か『アズール』とか言ったか」
その言葉には明らかな無関心が漂っている。
口にした名は、オールフォーワンにとっては数多いる平凡なヒーローの一人に過ぎないのだろう。
小さくため息を漏らし、彼は椅子の背にもたれかかりながら目を閉じる。
「その情報を運んできたのは、君の背後に控える駒か。中々優秀らしいね」
彼の対面に佇む白い仮面――死柄木は黙したままだ。
その数歩後ろには赤い狗の仮面をつけた男が微動だにせず、彫像のように控えている。
薄明かりに照らされた二つの仮面が冷ややかに沈黙を続け、しばらくして死柄木がわずかな苛立ちを帯びた声を発した。
「……目障りだな。あれはもう、早急に排除しておくべきだろう」
仮面の奥で細められた目が、不快なものを見据えるように揺らめいていた。
オールフォーワンは首を傾け、穏やかな笑みを唇に浮かべながら眉を上げる。
「排除、か。ずいぶんと急な話だ。そこまで警戒するほどの存在じゃあないだろうに」
死柄木は一瞥も返さない。
代わりにゆっくりと首を巡らせ、背後で控える男へと視線を向けた。
「消しておけ。敵に回る可能性があるなら、面倒になる前に処分する」
冷淡な指示を受け、赤い仮面の男は深々と頭を下げたのち、抑揚を抑えた声音で口を開いた。
「……念のためご報告申し上げますが、彼女は既に写輪眼を覚醒しています」
その一言が放たれた瞬間、地下室の空気がぴたりと静止した。
死柄木の身体がはっきりと強ばり、仮面の奥で目が見開かれる。
その衝撃的な情報が徐々に意識に浸透し、驚愕はやがて密やかな歓喜へと転じていった。
「写輪眼……だと?」
低く掠れたその呟きには抑えきれぬ驚きと歓びが滲み出ている。
その意外な反応を見て、オールフォーワンは初めて興味深げに身を乗り出した。
「『写輪眼』とはまた珍しい響きだね。君がそこまで執着するなんて、一体どのような代物なんだ?」
彼の声は品のある落ちつきを保っているが、その瞳は好奇心に満ち輝いている。
しかし、死柄木はそんな彼を冷ややかに突き放した。
「貴様に答える義理はない」
短く吐き捨てられたその言葉に、オールフォーワンは動じることなく、むしろ微笑を深めていく。
「つれないなぁ。あんな反応を見せられたら、私も多少は気になってしまうよ。その『アズール』とやら、ぜひ生かしておいてくれよ?」
死柄木は無言で身を翻した。
その動きには明確にオールフォーワンを拒む意思があり、これ以上対話を続けるつもりがないことを如実に示している。
「言われるまでもない」
素っ気ない返答を残し、死柄木は出口へと向かい歩き始める。
割れたガラス片や散らばった星図の破れた紙片が歩みに合わせて音を立て、その背後には赤い狗の仮面の男が影のように続いた。
「それにしても、君がここまで一人に固執するのは珍しいね。何か個人的な理由でもあるのかい?」
背を向け去りゆく死柄木へ、オールフォーワンの探るような言葉が投げかけられた。
その声には愉悦と興味が絡み合い、不穏な響きを帯びている。
死柄木の歩みが一瞬止まり、仮面を背後へと巡らせた。
「あれは私にとって決定的な誤算だった……忌々しい存在だ」
低く告げられたその言葉には、抑え込まれた怒りと怨念が滲み出ている。
「ほう、誤算か。面白いね、ぜひとも詳しく聞かせてもらいたいものだ」
「……いずれ分かる」
死柄木はそれ以上答えることなく視線を前方に戻し、年月を経て錆びついた鉄製の扉へと辿り着いた。
扉に手を掛けると蝶番が重苦しく軋み、天文台の外気が冷たく吹き込んでくる。
その先には一層深い闇が口を開け、彼を待ち受けている。
死柄木と赤い仮面の男は無言のままその暗闇へと踏み込み、ほどなくしてその姿は完全に見えなくなった。
「なるほど……随分と含みのある言い方だ」
残されたオールフォーワンは薄い笑みを浮かべたまま、椅子の背に深く身を沈めた。
その呟きは柔らかく響き、月光が照らす暗い室内に溶けていく。
指先が優雅に肘掛けを撫で、その動きに合わせて視線はゆったりと虚空を漂う。
「だが君がどれだけの秘密を抱えていようと――最後にすべてを呑み込むのは、この私だ」
穏やかな声音の奥には、揺るぎない自信と狂気が滲んでいる。
彼は鼻歌を口ずさみながら、自らの内に秘めた策謀をゆったりと巡らせ始めた。
偽りの協力関係と隠された本音が複雑に絡み合う微妙な均衡。
その糸がやがて切れるその瞬間を、オールフォーワンは静かな歓びとともに待ち焦がれている。
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子供たちが寝静まった夜、キッチンの中で、冷は震える指先を受話器へと伸ばした。
受話器を耳に押し当てると、呼び出し音が心臓の鼓動に重なり合う。
やがて電話の向こうから母の声が聞こえてきたが、冷はそれに答えることなく、堰を切ったように言葉を吐き出し始めた。
「お母さん……私、変なの。もう、どうしたらいいか分からなくて……子供たちがね……日に日に、あの人に似てくるの。焦凍なんて……あの子の左側を見てると、ときどき耐えられないほど醜く感じてしまうのよ……」
彼女自身、自分が何を言っているのかよく理解できていない。
ただ、心に抱え込んだ苦痛が次から次へと言葉となってこぼれ落ち、止めることができなかった。
電話の向こう側で母が心配そうに何かを言っているのは分かるが、それらが冷の耳に届くことはない。
ただ、押しつぶされそうな不安や絶望感だけがその胸中を満たしていた。
受話器を手にしたまま、やかんに水を注ぎ込む。
金属の表面が小さく揺れ、キッチンにぽたぽたと細い水音が響いた。
冷の指先は震えを止められず、水が乱れてシンクに零れ落ちる。
止まれと思っても止まらない。
心拍が速まり、焦りは焦りを呼び、指先の震えはますます激しくなっていく。
轟家は、いつしか張り詰めた糸のように緊張を孕んでしまっていた。
まだ五歳の焦凍は、毎日のように炎司に強引に腕を掴まれて訓練に連れて行かれる。
嫌がる素振りを見せても力強く引きずられ、泣きそうな顔で振り返る焦凍を、冷はただ見送ることしかできない。
訓練終わりの焦凍は酷く疲弊していて、まるで魂を抜かれたかのような表情で冷の元へと返ってくる。
冬美はいつも何か言いたげに寂しそうな微笑みを浮かべ、夏雄は溜まり続ける不満を隠そうともせず、無言の圧力を部屋中に撒き散らす。
そして十三歳になる燈矢は、一年前から突然、家族に対してよそよそしく冷淡になった。
家で過ごす時間は日に日に減り、家族と視線を交わすことすらほとんどなくなっていた。
何を考えているのかも分からず、遠ざかっていくその背中を見るたびに、冷は深い悲しみに襲われた。
それらすべてが心に鋭く突き刺さる。
子供たちがあんなにも苦しんでいるのに、母親である自分は何もできない。
ただ怯え、夫に抵抗する勇気も持てずにいることが、どうしようもなく辛かった。
「……ごめんなさい。私、もう……育てられない。育てちゃだめなの……」
冷の唇が小さく震え、謝罪の言葉が弱々しく零れ落ちていく。
その視線はぼんやりと、目の前のやかんを見つめるともなくさまよっていた。
やかんの中からは、微かな音が漏れ始めている。
それは次第に大きくなり、水面がざわめきを帯びていく。
無数の泡が底から湧き上がり、次々と膨らんでは弾け、水面を乱しながら激しく揺れ動き始めた。
湯が勢いを増して沸騰し、甲高い音がキッチンに響き渡る。
張り詰めた緊張が冷の胸を締め付け、無意識に拳を強く握り締めたその瞬間――やかんがひときわ大きく震え、蒸気が勢いよく噴き上がった。
「――お……母さん……?」
背後から突然、怯えを含んだ声が聞こえた。
冷の身体はびくりと跳ね上がり、肩が揺れた。
息を詰め、ゆっくりと恐る恐る背後を振り返る。
そこには、小さな両手を胸の前で握り締め、不安げに眉を寄せて佇む焦凍の姿があった。
鮮烈な赤髪と透き通った蒼い瞳。
その左半身に濃厚に浮かぶ夫の面影を目にした瞬間、冷の瞳には赤い焔の幻影が広がり、視界がたちまち歪み出した。
「ひ……ッ、いや、いやぁッ、こっちに来ないで――!!」
冷の悲鳴がキッチンを震わせ、張り詰めた空気を引き裂いた。
支えきれなくなった理性が音を立てて崩れ、身体は意識とは無関係に動き出す。
震える指先が熱湯で満ちたやかんを掴み、腕は高々と掲げられた。
胸の奥では抗おうとする僅かな理性が叫びをあげるが、感情の暴走は止まらない。
視界は霞み、現実が遠ざかっていく。
次の瞬間、腕が勢いよく振り下ろされ、飛び散った熱湯が焦凍に向かって襲いかかった。
焦凍の瞳が大きく見開かれ、恐怖の色がはっきりと浮かぶ。
反射的に顔を守ろうと両腕が上がるが、硬直しかけた身体は致命的な遅れをとった。
しかし熱湯が迫り、視界が蒸気で霞みかけるその直前――素早い動きで間に誰かが飛び込んでくるのが見えた。
緊迫した空気の中、焦凍の前に立ちはだかったその人物が、襲いかかる熱湯をその身で遮った。
「……燈矢、兄?」
蒼い炎を連想させるターコイズブルーの瞳。
細いが力強く張った背筋。
焦凍がおずおずと顔を上げると、いつも家では無関心に振る舞い、外にばかり出ている長男・燈矢の姿がそこにあった。
燈矢の上半身は熱湯を浴び、衣服は肌にぴたりと張り付き濡れている。
肩から胸元にかけてじわじわと白い湯気が立ち昇り、その光景は見る者に息を呑ませるほど痛ましかった。
「燈矢……!」
冷は蒼白になった顔で口元を覆い、声を詰まらせた。
そんな彼女の視線を受けても、燈矢の表情には動揺のかけらもなく、首を傾けてさらりと言葉を返す。
「大丈夫だよ。普段はもっと熱いもん扱ってるし」
そのまま後ろを振り返ると、焦凍に向けて顎を上げた。
「焦凍、お前はもう自分の部屋に戻りな」
「でも、燈矢兄……」
焦凍は不安げに兄の濡れた姿を見上げ、小さな手が縋るものを求めるように宙を漂う。
兄の身体から立ち昇る湯気を見つめ、不安が深まり表情が曇る。
燈矢はその様子をじっと見つめ、困ったように口を開いた。
「俺はホントに平気だってば。それに、お前がここにいたってどうにもならないだろ?」
調子は軽いが、その言葉に潜む圧を敏感に感じ取った焦凍は戸惑い、視線を落ち着きなく動かした。
その目が母の方へと向きかけた瞬間、燈矢は手を伸ばし、焦凍の視界をそっと遮る。
「……お前は何も悪くないよ」
燈矢は焦凍の背中に手を添えた。
その掌は決して強くはないが、焦凍の身体をゆっくりと外へ押し出していく。
焦凍は兄の手に促されるように、肩を落としながらも素直に足を動かし始め、やがてキッチンから離れていった。
その足音が完全に途絶えると、再び訪れた静けさの中、冷の乱れた息遣いが際立って燈矢の耳に届く。
力なくその場に座り込んでいた冷が、愕然とした顔で床を見つめたまま不意に震える唇を動かした。
「ご、ごめ……、ごめんなさい……」
「……何が?」
燈矢は問いながら一歩冷へと近づいた。
瞬間、冷の身体がぎくりと縮こまり、目に明らかな怯えが走る。
そんな母親の反応を前に、燈矢は自嘲気味に唇の端を上げ、仄暗く笑った。
「はは、これじゃあ俺の方が加害者みたいだ」
冷の目前にゆったりとしゃがみ込むと、目線を合わせ、その震える瞳を覗き込むように柔らかく問いかける。
「俺が怖いの?」
冷は息を詰まらせ、何も答えられない。
視線を逸らそうとするが、それすら叶わずに瞳は微かに揺れ動くばかりだった。
「……可哀想だね、お母さん」