午後の陽が差し込むアズール事務所の執務室では、モニターに映し出されたデータやファイリングされた書類に囲まれ、黙々と作業をこなす少女の姿があった。
今年十四歳になった蒼良は、年齢を重ねるにつれて実際の任務以外にも、書類作成や報告書整理といった事務仕事を任されることが増えていた。
蒼色の瞳がパソコン画面上の細かな文字を正確に追い、華奢な指が軽やかにキーボードを叩いていく。
デスクの上には、公安本部から届いた紙媒体の報告書や任務記録が整然と並び、整理されていた。
「――アズ、少しいいか?」
その平穏な空間に、扉をノックする音と共に低く落ち着いた声が響いた。
蒼良は作業を一旦止めて顔を上げ、入口の方に目を向ける。
開いた扉の隙間から姿を現したのは、一年前からサイドキックとして蒼良を支えている廻だった。
廻は手元のタブレット端末を軽く操作しながら、蒼良に視線を向けた。
「公安本部から通信が届いてる。公園近くの住宅地で子供を狙った不審者の通報が相次いでいる件だが、覚えてるか?」
「うん、覚えてる。私への支援要請が来たんだね」
廻は画面をスワイプして表示される情報を確認しながら「話が早くて助かるよ」と相槌を打つ。
「この近隣だけじゃなく、人さらい目的の誘拐事件は最近全国的に広がってる。捕まった犯人たちは口を揃えて『依頼で動いた』と証言するばかりで、肝心な依頼主の情報はまったく掴めていないらしい」
蒼良は少し考えるように顎に手を当て、首を傾げた。
「大きな組織が関わってるってこと?」
廻が頷き、指先で画面を軽く叩いてデータを閉じる。
「公安はその線で疑ってる。犯人たちは異常に慎重で、大人やヒーローが現れるとすぐにその場から立ち去るそうだ」
「なるほど。子供の姿なら、子供たちにも自然に近づけるし、不審者にも気づかれにくいってことだね」
「その通りだ。今回、お前はアズールの姿じゃなくて普段の姿で、子供が集まりそうな場所を中心に、不審人物がいないか確かめるのが仕事だ」
「了解。オーバーホールは?」
廻は苦笑気味に肩をすくめ、手元のタブレットを机の上に置いた。
「残念だが、俺は事務所で連絡係だと」
蒼良はパソコン画面に軽く視線を落とした後、小さく頷いて立ち上がった。
「分かった。すぐに行く」
戸棚に向かい、小瓶を取り出すと、中の錠剤を一粒手のひらに取って口に放り込む。
錠剤が喉を通り過ぎると、ほどなくして成人女性から元の少女の姿へと体が小さくなっていく。
着ていた服が身体の縮小に伴って肩から滑り落ちた。
襟元が大きく緩んで白い肌が露わになり、鎖骨のラインが浮かび上がる。
廻は咄嗟に顔を背けるも、そのまま平然と着替えを始めようとする蒼良に、たまらず大声を上げた。
「人前で躊躇なく服を脱ぐなッ!!」
室内に響き渡った廻の声に、蒼良が不思議そうに瞬きをする。
そんな彼女の相変わらずな行動に、廻は深いため息をつきながら、扉を閉めて執務室を後にした。
――――――
晴れ渡った午後の公園は、眩しい日差しの中で子供たちの活気ある声が響き渡っていた。公園の中央では、数人の少年たちが輪を作り、それぞれが持ち寄ったヒーローカードを嬉々として開封している。
「やったぜ!俺、クラストだ!No.9だぞ!」
中心にいる少年――爆豪勝己が得意満面にカードを高々と掲げると、周囲の少年たちからは羨望の眼差しと歓声が湧き上がった。
「さっすが、かっちゃん!」
「トップ10とか、マジですげぇよ!」
取り巻きたちの称賛に気を良くした勝己は、一層胸を張り、その場の主役として堂々と振る舞っていた。
だがそんな中、その輪の少し外側で一人でカードを開いていた控えめな少年――緑谷出久が小さく驚きの声を上げる。
「あっ……ぼ、僕、アズール当てちゃった……!」
出久の手の中には、鮮やかな青い翼を広げる人気ヒーロー、『No.4 アズール』のカードが輝いている。
「えぇ!?アズール!?」
「すげぇ!いいなぁ!俺もアズールが欲しかった!」
少年たちは瞬く間に出久を取り囲み、そのカードを興味深げに覗き込んだ。
普段は目立たない自分に突然降り注いだ注目に、出久は顔を俯け、照れくさそうに笑いながら視線をきょろきょろと泳がせている。
少し離れた位置からその様子を見ていた勝己の表情は、徐々に苛立ちへと変化していった。
つい先ほどまで自分に向けられていた皆の称賛が、一瞬で出久に奪われてしまったのだ。それに加えて、自分が引いたクラストよりずっと上位のアズールを引いた出久に対し、勝己の胸中には面白くない気持ちが広がっていた。
「……おい、デク。そのカード、俺に寄越せよ」
突然の勝己の強い口調に、周囲の少年たちのざわめきが一瞬にして静まる。
張り詰めた空気の中、出久は焦りながらもか細い声で口を開いた。
「で、でも……これ僕が当てたカードだし……」
出久は胸元へカードを隠そうとしたが、勝己はさらに一歩踏み込み、有無を言わさぬ態度で手を差し出した。
「いいから寄こせって。デクなんかにアズールは勿体ねぇんだよ」
「や、やだ……!」
小さな声で抵抗する出久に、勝己は「無個性の癖に」と冷たく吐き捨てる。
その掌の上では小規模な爆発がパチパチと弾け、周囲にはわずかな熱気と硝煙の匂いが広がった。
少年たちは緊迫した空気に気圧され、息を呑んで一歩後ずさりする。
出久の瞳は恐怖で潤み、とうとう諦めかけたように震える手でカードを差し出そうとした。
しかしその時、突如として背後から伸びてきた細い手が、勝己の掌をぎゅっと握り締めた。
予想外の感触に勝己が驚いて振り返りながら仰ぎ見ると、水色の髪が陽光に淡く輝く少女が背後に立っている。
少女の冷静な瞳が勝己を見つめ、その手の表面から溢れ出す水が小さな爆発を緩やかに鎮めていった。
「友達のものを盗っちゃだめだよ」
少女――蒼良は穏やかだがはっきりとした口調で告げる。
勝己は一瞬戸惑いながらも、自分が皆の前で恥をかかされたことに気づき、その屈辱に顔を赤く染めて手を振り払った。
「何だてめぇ……!」
勝己が苛立ちに満ちた声をあげるが、蒼良はそれをまったく意に介することなく、出久の方へと向き直った。
「アズール、好きなの?」
突然目の前に現れた美しい少女の姿と、絶対的な存在だった勝己をいとも簡単に無力化したその鮮やかな振る舞いに、出久は完全に見とれてぽかんと口を開けていた。
数秒遅れてようやくその少女が自分に話しかけていることに気づくと、耳まで熱くなるのを感じながら、慌てて何度もコクコクと頷く。
その反応を確認すると、蒼良はポケットから数枚のアズールカードを取り出し、出久の前に差し出した。
「これ、余ってるからあげる」
「そっ……!?そんな貴重なカード、もらえないよ……!!」
ブンブンと首が千切れそうな勢いで顔を振りながらも、その瞳は差し出されたカードに釘付けだった。
「私には必要ないものだから」
きっぱりと断言する蒼良に後押しされ、出久は戸惑いながらも丁寧にカードを受け取った。
手にしたカードを見つめる出久の瞳は、抑えきれない嬉しさと感動でいっぱいだった。
「あ、ありがとう……!本当に、ありがとうございます……!」
感極まった出久の声に、周りの子どもたちも一斉に蒼良へと注目する。
「デクばっかりずるいよ!」
「俺だってアズールのカード欲しかったのに!」
少年たちが羨ましさを隠さずに口々に声を上げながら蒼良の周りに集まってきた。
「今は手持ちが少ないから、また今度持ってきてあげるね」
その言葉に、子供たちは皆嬉しそうに笑顔で頷く。
蒼良を中心とした一連のやり取りを見ていた勝己が、焦れたように口を開いた。
「おい、俺も……!」
蒼良はゆっくりと勝己の方へ振り向いた。
「友達に、ごめんって謝ろう。そしたら、貴方の分も持ってくるから」
しかし、プライドの高い勝己にとってそれは受け入れがたい提案だった。
よりにもよって、取り巻きの中でも最も能力が低く、無個性で、何もできない出久相手に、自分が頭を下げるなど考えられるはずもなかった。
唇を噛み締めながら目を逸らす勝己。
その様子を心配そうに見ていた出久は、意を決したように声を上げた。
「あ、あの……!」
出久の控えめな声がその場の全員の注意を引く。
緊張に縮こまりながらも、出久は勇気を振り絞って蒼良を真っ直ぐに見つめて言った。
「僕、もう……大丈夫、です。だから、えっと、かっちゃんにもアズールのカードを……」
出久の思いやりに溢れた言葉を聞き、途端に勝己の表情が険しくなる。
再び掌を広げると、激しい爆発を起こしながら大声で叫んだ。
「偉ぶってんじゃねぇ!デクのくせに……ッ!お前が、俺に何かしてやろうだなんて思い上がんな!」
しかし、その怒りの爆発もすぐに鎮火されてしまった。
蒼良が素早い動作で勝己の手を掴み、その掌の火花を瞬時に消し去ったのだ。
「まだ小さいのに、難しい言葉を沢山知ってるんだね」
「触んなっ、放せ!当たり前だろ!俺をデクなんかと一緒にすんな!」
その時、蒼良の通信機が振動し、短い着信音が響いた。
蒼良は手早く通信機に耳を当て、相手の声を聞いた後、小さく頷く。
「分かった。すぐ向かう」
蒼良は通信を切り、子供たちに視線を戻すと真剣な口調で手短に告げた。
「最近この辺りは物騒だから、皆も今日はもう帰った方がいい」
「俺に指図すんじゃねぇ!」
勝己が蒼良の言葉に反応し、さらに苛立った様子で吠える。
蒼良はその怒りを受け流すと、袖の中に隠し持っていた監視用の羽を一枚取り出し、そっと足元の地面に落とした。
「自分が一番でありたいなら、力だけじゃなく心も鍛えるといいと思うよ」
そう言い残すと、蒼良は振り返りもせず素早くその場を後にした。
残された勝己はしばらく呆然としていたが、次第に自分が上から目線で諭されたことに気づき、怒りと屈辱で全身を震わせ、遠ざかる蒼良の背中に向かって叫んだ。
「はああ!?何様のつもりだよてめぇ!!」
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家のドアを開けた瞬間、鼻をくすぐる美味しそうな晩御飯の匂いが出久を迎えた。
「ただいまー!」
靴を脱ぎながら元気よく声をかけると、台所から母の引子が顔を覗かせる。
「あらおかえり、出久。今日は遅かったのね」
「あのね、お母さん!今日、公園ですごいことがあったんだ!」
リビングに入ると、ソファに鞄を置きながら母を振り返った。
「なあに、そんなに嬉しそうに」
目を輝かせながら早口に話す出久を見て、引子は微笑みながら相槌を打つ。
「みんなでヒーローカードを開封してたんだ。そしたら僕、アズールのレアカードを当てちゃって、みんなもすごく羨ましがってて!でも、かっちゃんがそれを欲しがって……えっと、ちょっと怖かったんだけど……」
出久は一旦息を整え、続きを話す。
「その時、綺麗なお姉さんが突然現れて、かっちゃんを宥めてくれたんだ。水色の髪で、強くて落ち着いてて、ヒーローみたいだったんだよ。それでね、そのお姉さんが僕にたくさんカードをくれたんだ!ほら見て、こんなにあるんだよ!」
出久は得意げに鞄からカードを取り出し、引子の目の前で広げて見せた。
「あらあら、綺麗なお姉さんに会えてよかったわね、出久」
「そ、そこじゃなくて……!」
自分の話をちゃんと聞いていなかったのかと、出久は口を尖らせる。
彼女は出久が理想とする、いつも笑顔の明るいヒーローとは少し違っていたが、強さをひけらかさないところや、弱者のために力を使う姿勢は、まさに出久が憧れるヒーロー像そのものだった。
「その人がね、言ってたんだ。強くありたいなら、力だけじゃなくて心も鍛えなさいって。すごくかっこよかった。ねぇお母さん、心って、どうやったら強くなるんだろう?」
愛息子の真剣な眼差しを受け、引子は笑った。
「出久はもう充分強い心を持ってるわ。だって、出久は分け隔てなく人に優しくできるでしょう?お母さんの自慢の息子よ」
「そ、それじゃあ、僕に足りないのは、あと、力だけってこと?」
引子の表情が固まり、言葉が詰まった。
「……かっちゃん、言ってたんだ。『無個性のくせに』って……。僕、やっぱりヒーローにはなれないのかな……?」
引子は何も言えず、ただ出久の肩に手を置いた。
その瞬間、蘇ったのは、四歳の頃の出久の姿だ。
多くの子供たちが個性を発現するこの時代に、息子が無個性と分かった時の、あの胸が張り裂けるような罪悪感と無力感。
どうしようもないことだと分かってはいても、無個性に産んでしまったことを、引子は深く悔いていた。
それでも引子は、この心優しく純粋な息子を何よりも愛している。
引子が願うことはただ一つ、この子が傷つくことなく幸せでいてくれること、それだけだ。
ヒーローへの夢を否定したくはなかったが、その夢の先にどれだけの挫折や苦労、悲しみが待ち受けているかと思うと、胸が痛んで仕方がなかった。
「……ごめんね、出久」
「お母さん……?」
引子は息子の顔をまともに見ることができず、俯いたまま出久の背中に優しく腕を回した。
その夜、布団に入りながら、出久は今日の出来事を何度も思い返していた。
目を閉じれば、公園の情景が鮮やかに浮かぶ。
カードをくれた少女の姿、澄んだ瞳が胸の中に焼き付いている。
出久の心には、憧れと同時に微かな痛みが混在していた。
『無個性のくせに』
行く先の見えない不安が胸の底からじわじわと広がり、薄暗い部屋の中でそっと目を閉じ、眠りについた。
___________
公園からの帰り道、勝己は一人、激しい足音を立てながら歩いていた。
「あぁクソッ、なんなんだよあのクソ女……ッ!」
地面に転がる小石を思い切り蹴り飛ばす。
石は勢いよく飛んでいき、電柱にぶつかって鈍い音を立てた。
『力だけじゃなく心も鍛えるといいと思うよ』
脳裏に蘇った少女の言葉が耳の奥で繰り返され、不快感がますます強くなっていく。
「心を鍛えろ?はぁ!?ふざけんな……ふざっけんな!俺の何を知ってんだよ、あいつは!」
彼女が掴んできた掌の感触、整った横顔、涼やかな瞳。
思い出すたびに、何も出来ずに押さえつけられた悔しさが勝己を苛んでいった。
それだけでも我慢ならないというのに、さらに神経を逆撫でするように出久の言葉が蘇る。
『僕、もう大丈夫です。だから、かっちゃんにもアズールのカードを……』
情けをかけるような、弱々しい笑顔。
今思えば、最初に出久がアズールのカードを差し出そうとしたのも、自分を憐れんでの行動だったような気がしてくる。
「デクのくせに……デクのくせに!無個性の分際でッ!」
両手が怒りで熱を帯び、小さな爆発がパンッと弾けた。
手のひらに残った僅かな硝煙の匂いが勝己の感情をさらに刺激する。
秀でたものなど何一つなく、無個性で、無力な木偶の棒のデク。
子分たちの中でも最も泣き虫で弱虫なちっぽけな存在。
そんな出久に同情されることなど、あっていいはずがなかった。
あらゆる分野において下に居るはずの出久に自分が下に見られるなど、耐え難い苦痛だった。
自宅に到着すると、勝己は勢いよくドアを開け、乱暴に靴を脱ぎ捨てる。
「おかえり勝己。どうしたのあんた、そんな怖い顔して?」
台所で夕食の支度をしていた母の光己が振り返り、不思議そうに眉を寄せた。
「うっせぇなババア!」
吐き捨てるように返事すると、そのままリビングを横切り、自分の部屋に直行する。
扉をバンっと勢いよく閉め、ベッドにそのまま倒れ込んだ。
階下から聞こえてくる母の怒鳴り声に耳を塞いで目を閉じると、またあの少女の顔が浮かんでくる。
有無を言わさず自分を押さえつけた冷たい手、こちらを否定するような冷ややかな視線。
それらを思い出すと、また得体の知れない焦燥感と動揺が胸の奥で混ざり合う。
「クソッ……次会ったら、ただじゃおかねぇ……!」
荒い呼吸を繰り返しながら、勝己は拳を固く握り締める。
自分が間違っているとは思わない。
ただ、何もできずにその場を支配された屈辱感だけが胸の中でじくじくと熱を持っていた。
いつか必ず、あの女を見返してやる――。
勝己の中で、強烈な闘争心が燃え始めていた。
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蒼良が再び薬を飲み、仮面を装着して事務所に戻った時、室内には重い空気が漂っていた。
廻が険しい表情で見守る先には、椅子に縛り付けられた一人の見知らぬ男がいる。
その顔色は青ざめ、額には冷や汗が幾筋も流れ落ちていた。
蒼良の気配に気づくと、男は焦燥に駆られたような眼差しで顔を上げ、切羽詰まった声で叫んだ。
「お前がアズールか……!?お願いだ、助けてくれ……!俺はもう終わりだ!」
傍らに立つ廻が蒼良に近づき、状況を耳打ちする。
「この男、保護を求めて自首してきたんだ。かなり混乱してるようだが、バックにいる組織について重要なことを知ってるらしい」
蒼良は頷き、男に話を促した。
「貴方が知ってる事、詳しく話してもらえる?」
男は恐怖に支配されたような震える口調で、堰を切ったように語りだす。
「俺はただ個性が欲しかっただけなんだ!金でも地位でもなく、個性を貰えるって言われたんだよ!本当に好きな個性をくれるって……!」
「好きな個性を与える?一体、誰がそんな話を?」
男の視線は定まらず、激しい動揺に囚われているようだった。
「奴らだ……大きな組織だよ。俺は末端の下っ端だから詳しいことは知らねぇ。ただ言われるがまま、若い人間を攫えって命じられてただけだ……」
男の声は次第に力を失い、口元が恐怖で震え始める。
「偶然奴らの会話を聞いちまった。『死んだ人間を蘇らせる』って話してやがった……!初めは冗談だと思った!だけど、奴らのあの目、話し方……間違いなく本気だった!」
男の叫びを聞きながら、廻が眉間に深い皺を寄せ、蒼良の袖を引いて囁く。
「死者の蘇生……?馬鹿げてる。何かの比喩か?」
蒼良は何も返さず、ただ冷静に男の言葉を待った。
男は息も絶え絶えに懇願するように続ける。
「お願いだ……守ってくれ!俺はとんでもない秘密を知っちまったんだ!奴らは容赦なく人を殺すような連中だ。情報は全部渡しただろ!?頼むよヒーロー、どうか俺を見捨てないで――」
その瞬間だった。
男は突如、目を見開き苦悶の表情を浮かべ、喉を押さえて身体をのけ反らせた。
「ぐ……あっ……!?」
喉の奥から絞り出すような苦しげな呻きが、室内に響き渡る。
男は椅子の上で激しくのたうち回り、喉元を掴んで必死にもがいている。
目は血走り、口の端からは泡が溢れ出して止まらない。
「おい!何が起きてる、しっかりしろ!」
廻が慌てて駆け寄り、男の肩を掴んで揺さぶる。
しかし男の体は異常なほどに反り返り、首筋の血管は破裂寸前まで膨れ上がっている。
「が、ぁ、助け……ッ!」
男は悲痛な声を漏らすと一度大きく痙攣し、身体は力を失いぐったりと椅子にもたれかかった。
虚ろな瞳が天井をぼんやりと見上げ、生気は完全に失われている。
廻は男の首筋に手を当て、脈がないことを確認すると、呆然とした様子で手を離した。
「自害か?いや……遠隔の口封じか」
「だと思う。彼は生に固執してた」
廻は重々しく蒼良を見つめ、低い声で尋ねる。
「あり得ると思うか?個性の贈与、死者の蘇生なんてふざけた話が」
蒼良は返す言葉が見つからず、黙って首を横に振った。
重苦しい沈黙が生まれる。
椅子の上で力なく崩れ落ちた男の姿は、迫り来る予測不能な脅威の到来を告げているかのようだった。
____________
出久はやや緊張した足取りで公園へ向かっていた。
昨日の出来事を鮮明に思い返し、胸の高鳴りを感じながら。
あの優しくて強いお姉さんにまた会えるかもしれない、そんな期待と不安が入り混じっていた。
公園に着くと、すでに遊具の周りには少年たちが集まっている。
その輪の中心には、昨日と同じように水色の髪の美しい少女がいた。
彼女を囲む少年たちは嬉しそうにアズールのカードを手にしてはしゃいでいる。
そして、その輪の中には、一人だけ鬼のような形相で怒りを露わにしている勝己の姿もあった。
「死ねぇええッ!!」
物騒な叫び声と共に、両手で次々と激しい爆発を蒼良に向けて放っている。
対する蒼良は、勝己の方には視線すら向けず、指でっぽうの先端から放たれる水の塊で、寸分の狂いなく勝己の爆発を次々と鎮火させていた。
その光景に首を傾げた出久は、近くの少年たちに駆け寄りながら声をかける。
「えっと、かっちゃんとお姉さん、何やってるの……?」
少年の一人が振り返った。
「昨日、デクがかっちゃんを許したから、お姉さんがかっちゃんにもカードを渡そうとしたんだけど、『デクの許しもてめぇの施しも受けねぇ!力づくで奪い取ってやる!』ってめちゃくちゃ理論で立ち向かってるとこ」
その説明に、出久はぽかんと口を開けた。
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
「てめぇ、この人形女!表情一つ変えねぇで余裕ぶってんじゃねぇぞ!」
「そんなに頑張らなくても、かっちゃんの分も用意してきたって言ってるでしょ?」
「かっちゃんって呼ぶなって何度も言わせんな!クソが!」
そんな二人の衝突を仲裁すべく、出久は慌てて口を開いていた。
「あ、あの……お姉さん!また会えて嬉しいです!」
「デク、元気そうでよかった。昨日は何事もなく家に帰れた?」
「は、はい!」
気を付けの姿勢で身体に力を入れて即答したものの、数秒後、出久は慌てて訂正した。
「あの、『デク』は本当の名前じゃなくて……その、木偶の棒のデクっていう意味で……僕の名前は、緑谷出久って言うんです」
もじもじと両手の人差し指を合わせる出久を見て、蒼良は驚いたように視線を勝己へと戻した。
「そうなの?かっちゃん」
「だって、無個性のデクはデクだろ!別に間違ってねぇ!」
「名前は、その人をその人たらしめる大切なものだよ。ちゃんと『出久』って呼んであげて。みんなもそうだよ」
蒼良が周囲の子供たちにも呼びかけると、アズールカードを貰ってすっかり懐柔されている彼らは、素直に「はーい!」と声を揃えた。
その光景を見た勝己の頭に血が上る。
自分がこの群れのリーダーだったはずなのに、そのポジションまで蒼良に奪われたような敗北感。
生まれて初めて感じたそれに、例えようのない悔しさと怒りが込み上げてくる。
「うるせぇ!デクはデクだ!」
「じゃあ、私もかっちゃんって呼び続けるね」
予想外の返答に勝己はさらに激昂する。
「はぁ!?俺はお前に『かっちゃん』なんて呼ばれる筋合いはねぇ!」
その愛称は親しい仲間や子分にしか許していない特別な呼び名だ。
それを蒼良に簡単に呼ばれると、まるで小ばかにされているようで、ますます苛立ちが募っていく。
「出久のことをちゃんと名前で呼ぶなら、私も君を『勝己』って呼ぶ。そうでないなら、ずっと『かっちゃん』って呼び続ける」
「ふざけんな!!この人形女が……!表情も、話し方も、全然変わんなくて気持ち悪いんだよ!」
すると、出久がすぐ隣で思わずといったようにぽつりと漏らした。
「でも、確かにお姉さんって、お人形さんみたいに綺麗だもんね……」
「てめぇデクッ!!今なんつった!?」
勝己は誉め言葉のつもりなど微塵もなかった。
なのに出久が勝手に都合よく解釈したことで、貶すためにつけたあだ名の意味合いが変わってしまうのが許せなかった。
突然の怒鳴り声に、出久はビクッと身体を震わせ、即座に蒼良の背後へと隠れた。
蒼良は右手を軽く広げるようにして出久を庇いながら、対面の勝己に向き直る。
「かっちゃん、私の名前は瑠璃川蒼良。人形女じゃないよ」
「うっせぇ!お前が俺をかっちゃん呼びする限り、俺だってお前を人形女って呼んでやる!」
「それもそうだね」
蒼良は気にした様子もなく、それをあっさりと受け入れた。
まともに取り合おうともしない彼女の態度が、ますます勝己の癪に障る。
必死になって言い返している自分だけが空回りしているようで、やり場のない怒りを抑えられなくなる。
一方、背後の出久は嬉しそうに目を輝かせ、「蒼良ちゃんって呼んでもいい?」などと無邪気に彼女に問いかけている。
周囲の子どもたちもつられるように「蒼良ちゃん!」「蒼良姉ちゃん!」と口々に明るく呼び始め、公園はすぐに楽しげな笑い声で満たされた。
そんな光景を目の前にして、勝己は自分だけが取り残されたような苛立ちを強く感じていた。
群れの中心でみんなの注目を独占する蒼良への敵意が、燃え広がって止まらない。
これみよがしに舌打ちをすると、勝己はますます強く拳を握りしめ、鋭い視線を蒼良へ向けたのだった。
「テメェだけはぶっ殺すッ!!」
ようやく主人公たち登場で嬉しい限りです。