地下一階で見た紙片に酷似したそれをじっと見つめながら、蒼良が静かに口を開く。
「やはり、先程の紙屑と同じです」
「……さっきお前が言っていた、人の気配を感じるというやつか?」
未来は眉間を指で押さえながら蒼良を見やった。
「だとしたら、これは……」
「まだ確証はありませんが、その線でほぼ確定かと」
蒼良の言葉に沈黙が落ちる。
二人の間に重い空気が漂う中、俊典だけが少し離れたところで周囲を警戒し、何かに気づいたのか急に表情を強張らせた。
「おい、二人とも……あそこを見てくれないか?」
緊迫した声に促され、蒼良と未来が視線を上げる。
俊典が指し示していたのは、中央付近に並ぶ寝台のうちの一つだった。
そこには人型の何かが厳重に拘束されて横たわっている。
黒々と光沢を放つ皮膚は異常なほど筋肉質で盛り上がり、頭部からは赤黒い脳が露出していた。
両腕と両脚、胴体を覆う鋼の拘束具は、何重にも巻き付けられ、見るからに頑丈な造りをしている。
遠目から見て、その瞼は固く閉じられて微動だにしない事が確認できる。
生きている気配は感じられず、死体のような見た目が不気味さを一層引き立てていた。
「完全に動きがないな……もう死んでいるのか?」
未来はやや警戒心を緩め、そっと寝台へと歩み寄る。
「待て、サー!念のためもっと慎重に――」
俊典が焦って声をかけようとした、その直後だった。
寝台に拘束されていた黒い身体が前触れもなく目を見開く。
不気味に光る眼球がぎらりと動き、次の瞬間には拘束具が強引な力で引き千切られていた。
「――ッ!」
咆哮が響き、異形の腕が未来に向かって猛然と振り下ろされる。
「サーッ!」
咄嗟に反応した蒼良が未来の腰に横から抱き着き、そのまま勢いよく転がって攻撃を間一髪で回避した。
転がった蒼良が素早く体勢を立て直すと同時に、敵の巨体が迫ってくる。
蒼良は振り向きざま、全身をひねって迎え撃つように蹴りを放った。
後方へ吹き飛び、背後の培養槽に叩きつけられた巨体がガラスを砕き、青白い液体が周囲に飛び散る。
しかし、敵は受けた衝撃をまるで意に介さず、その場にゆらりと立ち上がった。
その姿には痛みの様子はまるで見えず、再び蒼良に向かって走り寄ってくる。
「随分とタフだ」
蒼良は間を置くことなく動いた。
敵の肩を掴み、勢いをつけて高く跳び上がり、空中で回転しながらに地面に激しく叩きつける。
床にヒビが入るほどの威力だったが、敵は何事もなかったかのようにまた立ち上がる。
「加勢してくれ、オールマイトッ!」
蒼良の背後、未来の大声が飛び、その声に俊典が即座に反応した。
一直線に踏み込み、一気に敵との間合いを詰めると、その拳を敵の胴体へと力強く打ち込む。
「スマァァッシュッ!!」
凄まじい衝撃波が放たれ、敵は圧倒的な勢いで吹き飛ばされた。
飛ばされた身体は複数の培養槽を連鎖的に破壊し、ガラスの破片と培養液が豪快に飛散する。
俊典の隣に並んだ蒼良は身構えつつ攻撃態勢を取ろうとしたが、それを俊典が片手を挙げて制止する。
「ここは私に任せておきなさい!」
彼はもう一度大きく拳を振りかぶり、最後のとどめを刺そうと敵に向かって踏み出した。
しかし――。
「――ッ?」
俊典の足が不意に止まった。
目の前の敵の身体が突如ぐらりと揺れ、不可解なほど呆気なく崩れ落ちたからだ。
黒い皮膚には細かな亀裂が走り、そこから灰色の破片が砂のようにさらさらと漏れ出していく。
その異形の顔、口すら歪み崩れかけた顔には、濁った瞳が虚空を見つめ、無言のまま一筋の涙を零している。
「これは……まさか……」
俊典は呆然としたまま片手を口元にあて、動けなくなった。
胸の奥からこみ上げる吐き気にも似た感覚。
感情の残った、かつては人間であったかもしれないものを、自らの拳で破壊してしまったという理解。
その重い事実が彼の身体を硬直させ、呼吸すら忘れさせる。
だが、その束の間の油断を破るように、不吉な音が俊典の背後で響いた。
振り返れば、割れた培養槽の中から、異形の生物が這い出してくるところだった。
水浸しの床を這いずり、ぐちゃりと濡れた水音を響かせながら不気味な速度で俊典へと接近してくる。
一体、二体、三体。
次々と現れる異形たちは、奇妙にねじ曲がった四肢を引きずり、破裂寸前のように膨れ上がった肉体を震わせていた。
あるものは身体の表面から剥き出しの内臓を垂れ下がらせ、あるものは顔面が半分溶け落ち、肉塊の隙間から奇怪な声を漏らしている。
だが俊典はなおも動けなかった。
眼前の惨状に意識を囚われたまま、拳が震え、その瞳が揺れ動く。
「オールマイトさん、下がってください」
起伏のない声が俊典の耳に届いたと同時、蒼良の背中から蒼翼が四方八方へと広がった。
無数の羽が疾走し、異形たちの肉体を容赦なく貫いていく。
肉が裂ける生々しい音、骨が砕ける気味の悪い音が次々と重なり合う。
異形たちはなすすべなく蒼翼に突き刺され、苦痛に歪んだ叫びを上げながら床に縫い止められていった。
無情に貫かれた肉塊からは内臓や体液が飛び散り、辺りの床を醜悪な色に染め上げていく。
それでも蒼翼の攻撃は止まらない。
一際大きな異形の胸を蒼翼が穿ち、身体を裂き、肋骨を砕き、さらに床へと串刺しにする。
他の異形もまた容赦なく攻撃を受け、膨らんだ肉体が弾け、内側から破裂するように崩れ落ちていった。
悲鳴は徐々に弱まり、やがて静寂が再び研究室を支配する頃、異形の生物たちは完全に動きを止め、見るも無惨な姿で倒れ伏していた。
惨状を見下ろしながら、蒼良はゆっくりと蒼翼を引き抜いて行く。
俊典は蒼白な顔でその光景を見つめ、しばし言葉を失っていた。
「……すまない、アズール。私が躊躇したせいで、君にこんな重荷を背負わせてしまった」
深い罪悪感に苛まれながら、俊典は謝罪した。
動けなかった自分自身に対する無力感に、唇を噛み締める。
「オールマイト……、今はそんな風に自分を責めるときではない」
未来が穏やかな口調で言葉を挟んだ。
彼自身も目の前の惨状に胸を痛めていたが、俊典が必要以上に自分を追い詰めることを危惧していた。
「私たちがやるべきことは、この状況を冷静に把握して適切に対処することだ。後悔する時間は後にいくらでもある」
配慮の滲む揺るぎない未来の言葉に、俊典は重く頷いた。
未来はふと蒼良に視線を移す。
淡々と蒼翼を収める彼女には、これほど凄惨な光景を生み出した者とは思えないほど、一切の感情の揺れが見られなかった。
未来はそのあまりにも気丈な佇まいに、胸が詰まるような複雑な感情を覚え、そっと彼女の頭に手を置いた。
「……サー?」
「何でもない。ただ……よくやった」
蒼良は頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。
周囲には、まだ破壊されていない培養槽がいくつも残されていた。
中の異形たちは、先ほどの騒ぎで刺激されているのか、時折不穏に身をよじっている。
「これ以上ここで培養槽を破壊すると、また異形が暴れる可能性がある。今はこのままにしておいて、後日改めて研究専門の公安職員を連れて戻ろう」
「確かに、今はこれ以上の混乱を避けるべきだろうな……」
未来の提案に、俊典が同意を示す。
未来がさらに言葉を続けようとしたその時、蒼良がそれを遮るように口を開いた。
「地下三階に生命反応があります。異形ではなく、衰弱した人間のようです」
俊典と未来ははっと驚き、蒼良に目を向ける。
「いつの間にそれを?」
「たった今です。蒼翼で周囲と地下を探っていました。恐らく失踪した人たちが囚われています」
蒼良の落ち着きと周到な行動に、俊典は改めて驚きを覚え、未来は小さく深呼吸し、顎を引いた。
「ならば急ぐ必要がある。状況が悪化する前に、すぐに助けに行こう」
地下三階へ足を踏み入れると、そこには整然とした空間が広がっていた。
空調設備が稼働し、人工的に調整された適温の空気が絶え間なく送り出されている。
フロアの内部には、規則的に並んだ金属製の扉が配置されていた。
それぞれが個室となっており、どこか牢獄のような印象を与える。
扉には電子ロックが取り付けられ、その下部には物資の受け渡し用と思われる小さなスリットが設けられ、細長い窓からは中の様子がかろうじて確認できるようになっている。
俊典が一つの扉に近づき、個室の中を覗き込んだ。
簡素なベッド、最低限の設備。
壁に備え付けられた棚には、生活必需品と思われるものが数点、乱雑に置かれていた。
それは長期に渡り人間を収容するためだけに作られた、無機質な居住空間だった。
「やはり収容施設か……。ここが拉致した人々の住まわされていた場所ということか」
俊典の声は沈んでいた。
壁の一角に埋め込まれた小型の液晶ディスプレイには、彼らの年齢、性別、身体状態が表示されており、人間の尊厳を無視したような管理に、三人は思わず黙り込む。
その静けさを裂くように、怯えを帯びた声が小さく響いた。
「だれか……いるの?お願い、助けて……!」
その声を皮切りに、別の部屋からも切実な声が次々と上がり始めた。
絶望の淵で懸命に救いを求める人々の声が波のように広がり、地下室を満たしていく。
俊典は表情を引き締め、大きく息を吸い込むと、力強く声を張り上げた。
「もう大丈夫だ!――何故なら、私が来た!!」
その大声が室内に響いた瞬間、空気が一変した。
安堵のため息とすすり泣きがあちらこちらから漏れ出し、喜びの声と感謝の言葉が溢れかえる。
「ああ……オールマイトだ!」
「助かった、もう助かったんだ……」
歓喜に震えが広がる中、蒼良は俊典の背中をじっと見つめていた。
蒼翼がざわりと膨らみ、彼女の内心を揺らすその様子を、未来は得意げに眺めて口元を緩めた。
それから安堵の空気の中で、未来は電子錠のパネルを前に眉をひそめ、顎に手を当て考え込む。
デジタル表示を睨み、難解なシステムに頭を悩ませる。
そんな彼が二人に相談を切り出そうと振り返った瞬間――。
「うおおおおっ!」
「えい」
俊典の気合いに満ちた雄叫びと蒼良の声が重なり、左右の電子錠が同時にバキメキと破壊された。
金属と電子機器の破砕音が聞こえたと思えば、その衝撃と共に施設中に耳障りな警報ブザーが甲高く鳴り響く。
「アズール、このバカッ!オールマイト、あなたまでもがなんて迂闊なことを……!」
「だ、だって……だってほら、皆一刻も早くここから出たいだろうなと思って……」
「やってしまったものは仕方ありません。サー、協力してください。一刻も早くここから脱出しましょう」
未来の怒声に俊典が肩を落として情けなく項垂れる一方で、蒼良はいつも通り動じない態度で開き直ったように告げる。
「全く、あなた達ときたら……!仕方ない、こうなったらもう徹底的にやるしかないな」
三人はそれぞれ分担し、電子錠を次々と力任せに破壊していく。
俊典は拳で、蒼良は蒼刀を振り下ろし、未来は二人が作り出したドアの残骸を拾い上げ、渋々ながらも電子錠を叩き壊し始めた。
閉じ込められていた人々が次々と部屋から現れると、安堵と喜び、そしてわずかな混乱が入り混じった声が満ちていく。
「ありがとうございます……!俺たちは本当に助かったんですか……!?」
「安心してください、皆さん!落ち着いてゆっくり進んでください。安全な場所まで私たちが必ず案内しますから!」
俊典は頼もしい口調で人々を宥めながら誘導した。
「焦らなくて大丈夫ですよ、落ち着いて私たちについてきてください」
未来もまた柔らかい声音で、丁寧に言葉をかけて人々を宥める。
そんな二人の声掛けを聞いていた蒼良も、少し間を置いて真似るように口を開いた。
「皆さん、大丈夫です。私たちが必ず安全なところへ連れて行きます」
しかし破壊を重ねるごとに警報の音量と頻度はますます高まり、遂には警告を告げる機械音が施設内に響き渡った。
『警告。関係者以外の不正な出入りを検知。ロックシステムを作動します』
脱出を急ぐ中、俊典たち三人は声を張り上げて周囲の人々を励ましつつ、地上を目指して人々を誘導した。
しかし地下一階に辿り着くと、地上へと続く扉が完全に閉ざされ、どれだけ力を入れても開かなくなっていることに気付く。
「やはりそうか……!先ほどの警告通りだ!」
未来が目を見開き立ち尽くす。
その隣で俊典が拳を叩きつけると、重厚な扉にき裂が走った。
「離れていなさい!」
俊典がさらに力を込めて拳を振るえば、再び冷たい機械音声が室内を支配した。
『警告。セキュリティシステム作動。施設破壊工作を検知。自爆シークエンスを起動します。十秒後に爆発します』
「そんな……!」
「どうするんだよ、このままじゃ俺たち……ッ!」
人々の悲鳴やざわめきが広がり始める中、蒼良は状況を冷静に把握し、言葉を紡いだ。
「皆さん、落ち着いてください。今から私の蒼翼で脱出を試みます。暴れないで、翼に身を委ねてください」
その言葉に、人々は怯えつつも蒼良にすがるような目を向ける。
「頼むぞアズール!これで決める!」
俊典が渾身の力を込めて三度目の拳を振り抜けば、扉は粉砕され、飛び散った破片が視界を埋め尽くした。
その直後、背後で連鎖的な爆発音が響き渡り、炎と煙が通路を激しく飲み込んでいく。
強烈な爆風が施設内を駆け抜け、彼らの背中を押すように迫った。
「急いで外へ!」
俊典の叫びより早く、蒼良は蒼翼を展開していた。
その羽根は流れるような動きで人々を包んで浮かせ、猛スピードで出口へと導いていく。
爆風と熱風が押し寄せる中、彼らは勢いよく外へと飛び出した。
洋館を抜け出した瞬間、新鮮な外気が肺を満たし、人々は久しぶりに深い呼吸を取り戻す。
背後では巨大な洋館が激しい爆発を起こし、空高く炎が舞い上がっている。
砕け散った瓦礫が周囲に降り注ぎ、地面を打ちつける音が絶え間なく響く。
漆黒の煙は空を覆い尽くし、辺り一帯を暗く染め上げていた。
俊典と未来は肩で息をしながら、無事に脱出した人々の状態を迅速に確認していく。
蒼良も蒼翼を収めると、平静な眼差しで周囲を見渡した。
「もう安全だ……皆、本当によく頑張った」
俊典が穏やかにそう告げると、人々の間から咽び泣きが漏れ始める。
恐怖と緊張が解け、彼らはようやく安全な場所で座り込み、互いの無事を喜び合った。
背後では炎が洋館の残骸をじりじりと焼き尽くし、火花がパチパチと空気に舞い上がっていた。