暗部の忍が転生して公安ヒーローになる話   作:ぴのっきお

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こんなはずじゃなかった

銃弾で誰かの肉を、脳を、心臓を貫く感触を知っている人間は、この世の中にいったいどれだけいるのだろうか。

 

遠距離戦闘のスナイパーであっても、人を害する感覚というのは手に残るものなのだという事を、どれだけの人間が理解しているのだろうか。

 

初めて人を殺した時の、十九歳だった女の耐え難い苦痛が、いったい誰に分かるのだろうか。

 

 

高校を卒業と同時にヒーロー公安委員会から内密に勧誘を受けた筒美火伊那は、その名誉ある誘いの手を嬉々として握り返した。

自分のこの手で、この能力で、より良い未来を築いていくのだと、本気で夢見て信じていた。

 

公安に籍を置いて最初の一年目。

サイドキックとしてプロヒーローの活動をスタートさせた火伊那は、それと同時に力を底上げするための訓練を平行して行っていた。

忙しない毎日だったが、公安にて運命的な出会いを果たした天使のような少女との生活が、火伊那の疲労を癒してくれた。

少女に関わり始めたきっかけは、単純に一目惚れ。

そして、心に傷を抱えた子供を救いたいという、典型的なヒーローらしいお節介だった。

 

それが同情と称される類のものでないと言えば嘘になる。

しかし始まりがどうであれ、確かに少女を愛していた。

共に過ごす時間が増えていくに連れ、火伊那の中で、蒼良に対する愛情は着実に、加速度的に増し続けた。

可哀想なところも、可愛いところも、意外に頑固な一面を持っているところも、自己愛を欠片も持ち合わせていないところも、全部丸ごと好きだった。

 

少々寝相の悪い火伊那が布団からはみ出してしまった夜に、起こさないようそっと掛けなおしてくれる小さな手の温もりを感じた。

味の好みは特にないなどと言いながら、特定の献立で箸の進むスピードが速くなる姿を目撃した。 

いつの日からか、自室ではなく火伊那の部屋に自主的に帰宅するようになり、帰りが遅くなった火伊那を「お帰りなさい」と出迎えてくれる鈴の音のような響きを聞いた。

 

驚くと翼が膨らむ事。

調子に乗ってからかい過ぎると萎む事。

優しく頭を撫でてやると、控えめにはためくようになった事。

火伊那はちゃんと、知っていた。 

誰よりも近くで蒼良を見守り、ひどく儚げながらも確かにそこにある心の動きに気がついていた。

 

優しく、真面目で、ひたむきな少女が時折見せる感情の片鱗は、火伊那の胸を涙がこぼれそうなほどの愛おしさで満たし、包み込み、溢れさせて止まなかった。

 

 

 

そんな満ち足りた日常に小さな亀裂が生じたのは、それから約一年後__火伊那がヒーローとして独立し、同時に公安ヒーローとしての裏任務を請け負い始めた頃だった。

 

 

 

二十階建ての高層ビルの最上階___その場所で、複数名の人影がもんどりうって倒れていた。

彼らは皆同様に、突如窓ガラスを割って視界の外から侵入してきた弾丸により、額やこめかみに穴を開けられ、体内を食い破られ、断裂されて死に絶えたのだ。

 

貫通した銃痕からだくだくと赤い血を垂れ流している彼らの目は見開かれ、驚いたような表情のままで固まっていた。

もう何も映さなくなった瞳には苦痛の名残は見当たらず、脳を一撃で破壊された彼らが瞬間的に即死出来た幸いを意味していた。

 

隣のビルからその惨劇を作り上げた一人の女が、確認のために窓から部屋へと乗り込んでくる。

女の足取りは鉛のように重く、窓にかけた手は小刻みに震えていた。 

 

そして、横たわる複数の死体を中心に赤黒く染まった床を目にした瞬間、たちまち込み上げてきた嘔吐感に両手で自身の口を塞ぎ、しかし抑える事は叶わずに、女はその場で胃の中身を洗いざらいぶちまけた。

吐いて、吐いて、胃が完全に空になった後は、黄色く濁った胃液が口の端からこぼれ落ち、鉄臭い匂いに混じった酸っぱい悪臭が鼻腔をいっぱいに埋め尽くした。

 

 

「…………う、お、ぇ……っ」

 

 

それでもなお、えずきは止まらず、いつの間にか溢れ出していた涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃに汚れていく。

彼女の努力は、人々を導くために。

彼女の献身は、人々を結び付けるために。

彼女の右腕は、人々を庇護するためにあった。

あった、はずだった。

 

顔を覆い、否定する。

そんなはずはない、こんなはずがない。

欲したのは傷付ける力ではない。奪う力でもない。

もう物言わぬ死体を前に、その光景の陰惨さを前に、壁に寄りかかり、地に膝を突き、何度も、何度も頭を壁に打ち付け続けた。

 

レディ・ナガンこと筒美火伊那が、初めてその手で人の命を刈り取った、とある真夜中の出来事だ。 

 

 

 

 

正しかったのだと思う。

正しい事をしていたのだと思う。

何度もそう言い聞かされていたし、そう思い込まなければ人殺しなど続けられるわけがなかった。

 

超人社会の土台となるのはヒーローへの信頼で、火伊那はそれを維持する公安の優秀な歯車だった。

崇高なヒーロー像を壊しかねない人間たちを、人知れず闇に葬った。

ヒーローたちの表の顔と裏の顔、どちらか片方でも欠ければこの世の中は立ち行かないから従った。

 

 

「___お帰りなさい、ナガンさん」

 

 

鼓膜を震わす蒼鈴の声音が、何度だって火伊那の心を奮い立たせた。

何よりも守りたいと強く願わせる少女の存在が、いつしか火伊那の原動力となっていた。

 

蒼良が生きているこの世界を守るのだ。

蒼良の未来を守るのだ。

いつか蒼良が大人になって、プロヒーローとして羽ばたいていくその前に、少しでも平和な世の中を作るのだ___その無垢な手を赤色に染める必要などないほどの、本物の平穏な世の中を。

 

かつて夢見た方法とは異なるけれど、自分は今この手で、この能力で、より良い未来を築いている途中なのだと、火伊那は自らを鼓舞し続けた。

すり減る心から目を逸らし、大げさなリアクションでおどけて見せた。

不自然さが漏れ出さないよう気を配って、愛する少女との無邪気な触れ合いを、ひたすらに愛おしんでいた。

 

 

____笑え。笑え。笑え。笑え。

 

 

馬鹿みたいに大口を開いて。

平和に浸った道化のように。

脆さを見せるな。弱音を吐くな。決して誰にも悟られるな。

何故ならお前は、ヒーロー レディ・ナガンだろう。

 

 

 

 

時にはヒーローへのテロを計画していたとあるヴィラングループの抹殺を。

時にはヴィラン組織と癒着して富と名声を得ていたヒーローチームの暗殺を。

 

火伊那がその手にかけた人々の中には、凶悪で悪質な犯罪者から、悪人になる可能性を秘めているだけのヴィラン予備軍___つまりは何の悪事も働いていない無実の民間人まで、様々な者がいた。

 

そんな些細な芽さえ摘まなければ維持できないような社会の脆弱さに眩暈がした。

今この瞬間にも音を立てて瓦解しそうな危うい社会に嫌気がさした。

 

誰もが空想し、憧れた超人社会は、その蓋を開けてみれば薄く歪なただの虚像だったのだ。

法を無視した人道に反する裏ヒーローの暗躍を、民衆は知らない。

この世界があたかも清く正しく美しい表のヒーロー達だけで成り立っているかのように見せかけ、綺麗なものだけを信じ込まされ続けている。

 

 

___そんなもの、まるで洗脳ではないか。

 

 

馬鹿馬鹿しい。この世界はハリボテだ。

そんな思いを抱きながら、それでも火伊那は命令に従った。

幾度となく希望を投げ捨てそうになりながらも、それをする事は蒼良への愛情が許さなかった。

大切な少女が生きるこの世界を、そう簡単に諦めるわけにはいかなかった。

現実を知り、世界を知り、絶望を知り、己の無力を知ってなお、諦める事だけはしなかった。

 

 

 

極限の状態で踏みとどまっていた火伊那の心がポキリと折れてしまったのは、ささやかな日常での不意の出来事がきっかけだった。 

 

いつものように表の顔を貼り付けて、プロヒーローとして管轄区をパトロールしていたある日のこと。

火伊那の元に、握手を求める子供たちが複数名駆け寄ってきた。

蒼良と同じくらいの背丈、同じくらいの年齢に見える子供たちに愛しい少女の姿を重ねた火伊那は、普段通り快活に微笑み、その手を差し出した___否、差し出そうとした。

 

小さなその手に触れる直前。

屈託のない笑みを浮かべる子供たちのその姿に、平和そのものと言えるその姿に、火伊那の頭にハリボテの四文字が思い浮かんだ。

 

この子供たちは知らない。

火伊那の右腕が昨夜、痛々しく赤い血しぶきを生んだばかりであることを。

この子供たちは知らない。

火伊那が踏みにじった命の数を。未来の数を。可能性の数を。

この子供たちは知らない。何も知らされてはいない。

だから笑っていられるのだ。

こんなにも醜悪な人間を前に、輝く瞳で笑っているのだ。

 

その瞬間、火伊那は自覚してしまった。

汚い部分を見えないようにひた隠しにし、綺麗な部分だけを見せているヒーロー社会の縮図のような自分自身を。

 

____ああ、なんだ。私自身もハリボテじゃないか。

 

途端、上塗られた塗装が剥げていくような幻覚を見た。

子供たちに向けて差し出そうとした剥き出しの素肌がドロドロと溶けていくような錯覚を覚えた。

表面の肌色が全て流れ落ちたとき、その下から出てきたのは、赤黒い血にまみれた自分自身の右腕だった。

 

引きつった笑みを貼り付けたまま事務所へと走り戻った火伊那は、何かに憑りつかれでもしたかのように、何度も何度もひたすらに自分の両手を洗い続けた。

掌で擦って、指先で押し洗って、爪を立てて引っ搔いた。

 

皮が裂け、血が溢れだし、そこに痛みが走ろうとも、気にも留めずに乱暴に。

何度も何度も、馬鹿みたいに。

その行動に意味などないと、分かっていたのに。

 

今さらそんな単純な方法で落とすには、この赤色はあまりにも火伊那の奥底にまで染み込み過ぎていた。

気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

この社会も、そしてその形成に加担している自分自身も、何もかも。

ここ最近は感じなくなっていた嘔吐感が、喉の奥からその存在を久方ぶりに主張し始める。

 

 

「うっ……、ぐっ、おぶっ、げぇ……っ」

 

 

込み上げてきたものは、流しにそのまま吐き出した。

痙攣した胃が何度も痛いほどに締め上げられ、何度も嘔吐を繰り返す。

もう出せるものなど何もないのに。

そんな事をしたところで、この穢れを外に出すことは叶わないのに。

衝動が落ち着いた後は、口元を手の甲で雑に拭い、流しの水を口に含んで少しでも不快感を薄めようとした。

 

 

「ぐ、ぅ……ッ、………はッ…ひっ……はっ」

 

 

手が、震える。視界が霞む。

肺は息を吸う事を拒み、笑い声とも泣き声ともつかぬ引きつれた音が喉から漏れた。

 

気持ち悪い。

涎をこぼし、脂汗を浮かべる火伊那の頬に、静かに涙が流れ伝う。

悍ましい。

こんなにも汚らわしい両手で、あの子に触れていた事が。

耐えられない。

汚い部分を隠して、笑って、綺麗な部分だけをあの子に見せていた事が。

あれほど嫌悪した存在と、いつの間にか同等のものに成り下がっていた自分自身が。

 

 

「は……ははっ、ふ、あは……っ」

 

 

ハリボテの自分自身を自覚してしまった今、あの子の側にはもう、居られないと思った。 

 

 

 

 

 

蒼良の居なくなったそれからの日々は、まるで溺れているような感覚だった。

光源は見当たらず、どこまでも暗い水中で、水面を目指して闇雲にもがき続ける毎日だった。

 

けれど足掻いたところで、どうせ逃げ道など見つかりはしない。

社会の裏側を覗き見て、片足どころか全身浸かりきってしまった火伊那には、もうひたすらにこの道を歩み続ける以外の選択肢などなかった。

 

左右どころか上下の感覚すら覚束ない混沌の中で、次第にもがく気力すらなくなり、思考は定まらず、意識すら遠くなっていく。

 

時々ぼんやりと、どうしてこんな事をしているのだろうとか、どうしてこんな場所にいるのだろうとか、どうしてこんな自分になってしまったのだろうとか、取り留めのない疑問が浮かんでくる事はあったが、考える気力などとうに失っていた火伊那は、ただゆらゆらと水の中を漂い、溺れ続けていった。

 

そうしてゆっくりと月日は刻まれていき、気が付けば二十一歳になっていた今日この日、いつものように会長室で裏任務の命令を下されていた最中に、脈絡もなくこの男は言ったのだ。

 

 

「___ああ、そうそう。君は確か、以前アズールと親しくしていただろう?彼女は本当に優秀だよ。あんなにも類まれなる能力を備えた幼子を、私はこれまで見た事がない」

 

 

突然振られた蒼良の話題に、心の準備など何一つできていなかった火伊那は動揺から身を固くした。

 

 

「……どうして私に、突然そんなお話を?」

 

「近頃の君の疲弊具合は目に余るものがある。すまないね。周りより頭一つ抜けて優秀だという理由で、君に大きな負担を強いている事を私も心苦しく思っているんだ。だけど安心してほしい。末頼もしい才能を秘めた後継が今、ここで着実に育っている。君にこんな苦労をかけてしまうのも、今の内だけだ」

 

 

穏やかな表情に微笑を乗せて告げられた言葉に、全身が凍りつきそうなほどの戦慄が走った。

 

 

「だからもう少し。もう少しだけ、頑張ってくれ。レディー・ナガン」

 

 

労わるような口調で、それが火伊那にとってさも喜ばしい事であるかのように語り続ける目の前の男に、身の毛がよだつ。

ただでさえ青白くなってしまった顔から、みるみる血の気が引いていく。

火伊那は顔を蒼白にしながら、その唇を震わせた。

 

 

「……その後継というのが、蒼良の事ですか?」

 

「アズールだ、ナガン。ああ、その通りだよ。彼女のあの様子なら、ヒーローとしてのデビュー時期は通例より早めても問題はないはずだ。そうなれば君の負担もいくらか……いや、大幅に減らす事が可能だろう」

 

 

目の前で恐ろしい未来予想図を語る男の姿が、火伊那の目には得体の知れない何かに見えた。

人の皮を被った、ひどく醜怪で不吉で悪辣な何かに。

後継___あの蒼良が、自分の後継になる。

キラキラ輝く星だけを映した世界のその裏側で、汚い真実に蝕まれる被害者がまた生み出される。

そして、次の被害者こそがあの蒼翼の少女だと、この男は今ハッキリとそう口にしたのだ。

 

火伊那の心が激情に震える。

怒りが、絶望が、驚愕が、理解できない程の感情の渦が脳を支配し、いったい何から口にすればいいのかも分からない。

 

 

「…………今の公安のやり方で、この社会は、本当に変わると思うか?」

 

 

ぼそりと、火伊那の口から無感情な声が漏れた。

突然口調を崩し、上司に対する敬意を失ったその違和感に気が付いた会長が顔を上げ、手元の書類に落としていた視線をここでようやく火伊那へと向けた。

目の前に立つ女の異変、突然緊迫し始めた室内の空気を感じ取り、男の穏やかな顔つきに陰りが生じる。

 

 

「……ナガン」

 

「人知れず悪の芽を摘んで、殺して、殺して、殺して……そうすれば世界は変わるのか?」

 

「ナガン、聞きなさい。必要な事だ。表のヒーローたちが紡いでくれた希望を、誰かが維持する必要があるんだ」

 

「知ってるよ。その話はもう何度も聞いた。聞き飽きた。その"誰か"が今の私だ。そんで、次はあの子なんだろう?」

 

 

冷めた視線、冷めた声音で問いかける。

その身体の奥、全身の血液が沸騰するような感覚に囚われながら、浅い呼吸を繰り返す。

深い深い闇の中に沈み、随分と鈍くなってしまった思考回路が久方ぶりに動き出す感覚がした。

 

精神を摩耗し、抗ってもどうにもならない大きな力に呑まれ、諦念に呑まれ、自分自身が破綻しかけてまで維持し続けた平和の先で、最も守りたかったものすらこの手からこぼれ落ちていくのだと、残酷な現実を理解していく。

 

蒼良の未来がそうなる事など、本当は初めから分かっていた。

けれど、地獄を見るのは自分だけで良いと、自分だけで済むのだと思い込もうとしていたのだ。

だって、そうでなければあまりにも報われない。

そうでなければ、許されない。 

 

 

「なぁ、会長。こんな世界を維持し続けたその先にある未来がそんなものなら、私の犠牲も献身も、このクソッタレなヒーロー社会も、何もかもがもう、私には無価値なように思えるんだ」

 

 

そもそもの話、誰のために紡ごうとした平和だったか。

見せかけの平穏をいくら守り続けようと、本当に守りたいものが守れないなら、それには何の意味がある?

形ばかりの安寧の裏で、あの少女が無垢な手を血に染める未来が、正しいものであるはずがないだろう。

 

歪で、不安定で、吐き気がする___火伊那にはやはり、ハリボテのヒーロー社会を受け入れる事は出来なかった。

 

 

「……既に承知だとは思うが、今一度確認しておこう。公安ヒーローの辞職が何を意味するのか、分かっているのか?レディ・ナガン」

 

 

スーツの内側へ静かに右手を差し込みながら、会長は努めて冷静に火伊那に問うた。

どこか無念さを滲ませた表情で。

憂いを帯びたその瞳で。

残忍とすら感じる程に冷淡なその声色で。

 

 

「もう、やめだ。だからもう___そんな名前で、呼ぶんじゃねぇよ」

 

 

その返答が決裂の合図だった。

 

会長が瞬時に懐から取り出した拳銃の引き金を引くよりも早く、火伊那の右腕がライフルへとその形を変化させる。

経験が違う。

慣れが違う。

殺してきた人間の数が違う。

公安を代表する暗殺者が、素人に毛が生えた程度の男に遅れをとる事などあろうはずがなかった。

 

躊躇なく弾丸を打ち出した。

身体に響く発砲の反動___人殺しのその衝撃を、今、初めて肯定できた。

何故なら、この殺しには意味がある。

 

 

____ようやく見つけられたのだ。この闇からの抜け出し方を。

 

 

こんなにも簡単な事だった。

始末すべき諸悪の根源は、こんなにも身近な所にあった。

 

 

 

 

 

_________________

 

 

 

 

 

 

「___もう……、ヒーローなんかじゃない」

 

 

火伊那から数歩分距離のあいた場所で立ち尽くす蒼良が、茫然とこちらを見上げている。

これまで殆どその冷静さを欠く事のなかった少女が見せる新たな一面に、何かを思う余裕などないほどに火伊那は狼狽し切っていた。

 

 

「こんなはずじゃ……こんなはずじゃ、なかった。私がなりたかった、夢見たヒーローは、こんなものじゃ……」

 

 

蒼良の前で自分を偽る自分自身を嫌悪した。

だから離れる選択をしたのだ。

それなのに、こんな状況を見られた今、火伊那は自分を偽りたくてたまらなかった。

 

この少女には知られたくなかった。見られたくなかった。

汚い自分を、知らないままでいて欲しかった。

大勢の人間をこの手にかけ、血に染まり、堕ちるところまで堕ちていき、ついには自分の意志で人を殺す決断をした凄惨な姿など、見られたくはなかったのだ。

 

軽蔑されるのが怖い。恐れられるのが怖い。

自分のせいで、その瞳に少しでも影を落とすような事になれば、きっと火伊那には耐えられない。

 

焦燥が、恐怖が、火伊那の頭を侵食していく。

静まり返った真夜中に、火伊那の脳内だけが雑音にかき回されている。

 

 

「社会どころか、小さな女の子一人救ってやれない存在がヒーローだってんなら、初めから目指したりなんてしなかった……!憧れたりなんてしなかった!こっちから願い下げだった!!」

 

 

自分自身の心臓の鼓動が鼓膜を揺らし、視界は絶え間なく明滅し、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうな悲嘆の中で、火伊那は吠えた。

言い訳めいた叫びだった。

こんな風になってしまったのは自らの意思ではなかったのだと、全て不可抗力だったのだと、己の汚さを少しでも削り取ろうと必死に蒼良に主張した。

そうして目の前の少女にじっと見つめられている事にも気づかず、首を振り、顔を覆って項垂れた。

 

 

「………自分が何になりたかったのかも、もう分かんねぇ。自分が何者なのかも、もう……分かんなくなっちまった」

 

 

途切れ途切れの震える声で告げながら、火伊那は背後の壁にもたれ、ずるずるとその場に崩れ落ちていく。

 

 

「だけど……お前だけは守りたかった。本当に、守ってやりたかったんだ。……それだけは、本当だ」

 

 

喉が詰まってこれ以上は言葉が出ない。

頭は下がり、両肩は落ち、心音に加え、ひどい耳鳴りまでもが響き始めて、火伊那の頭蓋を揺らしていた。 

自責と後悔に潰され、嗚咽する彼女に。

絶望の果てで自棄に陥った憐れな女に、静かに銃口が向けられる。

 

 

「アズール、……後ろに下がって。少しの間目を閉じて、耳を塞いでいなさい」

 

 

完全に戦意を失った火伊那はもう、ただの無力な女でしかなかった。

蒼良を押し退けて前に進み出た会長の手に握られた拳銃に、容易く命運を握られた、哀しいだけの女だった。

 

 

「すまなかったと思っているよ。それと同時に、今までよくやってくれたとも」

 

 

終わりを告げる男の声に、火伊那は身じろぎ一つしなかった。

そんな労いの言葉はもう、今さら何の意味もなさない。

けれど恨み言を言う力も、怨嗟の言葉を吐く気力も、もう何一つ残っていない。

 

祈りは通じなかった。夢には届かなかった。

もう、ひどく疲れてしまった。

 

早く。早く殺してくれと、火伊那は心の中で願った。

もうこれ以上、情けなく無様な姿を蒼良の前で晒し続けることが耐え難かった。

こんなことならいっそ、もっと早くに自分は死んでいるべきだった。

 

目を閉じる。

白くなるほどキツく握り込まれた指先から、力が抜ける。

 

何もかもを放り出して、自分自身すらも投げ出して、ただ、楽になりたいと願った火伊那の耳が___床に跳ね落ちる金属音を、拾い上げた。

 

 

「____」

 

 

薄く瞼を開けると、床に落ちた拳銃を手に取ろうと腰を折る少女の姿が、力ない紫紺の瞳に映る。

 

 

「アズール……!?何をして___」

 

「人が銃に撃たれて死ぬ確率は、実はそれほど高くないそうです」

 

 

小さな掌には不釣り合いな黒いそれを見つめながら、男の声を遮るように蒼良は答えた。

 

 

「人の体は強いようで弱く、脆いようで意外と頑丈に出来ています。彼女のような優れたスナイパーでもない限り、即死させるのは難しい」

 

 

緩慢な仕草で顔を上げた火伊那の視線と、少女の視線が交差する。

 

 

「だから__」

 

 

いつの間にか部屋全体を満たすように浮かんでいた青色が、空中に揺らめいていた。

歩き出した少女に向かって手を伸ばす男の前方、その行動を阻止するように、青い壁が形成される。

 

 

「だから、どうか。余計な抵抗はしないでください__”火伊那さん”」

 

 

利き腕側の耳のすぐ下。顎より上の頸動脈。

火伊那のそこに銃口を当て、少女は願いを口にした。

 

それは紛れもなく、介錯であった。

死を免れない人間から、少しでも苦しみを取り除き、楽に送ってやるための加虐。

痛みの中で死にゆく人の苦痛を和らげ、救い誘う誠実な行為。

 

 

「……なんで……、今だよ」

 

 

もっとも、この少女の秘められた優しさに、火伊那だけはとっくに気が付いていたけれど。

 

皺くちゃに歪んだ顔で、火伊那が息を詰まらせる。

唇を引き結び、みっともなく呻きを漏らし、間近にある少女の顔と向かい合う。

 

最後に会話を交わした時と、何も変わらない澄んだ声音。

落ち着き払ったその眼差しに、安堵と同時、腹の底から堪え難い感情が込み上げてくるのを止められなかった。

 

 

もう、我慢の限界だった。

 

 

両腕を伸ばし、少さな身体を腕の中に閉じ込める。

悲しくて、寂しくて、切なくて、愛しくて__腕の中の少女が愛おしすぎて泣いている自分はきっと今、幸せなのだろうと、そう思った。

 

 

 

___真夜中の公安に、乾いた発砲音が響く。

 

 

 

男の視界を封じるように閉じられていた青い扉が開かれた時、そこにあった女の身体は力なく少女にしなだれかかり、既に呼吸をしていなかった。

 

ヒーロー"レディ・ナガン"はこの日、わずか八歳の少女の手によって、世界から忽然とその姿を消したのだった。

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