暗い暗い澱みの底で、女は夜空に手を伸ばした。
女は星が好きだった。
輝くもの。綺麗なもの。煌めくものが好きだった。
しかし闇夜に瞬く星は近いようで遠く、いくら手を伸ばしたところで触れる事は叶わない。
女には、あの星の元まで飛んで行けるような翼もない。
理解はしている。
背伸びをしても、泣いて叫んで願っても、あの星に触れる事は叶わない。
それでも求めずにはいられない。
ふと自分の足元に視線を下げた女の瞳に、映るものは何一つない。
そこにはただ「無」だけがあった。
果てなく続く薄ぼんやりとした闇の中、女は自分がどこに居るのかも分からない。
女には、それが一等恐ろしかった。
その闇の底を見ていると、例えようのない悲しみが張り詰めてくる。
振り払おうと無理矢理にでも笑みを浮かべ、クスクス、クスクスと笑ってみる。
しかしふと笑みが途切れた瞬間、今度は涙が止まらなくなる。
ぽろぽろ、ぽろぽろと溢れ出すそれを堪えようとすれば胸が苦しく、息が苦しく、女は空に手を伸ばす。
助けを求めて手を伸ばす。
救いを求めて手を伸ばす。
その指先に触れるものは何もない。
足元から這い上がってくる薄暗い渦に、その身体を呑まれながら。
それでも絶えず手を伸ばす。
そうして一人、落ちていく。
闇に追われて、闇に縋られ、闇にその身を塗り潰されて。
女の指先が、ついに諦めを受け入れようとした時___その手を、誰かに握られている事に気が付いた。
誰かが、女の手を握っている。
柔らかい感触だった。温かい感覚だった。
ひどく心安らぐ誰かに、伸ばした手を包まれている。
途端、きゅうと胸を締め上げられ、ぽろぽろと溢れる涙の勢いが増していく。
救われたような気持ちになった。
労わるように握られている。
慈しむように包まれている。
終わらない悪夢の中にいた女の視界に、明るい光が差し込み始めた。
「__きて……、起きて__」
誰かの声が聞こえた。
光の向こうで、誰かが自分を呼んでいる。
その声に、光に、繋がれた手に導かれるまま、女の意識は闇を抜け、現実へと向かい始める。
「__ようやく、目が覚めましたね」
目を開けると、辺りには夜が広がっていた。
悪夢と現実の狭間で揺れている女の意識は一瞬その暗闇に怯え、思わず何かを握りしめた。
すると、握った何かが同じような反応を返してくる。
仰向けに寝転ぶ女の体側、肘から先を曲げ、地面からやや浮いたその位置で。
女の手と、小さな少女の手が、しっかりと絡み合っていた。
「随分とひどい顔をしています。まだ意識が混濁しているようですね」
少女がこちらを覗き込み、青い淡色の瞳が見下ろすように向けられた時、女の意識は急速に現実感を取り戻した。
「な……ッ__」
「し。お静かに。驚くなとは言いません。でも、大きな声は出さないで。あまり状況が良くないので」
跳ね起きるように上体を起こし、大きく開きかけた女の口を、繋いでいない方の空いた手で、少女がすかさず覆って塞いだ。
自分の身に起こっている事が呑み込めず、女は__火伊那は目を剥く。
開かれた目から悪夢の名残が頬を一筋伝っていく。
それを見た少女は繋いでいた手をするりと解き、火伊那の目元を丁寧に撫ぜた。
「……泣かないで。順を追って説明します。静かに、落ち着いて聞いてください」
火伊那が唖然と首肯したのを見届けたのち、少女の___蒼良の手が、火伊那の口を解放した。
「まず、貴方は生きています。見ての通り、傷一つありません」
火伊那の手が、無意識に自分の耳元に寄せられる。
銃口を突き付けられた記憶の残るその場所には、痛みどころか傷跡すらない。
「次に、貴方は自由です。レディ・ナガンは今夜、私が殺しました」
「……何を、言って__」
「貴方は筒美火伊那です。ただの筒美火伊那になりました。もう、ヒーローではありません」
「だから……、何を、何で__」
「貴方はもう、自由です。どこにだって行ける。誰もそれを咎めません」
矢継ぎ早に語られる言葉に、動揺する火伊那の理解は追いつけない。
強引にチャンネルを切り替えられた脳が、何とか現実に焦点を合わせ、意識を飛ばす以前の出来事を思い返し、そしてますます困惑を深めた。
「……お前……私を、助けたのか?」
手段など分からない。
しかし、それ以外にこの現状を説明できる手立てがない。
火伊那の問いに、蒼良は頷いた。
「どうやって、いや……ッ、そもそも何で……あいつは、会長はどうした。どうしたらこんな事に……」
動転して周囲を見回した火伊那は、自分が今いる場所が海辺の護岸ブロックの上であることに気が付く。
壊れかけの街灯の光でようやく海面を視認できるくらいに辺りは暗く、しかし東の海が仄かに明らんでいることから、夜明けが近い事が分かる。
硬いコンクリートの上。
こんな場所で数時間寝かされていたにも拘わらず、身体のどこにも痛みを感じないのは、火伊那の下に青い羽が敷き詰められているからだった。
その散らばった羽の一枚を、不意に蒼良がつまみあげた。
落ち着かない様子の火伊那の前、その羽にふっと息を吹きかけたかと思うと、白煙と共にそれはたちまち姿を変えた。
一枚の青い羽が、火伊那そっくりの女の姿形へと。
恐る恐る触れてみると、無機質なそれに体温は宿っておらず、しかし指先に伝わる人肌の感触はあまりにも本物のそれと同じだった。
こうして間近に見ていると、何だか自分の死体を前にしているようで薄気味が悪い。
「変わり身の術と言います。貴方を気絶させて眠らせて、代わりにこれを使いました。会長は、貴方が生きている事を知りません」
「___」
驚きのあまり、火伊那の口からはとうとう言葉すら出て来なかった。
それを見かねた蒼良が、ゆっくりと説明を口にする。
「これは、個性とは全く別物の力です。何故そんなことが出来るのかと言えば、私がかつてこことは異なる世界で忍として生きた経験があるからです。いわゆる、前世と呼ばれるものだと思います。忍はこの世界にはいないようですが、忍者の概念自体はありますよね?だいたいそれと同じだと考えてもらえれば、その認識で支障ありません」
突飛すぎる切り口に、火伊那は弱々しく頭を横に振る。
目の前の少女が言う事為す事、まるで意味が分からなかった。
けれど、この少女が面白半分に冗談を言うような性格でもなければ、悪意を持って嘘をつくような人間ではないことを十分すぎる程知っていた。
「何故前世の記憶を持っているのか、何故この世界に生まれ直したのか、といった質問にはお答えできません。私が決めた事ではないですし、私自身にもよく分かっていないので」
聞きたい事は他にも山ほどある気がしたが、今の火伊那にとっての最優先確認事項は別のところにあった。
「騙したのか……お前、あの男を。私を守るために、騙したってことだよな……?」
「人聞きの悪い表現です」
「だって、そうだろ?そうとしか言いようがないじゃねぇか。は……ッ、何だこれ、本当に現実か?」
「筒美火伊那はどうなったのかと、問われれば正直に答えるつもりです」
「……筒美火伊那を、お前はどうした?」
「変わり身の術を使って死んだように見せかけ、これから外に逃がすつもりです」
「レディ・ナガンは……、どうなった?」
「数時間前、私が銃で殺しました」
とんでもない言葉遊びを、少女は真顔で、淡々と繰り広げた。
なんて狡猾なやり方だろうか。
ヒーローをヒーローネームで呼ぶ事を規則としていたあの組織の人間が、火伊那を今さら名前で呼ぶことなどあり得ない。
しかし、言い訳にだって限度がある。
蒼良の発言は、あまりにも苦しい言い逃れだった。
「お前………」
火伊那の知る限り、公安内で蒼良以上に規則に従順な者はいない。
この少女にとっては、トップの意思に反する行動など以ての外で、組織への反逆者は到底許されるものではないはずだ。
だからこそ、「レディ・ナガン」を殺し、「筒美火伊那」を救うという形で、無理矢理に自分を納得させているのだと火伊那には分かった。
そして、少女がそんな苦し紛れの行動を取った理由を辿れば、そこにあるのは「火伊那を死なせないため」という所に行きつくのだから、込み上げる感情が全て涙に変換されて溢れ出してしまうのも仕方のない事だった。
「泣かないでください、貴方は自由だと伝えたはずです。教えてください。今、何が辛いんですか?何が悲しくて、何が苦しくて、貴方を泣かせているんですか?」
「お前だ……、ばか」
火伊那の涙を拭おうと再び伸ばしかけられていた蒼良の手が、空中でピタリとその動きを止めた。
「何で助けた。何であのまま殺さなかった。どうして死なせてくれなかった。教えてくれ。理由を……お前の言葉で、ちゃんと、私に教えてくれ」
ややあって、蒼良の手が頭に触れた。
俯き、自分の膝に大粒の涙を落としていた火伊那の目が見開かれる。
小さな手は、そのまま不慣れな動きで火伊那の頭を撫で始めた。
かつて、火伊那が蒼良によくやっていたそれを、なぞるような指遣いだった。
「貴方が教えてくれました。誰かが辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、手を差し伸べるのがヒーローなんだと」
「……要らねぇよ。私がいつ、助けて欲しいなんてお前に頼んだ」
「貴方は泣いていました。私には、貴方が助けを求めているように見えた」
「私は……ヒーローだった」
「知っています。それは今、関係のない話でしょう。それとも、ヒーローは救いを願ってはいけないんですか?」
ただ純粋に、不思議がるように紡がれた言葉が、火伊那の思考を短く止めた。
顔を上げれば、真っ直ぐな瞳がこちらを見ている。
「泣かないで」と呟く声のその奥にあるのは、火伊那を救おうとする少女の意志だ。
それに気が付いた時、火伊那の胸は痛々しく悲鳴をあげた。
「……死んで、楽になりたいと思った。それなのに、死ぬのは怖い。本当は、出来る事なら死にたくなんてない。……けど、生きていく方が怖いと思った」
少女は黙ったまま、続きを促すように火伊那を見つめ続けている。
「誰かを、傷付けることが怖い。殺したくなんて、なかった。お前に……、私は……お前に触れる事に、後ろめたさなんて感じたくなかった」
「そんなもの、感じる必要はありません」
「……私の手は、人殺しの手だ。洗っても洗っても、汚い赤色が落ちない手だ。こんな私が……綺麗なお前に、躊躇なく触れられるはずがないだろ」
口にしている内、自分自身に対する嫌悪が加速していき、火伊那は掌を地面で擦り始める。
コンクリートに触れるざりざりとした鈍い音。
その不快な音も痛みも自分に対する罰であり、自傷で胸の痛みを一時的に和らげることは、いつの間にか無意識の癖のように火伊那の体に染みついていた。
「不要な配慮です。私ならもう、産まれる前から汚れているのに」
ボロボロに削れた皮膚には触れぬよう、蒼良は火伊那の手首を掴んだ。
子供のものとは思えぬほどに強固な力で動きを封じられ、火伊那の両手は動かない。
「多くの人間を殺しました。女を、男を。大人を、子供を、老人を、兄弟を。貴方よりもずっとずっと、多くの人間を殺しました」
言いながら、蒼良は火伊那の手首を捻り、掌を上に向けさせると、一時的に放した両手で印を結び始める。
「かつて忍だった頃、私に課せられた任務の多くは貴方がこなしていたそれと似た類のものでした。殺せと命じられたので、殺しました。貴方が自分を汚いと嘆くのなら、私は貴方よりもずっと醜く汚いでしょう」
「………お前は、綺麗だ。汚い訳ない」
「その理屈なら、貴方はもっと綺麗ですね」
「それは違う。だけど……、やめてくれ。そんな事、お前は言わないでくれ。違うんだ、そんな事を言わせたかった訳じゃない」
「どうしてまた泣くんです。そのまま、手を動かさないでいてくださいね」
印を結び終えた蒼良の両手から、ゲル状の何か__クラゲのような形をした薄水色の塊が、どこからともなく湧き出して来た。
掌サイズのそれが火伊那の掌にこぼれ落ち、ひやりとした冷たさと共に、傷付いた皮膚を再生し始める。
「医療忍術の一つです。多少の痛みは生じますが、害はないので耐えてください」
医療水遁・水海月。
クラゲのような形をした水遁のチャクラを身体の一部につけることで、ダメージを回復出来る水遁系の医療忍術である。
蒼良は医療忍者ではないため、この手の忍術はあまり得意ではなかたものの、ある程度の軽傷であれば対処法は心得ていた。
「ごめん……蒼良、私は……」
「何に対する謝罪なのか、分かりかねます」
修復を終えた水色のクラゲが、ぴょんと跳ねるように蒼良の腕につき、そして吸収されるように溶けて消えるのを、火伊那は呆然と目で追っていた。
そんな彼女の視界に、ずいと差し出されたのは蒼良の両掌だ。
「ここにあるのは、貴方よりもずっと深く血濡れた手です。悍ましいですか?もう二度と、触れたくないと感じますか?」
火伊那は首を横に振った。
この心優しい少女を汚いなどと、思えるはずがなかった。
観念して、差し出された手を握ると、その手に自分の額を寄せる。
祈るように目を閉じて、吐息をこぼす。
「……私の事が今、怖くはないか?」
「"怖い"はよく分かりません」
「私に、失望してないか?見損なったり、してないか?」
「どうしてそう思うんです。質問の意図が読めませんが、一連の質問に対する私の答えは、全て"いいえ"です」
淡々と述べられる優しい否定に、火伊那の胸の奥が熱くなった。
長い沈黙の末、顔を上げた火伊那の様子に、蒼良が小首をかしげている。
いつも通りの澄まし顔を浮かべるそんな姿に、どうしようもなく安堵した。
先程の言葉はただの真実で、こちらを思いやるような深い意図はないのだろうが、だからこそその本音にこれほどの安心をもらえる。
火伊那の裏の顔を見て知ったうえで、受け入れられた喜びが溢れる。
こんなにも近くで、こんなにも普通に、以前と何ら変わらぬ空気で言葉を交わせる時が再びやって来るだなんて、少し前までの火伊那には想像すら出来なかった事だった。
火伊那と蒼良の他には誰もいない波打ち際で、何度もブロックにぶつかっては弾ける波の音だけが、穏やかに耳に流れ込んでくる。
夜の海は凪いでいた。
海面は暗く、まったりとうねり、その下の深さを想像すると少しばかり不気味だけれど、火伊那はもう、自分がその水底から抜け出せたのだと理解した。
「名前、呼んでくれないか?さっきみたいに、私の名前を呼んで欲しい」
「ようやく素直になりましたね、火伊那さん」
「こっちの台詞だ。前は私が何度ねだっても無視したくせに」
「……私がもっと早くに貴方の名前を呼んでいれば、貴方が泣くことはなかったんでしょうか」
過去の仮定。あったかもしれない未来。
現実主義で合理主義者の彼女には似合わぬことを口にした蒼良を、火伊那は強く抱きしめた。
「たらればの話なんて、らしくない事しなくていい。私はお前に救われた。それだけでいい。それが全部だ」
腕の中の蒼良は身じろぎ一つせず、大人しく火伊那に身体を預けている。
無抵抗なこの少女が今、何を思い、何を考え、何を感じているのか、その全てを理解してやれないことが口惜しかった。
もっと、時間があったなら良かった。
もっと、自分が強かったなら。
「名前、呼んでくれてありがとうな」
「貴方はもう、公安のヒーローではありませんから」
「ああ、そうだな。お前のお陰だ、ありがとう」
下手くそな理由で自分自身を納得させようとする少女の頭に、自分の頬を摺り寄せる。
公安が、ヒーローの本名を呼ばせない理由。
ヒーロー名での呼称を徹底する理由。
それは恐らく、ヒーローと只人とを分けるラインをより強固にするためだったのだろうと、今の火伊那には薄ぼんやり分かる。
「普通の人間には耐え難いことなんだ。人は人を殺せない。……人は、人を壊せない」
現場で直接的に人を殺めるヒーローも、それを命じる人間も、どちらも業を背負わねばならない。
その罪の意識を少しでも軽くするために、彼らは__ヒーローの力を利用する側の人間は、ヒーローも一人の人間である事を忘れたいと願うようになる。
心などないただの道具であってくれた方が、彼らの抱える罪悪は軽くなるからだ。
ヒーローも己と同じ只人であり、隣人であったことを忘れ、「ヒーロー」という特別な生き物なのだと思いたがる。
そうしてその洗脳をかけられたヒーローたちも、自分が何者であったのかを忘れ、原点を失い、己に課せられた使命に対する強烈な責任感のみで動く人形と化していく。
人々を救う役割を担う自分たちに、只人と同じように助けを求める権利がある事を失念していく。
「皆最初は夢見てあの組織に入っていくんだ。そんできっと、理想と現実の差を目にして眩暈がする。ヒーローを都合のいいお人形だと思い込んでなきゃやってらんないんだよ、上層部の奴らもさ。私たちだって、本当は他の奴らと何一つ変わんねぇ人間なのにな。逃げ出したいとか、苦しいだとか、そういう当たり前の感情を抱くのを、ヒーローの自覚が邪魔するんだ」
ヒーローへの憧れだとか、崇高な動機だとか、そんなものは何一つ持たない蒼良に、ヒーローの自覚というものはまだ分からない。
あるのはただ、自分が組織のために消費されるべく生み出された道具であるという自覚くらいなものだった。
けれど、その人が本来持っていたアイデンティティを消失させ、自己を希薄にするという点では、名前を捨てるよう命じられていた根と公安はやはりよく似ていると蒼良は感じた。
任務の度に新しい名とシナリオを与えられ、空っぽの入れ物に情報を注いでその通りに生きて死んだ。
そして今度は、アズールという名とヒーローというシナリオを与えられ、その通りに生きていくのだろう。
「理に適った規則だよ……ホント、クソくらえだ。これから先、お前の名前を隣で呼んでやれない事が、私は悔しい」
「ごめん」と小さく呟いた火伊那は、蒼良の頭越し、新しい朝の気配に気が付いた。
黄味の強い東雲色に明らんだ東の空を見つめ、もうじき夜が明けることを悟る。
もう、行かなければならない。
火伊那はここには長居できない。
もしも火伊那の生存が知れれば、組織を欺き、火伊那を逃がす手助けをした蒼良に責任が降りかかる。
それだけは、あってはならない事だった。
「……このまま、一緒に逃げちまおうか」
散歩にでも誘うような、そんな気やすい口調だった。
それは本当に軽い響きで、のんびりとした声色で。
けれど、それを告げた火伊那本人は、ひどく悲しい顔をしていた。
少女は何も答えない。
「私と一緒に、ここから逃げてくれないか?」
二度目の誘いには、朗らかさに隠れ潜んだ懇願の色が滲んだ。
その提案がきっと受け入れられないだろう事を分かっていて、それでもこの手を取って欲しいと、愛しい人に縋る想いが乗せられていた。
「出来ません」
ぽつりと。返された予想通りの拒絶に、しかし火伊那の表情は動かない。
「これは命令だ。……って、言ったらどうする?」
三度目の問いかけは、懇願を隠しもしない絞り出すような声だった。
「分からない貴方じゃないでしょう。貴方はもう、公安の人間じゃない。だから私にその命令は無効です」
その通りだった。
ひたすらに真面目で、組織の規則に従順で、そんな少女を誰よりも側で見ていた火伊那がその返答を予測出来ないはずがなかった。
蒼良の肩に顎を乗せ、火伊那はふと考える。
この小さな身体を抱き上げて、無理矢理攫ってしまおうか。
そんな強引な思いつきが浮かんだが、蒼良の性質をよく知る火伊那だからこそ、それでは上手くいかない事が分かってしまう。
この少女を連れ去ってしまうには、心からの納得と同意が不可欠なのだ。
「今さらいい子ちゃんぶるなよ。ついさっき、あのオッサンを騙くらかして来たくせに」
四度目は、相手の揚げ足を取って喜ぶ子供のような、少しおどけた口調だった。
けれどその顔はやはり、悲しみの表情を浮かべたままだ。
「命令違反はしていません。私は、貴方を殺せと命を受けた訳ではありませんから」
毅然と切り返す少女だが、いつの間にやら彼女の背に戻っていた翼は、やや心もとなく萎んでいるように見えた。
意地悪な事を言ってしまったと反省し、火伊那は蒼良から身体を離した。
「お別れの前にお前に教えてやれる事、今一つだけ思い出したよ」
華奢な両肩に手を置いて見つめると、端正な面がやや上を向き、同じように見つめ返してくる。
「お前の心は、死んでなんかない。感覚が鈍くなっちまっただけだ。お前は知らないだろうけど、その翼は驚いた時に膨らむんだよ。凹んでる時は、悲しそうに萎んじまう。そんで、パタパタはためいてるときは……きっと、プラスの感情の時なんだって、私は都合よくそう思い込むようにしてた」
蒼良自身は気づきもしなかったその秘密の告白に、背中の翼がたちまち空気を含んだようにブワリとそのかさを増した。
それを火伊那が微笑んで指差し、振り返った蒼良がその状態を目にして驚き、さらにぼわわっと段階的に二度膨らむ。
そんな少女のどこか間抜けな一挙一動に火伊那は笑い、その目尻には哀情とは異なる理由で涙が光った。
「なぁ、蒼良。一つだけで良い。一つだけ、私と約束をしてくれないか?」
「約束、ですか」
「ああ、そうだ。命令じゃない。だからこの約束には強制力なんてない。お前が本当に、心の底から違えるべきだと判断した時は、破ってくれて構わない」
「受けるか否かは、内容を聞いてから判断しても?」
「……"忍術およびお前の前世を、公安側に知られないよう秘匿すること"だ」
途端、蒼良が視線を外し、考え込むように瞑目したので火伊那は焦った。
「まさかお前、もう他の誰かに話したり……ッ」
「貴方だけです」
驚愕を舌に乗せる火伊那を、蒼良が簡潔に黙らせる。
「火伊那さんだけです。これまで誰にも尋ねられた事はありませんでしたから。忍術と個性を併用した事はありますが、恐らく誰にも気づかれてはいません。現段階では皆、私の蒼翼をただ応用能力が高い個性なのだと認識していると思います」
その冷静な分析に、火伊那がホッと胸を撫でおろしたのも束の間、「ですが」と蒼良は続ける。
「私はかつて、持てる力は余すことなく使えと教わりました。油断は悪で、慢心は罪であると。ですから私は__」
「駄目だ。……頼む、蒼良。それ以上は聞きたくない」
「そうやって泣きそうな顔をすれば、私が言うことを聞くと思っているんですか?」
「泣き落としがお前にそんなに効果的なら女優だって目指してやるけど、生憎今の私にそこまでの演技力はねぇよ」
遠回しに、この悲しみは演技ではない素直な感情なのだと伝える火伊那に、「もっと質が悪いですね」と蒼良が呟く。
「そうだな。お前からすりゃ、質も悪けりゃ格好も悪いしみっともない女だな、私は」
「盛り過ぎです。そこまでは言ってません」
「優しい訂正をありがとう。そんな優しい蒼良に改めてお願いしたい事がある」
「私の答えはもう___」
「蒼良」
悲しみの色を秘めたままの強い眼差しに少女は射貫かれ、言葉を止めた。
「頼むよ。お前が頷いてくれるなら、私はここで殺されたって構わない」
「訳の、分からない事を__」
「お前自身を守るためだ。私の知らないところで、手の届かないところで、お前が一人で傷付くことが無いように……私との約束を守って欲しい」
能力の秀でた者から割を食う世界で、これ以上この少女の並外れた特異性を周囲に漏らしてはいけないと、火伊那の直感が告げていた。
確信めいた不吉な予感が頭の中に巣食っていた。
この少女が籍を置くのは社会の基盤を作れるほどの巨大勢力で、なおかつ道徳に反する行為を容認するような組織なのだ。
その能力が暴かれたとき、蒼良がどんな目に遭ってしまうのか、想像がつかないのが恐ろしかった。
そして何より、組織の人間に何をされようと、抵抗する事の出来ない蒼良の在り方が火伊那を最も恐怖させた。
「私のため、ですか。だとしたら、それは無意味な約束です。私は組織の歯車の一つに過ぎません。いくらでも替えが効く。壊れたら新しいものを補充すればいい。私を守ろうなんて、考えなくていいんです」
「……それも、昔教えられた事なのか?」
頷く蒼良を見て、火伊那は唇を噛みしめる。
抑えきれなくなりそうな激情をぶつけるべき相手は、この世界には居ない。
全ての怒りを拳に乗せてぶつけたくとも、矛先がないのではどうしようもない。
やるせない怒りをため息で散らして、火伊那は眉を下げた。
「私にとって、お前の代わりはどこにもいないよ」
「そんなことは__」
「私の気持ちは私が一番よく分かってる。お前にだって、否定させたりなんかしない」
強く断定されてなお何か言いたげな雰囲気を滲ませていた蒼良だったが、火伊那が言葉を曲げる事はないと察したのか、諦めて話題を修正する。
「ですが、私は任務で手を抜くわけにはいきません。蒼翼は、強個性とは言い難い個性です。それ一つで戦えると思えるほど、私は自惚れてはいませんし、この世界を舐めてもいません」
「だったら、絶対にバレないようにお前の忍術とやらも使えばいい。人の常識の範疇から逸脱しない程度に。周りに疑問を持たれない範囲で。特に、公安の人間の前でそれを徹底してくれればいい」
「どうして、そこまで……」
尻すぼみに蒼良が言葉を消した後、二人の間に長い沈黙が落ちた。
目を伏せて熟考する少女を、火伊那は静かに見守っていた。
その瞳には真摯な祈りだけがあった。
蒼良の身を心から案じる、絶対の慈愛だけがあった。
長い長い空白の時間の間、蒼良が何を思い、考え、感じていたのか。
その全てを知る事は、やはり火伊那には不可能だった。
もっと一緒にいられたなら、違っただろうか。
もっと一緒にいられるなら、自分は蒼良を救えただろうか。
無意味な仮定ばかりを思い浮かべては、その愚かしさに気が付いて風船のように弾けて消える。
そんな、あまりにも人間らしい思考を繰り返す火伊那の眼前、少女がついにその首を縦に振った。
「……そんなに露骨に嬉しそうな顔をしないでください。あくまでも約束です。任務に支障が出ると判断すれば、躊躇なく破ります。その時になって、泣いたりするのはなしですよ」
「お前、本当に私の涙に弱いんだな」
その優しさを再認識しながら、火伊那は蒼良の小指を自分の小指で絡めとった。
これは何だと不思議そうな顔をする蒼良に、いたずらっぽく歯を見せながら言う。
「約束は死んでも守ろうなっていう儀式だ」
「強制力はないと言ったはずです」
「細かい事は気にするなよ」
「貴方が大雑把すぎるんです」
文句を言いつつも決して振りほどこうとはしない少女は、やはりどこまでも優しかった。
「___さて、と」
指切りげんまん切り終えると、火伊那は護岸ブロックから腰を上げ、海とは反対側の路面に足を着けて立ち上がった。
大きく一つ伸びをして、衣服についた砂埃を軽く叩いて落としていく。
「行くんですか?」
蒼良がぴょんと飛び降りて、火伊那の隣に着地する。
「ああ。そろそろ行かないとな。未練タラタラで長居し過ぎて、誰かに姿見られでもしたら笑えねぇよ。ヒーローだった私はもう、今夜死んじまったんだから」
やるべき事は全て終えたかのような満足気な表情で言ったけれど、そこには少しばかり自虐的な雰囲気の笑みが混ざっていた。
「行く宛はあるんですか?」
着の身着のまま飛び出してきた火伊那に、これから先の人生の事など自分自身ですら分かるはずはない。
けれど、皮肉なことに暗躍はすっかり得意になってしまった火伊那は、隠れて生きていく方法などいくらでもある事を知っている。
「いーや。けどまぁ何とかなんだろ、これでも一応大人だしな。安心してくれ、今後は大人しくヒッソリと暮らしていくさ」
言いながら、火伊那はくるりと踵を返した。
顔だけを蒼良の方にわずかに残して、「ついて来たいなら今の内だぞ」と冗談めかして笑う。
「私の答えはさっきと変わりありません」
「ちぇっ、分かってたけどつれねーなぁ」
悔しそうにこぼす火伊那は既に前を向いていて、蒼良からはもう、その表情は見えなかった。
「元気でな、蒼良」
明るく告げられたその一言が最後だとでも言うように、確かな足取りで前へ前へと歩みだした火伊那の手を、もう二度と触れる事は叶わなくなるであろうその温もりを、気が付けば蒼良は小さなその手に掴んでいた。
「…………この先、変な人に声をかけられても、ついて行っては駄目ですよ」
驚いて振り返った火伊那に、わざわざ引き留める意味などないような忠告を蒼良が投げる。
「行かねーよ。私はワンパク小学生か」
「貴方は人を見る目がありませんから」
「私がお前を大好きなこと知っててそんな事言ってんなら怒る__いいや、泣いてやるからな」
この少女には怒りよりも涙が有効である事を思い出し、即座に言い直した火伊那に、「学習能力が高いようで何よりです」と蒼良が返す。
「ついでに、故郷や知人の元を訪れるのは悪手だということも覚えておいてください。その辺りは公安の息がかかっている可能性が高いですから」
「言われなくても分かってるって。私がそんなドジを踏むとでも?」
「念には念をと言うでしょう」
それが誰の為に押された念なのかと考えれば、自己愛の欠落したこの少女が保身を気にするはずもなく、その心配の全てが火伊那に向けられている事を、火伊那はちゃんと分かっていた。
愛おしいと思う。
この少女が、愛おしくてたまらないと。
掴まれた手を自分の方に引くと、蒼良の頭が火伊那の腹のあたりにぽすりとぶつかった。
そのつむじを見下ろしながら、薄水色の髪の毛にそっと掌を置く。
これが最後になるであろう触れ合いを、名残惜しむように優しく撫でる。
再び会える日が来る事など、きっとない。
だってこの少女を危機に陥れるような真似など、火伊那には死んでも出来ないのだから。
これ以上蒼良に迷惑をかけないよう、最後くらいは未練を断ち切った振りをしようと思っていた。
それなのに、この少女があんな引き留め方をしたせいで、寂しさの歯止めが効かなくなってしまいそうだ。
「………ぁ、」
そんな複雑な思いで蒼良を見つめていた火伊那の視界の端で、ふと、何かが揺れているのが見えた。
蒼良の背中の蒼翼が、控えめながらも、久しぶりに与えられた火伊那の心地よい指先の感触を喜んでいた。
「は、はは………っ」
思わず笑ってしまうと同時、火伊那は蒼良の両脇に手を差し込み、そのまま高らかに持ち上げてクルクルとその場で回りだす。
両足を宙に浮かせた蒼良は、遠心力をその身に受けながら、何故か突然大口を開けてはしゃぎ始めた火伊那を見下ろしていた。
目立つ行動は慎むべきだと言うのに、本当に困った人だ。
数分前にしていた目立たず生きるという宣言は、いったいどこへ行ってしまったのだろうと思いながら。
しかし、まるで素敵なプレゼントでも貰った子供のように笑う火伊那を、たしなめる事はしなかった。
底知れぬ親愛が滲む彼女の瞳に、かつて見た眩いほどの澄んだ輝きが再び灯り煌めく様子を、目に焼き付けるのに忙しかったから。
「なぁ、蒼良。やっぱり私と一緒に行こうぜ」
今日何度目だか分からない誘いを、火伊那はまたしても、カラッとした笑顔を添えて口にした。
徐々に回転速度を緩めながら、蒼良を丁寧に地面に下ろす。
「火伊那さん___」
「うるせぇ。しつこ過ぎる事くらい私が一番分かってる」
「まだ何も言ってません」
「それでも、何かの間違いで頷いてくんないかなって、そんな馬鹿な期待を捨てらんないくらい、お前の側を離れたくないよ」
誰よりも蒼良を知っている自負がある。
けれど火伊那は、蒼良の全てを知っている訳ではない。
それを知るにはもう、残された時間が少なすぎた。
その壮絶な過去の片鱗に触れる事が叶った唯一の人間である火伊那は今、それを手にしたまま持ち去ろうとしている。
蒼良の全てを暴き出し、凍りついた心を甘やかに溶かす権利を放棄して、無責任にここを立ち去らなければならないのだ。
抱えるものを誰にも見せるなと、残酷な約束を押し付けて逃げるのだ。
それはきっと、蒼良を守る事でもあり、蒼良の心を孤立させ続ける事でもあった。
「……逃げたくなったら、いつでも飛び出せよ。お前には、立派な翼があるんだから」
かつて夢見たヒーローは、世界を支えるヒーローだった。
大切なものを、守り抜けるヒーローだった。
傷ついた誰かを、救い、癒せるヒーローだった。
そんなヒーローになりたかった。
蒼良のヒーローに、なりたかった。
「飛び方、教えてやれなくてごめんな」
火伊那には、救う事は出来なかった。
けれどどうか、どうか幸せになってほしいと願う。
愛してほしい。
愛されてほしい。
その相手が自分ではないというのは、本当はたまらなく悔しいけれど。
もうこれ以上、傷付かないでほしい。
誰にも傷付けられないでほしい。
盾であり、呪いでもある火伊那との約束など踏み越えて、抱えたものを全て打ち明けられるような、そんな誰かに出会ってほしい。
そんなヒーローに、なってほしい。
「謝るのはそれで最後にしてください。不要な謝罪は困ります。私には、受け止め方が分かりません。それに、貴方には翼がないんですから、教えられないのは当たり前です」
火伊那は頷いた。
蒼良の抗議にまた「ごめん」と謝りそうになって、口を閉じる。
「それに、私はもう一人で空を飛べます」
火伊那は頷いた。
蒼良の優秀さなど、もうとっくに知っている。
教えたかったのは、飛び出す勇気と、目指すべき場所だ。
「それに、もう沢山教えてもらいました。沢山……だからもう、十分です。だからもう、謝罪は聞きたくありません」
火伊那は頷いた。
精一杯の不器用な慰めをくれる少女へ、尽きない感謝と愛を込めて、俯いて動かない身体を腕の中に閉じ込めた。
「……うん。それでもやっぱり、もっと教えてやりたかったよ」
蒼良は何も答えない。
ただじっと、火伊那の胸に頭を抱かれ、無抵抗に抱きしめられている。
真上から降る温かな声を聞きながら、少女のその蒼翼が揺れ動く事は、もうなかった。
「心の底から……愛してるよ、マイヒーロー」
静かに蒼良を解放し、小さな額に唇を寄せた。
これでもう、本当に最後だという別れの意味を込めて。
ヒーローもただの人なのだと、気づかせてくれた恩人に。
命を___そして、辛かった自分を、悲しかった自分を、苦しかった自分を救ってくれた、優しい少女に別れを告げた。
筒美火伊那は、ヒーロー社会が大嫌いだ。
歪で脆く、嘘にまみれたこの世界の犠牲者である火伊那に、それを受け入れろというのは無理がある。
けれど今、火伊那にはその全てを否定する事は、もう叶わなくなってしまった。
何故なら筒美火伊那は今宵、かつて夢見たそのヒーローに、出会ってしまったのだから。
遠ざかっていく女の背中を、見えなくなるまで目で追っていた。
瞬きする時間すら惜しむかのように、ただずっと、見続けていた。
そんな自分の行動が、遠い過去に教わった「好き」の定義に当てはまっているような気がして___ああ、そうか。彼女の事が好きだったのかと、今さらながら気が付いた。
女を見送る少女の唇は、無意識の内に引き結ばれていた。