「__瞬間最高飛行速度、時速百三十キロメートルを超えました」
管制室のモニターを眺めながら、職員の一人が淡々と数値を読み上げた。
その報告を耳にした瞬間、室内にはさざ波のようなざわめきが広がる。
「……凄いな。確か、あの子はまだ六歳だろう?」
「ええ。しかも、つい二ヶ月前までまともな訓練すら受けてなかったはずですよ」
「吸収力も向上心も並外れてる。この年齢でこれなら、将来が楽しみだ」
部屋の正面に設置された巨大なスクリーンには、赤い翼が高速で空を切り裂いている様子が映っている。
その姿を目で追いながら、休憩中だった蒼良は隣にいる目良と「すごいですね」と控えめに頷き合った。
啓悟が公安にやって来てから、約二ヶ月が経とうとしている。
赤い雛鳥は、まさしく才能の塊だった。
教えられたことを、乾いたスポンジが水を吸うように瞬時に呑み込んで成長し続けている。
当然のように公安内では噂が広まり、最近では訓練中の啓悟を見るために、無関係の職員が興味本位で管制室を訪れることも増えた。
現に今も、彼らは啓悟が叩き出した新記録に興奮を隠しきれない様子で、口々に感嘆を漏らしている。
「まったく、大した才能だ。このまま順調に行けば、アズールの持つ記録を塗り替えるのも時間の問題だな」
「加えて、ホークスの場合は強い正義感まで持ち合わせている」
「良い傾向ですよ。このまま成長すれば、公安を背負って立つのは彼の方になるでしょうな」
「会長は未だにアズールに肩入れしているようですが……」
「さあ、どうだろうな。彼女の場合、欠けているものが多すぎ___」
その言葉の続きは、突如響いたわざとらしい咳払いに打ち消された。
瞬間的に場の空気が凍りつき、職員たちの視線が一斉に咳払いの主に注がれる。
部屋の隅、蒼良の隣に座っていた目良だった。
目良は苛立ちを隠しもせずに彼らを睨みつけており、その鋭い視線が、職員たちに気まずそうな沈黙を呼び込んだ。
それまで蒼良が目良の隣で静かに座っていたことに、彼らは今初めて気がついたらしい。
「各位、自分の持ち場にお戻りください。ここは無駄話をする場ではありませんので」
年上の職員もいる中で、毅然と有無を言わせぬ重みを込めて目良は言った。
咳払いの一件ですっかり冷え切った空気に居心地の悪さを感じたのだろう、職員たちは無言のままゆっくりと散っていく。
「どうか今後とも、ご留意くだされば幸いです」
最後に退出する一人の背にそう低く言い放つと、目良は隣に座る蒼良に視線を向けた。
しかしその視線に込められた複雑な感情を、蒼良自身は気付いていないようだった。
彼女は変わらぬ無表情のまま、巨大モニターの中を飛び回る赤い翼をただ見つめているだけだ。
その横顔は悲しいほどに静かで、いつものように、心の内を誰にも覗かせることはない。
「……君が時速百三十キロメートルに達したのは、五歳の頃でしたね。初めて飛行能力の測定をした日のことでした」
突然そんな話を始めた目良を、蒼良は不思議そうに見上げ、小さく首を傾げる。
「君の強みは速度だけではない。どんな状況下でも最高のパフォーマンスを発揮する安定感。精緻で繊細な個性の制御力。加えて、状況判断力や応用力においても――」
「その辺りで落ち着いてください、目良さん」
やや早口でまくし立てるように少女の長所を挙げ始めた目良を、蒼良は容赦なく遮った。
このまま放っておけば、いつまででも語り続けそうな勢いだったからだ。
目良は普段こそ口数が少ないものの、何かの拍子に妙なスイッチが入ってしまうことがある。
「……失礼しました、つい熱くなってしまいまして」
「いえ、もう慣れていますから問題ありません」
あっさりと返され、目良は先ほどとは異なる下手くそな咳払いをする。
「アズール、先ほどのことですが……気にしてはいけませんよ」
何の話だと不思議そうにする蒼良に、目良は視線をわずかに逸らし、困ったような声で続けた。
「さっきの職員たちの会話のことです」
その言葉でようやく、蒼良は目良が何を気にしているのか理解した。
自分が後輩の成長を褒められることに傷つき、不快に思っているとでも考えたのだろう。
だが、そんな心配はまるで的外れなものだった。
蒼良には嫉妬も焦りもプライドも存在しない。
たとえ自分が批判されても、後輩が持ち上げられていても、胸に痛みを覚えることもない。
思うところなど何もない。
強いて言うのであれば、啓悟に対する素直な称賛があるだけだ。
蒼良との付き合いが最も長く、鋭い観察力を持つ目良ならば、蒼良がそのような感情を抱かないことは知っているはずだ。
それでも彼は、蒼良をいつまでも一人の子どもとして___一人の人間として扱おうとしている。
無関係のはずなのに、何故だか一段と暗い表情に見える目良を観察していると、不意に管制室の扉が小さな音を立てて押し開けられた。
また誰かが面白半分に覗きに来たのかと目良が目を光らせて振り返ると、小さく開かれた扉の隙間、こちらを覗き見る背の低い人影が見えた。
キョロキョロ、そわそわと辺りを見回していたその子供は、目良の隣に座る蒼翼の少女を目にした途端、パッと弾けるような笑顔を浮かべる。
「___アズール!」
管制室いっぱいに響いた明るいボーイソプラノは、先ほどまでモニターの中を飛び回っていた少年のものだった。
いつの間に訓練室を抜け出したのか、啓悟は一直線に蒼良の元へと駆け寄ってくる。
その顔には疲れなどまったく見当たらず、ただ純粋な喜びだけが溢れていた。
「アズール、今の見とってくれた?俺、先週より二キロも速くなったとよ」
興奮と熱気で頬を赤く染めた少年が、期待に満ちた眼差しで蒼良を見上げる。
その表情が「褒めてほしい」と雄弁に語っていることに、目良は気づいていた。
「もちろん見てた。さっき、すごいねって目良さんと話してたところ」
優しく頭を撫でられて、啓悟ははにかんだような笑みを見せる。
同時に赤い翼がばさばさと大きく羽ばたき、巻き起こった風で近くの書類が飛びそうになるのを他の職員が慌てた様子で押さえている。
「明日、アズールと模擬戦闘やるって聞いたばい。今度は俺、勝ってしまうかもしれん」
「ホークス、君がダイヤの原石ならば、アズールは既にダイヤモンド__」
「負けないよ。私は強いから」
啓悟の子供らしい挑発に、大人げなく正論を挟もうとした目良の言葉を遮って、蒼良が淡々と真実を告げる。
煽るような意図もなく、ただ純粋に己の勝利を疑わない少女に、啓悟が頬を膨らませる。
「やってみらんと分からんやろ」
「分かるよ。私はホークスには負けない」
「でも」とそこで一度切って、蒼良は言葉を付け足した。
「期待してる。ホークスはきっと良いヒーローになるって、皆そう言ってるよ」
「"皆"やなくて、アズールは?」
「私もそう思ってる」
蒼良がそう返すと、それを聞きたかったのだと言わんばかりに、啓悟が機嫌を良くして笑う。
この少年にとっては、他の誰でもない、この少女に認められることが重要なのだ。
「それじゃ、また続きやってくるったい。アズール、今度もちゃんと見とってよ。そんで、明日は覚悟しとってね!」
元気いっぱいに言い残し、啓悟は慌ただしく管制室を飛び出していく。
どうやら彼は、休憩時間でもないのにわざわざ蒼良に会いに来ていたらしい。
決して褒められたことではないが、今はもう会えない彼女を彷彿とさせる無邪気なその笑みに免じて、蒼良は寛容な心で黙認しておく事にした。
「いってらっしゃい、ホークス」
閉じた扉に向かって小さく手を振る蒼良を横目に、「それにしても」と目良が呟いた。
「ホークスは随分君に懐きましたね。最初はあんなに静かだったのに、最近は年相応に振る舞えるようになったようで、安心しましたよ」
「そうですか?出会った頃からずっと、あんな感じだった気がしますけど」
「出会った日から、君が彼を変えたんですよ」
啓悟と蒼良が初対面の日を迎える以前にも、何度か啓悟との交流の機会を得ていた目良は、保護されたばかりの頃のあの少年を知っている。
いつも不安げに、どこか諦観の滲む瞳でエンデヴァーのぬいぐるみを抱きしめて、常に周りの大人の顔色を窺っているような子供だった。
かつて彼が生活を共にしていた両親と言う名の身近な大人は精神がひどく不安定で、不意に爆発しかねない危うさを持っていた。
それ故、不用意な言動をとらないよう、息を殺して大人しくする癖があの少年には身についていた。
それがどうだ。
公安に拾われ、蒼良と出会い、二か月が経過した今、啓悟には見違えるほど笑顔が増えた。
その初期を知る目良だからこそ、彼は本来こんな顔が出来る子供だったのかと、驚かずにはいられない。
「誰がどう見ても、ホークスは君にベッタリです。君が側にいる時は、他の連中なんてまるで眼中にないですからね。本当は鷹じゃなくて、鴨か鶏なんじゃないかと錯覚しそうなほどですよ」
鴨や鶏の雛鳥には、卵から孵って一番最初に見た相手の後ろを付いて歩く習性があるという。
どうやら啓悟の場合は、「愛情を知る鷹見啓悟」が爆誕した二ヶ月前のあの日、あの時、あの瞬間に相対していた蒼良を、自分の拠り所と決めてしまったらしい。
「僕は時々、君には実は人たらしの才能があるんじゃないかと思うんですよね」
「まさか。どちらかというと、人心掌握は昔から苦手な分野です」
「人心掌握」
「何しろ、人の感情を正しく読みとるのが苦手なものですから」
「リアクションの最適解が思いつかないです」
ブラックジョークと笑えばいいのか、未だ情緒が発達する兆しの見えない事に涙すればいいのか、判断付かない台詞を投げて寄越すこの少女は、啓悟とは違い、出会った頃から大きな変化は見られない。
今から約一年ほど前、レディ・ナガンがこの世を去った時ですらそうだった。
世間には「ヒーロー辞職」と伝えられた火伊那の電撃引退騒動の裏側で、公安職員にだけは、彼女は殉職したのだと情報の訂正が行われた。
組織の中枢で起きた揉め事や造反など、一般市民に知られる訳にはいかなかった。
あの夜の詳細を知る者は公安内にも蒼良と会長の他にはおらず、本当の真実を知る者は蒼良しかいない。
火伊那の訃報を耳にしたとき、目良が最初に感じたのものは、親しくしていた同期の死に対する衝撃と喪失感だ。
そして次に、そんな同期と親密な関係性を築いていた一人の少女の精神状態を危ぶんだ。
しかし、件の少女はその後も飄々と規則的な一日一日を刻んでいくばかりで、火伊那の死に対する動揺は微塵も見られない。
そんな蒼良の姿は目良を安堵させるどころか、ますますその不安を増長させることになった。
だからこそ目良にとって、この度新しく公安にやって来たヒーローの卵こと鷹見啓悟の存在は、非常に得難くありがたいものだった。
あの二人の間にいったい何があったのかは知らないが、いつの間にやら蒼良に完全に心を許したらしい啓悟は、訓練時以外のほとんどの時間を蒼良と共に過ごしている。
廊下ですれ違う時はだいたい二人セットで仲良く手を繋いで歩いているし、食堂でも蒼良の隣にはいつだって啓悟が座っているのだ。
蒼良を一人にしない事___それは一見簡単なようで、目良には成し得なかった事だった。
目良だって、本当は蒼良のためになるべく時間を割いてあげたかったけれど、ハードなスケジュールで仕事を抱える状態ではそれは不可能に近かった。
気持ちだけあっても、火伊那のようにはいかないのだ。
そもそもの話、彼女が蒼良へのダル絡みとも称せるような寄り添い方を許されていたのは、その性別と地位があってこそだ。
まだまだ下っ端社員である目良にはヒーローたちのような確立されたポストはないし、何より性別が男なので、蒼良を強引に家に連れ込み寝食風呂を共にするなど許されるはずもない。
そんなことをすれば、蒼良の老若男女を惑わせてしまいそうなその容姿のせいで、目良があらぬ疑いをかけられてしまう可能性だってあったのだ。
「……どうか、これからも二人仲良くいてくださいね」
しみじみとした目良の呟きに、蒼良は不思議そうに首を傾げつつも、それと同時に頷くという器用な動きをしてみせた。
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「………おかしい。勝てるビジョンが全く見えんったい」
眉間に皺を寄せ、いじけたようにポツリと啓悟がそうこぼした。
「そんなに落ち込むことないよ。スピードも強度も索敵能力も、私と大きな差はないんだし」
「それなのに全く勝てんけんこんなに落ち込んどるとよ。傷口に塩塗るんやめて!」
ナチュラルな煽りに憤慨しつつも、啓悟は並んで廊下を歩く蒼良の左手をちゃっかりと握り、決して放そうとはしない。
かつてその手にいつも持ち歩いていたエンデヴァー人形の姿は、最近見当たらなくなった。
目指すべきヒーロー像は変わらずそこにあるけれど、今はそれとは別に、すぐ隣に大切な拠り所を見つけたのだ。
今日、啓悟は全ての能力測定を終えた後、久しぶりに蒼良との模擬戦闘を行った。
二ヶ月前に初めて戦った時は手も足も出なかったが、全ての記録を飛躍的に伸ばした今度はあの時のようにはいかないぞ__などと考えていた時が彼にもありました。約一時間ほど前のことである。
しかしいざ蓋を開けてみれば、またしても結果は惨敗。
たとえ基礎能力に明確な差がない相手だとしても、戦闘経験値と技術、さらにはセンスで圧倒するのが蒼良という名の少女だった。
そもそも、前世から死と隣り合わせの環境下で毎日血反吐を吐きながら訓練に訓練を積んできた人間が、そんじょそこらの雛鳥一羽にそう簡単に負けるはずがない。
それに加え、かつて彼女は自分と同じように訓練を受けて育った仲間の命をいくつも刈り取ってその頂点に立った女なのだ。
先日目良が言っていた通り、啓悟をダイヤの原石とするなら、蒼良という少女は既に磨き上げられたダイヤモンドそのものだった。
しかし、蒼良に言わせてみれば、啓悟の秘めたる戦闘センスはお世辞抜きに十分見上げたものである。
もしも蒼良がチャクラ操作による補助を行わず個性のみで戦ったのなら、その勝敗は今後どうなっていくか蒼良にだって断言はできない。
第一、啓悟の個性は蒼翼の完全上位互換なのだ。
鷹と小鳥__考える間でもなく勝敗は明らかだろう。
蒼良の羽は一枚一枚が啓悟のそれより小さくて柔らかい。
力を込めれば一応硬くはなるが、剛翼には到底かなわない。
さらに言えば、蒼良の羽はどこまで行ってもただの羽なのに対して、啓悟の羽は聴覚・視覚機能までついた優れものなのだ。
といった具合にとんでもないチート個性の「剛翼」に対し、「蒼翼」はただ飛べて動かせるだけ。
勝っているところと言えば、その手触りがとても気持ち良いところくらいなものだった。
個性+チャクラを用いた蒼良と、その個性だけで張り合えそうな啓悟はきっと、頼もしいヒーローになるのだろうと蒼良は考えている。
「そういえば啓悟、今日がヒーロービルボードチャートの更新日なの覚えてる?二十時からインタビュー生中継」
その一言に、ふてくされていた啓悟の羽がピンと伸びる。
「ヒーロービルボードチャートJP」___それは、事件解決数、社会貢献度、国民からの支持率を公安が独自に数値化し、毎年世間に向けて発表するランキングのことである。
No.1からNo.10までのヒーローが一堂に会してインタビューを受けるこの催しは毎度世間の大きな注目を集めており、蒼良の隣を歩く啓悟もまた、この日を心から楽しみにしていた一人だった。
「そうやった!エンデヴァーも出るっちゃろ?」
「うん、きっと出ると思う。ここ数年ずっとNo.2だから」
「こうしちゃおれんったい!早よご飯食べて、お風呂入って、万全の準備せんといかん!」
「そんなに急がなくてもエンデヴァーは逃げないよ。録画だってしてるし、もし見逃しても__」
「蒼良ちゃんは分かっとらん!リアタイすることに大きな意味があるったい!」
難儀なオタクは蒼良の手を引いて走り出す。
フンスフンスと張り切って先陣を切る啓悟に腕を引かれ、自室の前まで辿り着いた時だった。
「止まれ、アズ」
ドアの前に立つ二人の背に、後ろから声がかけられた。
蒼良には振り向かずともその声の主が分かってしまう。
何故なら、公安内で蒼良をその呼び名で呼ぶ人物は、たった一人だけだから。
「どうしたの、廻くん。私に何か用事だった?」
言いながら振り向けば、思った通り。
そこには予想通りの一人の少年が立っている。
治崎廻、十二歳。
四年前、孤児院のベランダから落下した際、突如として現れた青い羽にその命を救われた少年だ。
______________
世界総人口の約八割が何らかの「個性」を持つようになったこの世界では、年々孤児が増え続けている。
手に負えない個性を持っているから捨てられた子供。
異形の見た目を受け入れられずに捨てられた子供。
個性が原因でトラブルを抱える子供は多く、その心に抱えた傷は、他人には到底推し量れるものではない。
治崎廻は孤児だった。
自分の一番古い記憶を辿ってみても両親の顔は見当たらないため、ほとんど産まれたばかりの頃に捨てられて孤児院に引き取られたのだと思う。
治崎廻は、あの孤児院が嫌いだった。
「__さぁ、皆さん。兄弟としてお互いを助け合い、私達を本当のお父さんお母さんだと思ってください。私達はここで、家族のように愛し合いましょう!」
そう声高に呼びかける先生たちは、本心から子供たちを愛してはいなかった。
いいや、本人たちは愛しているつもりだったのかもしれない。
だが少なくとも廻には、彼らが自らの愛と献身に酔っているようにしか見えなかった。
自らの熱意がから回っている事にも気付けない愚かな大人たちばかりだった。
何が親兄弟だ。
自分たちは、その愛し合うべき兄弟や親に捨てられたからこそ、こんな所に押し込められて居るのだというのに。
複数人いた兄弟たちの中で、「どうしてもこの子だけは愛せない」と捨てられた子供だって少なくなかった。
綺麗事を口にするだけしておいて、いつの間にか消えてしまう大人を何人も見てきた。
当然の帰結だった。
実の親兄弟にすら手に余ると判断され、見放された厄介者たちの集団を、赤の他人がどうして本気で愛せるだろうか。
廻には家族の記憶すらなかったが、トラウマを抱えた子供たちはあの場所には大勢いた。
そんな彼らにとっては、所詮仕事なのだと割り切って、事務的に接してもらえた方がまだマシだったのだろう。
傷跡を埋める甘い薬を表面だけに塗りつけられたかと思えば、治り切る前の瘡蓋を無遠慮に引き剥がされるよりは、よっぽど。
子供たちは痛い勘違いをした大人たちへの反感を覚え、その鬱憤を辺りに撒き散らすことで発散した。
ストレスへの対処法など、本能のままに癇癪を起こす以外には知らないのだから仕方がない。
大人たちを困らせようと、わざと食事をひっくり返す者が居た。
壁や床に、落ちない塗料で絵を描く者が居た。
外で泥だらけになった身体のまま、布団の上に寝転ぶ者が居た。
そんな無法地帯はいつしか、自らの個性を用いて暴れる子供たちの巣窟へと化していた。
生来の性質として綺麗好きな一面を持っていた廻にとっては、いい迷惑に他ならなかった。
お世辞にも褒められたものではない衛生環境の中で、廻はもともとあった潔癖のきらいを徐々に加速させていった。
他人との接触を苦痛とする彼にとって、無法地帯と化した孤児院での生活は耐え難いもので、何度あの場所から逃げ出したいと願ったか分からない。
治崎廻は、あの孤児院が嫌いだった。
あの建物は、元々カトリック系の宗教施設団体が福祉を兼ねて設立したものであったらしく、西洋造りの孤児院の隣には礼拝堂が併設されていた。
信仰心の有無に関わらず、毎週日曜日になると孤児院の子供たちは皆礼拝堂へと集められ、祈りを捧げるのが習慣だった。
礼拝堂の正面の壁一面は青みがかったステンドグラス貼りになっていて、そこから光が差し込むと、室内はいつも鮮やかな青に照らされた。
孤児院は外装も内装も手が行き届いていなかったのに対し、この礼拝堂だけはいつでも綺麗に手入れされていたので、廻は一人、ほとんど毎日その場所に入り浸っていた。
「__あら廻くん、今日もまたお祈りしに行くの?毎日熱心ねぇ、素晴らしいことだわ。あなたの祈りは、きっと神様にも届いているはずよ」
そう言って嬉しそうに笑う大人の一人に、廻は曖昧な返事を返す。
周りから見れば、確かによほど熱心な信徒に見えていたことだろう。
しかし廻は、自分を救ってくれないものなど信じてはいなかった。
神もヒーローも信じられる訳がない。
もしもいつか何かを信じるときが来るとすれば、それはきっと、本当の意味で彼が救われたその時だけだ。
治崎廻は、あの孤児院が嫌いだった。
自分以外には誰もいない礼拝堂の一席に座り、暇つぶし用に持ちこんだ本をその隣に積み重ねる。
音のよく響く静かな空間に、紙の擦れる音だけがパラパラと聞こえると、ほんの少しだけ心が凪いでいく気がしていた。
不意に陽が射し、ページの余白が青く照らし出された時、廻は何気なく読んでいた本をパタリと閉じた。
青い光の眩さに目を細めながら顔を上げると、ステンドグラスに描かれた天使と目があったような気がした。
本当に何となく、ぼんやりと小さな声で讃美歌を口ずさんでみる。
「神の前に人はみな平等である」なんて綺麗事だ。
人がみな不平等なのは、神なんてものがいないからだ。
けれど、もしも。もしも、本当にそんなものが存在するのだとしたら。
「___なぁ、神さま。それが駄目なら天使でも、何でもいい。毎日来てやってんだから、いい加減に見返りをくれたっていい頃だろ? ……俺を、ここから救ってくれ」
賛美は要求に先立つというが、心からの神への感謝も述べずして、救われたいとだけ祈る廻は、やはり熱心な信徒などとは程遠い。
そんな廻を、青い天使が無邪気な微笑みを浮かべながら見下ろしていた。
治崎廻は、あの孤児院が嫌いだった。
その日、あの孤児院で始まった子供たちの鬼ごっこは、常と変わらぬ日常の一コマだった。
個性使用ありの、制限のない鬼ごっこ。
花瓶が割れ、ソファーが破け、綿布団の中身の綿が空中に撒き散らされていた。
廻はいつものように暇つぶし用の数冊の本を小脇に抱えると、避難のために礼拝堂へ移動しようと腰を上げた。
いつもと違ったのは、そこで廻を引き留める者がいたことだった。
孤児院に来てまだ日の浅い無知な子供が、立ち去ろうとする廻の腕を掴んだのだ。
途端、掴まれた部分から赤い発疹が広がっていく。
他人との接触を嫌い、関わりを拒み、無理に触れればアレルギー反応を起こしかねない廻の性質をほとんどの子どもが理解している中、その日の出来事は不幸なイレギュラーだった。
吐き気すら伴う嫌悪感。
青白く血の気を失った顔で掴まれた手を振り払い、廻は走った。
それを遊びの延長と捉えて追いかけてくる子供が、廻には悪魔のように思えた。
転がるようにしてベランダに飛び出る。
「やめろ…ッ、触るな!それ以上こっちに来てみろ、ここから飛び降りてやる!!」
脅しでも何でもなく、本当にそうしてやるつもりで叫んだ。
もういい加減、耐え難かった。
我慢の限界などとうに超えていた。
衛生観念など無に等しい環境で、廻の身体は次第に食べ物を受け付けなくなっていた。
死にそうにお腹が減れば無理矢理に何かを口に入れたが、胃の中身が勝手に逆流してしまう。
それ故廻の胃はほとんどいつも空っぽで、身体は枝のように瘦せ細っていた。
栄養失調一歩手前のそんな状態であったため、まともな思考などとっくに出来なくなっていた。
一種の鬱状態、自暴自棄に陥っていたとも言える。
死んだら死んだで構わないと、追い詰められた廻は本気で考えていた。
そうして廻は、後先考えずベランダからその身を投げ出した。
けれど、覚悟を決めたその身体に訪れたのは、硬い地面とぶつかる衝撃などではなく、温かな温度とフワリと優しい浮遊感だけ。
目を開くと、そこにあったのは感動すら覚えてしまいそうなほどの鮮やかな青。
その青が自分をそっと地面まで導いたかと思えば、役目は終えたとでも言わんばかりにスルスルと空へ舞い上がっていく。
釣られて視線を上げた廻は、そこに一人の天使を見た。
青く美しい翼の生えた、作り物めいて美しい少女___あの礼拝堂の、ステンドグラスで出来た天使が実体を持って現れたのだと本気で思った。
あんなにも投げやりな自分の祈りが届いたのだと。
神も天使も確かに存在したのだと。
とうとう本当に、自分を救いに来てくれたのだと思った。
あまりの衝撃に考えもまとまらないまま、しかし何か声をかけねばと廻が口を開いた時、
「__ねぇ、そこの君。ちょっと降りてきてもらえないかな?」
廻よりもひと足早く廻の天使に声をかけた男の名前は、目良善見。
その年ヒーロー公安委員会に入社したばかりの、社畜の素養を持つ十八歳の青年だった。
廻は天使と共に知らない大人たちに連行され、気がつけば警察で怪我のチェックと軽い事情聴取を受けていた。
その際、蒼良の個性とヒーローとしての素質に目をつけて付き添っていた目良が、廻の個性の有用性にも勘づいた。
当時はまだ自分の個性をほとんど使いこなせていない状態だったが、目良は廻にも公安への引き抜きを提案した。
そして廻は、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸に、もちろん迷うことなくしがみついた。
後になって、あの時の天使が実はただの人間で、当時自分よりも悪辣な環境下で生きていた年下の少女であった事を知ったが、そんな事はもはや些事に過ぎなかった。
大切なのは、彼女に命を救われたのだという事実。
そして、あの時彼女が居たからこそ、自分は今ここに居るのだという事実。
廻にとって、蜘蛛の糸を垂らしてくれたのが彼女であるという事実は、何一つ揺らぐことはなかった。
治崎廻は、あの孤児院が嫌いだった。
治崎廻は、神もヒーローも信じない。
けれど今、彼にはたった一つだけ信頼しているものがある。
あの日自分を救い上げてくれた蒼翼の少女__彼女に報いるためならば、自分の全てを捧げることも厭わないと、廻は心からそう思っている。