「"何か用事?"じゃねぇ。とぼけるな」
不機嫌そうに近づいてくる廻が、蒼良の頬に手を伸ばした。
軽薄さを感じさせる細い眼つきに、若干赤みがかった黒の短髪。
使い捨てタイプの黒いマスクをつけているため、鼻から下は見えていない。
それに加えて十二歳の廻は蒼良より頭一つ分背も高く、啓悟はその威圧感に思わずサッと蒼良の後ろに身を隠してしまう。
けれどすぐにハッとした顔をして、今度は蒼良を守るように前に進み出た。
自分と蒼良の間に挟まるそんな雛鳥には目もくれず、廻の指先が蒼良の頬に触れる。
「お前を待ってたんだ。怪我したならちゃんと見せに来い」
廻の視線の先__蒼良の頬には、先程の模擬戦闘中に啓悟の羽がわずかに掠った傷跡があった。
「少し痛む。我慢しろよ」
その五センチ程度の赤い直線を廻の指先がなぞったかと思うと、魔法のようにその指の下には真っ白な柔肌が顔を覗かせる。
治崎廻。個性"オーバーホール"。
端的に言えば、破壊と修復を司る能力である。
その手で触れた対象を分解し、瞬時に修復することが可能。
応用として、怪我や疲労の治癒までをも行える、紛れもない強個性だ。
「他は?見えない場所に隠したりしてないだろうな」
「他はどこも怪我してない。大丈夫だよ」
「お前の"大丈夫"だけは信用しないって決めてるんだ俺は」
「本当に大したことないんだってば」
そう言って蒼良が右手を後ろに隠すと、目敏い廻が蒼良の右腕を掴む。
「あるんじゃねぇか。隠すな、見せろ」
強引に袖をまくられ、手首に走る複数の擦り傷を廻に見つけられてしまう。
「無理して触らなくてもいいのに」
「そう思うなら、お前が怪我を減らす努力をしろ」
廻が病気とも称せるほどの重度の潔癖性を患っている事を、蒼良は知っている。
公安に引き取られたばかりの頃、廻はそれが原因で食事すらろくにできなかったのだ。
今でこそ料理スキルを習得し、自分で手作りした料理だけは喉を通るようになり、四年前とは見違えるほど健康的な見た目になったが、あの頃蒼良は廻の事を、いつ死んでしまってもおかしくない少年だと思っていた。
この少年が今でも人との接触を苦手としている事を、蒼良は分かっている。
それなのに、無理強いするつもりなど微塵もない蒼良を、彼はいつもこうして目敏く治療しようとする。
唾を付けておけば治る程度の怪我ばかりなのだから、そんな事をする必要はないと止めてもまるで聞く耳を持ってくれない。
今となっては蒼良の中で、廻の認識は「重度の心配性」だ。
潔癖よりもむしろそっちの印象のほうが強いかもしれない。
「模擬戦闘のこと、目良さんに聞いたの?」
「まあな。どうせまた馬鹿な戦い方して怪我するだろうから、治療は任せたって俺に言いに来た」
どこか棘のある言い方をしながら、廻は手際よく蒼良の皮膚を修復していく。
「私のあれは、一番効率の良い戦い方なんだよ」
「そうやっていつまでも頑固に意見曲げねぇから、馬鹿だって言われるんだ」
「言ってるのは廻くんだけでしょ」
「目良さんも言わないだけで思ってる」
戦闘において、蒼良はあまり防御を重視していない。
もちろん今後に支障をきたすような攻撃は防ぐが、軽度のダメージしか受けない場合はわざわざガードしたりなどしない。
戦闘とは、スピードが命。見敵必殺。サーチ・アンド・デストロイ。敵対したらすぐ殺せ。
自分の代わりなどいくらでもいるのだから、捨て身上等で攻めに特化して短時間で敵を仕留めるのが「根」構成員の正しい戦い方なのだと教わってきた。
身に付いた戦闘スタイルは今さらそう簡単に矯正できるものではないし、何より蒼良本人に直す気がない。
だって、直すべき理由が見つからない。
蒼良の怪我を見つける度、廻の機嫌が悪くなる事だけは困りものだが、それを危惧して隠したとして、後になって見つかった場合はもっと不機嫌にさせてしまう。
治崎廻は蒼良にとって、何とも扱いづらい少年だった。
「今、お兄さんがアズールの怪我を治したと?」
二人の間に挟まれて、その存在を無視され続けていた啓悟が、目を丸くしながら不意に呟いた。
そこでようやく廻は視線をわずかに下げ、これっぽちも興味の無さそうな顔で啓悟を見る。
「……なんだ、このチビ」
「鷹見啓悟。ヒーロー名ホークス。ニヶ月前に新しい子が来たって話は廻くんも知ってるでしょ?それがこの子」
蒼良が目の前にある啓悟の頭に手を置きながら紹介すると、廻の眉毛が若干ピクリと跳ねた気がしたが、それを気に留めることなく今度は啓悟に廻を紹介する。
「反対に、こっちは治崎廻くん。歳は十二。私と同時期に公安に入ったの。個性はオーバーホール。簡単に言うと破壊と修復だね。ヒーロー名も同じくオーバーホール」
まだ若干緊張気味の啓悟だったが、「はじめまして」とおずおず声をかけてみる。
対する廻は啓悟をただじっと一瞥しただけで何も言わない。ハッキリ言ってかなり怖い。
「そんなことより、お前いつもの不気味な仮面はどうした。何で今日はつけてない。失くしたのか?」
二ヶ月前まで、自室以外で蒼良はほとんど常時仮面をつけて過ごしていた。
例外があるとすれば、「怪我をしてないか確認するから外せ」と迫ってくる廻の前くらいなものだった。
蒼良も公安に入ってすぐの頃は素顔で過ごしていたのだが、前の人生では仮面をつけていた時間の方が長いくらいだったせいで、あれがないとどうにも落ち着かない気がしていたのだ。
そこで、九歳の誕生日に何か欲しいものはないかと尋ねて来た目良に「仮面が欲しい」と発言したところ、「勿体ないからやめた方がいい」などと謎に渋られてしまったが、最終的には蒼良の意思が尊重された。
しかしここ二ヶ月、蒼良は自室以外でも仮面を外して過ごすことが多くなっていた。理由はひとえに、
「顔が見えないと話しづらいって啓悟が言うから、なるべく外すようにしてるの」
その言葉に、廻の眉がまたしてもピクリと動く。
「アズール、名前……!」
「いいの、廻くんは大丈夫。唯一の例外だから」
言われてすぐに、蒼良が先ほどから彼を「廻くん」と名前で呼んでいることを啓悟は思い出した。
ということは、この二人も公安職員の目を盗んで互いを名前で呼び合う関係なのだろうか。
そう思い至った瞬間モヤりと胸に不快感が生まれて、啓悟は無意識に眉を寄せた。
この世界で、蒼良の名前を呼べる人間は自分一人だけだと思っていたのに。
そんな「特別」を横から奪われたような気がしたのだ。
「……蒼良ちゃんの嘘つき。名前で呼ぶ人、もうおらんって言っとったとに」
「私を名前で呼ぶのは啓悟だけだよ?」
不思議そうに返されて、啓悟はハタと思い出す。
そういえばこの廻とかいう男は、先ほど蒼良を何と呼んでいただろうか?
そうだ。「アズ」だ。「蒼良」ではない。
勝った___!
何に勝ったのかと問われればよく分からないが、何故だか啓悟はそう思った。
急激に機嫌が良くなった啓悟は、一度離してしまっていた蒼良の手を、再度ギュッとつなぎ直す。
「ねぇ、蒼良ちゃん」
「どうしたの?」
「ううん、何でもない。ただ呼びたかっただけ」
ニコニコの笑顔で蒼良に甘える啓悟を見下ろして、今度は廻の眉間に皺が寄る。
蒼良がある日突然「オーバーホール」ではなく「廻くん」などと言い出したのは、今から約一年前__火伊那が公安を去った時期と重なっている。
けれど対する廻は、自分も彼女を名前で呼ぼうという考えには至らず、現在もヒーロー名で彼女を呼ぶ。
「アズ」は特別な愛称という訳でもなく、「アズール」を単純に略した結果、定着したものだ。
廻は蒼良に、忠誠にも近い感情を抱いているものの、特段親しくなりたいと考えた事はない。
彼女がそんな慣れ合いを好むタイプではないと理解していたし、どんな形であれ蒼良の役に立ち、支える事ができればそれでいいと思っていた。
だからこそ、自らの個性「オーバーホール」の訓練では、率先して治癒の能力を磨くことに決めていた。
破壊ではなく、大切なものを守るための力を求めたのだ。
医学的な知識を身に着ければ、オーバーホールはよりその真価を発揮する。
そのため、個性訓練のみならず医学の勉強だって始めた。
治癒系の個性は非常に珍しく、その中でも廻の個性はあまりにも万能性が高いので、公安側も助力を惜しまず特訓を支援してくれている。
「おい、チビ。あまりベタベタするな。汚いだろ」
「汚くないよ、そんな風に言わないで。ごめんね、啓悟。廻くんは少し潔癖症なの」
「けっぺきしょう?」
「えっと…バイ菌怖い怖い病」
「やめろ。勝手に人を頭の悪そうな病人にするな」
自身の額を片手で押さえ、廻が大きくため息を吐く。
「とにかく、ガキは嫌いだ。こういうチビはマトモに手も洗えないし、食事中に食べ物だってこぼす。汗をかいてもすぐに風呂に入らないで平気で布団の上に転がる。孤児院に居たとき、俺はそんなガキをごまんと見てきた」
怒涛の偏見を垂れ流す廻を前に、あの規模の孤児院に五万も子供がいただろうか、などと的外れなことを考えつつ、蒼良は廻の言葉を訂正する。
「確かに啓悟はまだ小さいけど、しっかりしてる方だと思うよ。外から帰ったらちゃんと手洗いうがいが出来るし、ご飯もこぼさず残さず完食してる。訓練後はいつも一緒にお風呂に入ってるし___」
「ちょっと待て」
突然顔の前に掌を突きつけられ、蒼良はピタリと口を噤んだ。
「おい、チビ。お前今歳はいくつだ」
「……六歳?」
啓悟が左手を突き出してパーの形を見せてくる。
右手を蒼良から離さないせいで指が一本足りていない事に、廻は若干イラッとした。
「訂正する。俺はガキが嫌いなんじゃなくて、そいつが嫌いだったみたいだ」
「もっと酷くなっちゃった」
「それと、お前ら今日から一緒に風呂入るのやめろ。命令だ」
「「どうして廻くんが命令するの?」」
「ハモるな腹が立つ。あとチビ。お前は勝手に馴れ馴れしく呼ぶな許可を取れ」
「廻くんって呼んでもよか?」
「駄目だ」
啓悟と蒼良はそれぞれ現在六歳と九歳。
ツンツルテンな幼児体型で、まだ異性を異性と意識したこともないであろう啓悟には特に問題はない。
廻もそれは理解した。
問題があるのは蒼良の方だ。
対面の二人の顔を交互に見た後、「いいかお前ら、よく聞けよ」と前置きして苦言を呈する。
「個人差はあれど、女が二次成長期のピークを迎えるのはだいたい十一歳前後。この意味が分かる……訳ないから俺が今説明してやってる訳だが、端的に言えば大人の身体に変わるんだよ。九歳になるアズはもうそのチビと一緒に風呂に入っていいような年齢じゃない」
「理解したな?」と圧をかけつつ念押しすれば、対面の一人は真顔、一人はポカンとアホ面を晒していた。廻は頭を抱えた。
「……いったいどこで苦戦したんだお前らは」
小さい方はともかく、九歳になる蒼良にはそろそろその辺の常識や羞恥心などを身に着けてほしいと廻は思う。
このままでは、十年後も平気な顔をして「どうして一緒にお風呂に入っちゃいけないの?」などと言い出しそうである。
いいや、この少女ならば絶対にそうなるに違いないと、廻はこれまでの経験則から知っている。
年長者として、蒼良に恩義を感じている者の一人として、それまでに何とかこの無知な少女を矯正しなければと廻は年々危機感を募らせている。
五歳の頃からやたらと賢いくせに、大事なものがおおよそ抜け落ちている蒼良のことを、廻はこれまでもずっと危惧していた。
心も身体も傷つくことを知らず、恐れず、いつか簡単に死んでしまいそうな蒼良のことが怖かった。
廻は簡単には人を寄せ付けないし、受け入れもしない気難しい性格をしているが、一度自分の内側に入ったものは大切にする。
そして、大切なもののためには異常なまでの努力を惜しまない。それが治崎廻という少年の本質だった。
「仕方がないから、一旦理解は後回しでも良い。とにかく今は黙って俺の言う事を聞け」
「横暴やね廻くん」
「おいチビ。さっき許可してないだろ」
「もう横暴なんて言葉知ってるの?啓悟はやっぱり賢いね」
「その舐めた教育を今すぐにやめろ」
啓悟に対する蒼良の対応は甘すぎる。
廻はスッとポケットからハンカチを取り出すと、それを手際よく啓悟の頭の上に置いた。
そしてキョトンと頭上にハテナマークを浮かべている小さな頭を、ハンカチ越しに鷲づかむ。
「いたいっ!何で?!」
「あ。どうしてそんなことするの」
「教育的指導だ。致命的に素質がないお前の代わりに」
嘘だ。幼さと無邪気さを笠に着て、蒼良からやたらと特別待遇を受けているチビに腹が立っただけだった。
「イジめちゃ駄目、仲良くしよう。将来的にはチームアップして任務にあたる事だってあるかもしれないし、そうでなくとも仲間内で無駄ないざこざや分裂は避けるべきだよ」
蒼良が庇うように二人の間に右腕を差し入れると、啓悟は不満げに廻を睨みつけながら、さらに蒼良へと身を寄せる。
それを怯えているのだと捉えた蒼良が、繋いでいた左手を一度放し、その手を啓悟の肩に置き直して自分の方へ抱き寄せると、赤い翼がご機嫌に揺れ始めた。
廻を睨みつけるのも忘れてしまったようで、その顔にはふにゃりと嬉しそうな笑みまで浮かべている始末。
実に単純で扱いやすく、可愛いお子様である。
そんな啓悟を伏し目がちに見下ろしている蒼良の背後で、青い翼が短いながらも赤い翼とよく似た動きをしかけたのを、廻は見逃さなかった。
廻はこれまで、蒼良のそんな姿を数えるほどしか見たことがない。
「………やっぱり、俺はお前が嫌いだ」
本心ではない。
むしろ、この少女に心の破片を与えてくれた啓悟には、わずかに感謝の念を抱いたくらいだ。
ただ、悔しかったのだ。
この少女を救い導くのは、ずっと自分の役目だと思っていたのだから。
「わはは、男の嫉妬は醜いとよ」
「アズ、明日はちょうどゴミ収集日だ、覚えてるか?こいつは処分対象だ」
「何を言ってるの?」
「あ、そうだ。ねぇ蒼良ちゃん、俺も今度からヒーロー名で呼ぶ時はアズって呼んでもよか?アズールよりも響きが可愛い気がするったい」
「お前だいぶ図太いな。駄目に決まってるだろ。”アズ”の著作権は俺にあるんだよ」
「アズ」は特別な愛称ではなく、特別な意味など持たぬただの略称。
廻は蒼良を何よりも大切に思っているが、親しくなりたい訳ではない。
勝手に蒼良をサポートし、自己満足できればそれで事足りると思っていた。
今日、この日までは。
「迴くんのケチ。仕方ないから”アズちゃん”にしてあげる」
「本質が変わってないだろうが」
「アズでもアズちゃんでもいいよ。啓悟が好きなように呼んで」
燻る啓悟への対抗心と、漠然とした不快感。
二人の間に漂う親密な空気が気に入らない。
蒼良が新入りにばかり構っていることが気に喰わない。
他の人間にはこんな感情は絶対に抱かない。蒼良だけだ。
「おい……それなら俺だって、職員の目がない場所ではお前を名前で呼ぶぞ」
それが嫉妬と呼ばれる感情である事に、聡明な廻は今、気がついてしまった。
どうやら自分は、思っていたよりずっと欲深い人間だったらしい、と。
「それは駄目!!」
自分だけの特権を奪われまいと、ギョッとした顔で首を横に振る啓悟の隣で、「問題ないよ」と少女が答える。
「廻くんも好きなように呼んでね」
「蒼良ち"ゃ"ん"っ!!」
啓悟の絶叫を聞きながら、廻はいい気味だとマスクの下で小さく笑った。
こうしてこの日、蒼良を本当の名で呼んでくれる人が、この世界にまた一人増えた。
ちなみに、啓悟がこのやり取りのせいでエンデヴァーのヒーローインタビューを見逃して涙を流す事になるのは、また数分後のお話だ。
後日、啓悟がおはようからおやすみまで蒼良に付きまとっていた事を知った廻は、風呂と睡眠は自室で行うように啓悟に義務付け、監視の意味も込めて二人と行動を共にする事が増えていった。
さらに、以前までは自分の食べるものだけを自作していた廻であったが、三人分の食事を用意し(最初は二人分しか作っていなかったが、作るなら啓悟の分も作るように蒼良に注意されたので)、談話室にて食事を共にするようになり、時にはそこに目良まで同席するようになった。
自立した性格故に、他人と群れようとしなかった廻までもが蒼良の側に居る日常が、当たり前のものに変わっていく。
目良はそんな三人組を見かける度、ひっそりと温かい眼差しを送るようになった。