ウオーク地方、ヒノデタウン。
広大な面積を誇るユグレ湿原にほど近い小さな街だ。
ポケモンジムはなく、ポケモンセンターやフレンドリィショップがあるくらいで、ポケモントレーナーにとっては縁遠くなりがちな田舎。
しかしながら……ウオーク地方のポケモン研究者にとってヒノデタウンは正しく故郷、出発地点にも等しい。
研究者を志す者達の学び舎、ヒノデポケモンサイエンススクール。
ポケモンの生態、生息環境、そのメカニズム。ポケモンの秘密を解き明かすための研究が日夜行われている、創立100年を超える権威ある学校だ。
「終わった……アア、オワッタ……」
その研究室の一室で、ノウルは譫言を呟きながら死んだようにテーブルに突っ伏していた。
「フィールドワーク……サンプル……俺の研究……ぐふぉっ!?」
「なにやってんだい、ノウル」
背後から掛けられた声と共にウジウジとしていた彼の後頭部に分厚い学術書がごつん、とぶつけられたノウルは断末魔の声を上げる。
慌てて振り返ると、そこには伸ばしに伸ばした前髪を輪ゴムで乱雑に纏め、くたびれた白衣を纏った女性が黒縁メガネの奥から胡乱な視線を向けていた。
「マルミ教授」
「教授呼びはいいよ。ここにゃ私とあんたしかいないし」
「……おばさん。これ、見てくれよ」
重々しいため息と共にノウルがメガネの女性、マルミに見せたのはしわくちゃになった1枚の書類。ポケモンリーグが公布した連絡文書である。
「『ユグレ湿原の立入規制基準の引き上げ』……
「そうでしょ!?5段階しかないのに一気にレベルを引き上げるなんてどうかして……」
「だが……リーグの判断は妥当だよ」
ぴしゃりと言い放たれた叔母の言葉にノウルは言葉を呑み込まざるを得なくなる。
ユグレ湿原全体におけるポケモンハンターや犯罪者の不法侵入率は右肩上がりとなってきており、10年前と比べその件数は数倍にも膨れ上がっていた。
そして、不用意に野生のポケモンの生活圏に踏み入ったことで取り返しのつかない怪我を負った者の数も同様、いやそれ以上に。
そのきっかけこそが、数年前に学会に提出されたベトベター達の浄化作用に関する論文だった。
内容自体は一貫して、ユグレ湿原の自然環境の再生におけるベトベター達の役割とそのメカニズムの解明について。
研究畑の人間でもなければ然程注目するようなものでもない論文……。
何処かの誰かが『ベトベター達が体内で結晶化させる金属』が、極めて希少で高価なものばかりであるという事実に気付かなければ、それで終わったはずだった。
歯車はそこからゆっくりと、しかし確実に狂い出したのだ。
しかし既に起こってしまったことは蒸し返してもどうしようもない。
今考えるのは、『これからどうすべきか』だ。
「───ジムバッジ4個、取るしかないんじゃないの?」
ぽん、とテーブルに置かれていたノウルのボールから飛び出るや否や、開口一番言い放ったのはクローネ。
どうやらボールの中で二人の会話を聞いていたらしい。
「そうしなきゃノウルが困るってんなら、アタシ達は全力で助けるけど」
クローネの言葉を肯定するように、クローネの横に並んでいたピアニーとナハトのボールもゆらゆらと揺れ動いた。
「───皆」
「……あんたの手持ちはこう言ってるが、どうするつもりだい?結局最後に決めるのはノウル、あんたの意思さね」
マルミの言う通りだ。クローネやピアニーは今まで提案したり、率先してノウルを引っ張るようなことをしてきたが……無理矢理自分達の望むことをやらせるとか、騙すような真似をしたことは一度もない。
それは頭で考えがちで、おまけに優しいが故に流されやすい彼自身に選択肢を与え、『ノウルの答え』を決めてもらうための行動だった。
つくづく周りの縁には恵まれていたよな、とノウルは感謝しながら、暫し瞑目し────やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……やろう。バトル素人の俺が、どこまでいけるか分からないけど」
「決まりね。それじゃまずどのジムから行くか……」
「あっ待って。その前にスクールに申請出さないとだし、そもそも何準備すればいいの俺」
クローネは無言でノウルの脛を蹴った。
かっこよかったのが一瞬で台無しである。
◇◇◇
ウオーク地方は南北に長く、その中央部には高低差の激しい山脈が連なる地形が特徴的だ。
山脈によって隔てられた東と西で生息するポケモンの種類はもはや別物と言っても差支えないほど。遠くの街や都市との行き交いがこれほど難しい地方は他にないだろう。
とはいえ交通技術が進歩した今ではどうなのか、というと。
『シノノメシティ行き、ケンタロスライナー号は間もなくの発車となります。ポケモンをお持ちの方は、他のお客様のご迷惑になる場合がございますのでバトル車両以外ではボールに戻すよう……』
東の『アケボノシティ』と西の『アカツキシティ』を中心として山脈の地下に蜘蛛の巣のように張り巡らされた鉄道網。
先人達の何十年もの苦労と努力による路線開拓の結果、ウオーク地方の鉄道網の範囲の広さ、駅の総数、そしてその利便性はどの地方よりも群を抜いている。
その路線の一つ、ヒノデタウンから見て北に存在するシノノメシティへ向かう列車の前でノウル達は最後の確認をしていた。
「財布よし、持ち物、よし……クローネ達は忘れ物ないね?」
「アタシは平気」
「マスターがいれば私はなんでもいいですわ。きひひっ♪」
「ゴルー」
全員問題ないことを確認すると、ノウルはクローネ達をボールの中に戻してから見送りに来たマルミの方を振り返る。
ノウルのジムチャレンジは、『単位代用試験の為の休学』としてマルミからスクール側に申請された。
『ジムバッジの取得を規定の授業単位として代用できる』という校内規則を利用した形だ。
その他諸々の準備も元トレーナーだった叔母の手筈で整えられている。至れり尽くせりでノウルとしては頭がただただ下がる思いしかない。
「見送りにまで来てくれて……ありがとう、おばさん」
「シノノメシティのジムリーダーはほのおタイプの使い手らしい。あんたの手持ちの強さなら苦戦することはないだろうが……気をつけるんだよ」
「いでっ‼」
ノウルの肩に気合を注入するように、パンッ‼と力強い勢いで叩きつけるかのようにマルミの手が乗せられた。
小柄な女性ながら、予想以上に強い力と痛みに思わず声を上げて痛がるノウルをよそに、発車を知らせるベルがホーム中に鳴り響き始める。
「っと、そろそろ時間か……行ってきます‼」
「行ってきな、ノウル‼それと、これだけは言っとくよ‼」
慌てて列車に飛び乗って行った甥の背中に、マルミは最後のアドバイスを送る。
これから多くの出会いと苦難、悲喜交交の出来事が待ち受けるであろう旅において、けして忘れてはならないことを。
「トレーナーとポケモンは一心同体‼お互いを信じ合えば、どんなことも成し遂げられる‼心に刻んでおきな‼」
ノウルはマルミの言葉に対し、深く、深く頷く。
それを最後に、ノウルとマルミを列車の自動ドアが遮るとゴウン……ゴウン……と長い車体がゆっくり動き出し、行き先であるシノノメシティへと走り出し始める。
マルミはあっという間に遠ざかり、小さくなっていく列車の姿が見えなくなるまで、神妙な面持ちでノウルを見送るのだった。
◇◇◇
ウオーク地方、東部の中心地アケボノシティ。
西部のアカツキシティと対を成すこの大都市には、ジムチャレンジを始めとした公式戦を統括、管理、主催するポケモンリーグの委員会本部ビルが存在している。
「ギギギアル、『パワージェム』‼」
「『サイコカッター』で撃ち落とせ、カラマネロ‼」
そしてビルの地下5階に存在する、ポケモンバトル用の広々としたトレーニングフィールド。
広々とした空間の中で光り輝く宝石の刃と念動力の刃が無数にぶつかり合い、鎬を削っていた。
「ヒヒ……やっぱりよォ、たまにゃジムリーダー同士でやり合うのもオツってもんだよなァ‼」
乱れ飛ぶ弾幕戦の光景に体を揺らしながら笑うのは、黒の皮ジャンを纏った痩躯の男。
その耳元を掠めるように『パワージェム』の流れ弾が飛んでいくが、まるで意に介した様子も見せずへらへらとした様子で相手の様子を伺いつつ軽口を続ける。
「ジムチャレンジの奴らもそれなりにやるのはいるがよ、やっぱり本気出せねェとフラストレーションが溜まるってもんだ‼そうは思わねェか?ユズちゃんよォ‼」
「────」
その男と相対するのは、腰まで届きそうな長い銀髪の少女。
照明の光で透き通るように輝く髪と色白な肌、緩やかなシアーワンピースを纏ったその姿はまるで人形を思わせる風貌だ。
カラマネロのトレーナーである男の言葉に対し、じっと見つめるだけで何かを答えようとする素振りを一向に見せない。
「……」
「オイオイだんまりかよ。せめて返事くらいは……あ?」
沈黙を貫くユズに対し、男が更に言葉を紡ごうとしたその時……彼は異変に気付いた。
ギギギアルとカラマネロの撃ち合い。
最初は互角だった趨勢が、ギギギアルの側が優勢となり始めていることに。
理由はすぐに分かった。
ギギギアルが放つ『パワージェム』の速度が、段々と加速してカラマネロの対応速度を凌駕し始めていたのだ。
「『ギアチェンジ』……こいつ、いつの間に積んでやがった‼」
ギギギアルの歯車がガコン、ガコンと音を立てて加速し、それに比例して宝石の刃も速度を増す。
カラマネロとの撃ち合いの最中、密かに積み続けていたのだろう。おそらく重ねた回数は一度や二度ではあるまい。
「……『ギアソーサー』‼」
「カラマネロ、『ひっくりかえせ』‼」
ギシィッ‼という異音が響き渡った。
何段階も引き上げた速度と威力を以て放とうとした鋼鉄のギア。
その必殺の威力が、一瞬にして泥のように鈍化した回転によって殺された音だった。
能力の変化を逆にする、カラマネロの『ひっくりかえす』。
こうなってしまえばギギギアルの方はまた積み直し……否、それまでにカラマネロの攻撃を防ぎ切るのも難しいだろう。
「……ま、こんなとこだろ」
だが男はそこでバトルを取りやめ、カラマネロをダークボールへ戻した。
あくまでもこれは余興がてらの手合わせだ。『本戦』のような本気を出すべき時でも場所でもない。
「やっぱつえーなァユズちゃん。今のはちょっと読めなかったわ」
「……チッ」
ユズもまた、舌打ちしつつギギギアルをボールへ戻すと忌々しげに拳を握りしめた。
これが実戦ならば、今頃ギギギアルはカラマネロに痛打を貰っていたという確信があったからだ。
「なァ、後でさっきの積み技のやり方教えてくんね?」
「誰が教えるか。自分で考えろ、キラン」
「だろうな。はがねタイプの使い手は頭までお硬いようでいらっしゃる」
じっと少女がキランを睨みつけると、男は苦笑しつつまいったと言わんばかりに肩を竦めて軽く諸手をあげた。
「ところでユズ、ジムチャレンジの話になるがよ。今回はどれだけ残ると思う?」
「……アルグラがリーグ委員長になってから初のジムチャレンジだ。はっきり言って、今までとはまるで別物といって良い」
複数のジムリーダーの代替わり、新ポケモンリーグ委員長の指揮、そして委員会体制の見直しとチャレンジにおける新たなルールの制定。
ジムチャレンジ参加者の内、実に4割近くが3回以上参加しているベテラントレーナーであるが、そんな彼らでも今回の『予選』を通過するのは容易ではないだろう。
「断言出来る。今年は100人どころか……50人も予選を通過できる奴はいないだろうな」
「随分と思い切ったな。ま、シノノメのジムなんか見たらそうもなるか」
「シノノメの?」
「ほら、代替わりでシコクのおっさんから娘が引き継いだろ。知らないのか?」
「……悪い、忘れた」
「マージで?委員長直々に話してたじゃんかよ」
やれやれと大仰に呆れたフリをした後、男は不意にふざけた態度を止めて真面目に話を続けだした。
「……正直な所、俺はシノノメのジムリーダーは戻した方が良いと考えてる。チャレンジャーからの評価がすこぶる悪いからな」
「様子でも見に行くつもりか?」
「そんな所だな。最初のジムチャレンジでシノノメを選んで、トラウマになられたら困るんでね。なにより────」
俺の楽しみが減っちまう。
キランはそう言って、牙剥くような笑みを浮かべたのだった。